小渕光平
小渕 光平 おぶち みつへい | |
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生年月日 | 1904年2月26日 |
出生地 | 群馬県吾妻郡中之条町 |
没年月日 | 1958年8月26日(54歳没) |
死没地 | 東京都文京区 |
前職 | 中之条町議会議員 |
所属政党 |
(日本自由党→) (民主自由党→) 自由民主党(佐藤派) |
子女 |
小渕光平(長男) 小渕恵三(次男) |
選挙区 | 旧群馬3区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 |
1949年1月24日 - 1952年8月28日 1958年5月23日 - 1958年8月26日 |
小渕 光平(おぶち みつへい、1904年(明治37年)2月26日 - 1958年(昭和33年)8月26日)は、日本の政治家・実業家・柔道家。衆議院議員2期。第84代内閣総理大臣である小渕恵三の父。
来歴・人物
群馬県吾妻郡中之条町に小渕信平・きち夫妻の下に生まれる。生家は極貧を極め、小渕は小学校を出てすぐに働き始めた。19歳で小渕製糸所を創業。たゆまぬ経営努力で群馬県随一の製糸会社に成長させる。1933年(昭和8年)に社名を光山社と改名(1925年(大正14年)に碓氷社東村工場を買収、1928年(昭和3年)に光山社小渕製糸所と改称した、という説もある)。光山倉庫・光山電気工業などの他業種にも進出。現在に続く光山社グループを一代で築き上げた。
1942年(昭和17年)の、中之条町議会議員に初当選した。1945年(昭和20年)12月11日、群馬県トラック協会の理事長に就任する。その他、群馬県製糸業協会理事、群馬柔道クラブ吾妻支部長、吾妻貨物自動車社長、北毛自動車運送社長などを歴任し、1947年(昭和22年)、衆議院議員選挙に日本自由党から立候補するが落選。1949年(昭和24年)、民主自由党から衆院選に立候補し、日本初の女性代議士のひとりである最上英子を2150票差で抑えて辛くも初当選を飾るも1952年(昭和27年)の衆院選で次々点に終わった。1953年(昭和28年)、衆院選でまたも次々点。1955年(昭和30年)の衆院選でもまた次々点。1958年(昭和33年)の衆院選で自由民主党から立候補。日本社会党の武藤運十郎を辛くも振り切って国会議員に返り咲いた。だが、3ヶ月後の1958年(昭和33年)8月26日、国会からの帰路に東京大学の赤門前で突如として嘔吐した。順天堂大学医学部附属順天堂医院に運ばれたが、脳梗塞を起こして急死した。なお、息子の恵三も42年後の2000年(平成12年)に光平と同じ脳梗塞となり、同じ病院で亡くなっている。
主な役職
- 群馬県交通安全協会連合会会長
- 日本製糸業協会常任理事
- 群馬県トラック協会理事長
- 自由民主党群馬県支部連合会会長
- 日本トラック協会常任理事
所属会派の変遷
- 日本自由党
- 民主自由党
- 自由民主党
家族・親族
- 父 - 小渕信平
- 母 - 小渕きち
- 実弟 - 小渕岩太郎(元軍人、光山社役員)
- 妻 - 小渕千代(光山社製糸所役員)
- 長男 - 小渕光平(元中之条町町長)
- 次男 - 小渕恵三(第84代内閣総理大臣)
- 次男の妻 - 小渕千鶴子(環境運動家)
- 孫 - 小渕暁子(イラストレーター)
- 孫 - 小渕優子(衆議院議員)
エピソード
- 柔道三段。
- 佐藤栄作と初当選が同じで仲がよかった。佐藤栄作日記にも4回名前が登場する。中之条町内の寺院には佐藤の揮毫による小渕の顕彰碑が建立され、死後半世紀たった今も人々の尊敬を集めている。
- なお、小渕光平の誕生日(2月26日)は、次男の小渕恵三の師である竹下登元内閣総理大臣と同じである。
- 長男は二代目小渕光平を襲名した。
- 1949年(昭和24年)の衆院選当選同期には池田勇人・岡崎勝男・前尾繁三郎・橋本龍伍・麻生太賀吉・西村英一・橋本登美三郎・福永健司・塚原俊郎・木村俊夫・藤枝泉介・稲葉修・河本敏夫・森山欽司・床次徳二・有田喜一などがいる。
関連文献
- 村上さと「先代小渕光平社長に学ぶ」
- 「吾妻郡人物伝」
- 上毛新聞社編「群馬県百科事典」