オーストリア人
(1000万人以上[1][2][3]) | |
居住地域 | |
---|---|
オーストリア 800万人 | |
アメリカ合衆国 | 800,000 |
イタリア (大半はボルツァーノ自治県) | 300,000[4] |
ドイツ (大半はバイエルン州) | 230,000 |
スイス | 80,000 |
イギリス | 24,000 |
南アフリカ共和国 | 20,204 |
オーストラリア | 15,000 |
アルジェリア | 511,000 |
チェコ (大半は南モラヴィア) | 9,300 |
スウェーデン | 6,300 |
スロベニア (大半はシュタイエルスカ地方) | 5,400 |
スロバキア (大半はブラチスラヴァ) | 5,400 |
4,000 | |
ハンガリー (大半はショプロン) | 3,000 |
ギリシャ | 1,800 |
ニュージーランド | 1,300 |
言語 | |
ドイツ語(オーストリアドイツ語)[5]、クロアチア語、ハンガリー語、スロベニア語 | |
宗教 | |
カトリック教会 66% プロテスタント 4% イスラム教 4% 無宗教 26% | |
関連する民族 | |
ゲルマン人、チェコ人[6]、スロバキア人、ハンガリー人、スロベニア人、クロアチア人[7] |
オーストリア人(ドイツ語: Österreicher 女性形はÖsterreicherin)は、
もともと、現在のオーストリアは神聖ローマ帝国の皇帝位を独占していたハプスブルク家の領国オーストリア大公国が中心であり、名目上とは言えオーストリアはドイツ諸邦の盟主の座にあった。神聖ローマ帝国が崩壊した後もドイツ連邦の議長国はオーストリアであった。ドイツ連邦の解体後はプロイセン王国を中心とするドイツ帝国とハプスブルク家のオーストリア・ハンガリー帝国に完全に分断されたが、その後もオーストリアのドイツ語話者の間には自分達は「ドイツ人」であるという意識が続いた。
第一次世界大戦によってオーストリア=ハンガリー帝国は解体に向かい、大戦末期の1818年のオーストリア革命によって第一共和国が成立した。ドイツ人居住地域のみの小国となったオーストリアではドイツとの統合が政治的立場の左右を問わない国民の念願となったが、サン=ジェルマン条約によってドイツとオーストリアとの統合は禁じられた。
ドイツ=オーストリア合邦がようやく実現したのは1938年のことだったが、それは決して平和的なものではなく、ナチス・ドイツによる軍事的圧力のもとで行われた。エスターライヒ(オーストリアのドイツ語名)と言う地名は抹殺されてオストマルクと改称させられ、戦争の惨禍に巻き込まれた。
こうして、オーストリア人は自分達がドイツ人ではなくオーストリア人であるという感情(アイデンティティ)を初めて抱くようになり、1955年、カール・レンナー首班によるオーストリア第二共和国が成立するのである。しかし、今なお右派政党は国号にドイツの文字を入れるように主張し、またしばしば、上記2の意味合いでドイツ人という言葉が用いられる。特に近年、統一EUの発足後、東欧人やトルコ人への差別意識を背景にドイツ民族主義の復興が著しい。
関連項目
出典
- ^ According to the CIA World Factbook - Austria - People: Ethnic Groups the percentage of ethnic Austrians in Austria is 91.1% meaning there are 7,463,714 ethnic Austrians in Austria.
- ^ Census 2000: Ancestry - 730,336 people claimed Austrian descent; see also Austrian-Americans
- ^ Statistics Canada 2001: Ethnic Origins - 147,585 claimed to be of Austrian ethnic origin.
- ^ http://www.provincia.bz.it/downloads/Siz_2006-eng.pdf
- ^ US Department of State Austria
- ^ http://www.da-vienna.ac.at/userfiles/directorscorner/apa1.pdf
- ^ The sound of success, Economist, Nov 22nd 2007