民主自由党
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
民主自由党(みんしゅじゆうとう)は、韓国にかつて存在した保守政党。盧泰愚(第六共和国)と金泳三政権(文民政権)の与党である。中道保守政党であるハンナラ党の源流のひとつ。
| 民主自由党 | |
|---|---|
| 各種表記 | |
| ハングル: | 민주자유당 |
| 漢字: | 民主自由黨 |
| 片仮名: (現地語読み仮名) |
ミンジュチャユダン |
目次 |
[編集] 概要
盧泰愚政権発足直後の1988年4月に行われた総選挙の結果、政権与党である民主正義党は過半数を大きく割り込み、野党が多数を占める「与小野大」の状況となった。少数与党の状況を打破するために、与党勢力は1990年1月11日から13日にかけて野党の三金総裁(統一民主党(民主党)=金泳三、平和民主党(平民党)=金大中、新民主共和党(共和党)=金鍾泌)と個別に会談を行ない、民主党と共和党との合意を引き出し1990年1月22日に民正・民主・共和3党の合同を宣言した。そして、合同宣言翌月の2月9日に合党大会を開催し、民主自由党が正式に発足した。「世界秩序の再編の中で、多くの国々が自己改革の本流の中に置かれて現実は、我々の政治が創造的改革によって新しく生まれ変わることを要求しており、清新な国民政党の登場こそこのような要求に呼応する道であることを固く信ずる」と宣言し、五項目からなる綱領を採択した。5月9日に全党大会を開催し、総裁に盧泰愚を、代表最高委員に金泳三を選出した。
- 民自党、五項目の綱領[1]
- 成熟した民主政治具現
- 持続的な経済成長、福祉経済の実現
- 共同体社会の保障
- 教育の自立性と機会均等の保障、民族文化の発展
- 平和的民主統一と自主的外交努力
[編集] 3党合同の思惑
民自党の結成理由として、3党共同宣言文の中で①これまでの4党体制では内外の挑戦に効率的に対処し、国の明るい未来を開拓することが出来ない。②経済的危機と当面する国家的課題を効率的に解決し、民主主義発展の課題を完遂するためには、広範な国民的支持基盤の上に立った新しい政治構造をもたなければならない、③今は統一祖国の将来を見越し、民族統合に備える政治体を構築しないければならない、④以上このような時代的要請にこたえるため、我々は中道民主勢力の大同団結で大きな国民政党を誕生させ、政治的安定の上に新しい政治秩序を確立していくようにした事を挙げた。しかし、実際には、与党民正党は、党の支持率が上がらず次の選挙をたたえないという危機感が党員の間で強まったこと、民主党は野党第1党の座を平民党に奪われ、次の大統領選挙における金泳三の立場が危うくなるとの判断が、共和党は野党第3党で活躍の場を制約されていた、という3者それぞれの思惑から3党合同に至ったともいえる。
尚、合同の動きから疎外[2]された形となった平民党の金大中総裁は「3党合同は代議政治に対するクーデターである」と猛烈に批判し、対決姿勢を強め、全国民族民主運動連合(全民連)などの在野勢力も「民主勢力を弾圧するために国民を欺瞞する政治的野合である」と3党合同を非難した。
1992年の大統領選挙では、党内における主導権を確保した旧民主党の金泳三代表最高委員を候補者として擁立し、民主党の金大中候補に200万票近くの大差をつけて当選することができた。しかし、結党当初から、旧党派間での主導権争いが絶えず、忠清道を地盤とする金鍾泌は、1995年2月に民自党を脱党して自由民主連合(自民連)を結成した。同年12月、民自党から党名を「新韓国党」と改称した。
[編集] 民主自由党の選挙における党勢推移
[編集] 大統領選挙
| 年月日 | 大統領選挙 | 候補者 | 得票数 | 得票率 | 当落 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1992年12月18日 | 1992年大韓民国大統領選挙 | 金泳三 | 9,977,332 | 41.4% | 当選 |
[編集] 総選挙
| 年月日 | 総選挙 | 議席数 (地域区+全国区) |
得票率 |
|---|---|---|---|
| 1992年3月24日 | 第14代総選挙 | 149 (116+33) | 38.5% |
[編集] 脚注
- ^ 金容権編著『朝鮮韓国近現代史事典』(日本評論社)581頁、「民主自由党(民自党)」の項目より引用した。
- ^ 但し、盧泰愚大統領は当初、金大中に対しても平民党と民正党の統合を呼びかけていたため、完全に「疎外」されていたというわけでもなかった(金大中著『私の自叙伝』NHK出版、604頁の記述より)
[編集] 参考資料
[編集] 関連項目
|
||||||||||||||||||||||||||||

