Wikipedia‐ノート:表記ガイド/過去ログ11

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著作物名の表記について[編集]

現在、上記のガイドの説明の中にある「比較的長大」「比較的短小」という文言を根拠として、長編小説は『』、短編小説は「」と表記しなければいけない短編小説はどんな時も「」と表記しなければいけない、と主張される方(利用者:新続頭痛さん)がいたので(ノート:坂口安吾)、その主張が本当に「表記ガイド」が意図している指針なのかを井戸端で広く意見を募りました。私の解釈では、「比較的短小な作品」というのは、小説に対する「」、戯曲に対する「」、交響曲に対する「楽章」のことであり、「作品群に含まれる単一の作品」というのは、全集に対する「収録作品」、アルバムに対する「シングル曲」のことだと認識していたので、同じ個別の独立作品であり同格でもある長編小説と短編小説の表記を変えなければいけないという解釈はとても違和感がありました。井戸端での他の方々の意見も、短編小説はどんな時も「」と表記しなければいけない、というふうに捉えている方は見受けられませんでした。

雑誌新聞掲載時の状況を示すときなどは、長編小説も短編小説も「」と表記するというご意見は、ねこぱんださんやMEGEVANDさんから寄せられ、それに関連するご意見としてikedat76さんから、学会誌の中の論文と、文学作品の性質の違いについて以下のようなご意見がありました。

  • 「そうした物理的な出版形態とは相対的に独立して存在している作品を指すときにどうするのか」
  • 「文学作品について言えば、定期刊行物の連載から始まって単行本化され、文庫になり、作品集や全集に収録され…等々と多様な・物理的な出版形態で刊行されるというのは、ある意味で文学作品特有の事情とも言えるように思います。そうした事情がある以上、それを出版物一般に拡大してガイドラインを左右するというのが適当かどうか。物理的な出版形態とは独立に作品を指す表記法について考えていくのが方向としては適切でしょう。」

これは例えば文学作品の記事の冒頭文などで、その作品の出版形態を説明する時に

  • 『○○』は、誰々の小説である。1987年に文芸雑誌『××』に掲載された。
  • 『○○』は、1987年に文芸雑誌『××』に掲載された後に、▼▼社から単行本刊行された。現在は◎◎社から刊行されている。

というふうに、出版形態に対して相対的に独立している「作品そのもの」を指し示すときには、やはり『』が妥当だと私も思いますので、ikedat76さんの意見は参考になりました。そして一方で、作家の「年譜」のように、複数の作品のその時の状況を時系列を追って説明されるような場合には、

  • 1987年に文芸雑誌『××』に「○○」が掲載、1989年には新聞『▼▼』に「◎◎」が連載。

と、「」の表記でいいかと思います。これは、ねこぱんださんもおっしゃっていたように、長編小説、短編小説にかかわらず「」表記になるのが妥当だと思います。そして、この雑誌掲載の場合の三人の方のご意見内でも、長編だから短編だからという区別でないという認識は共通でした。現在、新続頭痛さんが表記編集した坂口安吾の版では、雑誌掲載時・単独説明に限らず、ただ単に長編小説は『』、短編小説は「」の基準となっており、書き下ろしで単行本刊行された中編小説も「」になっていますので(短編小説と同じ扱いなのかな?)、やはりとても違和感があります。代表作を連ねているテンプレ内でも、長編小説だけが『』になってます。

短編小説は、長編小説と同じように独立発表されている同格の単独作品ですので、それを単独で説明記述する際には、どちらも同様に『』で表記するのが当然だと私は思っています。例えば、三島由紀夫の代表作を文章内で列記する時に、

  • 三島由紀夫の代表作は、『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』「憂国」『鹿鳴館』『サド侯爵夫人』である。

と、同じ作家の同じ著作物なのに『憂国』だけを「」で表記するなどという変な書き方は、文芸評論でも見たことがありません。そして、『鹿鳴館』『サド侯爵夫人』は戯曲ですが、これらは長編ではなく、長めの短編もしくは中編の戯曲ですので、もしも作品の長さで表記を区別しなくてはいけないというと、これらも「鹿鳴館」「サド侯爵夫人」と表記しなければいけないのでしょうか。「表記ガイド」では、『』表記のカテゴリーの方に「戯曲名」があるから『』でいいということなら、同じ文学作品である「小説名」が、何故そこの範疇にならないのか不思議です。短編小説は戯曲や映画の原作になっているものが無数にあり、長編小説と同格の一個の文学作品で、単独で単行本になっている短編小説や中編小説も沢山あります。

そして小説は、長編、中編、短編というふうに長さによって便宜上分けたりしますが、実際にはそれぞれの間の境界はあいまいです。例えば、『真夏の死』は、全集や作品集などに分類する際には短編小説とされていますが、作者の三島由紀夫本人はノヴェレット(短編を意味するShort storyではなく、中編小説に相当する意味)だと言ってます。また、長編小説と中編小説との境界もあいまいです。全集で長編小説として分類されていても、評論家によっては中編小説と呼んでいる小説もあります。このように短編、中編、長編と名付けてられていても、その境界ぎりぎりのところでは実際にはあまり変わらない長さだったり、ほんの少しの長さに違いで、長編小説に区分けされたり、短めのものは短編小説となったりします。戯曲にはそんな区分けがないので、全部「戯曲」と呼んでいるだけです。

なので、このような便宜上の長さの分類を根拠にして、『』と「」の表記を区別するなどというのは、文学作品の個別記事作成の上で意味がなく、長編も短編も質的には何ら変わらない同格の小説です。この点に関しては、uaaさんやJkr2255さんも以下のようなご意見でした。

  • そもそも、「長編小説は『』、短編小説は「」で表記しなければいけない」なんて現実的に無理でしょう。「長編小説」と「短編小説」ってどこで線引きするんですかね?ガイドラインの記述にそう解釈できる余地があるのなら、文面を改正すべきだと思います。
  • 多数の作品が列挙される場面でカッコを使い分けるということは、カッコの違いによって、その内容について何かしらの質的な違いがあることを(少なくとも)暗示することになります。「短篇集の1作品」と「単体で発表された作品」を区別するならまだ意味はあるのですが、単体作品の中で「比較的長いもの」と「比較的短いもの」について違いを示さなければならないほど、両者に質的な違いがあるのかは疑問に感じます。

新続頭痛さんは、ある「短編小説名」と、それと同名タイトルの「短編小説集名」を区別するために、短編小説の表記を常に「」とするのは有効という意見を井戸端でおっしゃってましたが、その違いをどんな時でも(その小説そのものについて語っている時でも)、どんな場面の記述内でも保っていなくてはいけないという必要性が両者の間にそんなにあることなのか、そこまで重要性のあることなのか疑問です。もしも両者が混同されかねない場合や、収録作品全部を包括した同名の書籍を同時に示したい場合は、作品集『○○』というふうに、前に一言「作品集」と書き加えたり、「同名作品集」という文言で対処するなり、ケースバイケースで対応すればいいだけのことだ思います。同名タイトルの作品集があるというだけの理由で、その個別の「小説名」を常にどんな場面においても絶対に「」表記にしなければいけないというのは、何か小説そのもの、一個の文学作品そのものに主眼をおいていないで、どっちを主体にして考えているのか甚だ疑問です。

それに、そういった「作品集名」と「同名作品」の事例は短編小説以外にもあり、長編小説『女神』もその作品以外に数点の短編と同時収録されている同名タイトルの本もありますし、長編の戯曲も他の戯曲と同時収録されている本もあります。中編小説なら尚更、複数収録で同名タイトルの本は多くありますので、短編小説だけをそのような理由で、短編小説はどんな時も「」と表記しなければいけない、とするのは、論点がズレていると思います。そういう「作品集名」と「同名作品」の違いを示す意味においては、短編小説も中編小説も同じです。

なので、「表記ガイド」の説明の『』のカテゴリーに「小説名」という文言を加えた説明文にして、わずかな長さの違いで小説の表記が変えなければいけないかのような錯誤が生じないようにしてもらいたいと思います。また、「比較的長大な作品」「比較的短小な作品」という文言も、「同じ性質の作品の間での長短」というふうに捉えられてしまうと、例えばテレビドラマの場合でも、大河ドラマに比べれば、単発ドラマは短小作品ということも言えますし、交響曲に比べれば、ショパンの『子犬のワルツ』は短小な作品とも受け取られてしまい、上記の小説の場合のように、それぞれ独立した同格のドラマ作品や楽曲にもかかわらず、長さで表記を変えなければいけないかのような誤解が生じますので、この言い回しにも何か工夫が必要だと思います。--みしまるもも会話2014年4月14日 (月) 03:59 (UTC)[返信]

現行ガイドラインの問題箇所と具体的な改正内容を示していただけないと、議論が進まないと思います。--uaa会話2014年4月16日 (水) 09:22 (UTC)[返信]

改定案[編集]

私の改訂案としては、「小説名」という一句も入れた上で、以下のようにしたらいいのではないかと思います。「比較的長大」という文言の方は、上記の説明のように、同格同質の作品間でも長さで表記を変えなければいけないかのような誤解の元になるので省きました。

  • 作品あるいは作品群(書名・雑誌名・交響曲などの曲名・組曲などの名称・CDなどのアルバム名・映画名・小説名・戯曲名・テレビの番組名・イベント名・大会名など)は、和文では『 』で囲み、欧文では(入力を''……''として)イタリック体にします。
    例: 『海辺のカフカ』・『憂国』・『動物の謝肉祭』・Yesterday ... and Today・『ローマの休日』・『報道ステーション』
  • 比較的短小な作品(書中の章名や見出し名・小説の章名や話名・戯曲の幕名・交響曲などの楽章名・テレビ番組の企画名や話名・CDなどのシングル名など)や、
    作品群に含まれる単一の作品(雑誌中の収録論文名・全集中の収録作品名・詩集中の詩名・組曲中の曲名・シングルやアルバム中の曲名など)は、和文では「 」、欧文では、英文における “...” または各言語においてそれに相当する括弧で囲みます。
    例: Nature “Molecular Structure of Nucleic Acids”・『展覧会の絵』「プロムナード」・Yesterday ... and Today “Yesterday”・『古畑任三郎』「ラストダンス」
    ※ ただし文学作品記事の冒頭説明文などで、過去に掲載された雑誌媒体などの物理的な出版形態とは相対的に独立して存在している作品を指すときには、その小説名などは『 』のままでもよい。また、作家の年譜など、複数の作品のその時の状況を時系列を追って説明されるような場合には、その掲載作品名は「 」で囲むことが望ましい。
    例: 小説『○○』は、1987年に文芸雑誌『××』に掲載された後に、▼▼社から単行本刊行された。現在は◎◎社から刊行されている。
    例: 1987年に文芸雑誌『××』に短編「○○」が掲載、1989年には新聞『▼▼』に長編「●●」が連載。

--みしまるもも会話) 2014年4月16日 (水) 11:22 (UTC) 修正--みしまるもも会話2014年4月16日 (水) 11:30 (UTC)[返信]

(コメント)
  • 「作品あるいは作品群」(『』)と「比較的短小な作品」および「作品群に含まれる単一の作品」(「」)では、前者で「作品」と言ってしまっている以上、言葉の上で両者をきちんと仕分けすることができていません。
  • 「書中の章名や見出し名・小説の章名や話名・戯曲の幕名」というところは概ね「一つのまとまった作品の一部分」のような言葉が該当すると思いますが、これを「(作品全体に対して)比較的短小な作品」と言い表すのは自然な日本語の使い方ではありません。
  • 提案の趣旨は、「」を使うのは収録などの包含関係を示していることが自明な場合や章題など作品の一部の題の場合に限り、包含・収録関係を離れてまとまった一作品の題名に言及するときには『』を使う、ということだと思います。
  • これだと例えば「CDなどのシングル名」は「」を使うとなっていますが、シングルやアルバムといった収録媒体から離れた「楽曲そのもの」を指す場合には『』を使うことになるのだと思います(そう考えないと一貫性がない)。同じ記事中の同じタイトルの楽曲がシングル名にもアルバム名にもなりうるところで、『』を示すものが場所によって楽曲自体になったりアルバム名になったりするのは、たとえ前に「アルバム」とか「楽曲」といった言葉を入れたとしても視覚的にわかりにくさを招きます。
  • 論文の場合も収録関係を離れて「論文そのもの」に言及するときには『』を使うことになるのだと思います(そう考えないと一貫性がない)。これは論文に言及する際の慣用からはずれるのではないかと思います。
  • 自分の過去の執筆記事を見返しても、現在のように「短い作品」、つまりなにかに収録されて受容されることが予想されるような形態のものに「」を用いる形が記事中で一貫していれば、わざわざ「書物である」「短編小説である」「記事またはエッセイである」といった前置きがなくとも、文脈と鉤括弧の使い分けでそのような情報が大雑把にではあれ読者に伝えられていることが多いです。この区別をなくしてしまうとそうしたものすべてにいちいち前置きを入れる必要が出てきてしまう。前置きをおいて正確に伝えるような場合でも、「短い作品は「」/そのまま書名になりうる長いものには『』」という使い分けには文章を読む上で視覚的な分かりやすさがあります。これは現状の表記方法のメリットです。
  • 対して、改定案に従って改訂することの明確なメリットは「中間的なものに対して迷う必要がなくなる」くらいだと思います。これは上で述べたようなことに代替できるメリットではありません。提案者が述べている、同じ文学作品であるのに「」が使われるものと『』が使われるものがあるのはおかしい、という意見は、実際にそのような使い分けが(日本文学を含めて)複数の資料で確認できる以上、個人の感覚という以外なにも客観的な根拠が示されていません。
  • 私は現在の表記ガイドおよびスタイルマニュアルは「短編小説に対しては一貫して「」を用いると考えるのが自然である」ということを言っているのです(井戸端でそう言っているのは私だけだった、ということを書かれていますが、私が順を追ってまとまった説明をした後でなお異議を唱えている人はいまのところ提案者だけです)。これを「短編小説はどんな時も「」と表記しなければいけない」と命令語法に書き換えて何度も掲載するのは悪質な印象操作だと考えます。表記ガイド自体がそもそも例外を許容しているのであり、例えば引用文中で『』が使われているなど、誰が見ても例外性が納得できるようなものであれば従う必要はないでしょう。--新続頭痛会話2014年4月19日 (土) 03:59 (UTC)[返信]

コメント「中間的なものに対して迷う必要がなくなる」メリットの方が「視覚的に分かりやい」なんて愚にもつかない理由よりはるかに大きいと思いますね。「短い作品は「」/そのまま書名になりうる長いものには『』という使い分け」が文章を読む上で視覚的に分かりやすいと言えるには、①短い作品と長い作品の定義が明確であり、②この使い分けが世間一般に広く認識されているということが前提となる筈ですが、いずれの条件も満たしてないでしょう。「短い作品」「長い作品」ってなんか決まりがあるんですか?作品名に括弧を付けるに際しては、『○○』<ref>長編とされている出典</ref>とか「××」<ref>短編とされている出典</ref>のように一々出典を付けなければならないのでしょうか?執筆者の判断で分けるなんて論外ですね。使い分けが一般的なものでなければ、作品タイトルを列挙したものに『』と「」が混在していても奇異にしか映らないでしょう。ウィキぺディアンが勝手に分類したものをウィキぺディアのローカルルールで書き分けるなんて「分かりやすい」どころか迷惑千万です。
みしまるもも氏の改定案ですが、「比較的短小な作品」のような後で揉めるような文言が残っていますね。

* 作品及び作品群(書名・雑誌名・交響曲などの曲名・組曲などの名称・CDなどのアルバム名・映画名・戯曲名・テレビの番組名・イベント名・大会名など)の名称は、和文では『 』で囲み、欧文では(入力を''……''として)イタリック体にします。
例: 『海辺のカフカ』・『動物の謝肉祭』・Yesterday ... and Today・『ローマの休日』・『報道ステーション』
  • 作品中の小題(書中の章名や見出し名・小説の章名や話名・戯曲の幕名・交響曲などの楽章名・テレビ番組の企画名や話名など)は、和文では「 」、欧文では、英文における “...” または各言語においてそれに相当する括弧で囲みます。
単独の作品でも、作品群中の一作品として記述する場合(雑誌中の収録論文名・全集中の収録作品名・詩集中の詩名・組曲中の曲名・シングルやアルバム中の曲名など)は同様とします。
例: Nature “Molecular Structure of Nucleic Acids”・『展覧会の絵』「プロムナード」・Yesterday ... and Today “Yesterday”・『古畑任三郎』「ラストダンス」

というのは如何でしょうか?タイトルは原則『』とし、収蔵する作品群と共に記述する場合のみ、作品群と区別するために「」を用いることとしました。この方がシンプルでいいのではないでしょうか?--uaa会話2014年4月19日 (土) 11:31 (UTC)[返信]

長編と短編の厳密な区分を要求した上で「いちいち出典をつけなければならないのか」などというのはおかしいと思いますよ。前の議論で少し触れたようにいくつかの指標に基づいて蓋然的に判断することは可能です。Wikipediaにおける表記のルールの話なのですからどのように決めても(共通の規則のようなものが外部にない以上)ローカルルールにしかなりえないでしょう。また短い論文でも著名なものであれば詳細な注釈をつけて単独で刊行されたりされうる、ということを考えれば「文学作品」「小説」であることはそれほど特別視すべきことでもないです。
「中間的なものに対して迷う必要がなくなる」メリットの方が「執筆の際、作品の性質を示すための手段を提供する」かつ「読者にとって視覚的に分かりやい」というメリットよりもはるかに大きい、とは私は思いません。--新続頭痛会話2014年4月19日 (土) 12:01 (UTC)[返信]
(追記)ああ、それから「世間一般に広く認知されている」かは知りませんが、Wikipediaでその表記体系を採用していることがおかしくないと言える程度にはそのような短編・長編の使い分けの例は散見するように思います。--新続頭痛会話2014年4月19日 (土) 12:11 (UTC)[返信]

井戸端で新続頭痛さんの意見の後に反論のコメントがついていないからといって、新続頭痛さんに同調したということにはなりません。特に強い興味がなければ、一回意見を入れて済ましておく人もいます。そして井戸端に寄せられた意見では、現在の表記ガイドおよびスタイルマニュアルは「短編小説に対しては一貫して「」を用いると考えるのが自然である。 というような表記ガイドの解釈をしている方はいませんでした。新続頭痛さんは坂口安吾で実際に、短編小説はどんな時も「」と表記しなければいけないという姿勢で巻き戻し、例外なく短編小説はどんな時も「」表記にしています。代表作を併記するところでさえも、長編小説だけを『』表記に新たに変えてしまいました。なので私は印象操作などしていません。事実を言っているだけです。

また、改定案のメリットが、「中間的なものに対して迷う必要がなくなる」だけとおっしゃってますが、そもそも「中間的長さの作品」や中編小説をどちらの表記にしたらいいかと迷うような解釈をしていたこと自体がおかしいのであって、同じ性質の作品を、その「長さを理由に」表記を変えるなどという発想自体が日本の文学作品にはありません。私は多くの文芸評論や解題などを読んでいますが、同じ独立した小説であるにもかかわらず、「長編小説と短編小説を区別するという理由」で表記を変えているものなど見たことがないです。「年譜」などで雑誌掲載を表わしている場合や、雑誌掲載時の受賞作を表わしている場合、収録作品を表わしている場合などで、書籍や雑誌と区別する意味で表記を変える時はありますが、それは「小説の長さ」を理由にした基準ではありません。

短編小説を『』に表記すると、その前に「前置きを入れる必要が出てきてしまう」と新続頭痛さんは言ってますが、「小説そのもの」の内容を説明している記述内では、おのずから「その小説そのもの」について語っていることは自明ですし、前後関係を見ても分かることですから、そこで「同名短編集の書籍」との区別の文言を入れる必要性は通常ありません。そんな前置きをいちいち入れている文芸評論もないです。「小説そのもの」にとっては、その小説が収録されている「書籍」は一過性のもので(初刊本がプレミアがつくというのとは別の話)、様々な多くの出版媒体によってその収録内容も変化するような類のものなので、そのような類の書籍に対して、「小説そのもの」を語っている時にも常に、「同名短編集の書籍」との区別を念頭に置かなければいけないということはほとんどありません。もしどうしても二者が同じ記述内において混同されるような場合には、書籍の方に「作品集」と前置きするか、「同名作品集」など付記すればいいだけのことです。それに、長編小説や中編小説にも「同名作品集」がありますので、短編小説に対しては一貫して「」を用いる というのは論点がズレています。

それから、私の改定案の書き方についてですが、「章」「楽章」「幕」「話」は、単独作品ではありませんが、これらも「作品」には違いありませんから、「一部分」よりもやはり、uaaさんの案のように「作品中の小題」にして()にきちんとその旨の説明をされていれば、上の「作品」との区別ができると思います。

CDシングルカット曲の問題については、歌手が定期的に発表する「アルバムという作品」との比較対象として区別をするために、シングル曲は「」表記することに決めているようなので、それは()内ではなく別個に説明してもいいかと思います。交響曲でもアルバムでは複数曲で収録されたりしますが、それは小説の作品集や全集と似たものであり、歌手が定期的に発表する「アルバム作品」とシングル曲との対応関係を区別する規準とは性質が違うものです。これはある意味、シングル曲の特殊な表記ですので、シングル曲が単独の時でも「」表記だからといって、文学作品分野の短編小説にまで、書籍に収録されるから「」という短絡的な方向づけで短編小説の概念を語られても困ります。小説は戯曲や映画と同じで、長さで質が変わるわけではありませんし、シングル曲も曲の長さで表記を変えているわけではないでしょう。

寄稿雑誌とそれに密着的な関係の各論文と、物理的に存立している性質の文学作品との違いについては、上記でも説明しているので、その上で改定案の例を書き、文学作品に適したガイドラインの例示の提案もしています。著名な論文などで単独で言及されることが多い論文は、文学作品と同じように表記してもいいと思いますし、そこらへんはその論文の性質によって臨機応変にすればいいんじゃないでしょうか。

あまりガチガチに、論文はこうだから、文学作品もそれと同じように表記を一貫性を持たせなくてはいけないかのような新続頭痛さんのようなガイドラインの解釈の仕方は、それぞれに分野に合った表記方法を考える上で、逆にその分野における一貫性を損なっています。その作家の代表作を記述する際に、短編小説だけが「」表記になってしまうような奇怪な解釈(短編小説に対しては一貫して「」を用いる )は、小説の分野にはそぐいませんし、そんなおかしな基準の表記方法は、日本文学の分野にはありません。中編と長編の境界線や、中編と短編の境界線があいまいなものも多いのは上記でも説明しており、戯曲にはそんな区別がないことも説明しました。なので、短編小説だけを「」にしなければいかないかのような不思議な錯誤が生じかねない現在のガイドラインの説明文はやはり書き変えておきたいと思います。--みしまるもも会話2014年4月19日 (土) 13:08 (UTC)[返信]

改定案2[編集]

uaaさんの案と、新続頭痛さんのシングル曲の指摘を受けて、少し書き直してみました。「CDなどのアルバム名」「CDなどのシングル名」という文言は、()説明文の後ろでもいいかもしれません。

  • 作品あるいは作品群、CDなどのアルバム名(書名・雑誌名・交響曲などの曲名・組曲などの名称・映画名・小説名・戯曲名・著名な評論名・テレビの番組名・イベント名・大会名など)は、和文では『 』で囲み、欧文では(入力を''……''として)イタリック体にします。
    例: 『海辺のカフカ』・『憂国』・『動物の謝肉祭』・Yesterday ... and Today・『ローマの休日』・『報道ステーション』
  • 作品中の小題、CDなどのシングル名(書中の章名や見出し名・小説の章名や話名・戯曲の幕名・交響曲などの楽章名・テレビ番組の企画名や話名)は、和文では「 」、欧文では、英文における “...” または各言語においてそれに相当する括弧で囲みます。
    単独の作品でも、作品群中の一作品として記述する場合(雑誌中の寄稿論文名・全集中の収録作品名・詩集中の詩名・組曲中の曲名・シングルやアルバム中の曲名など)も同様とします。
    例: Nature “Molecular Structure of Nucleic Acids”・『展覧会の絵』「プロムナード」・Yesterday ... and Today “Yesterday”・『古畑任三郎』「ラストダンス」
    ※ ただし文学作品記事の冒頭説明文などで、過去に掲載された雑誌媒体などの物理的な出版形態とは相対的に独立して存在している作品を指すときには、その小説名などは『 』のままでもよい。また、作家の年譜など、複数の作品のその時の状況を時系列を追って説明されるような場合には、その掲載作品名は「 」で囲むことが望ましい。
    例: 小説『○○』は、1987年に文芸雑誌『××』に掲載された後に、▼▼社から単行本刊行された。現在は◎◎社から刊行されている。
    例: 1987年に文芸雑誌『××』に短編「○○」が掲載、1989年には新聞『▼▼』に長編「●●」が連載。

--みしまるもも会話) 2014年4月19日 (土) 13:15 (UTC) 加筆--みしまるもも会話2014年4月19日 (土) 13:24 (UTC)[返信]

改定案2は、最初より大分明快にはなったと思います。趣旨自体は変わらないので反対理由も変わりません。
それで「そんなおかしな基準の表記方法は、日本文学の分野にはありません。」ということを繰り返しておられますが、現に確認できると言っているところでなぜそのような断言を続けられるのかわかりません。他の人も容易に確認できそうなところでは例えば新潮文庫『彼岸過迄』の柄谷行人の解説、『こころ』の三好行雄の解説にそのような使い分けが見られます。客観的な根拠をなにも示さずに「日本文学の分野ではそのような表記はされない」といったことを続けられては議論にも何にもなりません。
「寄稿雑誌とそれに密着的な関係の各論文と、物理的に存立している性質の文学作品との違いについて」というのも根拠がわかりません。論文雑誌にも文芸雑誌にもいろいろな性質のものがあります。
戯曲は上演されうるという性質もありますから、小説と同じように扱うことはしにくいかもしれません。気づかれなかったかもしれませんが、井戸端で紹介したPDFでは「一幕ものの戯曲」を区別して「」を使用するとしており、妥当な判断かと思います。
この調子で議論を続けられても、あまり生産的な結論は得られないと思います。--新続頭痛会話2014年4月19日 (土) 14:03 (UTC)[返信]
(追記)それで私のガイドラインの解釈が誤解である、という点ですが、上のようなかたちで抜本的な書きなおしをしなければその「誤解」が正せない、ということをご自分で示されている時点でほぼ説得力を失っていると思います。--新続頭痛会話2014年4月19日 (土) 14:29 (UTC)[返信]

新続頭痛さんの誤解を正せないと、改定案の意味がないということはありません。そもそも現在の「表記ガイド」も、短編小説に対しては一貫して「」を用いる という指針にはなっていませんし、そのような解釈をしている人も井戸端の意見を募ってみてもいませんでした。そして今回、説明文を改訂するのは、別に新続頭痛さんの誤解を解くためだけではなく、より分かりやすい説明文にするためであって、「表記ガイド」の指針自体は基本的には変わりません。井戸端で新続頭痛さんがリンクしたものも、短編が『』表記になっているものもあったので、短編小説に対しては一貫して「」を用いる という理由にはなってなく、論拠になってませんでした。

昨日新続頭痛さんが挙げた新潮文庫は今手元にないので、はたしてそれが本当に、短編小説に対しては一貫して「」を用いる という理由に基づいて「」表記になっているのかは、井戸端のリンクのようによく中身を確認しなければなりません。たまたまそこに短編の「」があるというだけでは、短絡的に(短編=「」)とも言えませんし、メインで語っている小説と区別する意味で表記を変えていたり、書籍になっていないから表記を区別している場合もあるので、よく前後関係を確認しないといけません。それと、短編小説が「」表記となっているものが一つや二つあるだけで、その評論家が、いつでもどんな時でも、短編小説に対しては一貫して「」を用いる という基準に基づいて、様々な作家の解説をしているとも限らないので、たったそれだけの短い解説や日報の中に、「」表記の短編小説の事例があったからといって、短編小説に対しては一貫して「」を用いるというのが、その評論家のスタンダードとは断定できません。

私が持っている評論本でも、三島由紀夫が10代の時に書いたものはなぜか「」表記にしている人もいますが、『憂国』や『英霊の声』は「」にはなってませんでしたので、短編小説に対しては一貫して「」を用いる という理由に基づてはいませんでした。また、三島由紀夫や川端康成の新潮文庫の解説「人と文学」や年譜は、一貫して「小説名」は全部同じ表記になってます。雑誌掲載時でも、雑誌と同じ『』表記になっており、長編だから短編だからという基準にはどれもなっていませんでした。その時々の解説者が書く解説内の表記も、短編だから長編だからという理由で表記を区別しているものはまず見当たりませんでした。安部公房の短編『水中都市』の解説をしているドナルド・キーンも、収録短編を『』表記にしてますし、三島由紀夫が自作解説している短編も全部『』になっており、雑誌掲載時のことを語っている時も表記は同じになってます。全集の年譜や書誌でも長編も短編も同じ表記で統一されており、「」表記ならばそれで統一されてます。なので全体から見れば、「小説の長さ」基準で表記を変えているものはほとんどないと言っていいものです。

それから、「戯曲は上演されうるという性質もありますから、小説と同じように扱うことはしにくい」という新続頭痛さんの主張は、両者を全く別の性質のものとする根拠になりません。短編小説も舞台で朗読劇のように上演されることもあり、朗読番組や朗読CDもありますし、安部公房の短編小説は、少し書き変えて戯曲になっているものが沢山あるので、両者はそんなかけ離れた性質ではありません。また、「一幕ものの戯曲」は、どんな時も「」で表記するなどという基準も、三島由紀夫や安部公房の戯曲を見るかぎり、そんな表記方法はありません、戯曲には「場」というものもあるので、それなら「5場」から成っている戯曲『班女』は、同じような長さの『卒塔婆小町』と表記を変えなければいけないのかという、新たな混乱が出てきます。井戸端で新続頭痛さんがリンクしたものを見ても、「戯曲集の中の一幕物」と書かれているだけで、「一幕ものの戯曲」とはなってませんでした。

そして、もしも「一幕ものの戯曲」は、どんな時も「」で表記するという基準と、短編小説に対しては一貫して「」を用いる という基準を同時並行させると仮定するなら、複数の「章」がある短編小説と、複数の「幕」がある戯曲で、表記がバラバラになり、それこそ混乱の元になります。このように、作品の「長さ」で表記を変えようと考えること自体が、日本文学の作品表記において全くそぐいませんので、新続頭痛さんの「表記ガイド」解釈にそって、「一幕ものの戯曲」は、どんな時も「」で表記するとか、短編小説に対しては一貫して「」を用いる などという基準は到底無理がありますし、一般的な日本の文芸評論や作家論、全集の書誌情報や年譜でも、そのような基準がスタンダードになってはいません。--みしまるもも会話2014年4月20日 (日) 02:58 (UTC)[返信]

(付記) 新潮文庫『彼岸過迄』の柄谷行人の解説と、『こころ』の三好行雄の解説を確認しました。
『彼岸過迄』の柄谷行人の方は、夏目漱石の小説『彼岸過迄』『それから』『吾輩は猫である』『三四郎』『門』『行人』の名称は出てきましたが、短編小説の名称はありませんでした。江戸川乱歩の「D坂の殺人事件」が一つ、「」表記になっていただけでした。たった一つの「D坂の殺人事件」表記だけをもって、、短編小説に対しては一貫して「」を用いる という理由に基づいて「」表記になっているのかは判断できません。夏目漱石以外の作品だから目立たなくしているのかもしれません。
『こころ』の三好行雄の方は、夏目漱石の小説『こころ』『彼岸過迄』『行人』『先生の遺書』の名称が出てきました。このうち『先生の遺書』については文中で
  • 数種の短編を書きつぎ、それをあわせて総題を『心』とする予定だったという。しかし、<某短編『先生の遺書』を書き込んで行くうちに、予定通り早く片が付かない事を発見したので>(初版序)、『先生の遺書』だけで連載を打切り、…
と書かれてあり、夏目漱石に関しては、短編だからといって「」表記となってはいませんでした。そして、森鴎外の「興津弥五右衛門の遺書」、阿部次郎の『三太郎の日記』、武者小路実篤の『友情』は、森鴎外だけ「」表記となってますが、これも森鴎外の短編は、書籍になっていないために「」表記にしたのかもしれませんから、これだけでは何を根拠にしているのか不明ですし、夏目の短編『先生の遺書』が『』表記になっていることも考え併せると、はっきりと短編小説に対しては一貫して「」を用いる 基準かどうかは分かりません。
そして『こころ』の巻末に載っていた年譜では、夏目漱石の長編小説も短編小説も評論も全部が『』表記に統一されてました。この表記の仕方は、三島由紀夫や川端康成の年譜の記載方式と同じでした。なので、新潮文庫の『こころ』を見ても、短編小説に対しては一貫して「」を用いる という基準がスタンダードになっているとはいえませんでした。--みしまるもも会話2014年4月20日 (日) 07:02 (UTC)[返信]
まず付記の部分について。『先生の遺書』というのは最初に漱石による序からの引用文中でこのような表記で出てきます。解説者が言及しているのはその直後でもあり、また長短のある作品として現存するものでもないから混乱を避けるために合わせたというだけでしょう。「森鴎外の短編は、書籍になっていないために「」表記にしたのかもしれません」「たった一つの「D坂の殺人事件」表記だけをもって、短編小説に対しては一貫して「」を用いるという理由に基づいて「」表記になっているのかは判断できません」というのは私には何を言っているのか理解できませんでした。年譜と解説は作者が違いますから表記は違うのは当然かと思います。新潮文庫のどれも年譜と解説の鉤括弧の表記方法は大抵一致していません。
私はそのような表記方法が現に使われている、ということの簡便に確認できる例として上の二つを挙げただけです。他の表記方法が存在することを否定しているわけではありませんので、みしまるももさんが持っている本のいくつかはこうなっている、ということを挙げられても反証にはなりません。これくらいのことは理解してほしいのですが。--新続頭痛会話2014年4月20日 (日) 09:01 (UTC)[返信]
段落を戻して反対理由についてもう少し説明しておきます(どちらかというと、uaaさん向けの説明です)。現状、長編小説のタイトルは雑誌掲載など、収録関係を明確に示しているような場合に「」、書名として、または単独で言及する際には『』を使う、というかたちが許容されています(前に述べたように私は一貫して『』を使っていますが)。しかし長編小説というのは連載のかたちであれ、書物のかたちであれ、基本的にそのタイトルが示すものは一つの同じ長編小説しかありません(単行本化の際に加筆修正されて別物になったりすることもありますが、それはとりあえずおいといて)。ですから「こころ」としていたものを文脈によって『こころ』に変えたとしても、ひとつの長編小説であり従って一冊の書物として普及することが多いものである、という情報さえ読者に伝えてあれば別に混乱は起きないのです。
短編の場合はそうではありません。小説にしろ論文にしろ音楽にしろ、ある短い作品を収録した作品集がその作品名をそのまま作品集のタイトルにする、ということは広く見られます。ですので区別のために『』は作品集名、「」は収録作品名に使う、という表記方法も広く見られます。こういう表記が広く見られるものに対して、たとえその名前を冠した作品集がないからといって、同じ記事内で同じ短編に対してある場合は「」、ある場合は『』を使ってしまうと、ぱっと見その名前の作品集があるのかと思われかねません。実際に表題作として収録されている作品集があるのであればなおさらで、文脈上明らかな場合でも視覚的に混乱を招きます。それを回避するためにはいちいち「短編『○○』」のように前書きをつける必要が出てきてしまいます。文章がくどくなるし、執筆者にも閲覧者にも不親切です。短編に一貫して「」を使う場合でももちろんそのような前書きをつけることがありますが、左記のように「つけなければわからなくなりかねない」状態に較べれば見て取りやすさも文章の自由度もこちらのほうが上です。
中間的な形態で迷いが出そうなもの、というのは例えば明らかに短編という長さのものだが単独で刊行されて広く普及している、とかそういったようなものだと思います。井戸端で意見があったように、鉤括弧というのはまず地の文と区別するために用いられます。『』と「」の区別は、その中でさらに区別をする必要がある場合に用いられます。その観点に立てば、作品集に収録される形態が一般的なものは作品集の形態と区別するために「」、一冊の書物の形態で読まれるのが一般的で、収録されるものは全集・選集くらいかあるいはあってもほとんど知られていないようなものは『』、というふうな使い分けが自然にできると思います。それでも迷うケースは出てくるでしょうが、執筆者が迷うようなものであれば現実問題として『』でも「」でも別にさしたる混乱は招かないでしょう。井戸端でその程度の表記ゆれは記事内で一貫してさえいれば問題ない、と言ったのはそういう理由です。
要は受容の形態を蓋然的に区別しているのであって、「長さ」でカテゴライズをする目的で括弧を使い分けるわけではありません。少しの長さの違いを判別して使い分けるのはおかしい、というような意見は観点がずれています。『』を使うか「」を使うか迷わないで済む、というのは執筆者の側の便宜であって、閲覧者の便宜ではありません。--新続頭痛会話2014年4月20日 (日) 09:01 (UTC)[返信]
(追記)長編か短編かに関わらずすべて『』でくくる、というのは、文章のスパンがあらかじめ予想でき、上のような使い分けの必要性がないとわかって書く解説文や評論などには適すると思います。不特定多数の執筆者が参加し、記事ごとのスタイルも一定の範囲内ではあれ不特定であるようなところでは上記した理由で(短編を一貫して「」でくくる方法に較べて)適するものではないでしょう。--新続頭痛会話2014年4月20日 (日) 09:23 (UTC)[返信]


『先生の遺書』の表記を引用符の中の表記に合わせたというなら、尚更、その解説文内で、短編小説に対しては一貫して「」を用いる というような、作品の長さで表記が変るという厳格な基準にはなってはいないことの証明になってます。それから、たった一つの江戸川乱歩の小説がそこで「」表記になっているからといって、即それが、短編小説に対しては一貫して「」を用いる という基準にならないという意味も、そのメインの作家以外の作品を強調させないために表記を変える人もいますので、たったそれだけでは、その評論家の意図は分からないということです。とにかく、その事例では夏目漱石の小説間で短編小説を「」としているものはありませんでした。

それと、新続頭痛さんが言っている、「長編小説というのは連載のかたちであれ、書物のかたちであれ、基本的にそのタイトルが示すものは一つの同じ長編小説しかありません」というのは違います。例えば、川端康成などは最初から長編のつもりで書いてはなく、短い断章のようなものを短編か長編になるかも分からないままに断続的に(連載ではない)書いていって、結果的に短編か中編か長編かになるだけです。『雪国』『千羽鶴』などはその一例で、雑誌掲載時には「雪国」というタイトルはありません。それに長編小説でも、他の作品と同時収録で本になっているものもありますし、長編だから、必ずしも単独本とも限りません。『千羽鶴』の最初の単行本も、『山の音』と同時収録になってます。ちなみに短編小説でも連載小説はあります。

それから、「『』を使ってしまうと、ぱっと見その名前の作品集があるのかと思われかねません。」というのも、そんな発想を先ず思うのは、Wikipediaの「表記ガイド」で「書籍名だけ」を『』と表記すると思い込んでいる人だけです。普通は、文学作品などの著作名は作品の長さに関係なく『』か「」で表記されているのが一般的ですので、『』を使っているから、即「書籍」だという発想などありません。「小説名」「戯曲名」という著作名を示しているんだと思うだけです。逆に同じ小説にもかかわらず、「」と『』が同時に混在している方が閲覧者にとって「視覚的に混乱」が起きてます。現に坂口安吾の表記を、私は一閲覧者として見て、違和感しかなく、とても変だと思います。なぜ新続頭痛さんは『二流の人』を「」表記にしているのか、納得のいく説明を私にしてください。百科事典の文学記事を見る時に奇妙でしかありません。

新続頭痛さんの主張していることは逆に、長年Wikipediaに居て「書籍名だけを『』と表記する」という考えに囚われている人の側の視点でしかなく、閲覧者のことを二の次にしています。それに、新続頭痛さんはこれまでいろいろなことを言ってますが、代表作を併記する時になぜ長編小説以外は「」表記にしなければいけないのか、正当性があるような説明はこれまで一切ありませんでした。長さでカテゴライズしているわけでないと言いながら、なぜ短編小説に対しては一貫して「」を用いるという結論になるんですか。 新続頭痛さんがこれまで根拠としいる話は、短編小説だけの事例ではなく論点がズレていることは前にも私は言っています。いったい短編小説と中編小説は何が違うんですか。長編小説と中編小説は何が違うというんですか。何度も言っているように、多くの文芸評論や全集の書誌情報でも、同じ作家の代表作をバラバラの表記方法で書いているものはまずありませんので、新続頭痛さんの主張する基準は、文学作品の表記上で全くそぐわない特異な考え方です。不特定多数の執筆者が参加し、多くの一般人が閲覧する記事なら尚更、普通一般に多く普及しているスタンダードな表記方法にするべきです。--みしまるもも会話2014年4月20日 (日) 13:12 (UTC)[返信]

「絶対」を強要しないということ[編集]

新続頭痛さんが言っているような、「短編小説」と「それが収録された同名作品集」を区別する際には、ガイドラインにもあるように、すでに「」表記が許容されていますので、どうしてもそういう混同のおそれ大きい場合には、その「」表記を採用するなりして対処すればいいことです。また、その名称の作品集がなく、書籍に一回しか収録されなかったような、あまり著名ではない短編小説の場合も、特にその作品が中心的な重きをおいていない場合の記述内では、「」表記にしてもいいんじゃないでしょうか。そういうのは記事内でケースケースで相応しいように考慮して書けばいいことです。

私が何度も言っているのは、そういったケースのために、川端康成や三島由紀夫や坂口安吾をはじめ、長編小説にも中編小説にも短編小説にも同じように重要性のある著名な文学作品が多く存在しているような作家のその作品名を書く際にも、短編小説に対しては一貫して「」を用いる というような基準を強制されては困るということです。そして、現にそのようなガイドラインの指針は現在もありません。短編小説に対しては一貫して「」を用いる などというような、日本の文学作品において無理な表記方法を主張をしているのは新続頭痛さんだけです。--みしまるもも会話2014年4月21日 (月) 01:34 (UTC)[返信]

すみません。お二人ともその分野に精通された方なので、何をどう申し上げても脇が甘い、筋が通ってないという批判をされそうで怖いので具体的な提案は避けますが(おそらくそう思っている方は多いはず)、要は、このウィキペディアで統一してどのように表記しようかというのがそもそもの主旨ですから、ここはお互いの価値観とか信念とかをいったん脇へ置いておいて、妥協できる道を探れませんか?そして、一回で完璧なガイドができずとも、長い目で良いものが出来るように考えていったら良いのではないですか?、、、、というコメントをするのも、本当は怖いのですが、もし参考になることがあれば幸いです。それでは。--MEGEVAND (会話) 2014年4月22日 (火) 20:48 (UTC)[返信]

この場に「その分野に精通」している人間は一人もいませんよ。今起こっているのは「価値観」とか「信念」とかいったことのはるか以前の、日本語や通念の理解とか論理的な意思疎通とかいったレベルでの齟齬です。--新続頭痛会話2014年4月23日 (水) 09:33 (UTC)[返信]

上に挙げたのと同じ柄谷行人は新潮文庫『堕落論』で同じ表記方法を取っていて、安吾の作品のなかでも「続堕落論」「イノチガケ」「織田信長」(『信長』ではなくて短編のほう)に対して、別に解説の主題でもなんでもない『吹雪物語』だけ二重鉤にしています。他にも日本文学に限っても対談、論文、解説ほかでこうした表記は一定数確認できます。大して量のない手持ちの文献だけでこれだけ見つかるのですから範囲を広げればいくらでも見つかるでしょう。しかしこの例だって「これだけでは長編を区別しているかどうかわからない」「特に重要な作品だからこれだけ二重鉤にしているのかもしれない」などということを言い出せばいくらでも言えてしまう。このような仕方で合わないものを排除したうえで「日本文学でこうした表記をしているのを見たことがない」などと主張されているわけですから、「その分野に精通」などしていなくてもなにか非常におかしなことを言っているのだということくらいはわかるでしょう。(「目立たせないために」って中学生の感想文の話じゃあるまいし)。話を合わせろというほうが無理です。

せっかく議題に上がったところですから、本来であればガイドラインの曖昧な部分を詰めたり、検討しなおしたりといったことにつなげるべきでしょうが、提案者の主張の様相や議論運びから考えて現実的に不可能でしょう。「二流の人」の判断についても他の人なら妥当性を検証できそうな理由に基づいて一重鉤にしているのですが、今それに言葉を費やしても生産的な議論に繋がるとは到底思えません。むしろ何か付け加えるたびにそれが結果的に脱線や議題拡散の材料になってしまう。提案者はどうもとにかくまくしたてて形の上で反論を「論破」すれば提案が通るとでも思っておられるようですが、Wikipediaはそのようには運用されていません。他の利用者も話についてこれていないようですし、このような状況で上の「提案」が通る見込みはないでしょう。現状の文言を触らずとしておく以外どうしようもない。--新続頭痛会話2014年4月23日 (水) 09:33 (UTC)[返信]


私やuaaさんが、ガイドラインの曖昧な部分を詰めたり、検討しているのに、それを一貫して反対しているのは、新続頭痛さんです。私は上記でも書いたように、「短編小説」と「それが収録された同名作品集」を区別する際には、ガイドラインでも「」表記が許容されていますので、両者が混同されるようなら、ケースバイケースで新続頭痛さんの裁量で、「」表記すればいい話だと言ってます。でも、だからと言って、そのケースのために、ガイドラインにもないような、短編小説に対しては一貫して「」を用いる などという新続頭痛さんの解釈を、他のところで強制するなということです。

それに、柄谷行人のように表記する人がいても、それは一般的ではありません。「これだけ見つかる」とか「一定数いる」と新続頭痛さんは言ってますが、たったの一人や二人の例で、「いくらでも見つかる」というのは、単なる新続頭痛さんの推測レベルの話です。三好行雄については、『先生の遺書』は「」表記になってませんでしたし、森鴎外も書籍でないから「」表記なのかもしれませんから、何が基準かははっきりしてません。また、個人の解説者が、その人の好きなように書いた個々の表記を出されても、あまり意味のないことです。私が言った「目立たせないために」というのも、人によっては、三島由紀夫の10代の作品を「」表記にしたり、どういう意図か理由もあいまいで「」表記にしている人もいますので、そんな場合もあります。新続頭痛さんは多くの文芸評論をお読みになっていないから、書き手によって特に基準もなく、好きなように変えている恣意的な表記があるのを知らないだけでしょう。ちなみに、柄谷行人も、294頁では『日本文化私観』を、『』表記にしていたり、302頁では「」表記にしていたりと、その時々によって好きなように変えており、一貫性はありませんでした。特にその両者を雑誌掲載時とか書籍で区別しているというわけでもなく、同じような語りにおいて『日本文化私観』の表記がバラバラです。

あと大事なのは、その新潮文庫の『堕落論』の巻末付録にある、出版社が作成した「年譜」では、やはり一般的な表記法にそって、短編も長編も区別なく、雑誌掲載時などは「」表記で統一し、書籍刊行時は『』表記になっていることです。こういうふうに長編も短編も区別なく同じように表記するのは、年譜や共通の解説文や全集の書誌情報ではスタンダードな表記方法です。だから、柄谷行人はこうだとか言われても、それは多数派ではないですし、一般的に多く使われているのは、この新潮文庫の年譜などの表記のように、長編も短編も同じように、雑誌掲載時は「」で、書籍は『』の基準であったり、あるいは、すべて『』になっていたりします。三島由紀夫や川端康成は後者の方になってます。いずれにしても、短編小説に対しては一貫して「」を用いる というのは、スタンダードな表記にはなってませんし、年譜、全集の書誌情報、百科事典には相応しくない表記です。

それから、『二流の人』も短編小説ではないのに、なぜ新続頭痛さんの基準では、「」表記にしているのか意味不明です。『二流の人』は中編小説だから「」だということでしょうか? 長さ的には長編小説の方に近いですが、新続頭痛さんの判断では短編小説と同じ扱いということになるんですか? 新潮文庫の年譜の基準では、執筆時や雑誌掲載時は、短編長編にかかわらず、「」表記にしてますから、それなりに統一されており、理由や基準ははっきりしてますから、他の長編や中編と同じようになっていているので納得できますが、新続頭痛さんは、そのスタンダードな表記法や、Wikipediaの表記ガイドとは違い、どんな時(雑誌掲載時)でも長編小説は『』表記にしているのに、ほぼ長編の『二流の人』が短編扱いに何故なるのか、いったいどんな理由なのかを説明してください。そうでないと、新続頭痛さんの基準での、「中編小説の表記の基準」が全く分かりません。まさか中編小説も、 中編小説に対しても一貫して「」を用いる なんて無理な表記の解釈をしているんでしょうか。--みしまるもも会話) 2014年4月23日 (水) 12:40 (UTC) 加筆--みしまるもも会話2014年4月24日 (木) 00:51 (UTC)[返信]

すでに議論が正常な形で成立していないことは他から見ても明らかだと思いますので、これ以上なにかを付け加える必要を感じません。あなたは自分で自分の提案を潰しにかかっているのと同じことだと思います。--新続頭痛会話2014年4月24日 (木) 08:45 (UTC)[返信]

新続頭痛さんは、私の真面目な疑問や質問には答えられない、説明できないということですね。承知いたしました。--みしまるもも会話2014年4月24日 (木) 08:59 (UTC)[返信]

合意形成や意見の整理・すり合わせができるような議論状況では到底ない、と言っているのです。--新続頭痛会話2014年4月24日 (木) 09:01 (UTC)[返信]


合意形成や意見の整理・すり合わせを最初から拒否しているのは、新続頭痛さんの方です。新続頭痛さんは、「改定案2」のところで、

  • 「最初より大分明快にはなったと思います。趣旨自体は変わらないので反対理由も変わりません」

と言い、結局、短編小説に対しては一貫して「」を用いる という中身にならなければ、反対することには変わりないという姿勢をただ貫いているだけですので、私やuaaさんが、「ガイドラインの曖昧な部分を詰めたり、検討して、文言を変えて、短編小説に対しては一貫して「」を用いる などという無理な解釈の意味に誤解されないようにすること自体」が嫌なだけです。これは井戸端のときから、新続頭痛さんが最初から「反対する」と明言してますので、明らかなことです。新続頭痛さんにしてみたら、今のままの方が新続頭痛さんの好きなように、いくらでも、短編小説に対しては一貫して「」を用いる という、新続頭痛さん独自の解釈がされやすいままになるからです。なので、いくら議論を重ねて、こちらが真面目に質問や疑問点(なぜ新続頭痛さんが『二流の人』を短編と同じ「」表記にするのか)を投げかけても、新続頭痛さんはそうやって、はぐらかし続けるだけです。

結局、短編小説に対しては一貫して「」を用いる という方針にならなければ、新続頭痛さんは、ガイドラインの文言を変えること自体を反対し続けるだけですので、とりあえず、「小説名」という一句を『』のカテゴリーに書き加えることだけはさせていただきます。同じ文学作品名の「戯曲名」が書いてあって、「小説名」があってはならないということは、どう考えてもありえませんので、これだけは書き加えさせていただきたいと思います。uaaさんやMEGEVANDさんの同意があれば、「小説名」を「戯曲名」の横に書き加えたいと思います。--みしまるもも会話2014年4月24日 (木) 11:16 (UTC)[返信]

そのような合意は形成されていません。合意なくガイドラインを書き換えてはいけません。--新続頭痛会話2014年4月24日 (木) 12:54 (UTC)[返信]

「戯曲名」の横に「小説名」を書き加えさせてください[編集]

現在のガイドラインでも、「著作物名」は基本的に『』表記にしていいことになってますので、そこのカテゴリーに含まれている「戯曲名」「映画名」と同じように芸術作品名・文学作品名である「小説名」を入れてはいけないというのは論理的にありえないでしょう。これは別に現状のガイドラインを変更することでは全くありません。「」表記にする場合の事例については、その下で説明されていますので、そのケースによっては小説名も戯曲名も「」表記になることは示されており、許容されています。短編小説集と、その個別作品を区別させたい時は、「」表記は十分許容されてます。

なので、私はなにも、小説に対しては一貫して『』を用いろ などという解釈を、新続頭痛さんのように他者に強制するつもりなど一切ありませんし、そんなガイドライン解釈にもなりえないのは、ガイドラインをよく読めば分かることです。「小説名」を書き加えたら、ガイドラインが変って、小説に対しては一貫して『』を用いる という基準になるなどと、怖れを抱いてビクついているのは新続頭痛さんだけです。

そもそも著作物名の表記というものは、そのケースバイケース(雑誌掲載関係、収録関係など)によって「相対的」に変わりうるものですので、新続頭痛さんのように、一貫して などという姿勢を貫き通すこと自体が、この表記ガイドの指針が逸脱した考えです。新続頭痛さんは今、短編小説に対しては一貫して「」を用いる長編小説に対しては、雑誌掲載時でも一貫して『』を用いるという基準の表記をしていますが、それこそ、現在の表記ガイドを無視していると言えます。井戸端のご意見でも、そのような特異な新続頭痛さんに賛同している方は誰もいませんでした。

なので、新続頭痛さんには現在のガイドラインをある程度、ちゃんと守ってもらい、短編小説に対しては一貫して「」を用いる長編小説に対しては、雑誌掲載時でも一貫して『』を用いるなどという、ガイドラインにないような手前勝手な表記は控えてもらいたいと思います。そうしないと、坂口安吾の現在の表記のように、同じように雑誌掲載時の経過を説明しながらも、長編小説だけが『』になっていたり、中編小説が「」表記になっていたりと、何が何だかごちゃごちゃで、非常に汚らしいバラバラ表記で、閲覧者にも執筆者にもわけが分かりません。新続頭痛さんのあの書き方は、一般的な表記どころか、このWikipediaの表記ガイドからも外れてます。--みしまるもも会話2014年4月25日 (金) 03:24 (UTC)[返信]

小説や戯曲の鉤括弧表記はどのようにするのが最適か、本来であれば検討に値する問題ですが、議論提起者がこのような状態ではどうしようもないでしょう。まくしたてれば意見が通るわけではない、ということを書きました。他の利用者をおいてけぼりで自分の考えだけ滔々と書き連ね、反論があればその趣旨と関係あろうとなかろうととにかく少しでもおかしなところを見つけ出して論難する、これで合意など成立するわけがない。本件の提起者は、Wikipediaの議論についてなにか重大な誤解をしているようです。--新続頭痛会話2014年4月25日 (金) 10:51 (UTC)[返信]

新続頭痛さんに対する私の真面目な質問や疑問点には、一切、真摯に説明・返答をせずに、そういうふうにはぐらかして、全て私が悪いから議論ができないかのようなレッテルを貼るんですね。本当に卑怯でずるい人です。

私が言っていることは、何も新続頭痛さんが、短編小説を「」表記するのを止めろなどということではありません。あなたが短編小説集と、それと同名の短編小説を区別する際には、今までのように、そのケースで適切なようにおやりになればいいことだと言ってるんです。

しかし、それを例えば、三島由紀夫や川端康成や坂口安吾のように、短編小説も中編小説も長編小説と同じように重要性が高く、代表作がある場合の作家の作品を同列で列記する場面においても、短編小説に対しては一貫して「」を用いるなどという無理な解釈を強制して「押しつけるな」ということです。

はっきり言うと、新続頭痛さんが今実行しているご自分の解釈(短編小説に対しては一貫して「」を用いる長編小説に対しては、雑誌掲載時でも一貫して『』を用いる)などという、表記ガイドの指針でもない、変てこりんで無理な手前勝手な絶対基準を、人にまで強制するなということです。--みしまるもも会話2014年4月25日 (金) 12:09 (UTC)[返信]

一人が言いたいことを一方的に言い続けるだけでは議論は成立しません。それがわからないのであれば、どうしようもない。--新続頭痛会話2014年4月25日 (金) 13:43 (UTC)[返信]

反対 現時点で、如何なる改訂も事態の改善に資するとは思えません。ことに例示の項目を足したり引いたりといった小手先の改訂に意味は無いでしょう。提案者は改定によって何がどう改善されうるのかを論理的に示していません。新続頭痛氏の解釈が間違っているだけで「ガイドラインをよく読めばわかる」のであれば、ガイドラインを改正する理由はないことになり、主張が矛盾しています。--Kojidoi会話2014年4月26日 (土) 10:49 (UTC)[返信]


(Kojidoiさんへ) 私は、「ガイドラインを改正」するつもりは全くありませんし、「ガイドラインを改訂しろ」とも主張してません。井戸端(Wikipedia:井戸端/subj/小説における著作物名の表記の『』と「」の区別の仕方について)でも、皆さん常識的にこのガイドラインを解釈しており、誰も新続頭痛さんのように、短編小説に対しては一貫して「」を用いるなどという判断をしている人はいませんでしたから、「ガイドライン」自体を変える必要性は今のところはありませんし、私も「ガイドラインを改正、改訂」しろとは、どこでも主張はしていません。そのことは、きちんと一番上の方から、順を追って全部を詳細に読んでくだされば、分かることだと思います。

私やuaaさんは、「解釈」の誤解を招きかねない記述があるので、その「説明の書き方」を少し変えて、分かりやすくした方がいいのではという提案をしていただけです。本当の案の一例、二例案は、上の方にあるので、それもあらためてよく見てくだされば意味がよくお分かりになると思います。でも、Kojidoiさんのように反対する人がいれば、私は無理強いすることはしませんし、新続頭痛さんも一切それに反対するだけですので、それが叶うことは現実的にはないでしょう。

とりあえずは、上でも言ったように、新続頭痛さんが今実行しているご自分の解釈(短編小説に対しては一貫して「」を用いる長編小説に対しては、雑誌掲載時でも一貫して『』を用いる)などという、表記ガイドの指針でもない、変てこりんで無理な手前勝手な絶対基準を、人にまで強制しなければ、基本的に済む話ですので。そんなことで、ねちねちと干渉されたり、強制されたりして記事執筆に費やす時間が削られたりしたら困りますので、それさえ無理強いされるようなことがなければ、もうどうでもいいです。--みしまるもも会話2014年4月26日 (土) 13:22 (UTC)[返信]

Wikipedia:コメント依頼/みしまるもも 20140429を提出しました。--新続頭痛会話2014年4月28日 (月) 20:21 (UTC)[返信]

楽曲タイトルの表記言語とテンプレートでの言語指定について[編集]

記事「マイケル・ジャクソン」において、原題である英語で記載されていた楽曲タイトルを私が公式の日本語題に変更したところ[1]、「日本語題での表記は義務付けられていないはず」[2]として差し戻しを受けた[3]。その後、私が導入部での人名の原語表記についてTemplate:Lang-enを用いて指定したところ[4]、「Wikipedia:スタイルマニュアル (人物伝)に違反している」としてこれも除去を受けた[5]。相手方のこのような編集はjawikiの方針・ガイドラインに適ったものであると言えるのであろうか。--114.149.247.179 2014年8月3日 (日) 18:34 (UTC)[返信]

人名のスタイルについて[編集]

この表記ガイドのルールには、「人名に肩書・敬称・学位・位階・勲などは付けないでくださいWikipedia:スタイルマニュアル#人物・人名によります)」とあり、私は一国の大統領や首相、さらには野球選手にまでこのルールを適用してきました。

× バラク・オバマ大統領、安倍晋三首相、星野仙一監督、嶋基宏捕手 (すべて敬称にあたる書き方)
○ 大統領バラク・オバマ、首相安倍晋三、監督星野仙一、捕手嶋基宏 (または役職と氏名の間に「の」を入れた表記)

しかし、uaa氏から私の会話ページに「執筆者は当マニュアルで規定するスタイルに絶対に従わなければならないわけではありません」の文言もあるので、がんじがらめに適用しなくてもよい、という趣旨のクレームがつきました。「じゃあ、何のためのガイドラインなんだ」とも言いたいですが。
ここで皆様からご意見を募りたいのですが、人名に敬称をつけるのは皇族・王族以外にも場合によっては適用しても問題ないのか、それともやはり人名に敬称はつけないのがベストなのか、どうお考えでしょうか。私は少なくとも、スポーツ選手やスポーツ監督には敬称にあたる書き方は慎むべきと考えます。実際に、新聞であってもコラムの場合は敬称をつけない文体になっています。--Fielder会話2014年8月17日 (日) 14:10 (UTC)[返信]

コメント 私の記事が一端緒になったようなので一言だけ。ガイドラインの最も重要な趣旨は「敬称等の使用による権威付けによって、記事の客観性を毀損することを防止する」ことだと考えます。「何某博士がこう言っている」というような例です。ただFielder氏が主張される「嶋基宏捕手のような表現が敬称に当たり避けるべき」というのは、さすがに一般社会では通用しません。属性あるいは職能を表わす表現と、敬称や肩書は別個のものです。「捕手」はチーム内での役割を明示するに過ぎません。あまり瑣末に流れずガイドラインを運用することを望みます。--TX2468会話2014年8月17日 (日) 15:37 (UTC)[返信]

第三者の方からのご意見がつく前のコメントで恐縮ですが、書かせていただきます。
百科事典では敬称はつけない、すなわち呼び捨てが原則でしょう。「一般社会で通用しない」と仰っていますが、一般社会で呼び捨てが通用しないのは当然であり、ここで一般社会を例に出すのは的外れです。新聞記事であってもコラムでは敬称略、すなわち呼び捨てで書かれているのに、百科事典でこういったガイドラインが守られていないのは稚拙すぎます。--Fielder会話2014年8月17日 (日) 15:50 (UTC)[返信]
追記。属性や職能を表す表現であっても、人名の後につければ(例:三木谷浩史オーナー)、それは立派な敬称です。--Fielder会話2014年8月17日 (日) 15:53 (UTC)[返信]
コメント 指摘の「首相」「監督」といった言葉は、一般にそういう地位にある人が敬意を払われる傾向にある、というだけであって、敬称ではなくどちらかと言えば肩書なのではないでしょうか。人名の前につけるか後につけるかで敬称であるかどうかが変化するとは、私には思えないです。私はこれまで、この規定のところを見落としていて、まさに指摘されるような表現を使ってきましたけど、これを制限されるのはさすがに違うように思います。人名を文中に記載するときに、どういう立場にある人であるかを一緒に書くことは読者の理解に資するわけですし、その際に人名の前に書くように制限するというのはあまり意味がないことだと思います。肩書を後に付けたからと言って、「記事の客観性を毀損する」とは私には思えないです。そのようにガイドラインを読めるならば、ガイドラインを改訂すべきだと思います。--Tam0031会話2014年8月17日 (日) 16:09 (UTC)[返信]
コメント 地の文での「人名+役職」の表記は他の百科事典、歴史書などでも普通に使われています。手元の『ブリタニカ』や『マイペディア』では、ニクソン大統領とか、福田首相とかの表記があります。Fielder氏の言われていることは敬語の使い方ですので、敬語を使わない百科事典の文章に適用する意味はありません。なお、敬語の文脈においては、「役職の人名」も中立的な表現ではないことを指摘しておきます。 --Yhiroyuki会話2014年8月17日 (日) 16:36 (UTC)[返信]
コメント 結論から先に言えば、名前の後に職位名をつける/つけないは、前後の文脈や内容で判断すべきものであって、杓子定規に適用するものではないでしょう。無論、つけない方が望ましいのですが(科学分野の記事なら例外なく敬称はつけないのですがね)。ただし、名前の後に職位名をつけることが「敬称に当たらない」とするのは誤りではあるので、「敬称に当たらない」と主張される方々においては、その点認識を改めていただきたく思います。--森藍亭会話) 2014年8月17日 (日) 17:40 (UTC) 下線部追記。--森藍亭会話2014年8月17日 (日) 18:00 (UTC)[返信]
Fielder2014年8月17日 (日) 15:50 (UTC)へのレス)話がかみ合ってませんね。TX2468氏が言ってるのは、「属性あるいは職能を表わす表現」を敬称扱いすることが「一般社会で通用しない」ということなんですよ。それと、氏の本ガイドラインの趣旨についての認識はWikipedia‐ノート:表記ガイド/過去ログ8#肩書についての結論とも共通してますね。要するに、あなたが本ガイドラインの趣旨も考慮せず、”敬称”を拡大解釈しているということです。[返信]
「属性」や「職能」は、本ガイドラインで「原則として付けない」とされている「敬称」や「肩書」には該当しません。過去の議論や趣旨を鑑みても、そう解すべきでしょう。そもそも、本ガイドラインは「ウィキペディアの記事における表記方法の慣習を説明」するのが目的ですよね。御自身がウィキペディアの記事に於いて広く使われている表記方法を否定するような解釈をしていることにいい加減気付いてくださいよ。「ただし、このガイドラインはすべての記事に絶対に適用しなければならないものではありません」ともあります。つまり、日本語として珍妙な表現にしてまで当ガイドラインに従う必要はないということです。だから、御自身でも「少々まどろっこしい」なんて思いながらそのような表現に書き換えるのが理解できませんね。更に、人名については「付けることが慣習となっているもの」には適用しない旨が明記されています。これは、文中で例示されている「皇族・王族」のみに限定されていません。
ところで、日本語の百科事典では全て「大統領バラク・オバマ」とか「首相の安倍晋三」という表現に統一されてるんですか?「バラク・オバマ大統領」や「安倍晋三首相」という表現は使われてないんですか?--uaa会話2014年8月17日 (日) 18:04 (UTC)[返信]
『ブリタニカ国際大百科事典(2013)』の「イラク戦争」の項にて、「オバマ大統領」の表記があります。最初は大統領選の文脈で「バラク・オバマ」、撤退の宣言の文脈で「アメリカのオバマ大統領」、2011年の撤退では2回登場し一度目は「オバマ大統領」、二度目は「オバマ」表記です。いずれも敬意を示すような使い方ではありません。--Yhiroyuki会話
敬称は厳密に言えば様、君などの接尾語で、閣下、陛下など代名詞としても使用される、いわゆる尊称も含みますが、ウィキペディアで使用される頻度はあまりないでしょう。問題のほとんどは、「敬意を払うに足る肩書」についての考え方だと思います。これには主計局長、陸軍大将といった職名や男爵などの栄爵が含まれます。実際のところ行政や軍事に関する記述でガイドラインを厳守することはなかなか困難です。肩書で回っている世界ですから。真崎甚三郎軍事参議官をを「軍事参議官の真崎甚三郎」と書くことはできますが、その方法で二・二六事件を詳述すれば文章がどうにもならなくなります。であればこそuaa氏の言われるガイドラインの例外規定があると考えます。「田中証人」、「鈴木研修員」、「近藤運転手」といった人の属性や職能に関する表現は、一般に敬意を払うものではないので問題はないでしょう。社会通念上、野球選手の守備位置も同じことと考えます。要はガイドラインの趣旨を理解し、可能な努力を払うことにつきると思います。--TX2468会話2014年8月18日 (月) 02:17 (UTC)[返信]

(第三者の方へ)これまでの経緯については、利用者‐会話:Uaauaa#マシュー・ペリーでの要約欄について利用者‐会話:Fielder#Wikipedia:表記ガイドの乱用について利用者‐会話:TX2468#敬称にあたる書き方は謹んでください。利用者‐会話:Fielder#「敬称にあたる書き方は謹んでください」へのご返事を参照してください。--uaa会話2014年8月17日 (日) 18:04 (UTC)[返信]

コメント 私が記事を執筆する際には原則呼び捨てにします。しかし機械的に敬称を修正して回るのは問題ありで、例をあげてみます。某壱太郎投手の記事として『某壱太郎の完全試合達成に対し、某弐次郎捕手は「スプリットが非常に良かった」、対戦相手の某参三郎監督は「スプリットを狙わせたが失敗だった」と語った』という記述から「捕手」と「監督」を機械的に削除したとすると、非常にわかりにくくなるのではないでしょうか。もちろん、『某壱太郎の完全試合達成に対し、バッテリーを組んだ某弐次郎は「スプリットが非常に良かった」、敵将の某参三郎は「スプリットを狙わせたが失敗だった」と語った』などとすることで対応できるわけですが。要するにケースバイケースであり、片っ端から敬称を削除して回ったり、他の利用者に「敬称を使うな」と要求するような性質のものではないと考えます。ガイドラインはあくまでも原則にすぎない、という点を忘れないでいただきたいと思います。なおFielderさんの投稿履歴を拝見しましたが、あらしへの対処などでお疲れなのでしょうか、「いい加減にせよ!」「ルール違反!」「時系列くらいしっかりまとめるべき」など要約の文が荒れ気味と感じます。他の利用者への敬意をもって行動していただきたいと思います。--143.90.212.40 2014年8月18日 (月) 09:55 (UTC)[返信]

簡単な返信で失礼しますが、143.90.212.40さんのご意見は非常に参考になります。私も『某壱太郎の完全試合達成に対し、バッテリーを組んだ某弐次郎は「スプリットが非常に良かった」、敵将の某参三郎は「スプリットを狙わせたが失敗だった」と語った』という言い回しに変えて対処するようにしていましたが、ご指摘の通り荒らしへの対処の疲れもあり、ここのところは要約文が乱暴気味になったり野球記事でポジションを機械的に削除するだけにとどめたりしてしまっていました。「ケースバイケース」ということは念頭に入れて編集に務めたいと思います。--Fielder会話2014年8月18日 (月) 10:36 (UTC)[返信]

コメント 今更すみません。Fielder様に強く同意します。桜井誠 (活動家)で「橋下徹大阪市長」を「大阪市長橋下徹」というような編集をしたら、Uaauaa様によってRvされ、この議論へ誘導されました。市長・首相・大臣などは政治家の役職を現すとともに、敬称に該当すると思います。TX2468様が仰っている「ガイドラインの最も重要な趣旨は「敬称等の使用による権威付けによって、記事の客観性を毀損することを防止する」ことだと考えます。「何某博士がこう言っている」というような例です。」に該当すると判断しました。「捕手」や「投手」の場合であれば、「~杓子定規に適用するものではないでしょう」(森藍亭様)「ケースバイケース」(143.90.212.40様)という御意見も肯けますが、政治家の場合は、敬称を除去すべきケースではないでしょうか? ましてや、私の編集をわざわざRvまでする必要があるのか疑問に感じます。--JapaneseA会話2014年10月26日 (日) 13:58 (UTC)[返信]

「政治家の役職は敬称に該当しない」という意見も複数出ており、「政治家の役職も書き方によっては敬称に該当する」という意見は一部ですね。御自分に都合悪い意見は無視ですか?これまで寄せられた意見は、「政治家の役職も書き方によっては敬称に該当するけど杓子定規に適用するものではなくケースバイケース」と「政治家の役職は敬称に該当しないから適用対象外」に集約されると思います。何れにせよ、「敬称を除去すべきケース」ではないでしょう。政治家の公人としての言動を記述する際に用いられた表現を、科学分野の記事で「何某博士がこう言っている」と書くのと同列に扱うことが無茶苦茶ですね。「当該部分に政治家の肩書きを入れと敬称になる」とする理論的な説明を求めたいです。実際、当該箇所に肩書きがあることが「記事の客観性を毀損」しているのですか?
そもそも、「大阪市長橋下徹」とか「首相安倍晋三」が日常的に多く使われる、自然な表現なんでしょうか?不完全な表記ガイドに書かれた一つの単語を振り回してまで、珍妙な表現に書き換える必要はないでしょう。それが「杓子定規に適用するものではないでしょう」ということですよね。それに、要約欄で「Wikipediaでは陛下でさえも呼び捨てです」と仰ってますが、「人名に肩書・敬称・学位・位階・勲などは付けないでください」の後に「皇族・王族などで付けることが慣習となっているものは例外とします。例: 後醍醐天皇 」とありますよね。要するに、ガイドラインを守るために習慣的に使われている表現まで排除しなければならないというものではないということです。「大阪市長橋下徹」とか、ウィキペディア方言とも言えるような表現であり、Rvすべきケースでしょう。--uaa会話2014年10月26日 (日) 16:06 (UTC)[返信]
コメント これまでの議論を見るに「「政治家の役職は敬称に該当しないから適用対象外」に集約される」とは解釈できませんでした。あとは合意形成のコメント依頼とします。--JapaneseA会話2014年10月27日 (月) 04:20 (UTC)[返信]
「政治家の役職も書き方によっては敬称に該当するけど杓子定規に適用するものではなくケースバイケース」と「政治家の役職は敬称に該当しないから適用対象外」に集約される」と言ったんですけどね。何れにせよ、「首相安倍晋三」なんて書き方に統一するべきという意見は無かったということです。コメント依頼の依頼文が「A大臣とするか大臣のAとするかで意見が分かれています」となってますが、そのような二者択一的な意見は出ていません。もし、ガイドラインの文章にそう解される余地があるなら、ガイドラインから当該部分を削除すべきでしょうね。--uaa会話2014年10月27日 (月) 12:26 (UTC)[返信]
情報 役職名が後置される例[6]。他、『百科事典マイペデイア』(2008)でも、政治家の役職を後置する例を確認しています。 --Yhiroyuki会話2014年10月27日 (月) 06:06 (UTC)[返信]
コメント コメント依頼からです。政治家であっても前後の文脈で判断するべきだと思われます。政治家の場合、氏名+役職名でも敬称と取られるかどうかは半々だと思われます。政治家にとって馴染み深い敬称って○○国務大臣とかではなく、○○先生とかじゃないでしょうか。国務大臣の○○先生と書いたら流石にダメだと思いますが、文の流れとして○○大臣のほうが自然ならそうするべきです。どちらかと言うと大臣とか市長とかはどちらかというと地位を示すものなので階級に近いものだと考えています。「首相安倍晋三」は何らかのサインや、公文書ではみかける書き方ですね。--アルトクール(/) 2014年10月27日 (月) 18:29 (UTC)[返信]
  • コメント依頼から参りました。
  • 論点が噛み合っていません。
  • ガイドラインは「肩書・敬称・学位・位階・勲」と言っています。字面通り解釈すれば、「社長」や「市長」が「敬称」に当たらなくても、「肩書」に該当してしまえば、やっぱりアウトということになります。
  • ガイドラインは、「肩書類」は人名の後だとダメだけど人名の前なら良いよ、とも言っていません。字面通り解釈するなら、前でも後ろでもアウトです。一番初めにFielderさんは肩書を後置すれば×で、前置すれば○であるかの様に示しましたが、ガイドラインを文字通り読めばどっちも×です。
  • したがって、論点は<「市長」「首相」や「役職」は「肩書」に該当するか、YES or NO>になるべきです。(私は該当するとおもいます)
  • 「肩書」がつくことが何が悪い、という論点にするのであれば、これはガイドラインを変更する議論です。(市長や首相は肩書ではない、という主張であればまた話は変わってきます。)
  • あまり論点になっていないようですが、「肩書とか」を前につけるか後ろにつけるかに関連して、「敬意」とは無関係に、次のようなことを指摘できると考えます。
Fielderさんが最初に提示したうち「捕手」とかまで「肩書」と言えるのか、これは悩みます。捕手だとややわかりにくいですが、「外野手」に置き換えるとわかりやすい。「外野手として選手登録されているから『外野手』も肩書だ」と主張することは、一応できそうです。しかしそれでは「左翼手」は?「内野手」で登録されている選手が、試合の途中で二塁手から左翼にまわり、さらに投手に交代したら?こう考えると、「捕手」は文脈によって単純に属性を表す肩書だったり、それ以上の意味を内包した説明だったり、変わります。次の2文を読んでいただくと意味が伝わるかなと思います。
  • 田中捕手がキャッチした。
  • 捕手の田中がキャッチした。
精緻に分析しようとすると、この2文は意味が異なります。こうするとその違いが明確になります。
  • 捕手がキャッチした。
  • 田中がキャッチした。
こうすると、「捕手」という語の位置は「敬意」とは無関係に文意を変えることがわかります。
ただまあ、ふだんはここまで厳密に文章を分析なんかしませんから、過度に気にすることもないようにも思います。
  • 私は、肩書や役職・役割が付記されることは、単純に文章をわかりやすくするために役に立つと思います。田中って誰だよ、って話になっちゃいますからね。「運転手の田中は」と書かないと、田中がどういう立場で文脈に関わってくるのかわからなくなってしまいます。たとえば「運転手の田中は」と「運転していた田中は」では、文に含まれる情報量が違いますよね。前者は田中が社会的に運転手という立場を有していることは示していますが、厳密には運転していたかは不明です。後者はその逆。推理小説のレトリックみたいなもんですね。しかしふつうは「運転していた田中運転手は」とは書きません。鬱陶しいですから。したがってガイドラインから「肩書」を除去しちゃえばいいな、と考えます。
  • 「肩書」・「役職」には「敬意」が含まれるからダメである、と主張するのであれば、やはりガイドラインの見直しが必要でしょう。
  • Wikipedia:表記ガイド#人名Wikipedia:スタイルマニュアル#人物・人名も、「敬意の存在を問題視します」とは明記していません。単に、名前に付加物をつけることで冗長になるのを回避しようとしているだけに見えます。現代の日本の我々にはあまり縁がないですが、王族にいろいろくっつけて正式に書こうとするとどえらい長いことになりますよね、ヒズマジェスティーなんちゃらかんちゃらオブなんちゃらアンドなんちゃら、みたいな。「正二位なんとか将軍なんたらのかみなんとか源朝臣なんとか三郎左衛門」みたいに書かずに「源頼朝」にしようね、というだけじゃないでしょうか。少なくともガイドラインは「意図」までは語っていません。
  • 敬意表現の存在が記述の中立性を妨げるからダメなんだ、という理屈は、(共感するかは別として)理解はできるものです。そうであるならば、そう明記する方向でガイドラインの修正を図るべきでしょう。
  • 敬称に詳述されていますが、「敬称」というのはその語に自動的に敬意が織り込まれているものです。「天皇」は敬称ではないですが「聖上」は敬称です。「社長」「部長」「首相」などはいずれも組織や団体における役割・役職を説明する中立的な語であり、敬称ではありません。その役割・役職に対して敬意が生ずるかどうかは相対的なものです。たとえば社員が自社の社長を外部に紹介するときは「これが社長のAです」とか社長が「○○部長を呼べ」といった場合に、これらの語には敬意は生じていません。「天皇」ですら、たとえばGHQ司令官が「天皇を呼んでこい」とか、アメリカ兵が「天皇を打倒するぞ」という場合があるわけで、「天皇」という語には自動的に敬意が織り込まれているわけではありません。これが「陛下を呼んでこい」「聖上を打倒するぞ」になれば、自動的に敬意が織り込まれています。「大臣」も「お前じゃ話にならん、大臣出せ!」と言った時にはここには敬意など存在しません。単に「話の通じるやつを出せ」といっているだけです。「お前じゃ話にならん、閣下を出せ!」だと敬意表現です。したがって「敬意を含む表現は中立的じゃないからダメよ」という主旨なのであれば、「社長」や「市長」はOKです。
  • しかし議論の出発点であるFielderさんの問題提起(「敬称にあたる表記だから後ろにつけちゃダメ」)の時点で、いろいろとガイドラインから飛躍があるということです。。
  • 参考までに。(英語版 - 私は英語版至上主義じゃないですが、英語版では細かい説明がたくさんあり、たくさんの場合に応じた解説があります。これらを参照するのも一つのヒントにはなりそうです。斜め読みした感じでは、敬称(サーネーム)や博士などは「完全否定」されていません。Mr.やMrs.にいたるまで、つけたほうがわかりやすいならつけろ、状況によって使い分けろと言っています。英語の場合は敬意に関係なく、「President Obama」という表記はあっても「Obama President」とは普通書きませんから、前か後ろかは大きな問題にはならないようです。「誰々,役職,役職,who isなになに,」のようにカンマや関係代名詞で並置していく文法もありますが、これも「敬意」とは関係ないでしょう。また、Honorific titlesでは「honorific titles should not be deleted when they are used throughout an article unless there is consensus」とあり、「第○代なんとか男爵」みたいなのを省略しろとは言っていません。トータルとしては、敬称を用いることで中立性がどうのこうのではなく、冗長性や、他の人物と区別するのに必要であるかどうかに応じて考えろ、と言っているようです。ただし、そもそも「敬語」というのは日本語の特徴的な概念で、英語には一般的にはそういう概念はないと言われていますから、英語版をそっくりそのまま適用するのがベストかと言えばそうとも言えないでしょう。)--柒月例祭会話2014年10月27日 (月) 19:06 (UTC)[返信]

コメント 色々言いたい事はありますが、その前に「A(総理大臣)」に反対の方はいますか?「A(総理大臣)」であれば「A総理大臣」のような敬称+役職ではなく、役職だけを表記している事がわかりますし、「総理大臣のA」よりは違和感もないと思います。--JapaneseA会話2014年10月29日 (水) 16:39 (UTC)[返信]

論外です。”ウィキペディア語”を創造するつもりですか?あくまでも通常の日本語で表記することを心がけるべきあり、現状のガイドラインによってウィキペディアの表記が普通の日本語から乖離してしまうのなら、ガイドラインを改定するべきです。--uaa会話2014年10月29日 (水) 17:42 (UTC)[返信]
そもそも、正常な日本語を歪めてまで「役職だけを表記している事」を分からせる必要性が理解できませんね。政治家の言動は、それが私的なものだとしても公人によるものと捉えられるので、野球選手より役職を付ける必然性は高いでしょう。ガイドラインの欠陥を悪用して言葉狩りに血道を上げるのはナンセンスです。ところで、「役職だけを表記している事」を示すために「A(総理大臣)」なんて表記をしている日本語文書の例ってあるんですかね?--uaa会話2014年10月29日 (水) 18:18 (UTC)[返信]
  • JapaneaseAさんの提案には反対です。JapaneaseAさん以外で、このご提案に賛成の方がいれば訊いてみたいのですが、「A陛下」を「A(陛下)」に変えると敬称ではなくなりますか?日本語の文法を解説した文献などで根拠になるものがありますか?
そもそも「総理大臣」が全く敬称ではない。ガイドラインは「肩書」もアウトだと明記しているのですから、それに従えばカッコで括ったってアウトです。基本的に、役職・役割を示す語は氏名に前置しようが後置しようが、その位置によって敬意が発生したり消滅したりということはありません。「受刑者のA」「A受刑者」、「B被告」「被告のB」、これらの表現で敬意の有無は変わりません。一般に「敬称をつけるな」というのは、例えば「Aさん」と書かずに「A」と書け、ということです。「さん」は役職や役割を示す語ではなく、まさに「敬称」そのものです。政治家の「議員」「大臣」「首相」「総理大臣」「代議士」といった語は敬称ではありません。これを「先生」や「閣下」と言ったら敬意が生じます。--柒月例祭会話) 2014年10月30日 (木) 00:51 (UTC) - 後述する提案を行って議論を前に進めるため、この発言は撤回します。--柒月例祭会話2014年10月30日 (木) 03:37 (UTC)[返信]
コメント そんな提案,日本語の文章としておかしくなりますね。原則としてはたしかに肩書きとかは不要かもしれませんが,文脈によっては肩書きを書かないと逆にはっきりしない文章になることもあります。立場も意識して文章を書く場合は,後ろに肩書き付記した方が簡潔・明瞭に書けるのではないでしょうか。例えば前置きだと「の」などを1字余分に書くことになります。簡潔・明瞭に文を書くように心がけなければならないのに,余計に煩雑にしてどうするんですか。考え直してください。ここで最初に提起されたFielderさんの意見も正直極端です。もっと柔軟な考え方をなされるべきです。--かげろん会話2014年10月30日 (木) 01:56 (UTC)[返信]
  • 次節の通り提案を行いました。
すべてが人名に関するものではないですが、英語版には分野別に78もの「記事名・本文中での表記ガイド」、さらにこれとは別に80の分野別の私案があるんですねen:Category:Wikipedia naming conventions。たとえばキリスト教聖職者の場合、聖人、教皇、枢機卿、などのそれぞれの場合で、記事名はこう、リダイレクトはこう、本文ではこう記す、と細かく決められています。整備が行き届いてすごいと感じるか、そこまで決めないとトラブルが起きるということなのか・・・。--柒月例祭会話2014年10月30日 (木) 04:57 (UTC)[返信]
これまでにYhiroyuki氏から「A総理大臣」式の表記例が複数提示されていますが、このように一般の百科事典で普通に使用されている表現が禁止されていると解釈できるようなら、それはガイドラインに欠陥があると考えるべきでしょう。これまでは、冒頭の「ただし、このガイドラインはすべての記事に絶対に適用しなければならないものではありません」と「人名」節の「~付けることが慣習となっているものは例外とします」を根拠に、柔軟に対応できると考えていたのですが、そうはいかないようですね。私も改訂が必要だと思います。
ところで、JapaneseAさんは『ブリタニカ国際大百科事典』や『百科事典マイペデイア』の記述が「敬称等の使用による権威付けによって、記事の客観性を毀損している」とお考えなんでしょうか?--uaa会話2014年10月30日 (木) 11:26 (UTC)[返信]

提案[編集]

ある程度、さまざまな見解が出揃ったと思います。簡単なまとめと提案を行ないます。

  • (1)現状のガイドラインを絶対視し不動のものとするか?
「肩書」「敬称」の中身の解釈や、前置・後置による効果の差異の解釈に関し、利用者ごとの意見の隔たり・揺れ幅が大きいです。(これは敬称だ、いや敬称じゃない。前ならいい、後ろでもいい、括弧をつければ、いやどっちもダメだ)
  • (2)したがって何らかの形で現状のガイドラインを修正したほうが、解釈の隔たりをなくしたり小さくできる。と考えます。
  • (3)ひとまず合意できそうな点(明らかに問題があると皆の見解が一致しそうなこと)
  • (3-1)敬意表現を使うことで生じる中立性の問題。
  • (3-2)肩書等をつけることで冗長になること。
(3-1)「○○は敬意表現にあたるかどうか」については見解がわかれていますが、尊敬語や謙譲語・丁寧語などの敬意表現を百科事典の記事として本文に用いるのは(戦前の百科事典は知りませんが)不適当だ、という点については大筋で合意をいただけるのではないかと考えています。
(3-2)に関しては、いまのところこれを言っているのは私だけかも。
  • (4)改訂案(たたき台)
「原則禁止」「避けるべき」「のぞましい」など、規定の強度の表現にはいろいろな幅があります。原案ではひとまずそれらを用いていますが、「原則禁止」では合意できないが「のぞましい」なら合意してもよい、というような場合には、合意を優先して「のぞましい」とすることは有りだと思います。
(1)敬意表現(尊敬語、謙譲語)や丁寧語は原則として行わない。原文の引用や、両者の関係性の説明に必要な場合はその限りではない。
〔例〕
  • 「鈴木さんは」→「鈴木は~」
  • 「召し上がった」→「食べた」
  • 「信者は神に羊を渡した」→OK「信者は神に羊を捧げた」
  • 「領民は領主に酒を渡した」→OK「領民は領主に酒を献上した」
  • 「秀吉は家康に刀を与えた」→OK「秀吉は家康に刀を授けた」
※「秀吉は家康に刀を献上した」では表記ガイド以前の問題として一般的に不適当。
(2)人物の肩書、立場、役割、役職、敬称、尊称、学位、位階、勲、爵位などは、冒頭や第1段落など早い段階で紹介するに留め、記事本文中では省略する。記事本文中で代名詞として用いたり、その都度人名と合わせて表記することは避ける。(Wikipedia:スタイルマニュアル_(人物伝)#敬称
*○ オバマはアメリカ大統領である。オバマは2013年にこれこれのことを行った。
  • × オバマはアメリカ大統領である。大統領は2013年にこれこれのことを行った。
  • × オバマはアメリカ大統領である。オバマ大統領は2013年にこれこれのことを行った。
  • ○ オバマはアメリカ大統領である。アメリカ大統領というのはアメリカ合衆国の最高責任者のことで、大統領は軍隊の統帥権を持っている。
  • ○ オバマはアメリカ大統領になり、オバマは軍隊の統帥権を持つことになった。
  • × オバマはアメリカ大統領になり。大統領は軍隊の統帥権を持つことになった。
(例のいくつかは肩書をつけるつけない以前の問題ですが。)
(2-0)歴史上の人物など、肩書、立場、役割、役職、敬称、尊称、学位、位階、勲、爵位なども含めてその人物の固有名詞として扱われているような場合には、この限りではない。
〔例〕
  • 聖徳太子、後醍醐天皇、後鳥羽上皇など
  • 大井夫人(武田信玄の母) - 「大井」「夫人」のいずれかでも省略してしまうと文意の把握が困難になる。
(2-1)文中においてその人物の立場・役割を明らかにしたほうが説明や文意の理解に寄与する場合にはこの限りではない。
*△ 佐藤は鈴木に責任があると言い、田中は佐藤の指示でやったと言い、鈴木は佐藤が責任を負うべきだと述べた。
  • ○ 佐藤部長は鈴木社長に責任があると言い、田中課長は佐藤部長の指示でやったと言い、鈴木社長は佐藤部長が責任を負うべきだと述べた。
(2-1)鈴木さんが、村議から県議、国会議員となり、同時に国土交通大臣と外務大臣を兼務した場合で、その行動が「大臣」としての立場に基づくものなのか、国会議員としてのものなのか、区別を要するような場合には、役職を明記したほうがよいこともある。
*○ 鈴木は建築計画を承認した。
  • ○ 鈴木国交大臣は建築計画を承認した。
  • △ 鈴木国交大臣は地元の村で餅つき大会に出た。
  • × 鈴木国交大臣は外務省の役人に指示した。
あまり上手な例じゃないですが、例えばイギリス貴族で複数の爵位を持っていて、状況によって爵位を使い分けている場合には、それに応じた記述を行うことは妥当。「ノルマンディー公リチャード1世はフランス王の臣下だが、イングランド王リチャード1世はそうではない。」→「リチャード1世はフランス王臣下である」とするとおかしなことになる。
(2-2)文意に直接関係ない肩書、立場、役割、役職、敬称、尊称、学位、位階、勲、爵位などを書き加えることは避ける。
*○ 教育委員会の会合で佐藤校長はこう述べた。
  • × その喫茶店のケーキの味を佐藤校長は高く評価した。 - 「校長」であることと「味の評価」の正当性に有意な相関関係があるとは普通は結びつかない。
  • ※鈴木が料理学校の校長であれば話は変わる。あるいは、鈴木が学校長の立場でこう発言したことで教員や生徒がその喫茶店に行くようになった、ということを説明しようとするなら妥当である。
*△~× 二死満塁の場面で鈴木外野手が代打で登場し、サヨナラホームランを打った。 - 「外野手」であることがほとんど文意に関係ない。しかしチーム内に鈴木が複数いて、片方が内野手だというような場合には区別のための記述としては役に立っている。「田中投手が代打で登場し」というように、ふつうは代打で登場しないと考えられている「投手」が代打で出たことが特徴的なのであれば記述は役に立っている。
*△~× レースの後、マーシャルは敗因はこれこれだと述べ、ホワイトは敗因があれだと述べた。
  • ○~△ レースの後、マーシャル騎手は敗因はこれこれだと述べ、ホライト調教師は敗因があれだと述べた。
  • × レースの後、ウィリアムは敗因がそれだと述べた。
  • △~× レースの後、ウィリアム調教師は敗因がそれだと述べた。
  • ○~△ レースの後、テレビ解説者のウィリアムは敗因がそれだと述べた。
  • ○ レースの後、テレビ解説者のウィリアム調教師は敗因がそれだと述べた。
じゅうぶんな知名度があるとか、既に記事中で繰り返し登場しているとかでなければ、役割を省略すると、どういう関係なのかわかりにくくなる。「ウィリアム」の事例では、「調教師」だけでは誤解を招くし、単に「テレビ解説者」とするより「テレビ解説者」かつ「調教師」であることを両方示せば、その見解の立場と信頼性が読み取れるようになる。
「ウィリアムテレビ解説者」のような書き方は日本語として一般的でないので、「テレビ解説者のウィリアム」のように前に置くしかない。英語の場合には、カンマや関係詞を用いて複数の「役職・肩書の類」を並置していくことができる。日本語では「作家で横綱審議委員の鈴木大臣」のように、前や後ろにつけるしか無いが、この例だと「大臣」がメインの肩書であるような扱いになるので、文意に応じた記述に配慮する。

ひとまず注釈・例文過多ですが、いかがでしょうか。--柒月例祭会話2014年10月30日 (木) 04:37 (UTC)[返信]


私も改定するべきだと思いますが、この案は率直に言って「注釈・例文過多」だと思います。私は、改定の目的として、ウィキペデイアの表記と他の百科事典をはじめとする文書との整合性を第一におくべきと考えています。その観点からすると、例文は少ない方がいいでしょう。全ての分野で共有できる表現を網羅できるわけ無いですから。あまり例文を細かく挙げると、それらに該当しないものは全てダメと解釈する人が出くるでしょう。現に、可能とされる例に無いからダメと主張した人もいますし[7]。また、各論を言うと、例えば「オバマはアメリカ大統領である。大統領は2013年にこれこれのことを行った。」は”あり”だと思いますので、このような表現が制限されるのは望ましくないと考えます。それと、(1)の「鈴木さんは→鈴木は~」以外は”人名の表記”の指針ではなく、”人物の扱い”ですね。当該節で扱うものではないと思います。そこで、私の案ですが、シンプルに

①原則として、人名に「~様」や「~さん」のような敬称は付けないでください(Wikipedia:スタイルマニュアル#人物・人名によります)。但し、これは付けることが慣習となっているものまで付けてはいけないということではありません。
②肩書、立場、役割、役職、学位、位階、勲位、爵位などは、その人物が記事中何度も登場するような場合、その都度人名と合わせて表記すると文章が冗長になるので、適宜いずれかを省略してください。但し、その人物の固有名詞として扱われているような場合など、文脈的に誰なのか分からなくなるようなものは省略しないでください。
③故人において、人名の前に故を付けたり、人名の後に(故人)や(物故者)を付けたりしないでください。

で如何でしょうか?細かい規制は無い方がいいと考えます。--uaa会話) 2014年10月30日 (木) 12:31 (UTC)案の一部を修正--uaa会話2014年10月30日 (木) 16:02 (UTC)[返信]

  • コメント 「A(大臣)」に反対が多く、論外だの、考え直せだの、えらい言われようですが、[8]で普通に使われています。それに役職A、A役職の両方を書いてもいますね。私の主張は、「A大臣」が必ず敬称になるとは言わないが、「A大臣」と書く事で敬称になる場合が多々ある。「大臣A」も「A(大臣)」も別におかしな表記ではない。Wikipediaでは敬称は例外(付けないと意味不明になるとか)を除いてつけるべきではない、です。さて、現状のガイドラインでは、不十分と判断し、改訂・追加に賛成します。文案は柒月例祭様の文案のように「例文が多い」方が良いと思います。ただし例文に載っていないものは、「×」ではなく、「〇でも×でもないもの」とすれば良いと思います。個別に言うと、(1)は家康と秀吉は判断つかず、他は賛成。(2)は賛成。(2-0)賛成。(2-1)は要検討。なおイギリス貴族の例は判断つかず、(2-2)は、「〇〇高校学校長佐藤××はこう述べた」にすべき。野球とレースは保留。なお、uaa様の文例では、「A大臣」なのか「大臣のA」なのかわかりません(「A総理大臣は慣習だ」という人と、「慣習でない」という人がいるはずです、私は後者ですが)。--JapaneseA会話2014年10月30日 (木) 14:25 (UTC)[返信]
この例示は、文脈的に「祖父は岸信介。総理大臣を務めた人物だよ。」ということであり、議論されているケース全般に通用するものじゃないでしょう。「岸信介首相が日米安保条約を締結した」と「岸信介(首相)が日米安保条約を締結した」のどちらが普通の表現だと思いますか?「「A大臣」が必ず敬称になるとは言わないが、「A大臣」と書く事で敬称になる場合が多々ある」という考えは支持を得られてませんが、根拠を理論的に説明してください。それ以前に、再度お尋ねしますが、『ブリタニカ国際大百科事典』や『百科事典マイペデイア』の記述が「敬称等の使用による権威付けによって、記事の客観性を毀損している」のか否かお答え願います。ブリタニカの記述を否定するからには、それなりに説得力のある説明が必要ですよね。それと、ついでに伺います。柒月例祭氏案について各個に賛否を表明されてますが、その理由は?理由が示されないと議論が進みません。「(2-2)は、「〇〇高校学校長佐藤××はこう述べた」にすべき」なんて個人的な感覚で言われても無意味です。
先ほどの提案への反対意見に対する反論と補足を。
>「A大臣」なのか「大臣のA」なのかわかりません。
そもそも、こういうのは文脈で判断すべきものであって、どちらかにしなければならないという考えがおかしいんですよ。「当時の大臣はAで、~した」というような文脈では、「大臣のA」でいいでしょう。故に、無い方が変な誤解を受けないという考えです。逆に、例文を入れるなら少なくとも両方のパターンを併記すべきですね。柒月例祭氏も、「前と後のどちらに付けても敬称や肩書きであることには変わらない」とお考えなら、そうすべきでしょう。
>「A総理大臣は慣習だ」という人と、「慣習でない」という人がいるはずです
私の案では、①にて原則として使用しないこととする対象を「「~様」や「~さん」のような敬称」に限定し、肩書き等については、②で冗長となることへの注意に止めることとしました。よって、「A総理大臣」が慣習か否かが問題になることはありません。
それと、柒月例祭氏案(2-2)に相当する規定を設けなかったのは、この規定自体に反対だからです。文意との直接関係の有無で揉めるだけです。そもそも、「ケーキの味をは高く評価した」のが「佐藤校長」だと不都合なケースが想像できません。--uaa会話2014年10月30日 (木) 16:02 (UTC)[返信]
コメント 直接内容に関係することではありませんが、重要な事なので。丸付き数字はなるべく使用しないでください。環境によっては表示がおかしくなります。--アルビレオ会話2014年10月30日 (木) 23:30 (UTC)[返信]
今後の議論の便宜上、柒月例祭氏の案の項と区別するために丸付き数字としました。反映させる際は普通の数字にします。ここでの議論を追うのに見苦しいのであれば、書き換えます--uaa会話2014年10月31日 (金) 09:31 (UTC)[返信]
コメント uaa様へ。「どちらが普通の表現だと思いますか?」について、どちらも「普通」だと思いますよ。ただし百科事典としては前者だと「なぜ敬称にする?」と思いますし、新聞ニュースであれば「なぜ敬称にしない?」と思います。「根拠を理論的に説明してください。」について。常識ですが、「人名+役職」は敬称を含むと判断されます。[9][10]など探せば出てくると思います。なので「可能な限り避けるべきだ」と主張します。「再度お尋ねしますが」について、ブリタニカなどを熟読していないので、わかりかねます。これらでは「A大臣」か「大臣A」かは、多分ケースbyケースなのでしょう。もしブリタニカ日本語版が全ての記述で(基本的に人名を呼び捨てにしているのに)「A大臣」と表記しているのであれば、「記事の客観性を毀損している」と判断します。「ケースbyケース」には、最初から異論はありません。争点は、「A大臣」とするべき(しても良い)ケースの範囲です。私は狭く、貴方は広いのでしょう。根本的な話ですが、私と貴方が今この場で議論しているのは、この編集です([11] )。この編集のケースでは、私は「A大臣とすべきではない」と判断したので修正しました。それをRvしたのですから、明確にこのケースでは「A大臣とすべきだ」と判断したのでしょう(どちらでも良ければRvなどしないはずです)。「各個に賛否を表明されてますが、その理由は?」議論の混乱を避けるため、回答を一旦保留します(ここを話す段階でない)。「どちらかにしなければならないという考えがおかしいんですよ。」との事ですが、ある程度、決めておかないと、今後様々な記事で、私と貴方が編集合戦や論争をする事になります。「A大臣」とするべき(しても良い)ケースの範囲考え方が大きく異なるのですから。それ以前に現在Wikipedia日本語版では、同じケースなのに「A大臣」と「大臣A」が混在しています。方針・ガイドラインを決めておくべきと判断します。--JapaneseA会話2014年10月31日 (金) 04:47 (UTC)[返信]
  • コメント いろいろ考えたのですが、以前に私が言ったことや提案内容と違うことを言います。(すみません)
  • 結論だけ言うと、「多様な表記スタイルを容認する」方向で合意はできないでしょうか。
私は「ガイドラインが厳密でない」ことよりも、「これはだめだろ、いやいいだろ」と言ってrv争いが起きることのほうが問題と感じるんです。だから「どっちもOK」で収められないかなと。
まず、「敬称」なる述語に難があるように思います。「敬称」には、「尊敬の念」を込めて用いるものと、「へりくだって」用いるものと、「礼儀作法」として用いるものがあるように思います。同じ語でも状況・読み手で変わります。「蔑称」も敬意の存否を示すと考えれば、語句はさらに増えます。
たとえば「さん」はふつうは礼儀作法だし、「閣下」は「尊敬の念」です。ところがある条件下では、たとえば旧日本陸軍では上官を「さん」付けしたら失礼だけど旧日本海軍なら「さん」付でも失礼じゃないとか、変わります。昭和天皇を「裕仁さん」と呼んだら「おれは天皇制なんて認めないんだぜ」という含意を持っていると看做されるでしょうけど、昭和皇后が昭和天皇を「裕仁さん」と呼んだら親愛の念でしょう。
たとえば、安倍首相を侮蔑している物凄い左翼の人がいたとして、その人がテレビに出たらやっぱり「安倍総理大臣は~安倍さんは~」と言うと思うんですよ。それは敬意を持っているからじゃなくて、テレビで「安倍は~」って呼び捨てしちゃうと自分が失礼な人・偏向した人・中立じゃない人というような印象を持たれてしまうからじゃないかなと。この場合は「礼儀作法」として添えられている。
NHKニュースでアナウンサーがこう言っても、きっと多くの人は何にも感じないと思うんです。
  • 今日の午後の記者会見で安倍総理大臣はこう言いました
ところが
  • 今日の午後の記者会見で安倍はこう言いました
って言ったら、支持政党とか関係なく、NHKちょっとそれはどうなの?と感じるんじゃないかと思うんですよね。いってみればこんな感じです。
  • 安倍大臣閣下 敬意 +1
  • 安倍総理大臣 普通 ±0
  • 安倍     失礼 -1
ここで基準を1つ下へスライドすると
  • 安倍大臣閣下 敬意 +2
  • 安倍総理大臣 敬意 +1
  • 安倍     普通 ±0
こうなります。こうみると、「総理大臣」がつくことで敬意表現だという主張もわかります。逆もまた然り。
  • 安倍大臣閣下 普通 ±0
  • 安倍総理大臣 失礼 -1
  • 安倍     失礼 -2
これは、同じ表現でも、状況や受け手によって「敬意の存在」を感じるかどうかが変わると思うんです。ある単語を付与することで敬意が表に出ると考える人・場面もあれば、それが無いことが侮蔑ととる人もいる。
たとえばエリザベス2世を「イングランド女王陛下」と表現すると、「スコットランドの女王じゃないんだぜ」ってことを含意していると感じるかもしれません。
紙の百科事典や論文が「敬称」を省いているのは、中立性や客観性を気にしているより、物理的な紙面の都合で「文字数」を気にしているだけかもしれません。減らした分だけ他の情報を詰め込めるわけですから。
難しいです。「さん」だけみても状況によって丁寧だったり無礼だったりするわけですから。
難しいんですが、しかしこうも思うんです。
  • A
  • A総理大臣
  • 総理大臣のA
  • A(総理大臣)
このどれを選んでも、実際のところ、中立性・客観性や冗長性は、そんな大して変わらないんじゃないかなと。だったら「どれでもOK」で合意することはできないでしょうか?どれでもOKならば、「そこだけを書き換える」ような編集合戦のようなものは回避できるでしょう?
肩書・役職を完全に除去すると、文意がわかりにくくなるのは自明だと思うんですよ。南北戦争の翻訳記事とかで、読んでいて途中から「この人は南軍だっけ?北軍だっけ?」ってなっていちいち戻って確認しないと意味がわからない、ってことないですか?だから極端に冗長になってしまうのでなければ、適度にはあったほうが意味がわかりやすい。
役職があると中立性が損なわれるから絶対にダメだよ、と感じる方もいるでしょうが、「役職」つけない事自体が対象に対する侮蔑の念を含意していると感じる方もまたいるでしょう。そうなるとやっぱり中立的じゃない。
「敬称」と一口にいっても、<A群>「さん」「様」「殿」みたいなもの、<B群>「閣下」「猊下」みたいなもの、<C群>「総理大臣」「社長」みたいなもの、いろいろなものがあります。蔑称も敬称の1パターンだと考えると更に広がります。
  • A群は冗長性の観点から原則使わない
  • B群は中立性の観点から原則使わない
  • C群は文意や文脈に応じて多様な表記スタイルを認める。著しく冗長だったり、著しく中立性を損なうということでもなければ、表現方法の一種として執筆者のスタイルを尊重する。
ちょっとまだこなれていないんですが、こんな雰囲気の方向性で合意することはできないでしょうか?
いや「社長」はB群だろ、というようなタイプの反論や、「とにかく敬称は一切合切除去しないと中立的でない」という主張をされてしまうとちょっとどうにもならないのですが、どうでしょう。--柒月例祭会話2014年10月31日 (金) 07:01 (UTC)[返信]
私の考えも柒月例祭さんと概ね同じです。故に、上記私の案では、①に於いて「原則使わない」とする対象をA群に限定しました。「「A大臣」が必ず敬称になるとは言わないが、「A大臣」と書く事で敬称になる場合が多々ある」なんて珍説を振り回して”敬称的ではない”用法で付されている役職名まで片っ端から書き換えるような編集も防げると思います。
件の編集は「Wikipediaでは陛下でさえも呼び捨てです」なんて、現行ガイドラインに照らしても間違いが明らかな理由でしたが、いずれにせよ、そのようなトンチンカンな理由での言葉狩りはRvの対象ですね。
JapaneseA氏の「「人名+役職」は敬称を含むと判断されます~ので「可能な限り避けるべきだ」」との主張は全く受け入れる余地がありませんね。「役職には敬称の意味が”含まれる”」から即「中立性を損なう」とするのは理論の飛躍であり、大きな間違いです。相手を呼ぶときの「○○部長」には敬称の意味があるでしょうが、全ての文脈に於いて敬称の意味があるとはいえないでしょう。現に、これまで議論に参加者した皆さんも、多少の認識の違いはあれ、中立性が損なわれるような敬称ではないという点では共通しており、「とにかく敬称となりうるものは一切合切除去しないと中立的でない」の如き主張をしているのは一人だけですよね。それに、文脈に関係なく「敬称の意味が含まれるものは一切ダメ」と言うなら、前に付けても同じことでは?あなたが示した”常識”とやら[12][13]でも、「役職名には敬称が込められています」とは書いてますが、「「人名+役職」だと敬称だ」とは書いてません。まあ、常識で考えて、「部長○○」が敬称とは思えませんけどね。逆に相手を「部長○○」なんて呼んだら殴られるでしょう。だとすると、新聞や一般の百科事典で「安倍晋三首相」と表記されているものを「首相の安倍晋三」とすれば、逆に筆者の悪意が感じられ、かえって中立性が損なわれるということになります。つまり、前に付けても中立性が損なわれるのですよ。そうなると、新聞や一般の百科事典に倣うのが無難でしょう。「百科事典としては~「なぜ敬称にする?」と思います」なんて個人の思い込みとしか言いようがありませんね。「もしブリタニカ日本語版が全ての記述で(基本的に人名を呼び捨てにしているのに)「A大臣」と表記しているのであれば、「記事の客観性を毀損している」と判断します」なんて言われても説得力を微塵も感じません。ブリタニカと一ウィキペディアンの”判断”のどちらが信用に値するかは常識で考えればわかりますよね。--uaa会話2014年10月31日 (金) 09:31 (UTC)[返信]
コメント 柒月例祭様へ。仮に「いかなるケースでも「大臣A」と「A大臣」のどちらを使用してもOK」としたとしましょう。そうなると私が「大臣A」に書き換える。で、相手が「A大臣」にRvする、と編集合戦になります(両者ともルールを守っていますよね、どちらを使用してもOKなのだから)。しかも合意点がありません。これを合意するために、このようなケースでは「A大臣」、このようなケースでは「大臣A」と決めるべきだと思います。また、「「役職」つけない事自体が対象に対する侮蔑の念を含意」との事ですが、Wikipediaでは「松田聖子は~をした」のように表記します。これが新聞ニュースなのであれば、どう考えても失礼です。つまりWikipediaでは「-1」状態を通常としているわけです。ですので、「Bさん」「A大臣」であれば中立的ですが、「B」「A大臣」では、不公平というものでしょう。「テレビで喋る人が、嫌いな政治家に敬称をつけるけど、そこに敬意はない」それは当然そうでしょう。私は「記述に敬意を込めるな」と主張しているのではありません。BさんをBと表記する以上「政治家という一部の記述にだけ礼儀的表現を持ち込むな」と主張しているのです。もし「Bさん」と表記する方針に変えるのであれば、勿論「A大臣」とすべきですが。--JapaneseA会話2014年10月31日 (金) 10:02 (UTC)[返信]
コメント uaa様へ。「もしブリタニカ日本語版が全ての記述で~」と申しましたが、「もしもブリタニカがそんなおかしな応対だったら」という仮定であり、実際にはそんな事はありません。その仮定に対して「説得力を微塵も感じません。~」と批判されても困ります。また、トンチンカンだの論外だの珍説だの、もう少し言葉使いはなんとかなりませんか?「それは貴方独自の考えであって」というような丁寧な表現でも全否定はできますよ。私は聖人君子ではないので、必要以上に攻撃的な言葉を言われると、その意見に耳が傾けるべきものがあっても、そこが見えなくなる恐れがあります。「”敬称的ではない”用法で付されている役職名」との事ですが、その判断が私と貴方、あるいは他の方で違うのでしょう。それを明確にすべきだと、申しているだけです。「「首相の安倍晋三」とすれば、逆に筆者の悪意が感じられ、」との事ですが、BさんをBと表記して、役職付の人だけ「A大臣」のように表記されるのは中立的でしょうか?なお、議論の白熱化を防ぐため御返事は24時間以上を置きます。--JapaneseA会話2014年10月31日 (金) 10:02 (UTC)[返信]
>BさんをBと表記して、役職付の人だけ「A大臣」のように表記されるのは中立的でしょうか?
>「Bさん」「A大臣」であれば中立的ですが、「B」「A大臣」では、不公平というものでしょう。
「不公平だから中立的ではない」というのも理論の飛躍ですが、役職付の人だけ「A大臣」のように表記ても不公平ではありません。公平と横並びを勘違いしているのでは?文章内で、属性を示す必要のある人物にだけ役職等を付すのは合理的ななことです。そもそも、役職付の人とそうでない人を列記する際に、無理矢理同じ扱いにすることの方が逆に不公平でしょう。人物の上下関係などを客観的に書き分けることこそ中立的な記述なんですよ。それ以前に、「さん」「様」と役職名を敬称としてひとくくりにし、同列に扱っているのは、それこそ「貴方独自の考え」ですね。他の人達の意見にも少しは耳を傾けてください。--uaa会話2014年10月31日 (金) 11:17 (UTC)[返信]
うーん。「どっちでもいいよ」というルールのもとで自分の好みに編集しあう合戦と、「ルールの解釈」を巡っておきる編集合戦とは次元が違う、と私は思ったのですが、ダメですか・・・。
もうひとつ私が言いたかったのは役職なんかは礼儀でつけているんじゃなくて、話をわかりやすくするためにつけていて、なおかつ「名前+立場」形式の場合には、その表現が日本語として有りの場合には「立場の名前」「立場である名前」形式よりも冗長でない、ぐらいの理由で選択しているだけじゃないのかな、ってことなんですよね。「歌手の松田聖子」はありでも「松田聖子歌手」という表現はないので、前者しか選択できない。「歌手の松田聖子さん」とするのは次のステップ。
どうやらここは価値観を共有できない点なのかな、と思うのは、<BさんをBと表記して、役職付の人だけ「A大臣」のように表記>しても、私は中立性には大して影響ない、と感じるところなんです。とか「オバマとエリザベス2世女王陛下」みたいに書いたらちょっと勾配を感じますけどもね。例示してるのが「大臣」だからアレなだけで、Cさんを「C」と書き、Dさんを「D運転手」としたってどうってことないかなと。この場合に実はCも運転手だ、というならまた傾斜が発生しますけども。(24時間以上置く、というのはいいですね。お互いに。私もそうすることにします。)--柒月例祭会話2014年10月31日 (金) 12:05 (UTC)[返信]
コメント こんばんは。知ったお名前がいくつか見受けられ、また時間が取れない中で、こうして議論に介入するのは躊躇するのですが、人物伝を中心に書いてきた一ユーザーとして一言。
発端であるFielderさんの編集[14]を拝見しました。この案件は、私でもRvしたうえで抗議したと思います。JapaneseAさんの「橋下徹大阪市長」→「大阪市長橋下徹」は微妙ですが、まぁそのままでも良かった気がします。あの怒号会談も、一応は市長としての公務として行った物ですから。
私がJawpに参加したのは2006年ですが、とにかく諸先輩方から散々に言われてきたことは、「方針・ガイドラインの字句に固執するな」「どのような意図・経緯で書かれたものかを見ろ」です。そりゃそうです。記事の「質」を高めるはずが、方針・ガイドラインに則ったら文章がおかしくなりました、では本末転倒です。
個人の役職を後ろに付けたら自動的に敬称になり、前に付けたらそうでない、などということはありません。全体の文脈から判断すべきです。
記事 "安倍晋三" の中で、「安倍総理大臣、安倍総理、総理」 と連発するのは避けるべきです。しかし他の記事中で、例えば「安倍晋三首相と習近平国家主席が会談した。会談で安倍と習は北朝鮮の核問題で意見の一致を見た。」 などと書いて、何の不都合がございましょうか。--Ashtray (talk) 2014年10月31日 (金) 12:42 (UTC)[返信]
  • コメント Ashtray様の文例は、2者が出ている事によって、敬称という意味合いが薄れています。一方、これが単独で出た場合は、(私は)違って見えると思います。柒月例祭様の仰る事も理解できますし、常に編集合戦となるとは思っていません。これが「異議を唱えられただけ」であれば、相手の顔を立てて今後はその手の編集(A大臣→大臣A)を控える・関らない(自分が記述する際のみ大臣Aとする)としても良かったのですが、Rvされた以上「自分が記述する大臣Aも許されないのか?、コミュニティで決めてくれよ」となるわけです。uaa様の「他の人の意見に耳を傾けろ」という主旨のコメントですが、柒月例祭様の文案について、私は「ここは賛成、ここは保留」のように表明していますが、他の人の意見に耳を傾けているとは判断されませんかね。貴方と私を除いて今のところコミュニティの総意は「A大臣も認める」ように感じますが、貴方のRv行為を「当然だ」とする程の強いものとは感じません(戦闘アカウントと揶揄される私に明確なNOを言いたくないだけかもしれませんが)。--JapaneseA会話2014年11月1日 (土) 17:46 (UTC)[返信]
>他の人の意見に耳を傾けているとは判断されませんかね。
他の人にされた指摘に対する理論的な反論や同意の意思表示などは録にせず、「ここは賛成、ここは保留」なんて言ってるようでは、「他の人の意見に耳を傾けているとは判断」できませんね。理由も述べずに賛否だけ表明するのは合意形成の妨害にも見えます。
>戦闘アカウントと揶揄される私に明確なNOを言いたくないだけかもしれませんが
意味がわかりません。
>貴方と私を除いて今のところコミュニティの総意は「A大臣も認める」ように感じますが、
私も「A大臣も認める」でしょう。「中立性が損なわれる」なんて言ってるのはあなただけです。
>貴方のRv行為を「当然だ」とする程の強いものとは感じません
件の編集では、要約欄のコメントが「Wikipediaでは陛下でさえも呼び捨てです」と、現行ガイドラインに照らして明らかな間違いがあり、文脈的に違和感が出るような形で「首相の安倍晋三」へ書き換えられていました。よって、「Rv行為は当然だ」と思っています。そして、あなたがFielder氏と同様の勘違いをしていると思い、ここに誘導した次第です。「陛下でさえも呼び捨て」からは、Fielder氏より重症だとも感じました。まあ、Fielder氏は「ルールだから」と編集を続けてたわけですが、書き換え後の文章に違和感を感じてたようなので、あなたよりは軽症でしょうね。それにしても、御自身の言語感覚が絶対的に正しく、他のウィキペディアンの方々やブリタニカが間違っているとでもお考えなんですか?--uaa会話2014年11月1日 (土) 18:41 (UTC)[返信]
コメント 「敬称だ」と判断し修正した私に、「敬称でない」という貴方の見解がコミュニティより支持されたと判断しています。要約欄については、A大臣が敬称であれば「陛下でさえも呼び捨てです」は適切であり、A大臣が敬称でなければ不適です。要約欄についても、コミュニティより同様の判断が下されたと思います。一方、「文脈的に違和感が出る」との事ですが、私はそうは思いません。貴方の版でも私の版でもどちらでも違和感を感じません。私の中では、今現在の論点は、Rvする程に「文脈的に違和感が出る」編集だったのか?です。「御自身の言語感覚が絶対的に正しく」またえらい言われようですが、「今のところコミュニティの総意は「A大臣も認める」ように感じます」と自身の反対意見を認めています。貴方のコメントには、私を悪者にする印象操作のようなものを感じますね。--JapaneseA会話2014年11月2日 (日) 19:35 (UTC)[返信]
>またえらい言われようですが、~。
複数の方から「中立性の問題など発生しない」と指摘され、あなたの意見を支持する人は皆無にもかかわらず、「一方これが単独で出た場合は、(私は)違って見えると思います。」の如き妄言を繰り返してるんだから、「御自身の言語感覚が絶対的に正し意図思ってるんだろう」と言われても仕方ないでしょう。
>「文脈的に違和感が出る」との事ですが、私はそうは思いません。
当方は既に2回以上は理由も述べているはずですが、あなたは「思います」とか「思いません」としか言ってませんね。いい加減、根拠を基に客観的事実を述べてくださいよ。あなたの脳内基準など聞くつもりは微塵もありません。
>「陛下でさえも呼び捨てです」は適切であり
Fielder氏は、当ガイドラインを額面どおりに受け止め過ぎていただけですが、あなたは当ガイドラインを録に読んでないことがこの発言にからよくわかりましたね。
>私の中では、今現在の論点は、Rvする程に「文脈的に違和感が出る」編集だったのか?です。
そんな下らないことにいつまで拘泥してるんですか?虚偽の理由に基づいた編集がRvされるのは当然です。そもそも、この節は問題が浮き彫りになった当ガイドラインの改定案のを目指してるんですよ。明らかに議論拡散行為です。これ以上、私怨に基づく合意形成の妨害を続けるのはやめてください。この発言により、あなたのウィキペディアへの参加姿勢に重大な疑念が生じました。「悪者」扱いされても文句言えない状態になってますよ。--uaa会話2014年11月3日 (月) 13:41 (UTC)[返信]
Rvされた事を恨んでいるのではなく、Rvされた理由を知りたかったのです。要は要約欄が不適切なのでRvという事でしょうか?で、あればそのRvには納得はしませんが、これ以上文句は言いません。「この節は問題が浮き彫りになった当ガイドラインの改定案」を目指すのであれば、それには賛成します。--JapaneseA会話2014年11月4日 (火) 08:41 (UTC)[返信]
無視できない発言があったので、利用者へのコメント依頼としました。--JapaneseA会話2014年11月4日 (火) 09:18 (UTC)[返信]

(インデント戻します)Rvや、それにともなう作法や礼儀に関しての問題と、この表記ガイドの議論はひとまず切り分けましょう。

ここまでのみなさんの見解で、「○○は敬称にあたるか」に関しては見解がわかれました。
(記事が完璧かどうかはさておき)敬称に列挙されているもののうち<A群:敬称#接尾詞型敬称#代名詞型敬称#接尾詞型かつ代名詞型敬称#「下」の付く敬称>までは、見解の相違なく、本文中で人名につけるのは不適当だ、と合意できるのではないかと考えています。
その次の<B群:敬称#職業で用いる呼称(肩書き)>が今回、見解がわかれたところだと思います。
しかし、11月2日(19:35 UTC)のご発言で、JapaneseAさんはこの点について譲歩をしていただいたと理解しています。
その結果として、「A群は不可、B群は許容範囲内」という方向でおおよその合意が得られそうではないでしょうか。
細かいことを言うと「尊」は神道や仏教系の記事とかではよく用いるように思うのですが、それが中立性を損なっているかといえばよくわからない。(「ヤマトタケル」はOKだけど「ヤマトタケルノミコト」と書いたら中立性を損なうかと言えば、そんなことはないように思いますが…。どうなんでしょう。)
私は10月30日のuaaさんの提案文は、シンプルでよい内容じゃないかなあと思います。JapaneseAさんは私の案との比較上、「例文の多いほうがよい」という趣旨のことをおっしゃっていますが、例文を提示するかどうかはおいといて、この文案はどうでしょう。
難点は(1)で「「~様」や「~さん」のような敬称」と表現しているところです。ここで「敬称」と言ってしまうと、「敬称」を広く解釈すると元の木阿弥になってしまいます。ここでいう「敬称」はA群のことだろうと思うのです。
なので、「敬称」という言葉を使わずにA群を表すことができれば、それに置き換えればよいのではないかと思いましたが、私にはいい言葉が思い浮かびません。
(2)について、「何度も登場する場合は」「適宜」「人名・肩書いずれかを省略する」部分の確認ですが、
  • 「何度も」は、記事全体の長さとも関わるでしょうから、ふんわりした規定ということでいいですよね?(短い間に3回登場すれば略した方がいいかもしれないが、長く多くの登場人物がいる記事では5回でも肩書をつけたほうがわかりやすい)
  • 「適宜」「いずれかを省略」というのは、「田中」「総理大臣」「田中総理大臣」(「総理大臣の田中」)のいずれもOKと解釈していいでしょうか?(必ずいずれかを省略せよ、ということではないですよね?)--柒月例祭会話2014年11月4日 (火) 09:44 (UTC)[返信]
(1)の「敬称」に代わる言葉については、敬称#現代の分類に準じる形で「原則として、肩書き以外の敬称は付けないでください。」で如何でしょうか。リンクを付けておけば、見た人にわかりやすいと思います。但し、「肩書き以外」で使用を規制すると不都合が生じるものが無いか検討が必要だと思います。敬称#現代の肩書き以外に挙げられている類例を見ると、「公」「卿」「殿下」「妃」が場合によっては肩書き的に用いられるようですが、とりあえずは「但し、これは付けることが慣習となっているものまで付けてはいけないということではありません。」で対応できるかなと思います。
(2)については、仰せの通りです。--uaa会話2014年11月4日 (火) 19:20 (UTC)[返信]
各位様、これで暫く静観します。私は文案があった方がわかりよいと思いますが、柒月例祭様が「やっぱり文案は不要」と御考えであれば、無理強いするものではありません。陛下の事を「天皇陛下と書いていない」からでなく(これは書いた方がおかしいでしょう)、(どこの記事かは忘れましたが)「「天皇は~」と書けば良いものを、「明仁は~」」と表記してあったので、あのような要約欄としましたが、「明仁親王は~」と書いてある記述も多々ありました。--JapaneseA会話2014年11月5日 (水) 13:40 (UTC)[返信]
  • 敬称#現代」については、敬称は方針文書ではなく普通の記事なので、内容が書き換えられてしまう可能性は常にあるので、そこを参照する形にするのはマズイんじゃないかなと思います。かといって、ここで全部を列挙するのも冗長な感じはします。
ちょっとわざと列挙しますね。
  • 接尾詞型 - 様、殿、さん、ちゃん、氏、女史、刀自、君(くん)、嬢、たん、タン、きゅん、キュン、卿(きょう)、公、夫人、御中、尊
  • 代名詞型 - 君(きみ)、貴方・貴男・貴女(あなた)、卿(けい)、貴官、貴職、その他(お父上、ご尊父、お母上、ご母堂、御一同様、お嬢様、ご子息、奥様、ご主人)
  • 接尾詞型かつ代名詞型 - 各位、主上・聖上、令息・令嬢、同志、貴下、先生・大先生(御侍史・御机下)
  • 「下」のつく敬称 - 陛下、殿下・妃殿下、閣下、聖下、猊下、座下、台下
  • 職業で用いる呼称(肩書) - 役職名、階級名、資格・職能を表す名称、選手、関取、師匠、丈
  • 接頭辞型 - 聖
必死で探せばほかにもなにか出てくるんじゃないかと思いますが、表記ガイドで完全に逐一列挙してしまうと「そこに入っている単語はどんな場合でも全部削除する/そこに挙げられていない単語は絶対にOKとする」的な解釈をされてしまってもちょっとアレかなと思います。どうしても細かいことでもめたら、このノートでの議論も参照してもらえばいい、ということで、表記ガイドではざっくりした表現にしておくというのはどうでしょう。

①原則として、人名に「○○様」、「○○さん」、「○○先生」、「○○閣下」のような敬称は付けないでください(Wikipedia:スタイルマニュアル#人物・人名によります)。但し、これは付けることが慣習となっているものまで付けてはいけないということではありません。
②肩書、立場、役割、役職、学位、位階、勲位、爵位などは、その人物が記事中何度も登場するような場合、その都度人名と合わせて表記すると文章が冗長になるので、適宜いずれかを省略してください。但し、その人物の固有名詞として扱われているような場合など、文脈的に誰なのか分からなくなるようなものは省略しないでください。
③故人において、人名の前に故を付けたり、人名の後に(故人)や(物故者)を付けたりしないでください。

「例文」に関しては、私はこの件に限らずいつでも「実例」が多いのが好みなのです。しかし、同じ話の繰り返しになってしまいますが、このノートでの議論が「例文」みたいなものでしょうし、例文がいらないということであれば私もそれで構いません。上の案のように「○○様」と4種示せば、まあだいたいわかるんじゃないかなあと思う次第です。
ひとまず、私からはこれが最終案かなあという感じです。ただ、本件に関連するコメント依頼が行われていまして、そこで間接的に本件に関するブレークスルー的な意見があるかもしれないので、他の方がよければ、決定して反映させるのは(忘れて放置しない程度に)少し様子見してもいいかなと思っています。--柒月例祭会話2014年11月8日 (土) 14:01 (UTC)[返信]
柒月例祭氏の最終案に賛成します。1週間異論が無ければ、反映させていいと思います。--uaa会話2014年11月10日 (月) 08:00 (UTC)[返信]
確認ですが、現在の用例にあるサー・ウィンストン・チャーチルの例は削除ということでしょうか?
「○○閣下」はあまり見ないので、最初の3例でいいような気がします。あるいは同列の「○○殿下」のほうが用例として有効な気がします。--T6n8会話2014年11月13日 (木) 23:38 (UTC)[返信]
逆に考えると、「あまり見ない」からこそ×の例として好ましいと思います。要は、どのような敬称の使用が好ましくないかが伝わればいいのですから。「○○殿下」は、特定の人物へ慣習的に使用されることが多々見られますし(アルバート殿下アルバート皇太子の呼び分けとか)、「サー・~」は英語版では普通に使われているので、翻訳の際に削られると、原文と文脈が変わってしまう可能性もあるでしょう。このように、場合によっては付ける必要があるものを用例とするのは好ましくないと考えます。--uaa会話2014年11月14日 (金) 08:08 (UTC)[返信]
コメント 「殿下」は難しい問題をはらんでいると思います。今でもTV・新聞報道では、外国の王族には普通に「殿下」を使っていますし、それを出典としたWP記事も多々あると思います。私が過去に接したのはラオス・カンボジアの王族関連でした。アジアのあの辺は、王族であることが特別の意味を持ち、政治的に重要な役割を果たしていました。ですので、例えば「王子」「親王」「元国王」等とケースバイケースで言い換え作業がなされれば良かったのですが、あの時は機械的に「殿下」を除去されてしまい、前後の説明が付かなくなってしまいました。で、相手の方にお願いし、元に戻していただいた経緯があります。--Ashtray (talk) 2014年11月14日 (金) 10:23 (UTC)[返信]
コメント 「殿下」「閣下」の系統には難しい問題がある、というのは私も同感です。「猊下」は大司教とかに使いますが、日本ではそんなに馴染みがないのでさほど問題は引き起こさないし、「閣下」も対象が広い。しかし「殿下」「陛下」になってくると、外国の王族に対して使っているうちはまだしも、そこから紐がつながっていて、天皇制に関連した思想的な論争(ゴールが見えない)を呼び起こしてしまう。なので、そこらへんはそっとしておきたい、という感はあります。--柒月例祭会話2014年11月15日 (土) 05:31 (UTC)[返信]

T6n8氏からの反論は無く、他に異論がないようなのですので、そろそろ上記内容を反映させてもいいと思います。--uaa会話2014年11月19日 (水) 16:12 (UTC)[返信]

サーの例は除くということで確認いただきましてありがとうございます。
○○宮殿下の殿下はだいたい余計だろうと思ったら、広く考えると難しいようですね。よって、殿下は特別例に示すことはしないというのもよろしいかと思います。
閣下ははずすべき状態の用例がさくっと思い浮かばなかったんです。デーモン閣下の閣下は外さないほうでしょうし。
「「あまり見ない」からこそ×の例として好ましい」という考え方には同意しがたく、日常的な文ではよく使われるが、百科事典向きではない表現をこそ例示するのが望ましいと考えます。その点で先の3例は適切だろうとおもいます。どんな風に使われる可能性のある「閣下」を除くことを意図しているのかをより明確に示されたほうが良いかと思います。--T6n8会話2014年11月20日 (木) 14:38 (UTC)[返信]
敬称#「下」の付く敬称に詳しい説明があります。現代日本で日常的に「閣下」を見かけるかというと、私の経験上はほとんど見かけない気がします。ハリウッド映画では今でも時々「大統領閣下」とか字幕で見かけますし、昔の戦争映画なんかでは将官クラスの人への呼びかけなんかで「閣下」という字幕はよく出るように思います。(デーモン閣下は「閣下」まで含めて固有名詞ですから、この一般ルールとは別次元でしょう。)。
敬称#「下」の付く敬称の代表として「閣下」を選んだのは、「猊下」、「聖下」、「座下」(正教会の用語)、「台下」(仏教など)、「貴下」あたりでは使用例が稀すぎて「代表」にならないこと、「陛下」「殿下」あたりは上で述べたように、天皇制や王制周辺の思想的ないろいろなアレに近すぎてなんかイヤだなあと思い、真ん中らへんの「閣下」を選びました。「大統領閣下」や「大臣閣下」を「大統領」「大臣」としても、日本ではどっち側からもそれほど波風が立たないだろう、と考えました。「閣下」ひとつで、「陛下」や「殿下」についても察してくださいね、という感じです。--柒月例祭会話2014年11月20日 (木) 15:25 (UTC)[返信]
「閣下」は、「様」や「さん」と同様に、百科事典で使わなければならないケースが想定されないので、あってもいいかと考えましたが、とりあえずは外してもいいと思います。あまりに変な使い方がされるようなら、そのようなケースを追加すればいいと思います。--uaa会話2014年11月20日 (木) 17:58 (UTC)[返信]
「閣下」に代表される敬称#「下」の付く敬称を解禁/容認するというわけではなく、単に文案から省くだけだ、という主旨を確認したうえで、文案から外すことでみなさんがOKならばそれでよいと思います。--柒月例祭会話2014年11月25日 (火) 06:15 (UTC)[返信]

一週間以上異論が出てないので、上記柒月例祭氏の最終案から「閣下」を除くということで合意成立とさせていただきます。僭越ながら、私が内容を反映させました。--uaa会話2014年11月30日 (日) 15:30 (UTC)[返信]

全角スラッシュ(/)について[編集]

俳優のテンプレにその俳優の主な作品を記載する時に、今までは半角スラッシュ( / )を使用し並べていましたが、現在は全角スラッシュを使う例が多く見受けられます。しかし、全角スラッシュは使用可能な文字には含まれていません。私個人の意見は半角スラッシュを使わずに全角スラッシュを使う方が見やすいと思う次第でありますが、皆様はどのようにお考えでしょうか。何卒意見をお寄せ下さい。 ==欣之介くん会話2014年9月13日 (土) 23:58 (UTC)[返信]

コメントブラウザによって文字化けしたり見にくくなるから半角スラッシュが推奨されてるんじゃないの?自分だけの環境で判断しては拙いよ。それと俳優のtmp内もブラウザによって表示が異なるからこだわっても意味ないよ。ここのテーマには関係ないけどね。--118.109.8.93 2014年9月14日 (日) 02:34 (UTC)[返信]
コメント現在は全角スラッシュを使う例が多く見受けられます」のはどのページですか? 手作業またはbot作業依頼にて<br />タグまたは半角スラッシュに置換を行います。「Template:ActorActressで代表作を全角スラッシュでセパレートしているものが多く見受けられます」というような数の理論ではないのです。--LearningBox会話2014年9月14日 (日) 02:43 (UTC)[返信]
コメント 表記ガイドに持ち込まれましたが、そもそも、渡哲也におけるあなたの編集「テンプレを無駄に長くする必要はない」から出ている話です。
これはTemplate:ActorActressの使い方の話ですが、「主な作品」の引数にはコメントアウトの説明文で<!-- 皆が認める代表作品を入力 -->と書いてあり、その人物の代表作品を書くようになっています。ベテラン俳優のように出演作や主演も多い場合は、多数が納得する形で作品を厳選するか、もしくは全て掲載を行わず『[[#出演]]を参照』とする方法があります。
「あれも載せたいこれも載せたい」「だが、テンプレートが長くなるのは嫌だ」「縦長にしないため<br />タグで一作品1行にするのではなく / で区切って縦幅を詰めたい」「『主な作品』を区切るのに私は / ではなく / を使ってきました」「みなさん『主な作品』の / での区切りを認めてください」この流れですよ? 賛同を得るのは困難と言わざるをえません。--LearningBox会話2014年9月14日 (日) 03:49 (UTC)[返信]
コメント 提案者の意見には賛同できませんが、全角スラッシュを用いてもよい例外が出てくる余地(具体的には思いつきませんが)はあるかもしれません。たとえば、約物全般に言えますが、mw:Typography Refreshの導入でフォント指定が和欧混植となる(現状、デフォルトでゴシック体のCSS適用のガジェットが有効になっていますが)ため、見出しに関しては和文と半角約物の上下位置がずれる場合がある、といった状況もあります。IPの方から文字化けの可能性のご指摘がありましたが、全角スラッシュJIS X 0208に含まれていますのでその心配はないかと。全角チルダなどとは状況は異なります。表記ガイドを根拠にbotで置換するというのは、少々乱暴なご発言かと思いました。--Wolf359borg会話2014年9月14日 (日) 04:16 (UTC)[返信]

01月のような表記のリダイレクトが作成されている件について[編集]

Wikipedia:井戸端#01月、平成02年、明治06年、大正09年といった表記のリダイレクトの賛否にて、01月平成02年明治06年大正09年03月07日のような先頭に0を含む表記のリダイレクトがあることについてそれらのリダイレクトを削除しても良いのか問題提起いたしましたのでご報告させていただきます。これは元々Wikipedia:利用案内#複数のリダイレクトの削除依頼を一括で行う方法にてリダイレクト削除の方法を質問したことが発端となっており、利用案内のほうでリダイレクトの有用性や表記ガイドの修正を含めて井戸端などで議論すべきとの意見が出ましたので井戸端に議論場所を移したものです。--Meniv会話2014年10月16日 (木) 15:10 (UTC)[返信]

表記ガイドの修正について[編集]

(本節を井戸端からこちらに移動しました。--ディー・エム会話2014年10月18日 (土) 08:18 (UTC)[返信]

利用案内のほうでアルビレオさんや柒月例祭さんよりWikipedia:表記ガイド#年月日・時間への言及がありましたのでこちらで別に発議します。 01月のような表記ができてしまうリダイレクトを削除して0x月0x日のような記述は「できない」ではなく「しない」と明記すべきか、非推奨な一方でできないこともないとしてリダイレクトを存続し、表記ガイドを修正すべきかの皆さんの考えをお聞きしたいです。余談ですが私を含めて井戸端のほうでは0x月系のリダイレクトは必要ないとする考えが多いですが、利用案内のほうでは0x月系のリダイレクトを使用することを積極的に禁止する理由はないとの意見もありました。--Meniv会話2014年10月16日 (木) 15:24 (UTC)[返信]

コメント 個別のリダイレクトの存廃に関しては表記ガイドは直接関係ないので、リダイレクト削除の対応と表記ガイドの改定は別途切り離して進めるのが良いと思います。以下、書式上のルールに限ってのコメントと提案です。
現行の表記ガイドの説明をそのまま読むと、たしかに表現がわかりにくい面はあると思います。基本的には、これは単純に「03月05日」のような表記は使わないという意味で解釈するのが最も自然であり現実的でしょう。「リンクが正しく表示されない」というのはその理由の一例を述べたものかと思いますが、そもそも記事中に置く日付のリンクは人物の生没年など重要なもののみということになっていますし、リンクを置くにしてもパイプリンクを使えば数字の表記方法とは無関係にすべて正常にリンク可能ですので、説明としてこの部分は無い方が良いのではないかと思います。
提案 そこで具体的な対応策として、「Wikipedia:表記ガイド#年月日・時間」内の一文を下記のように改定するという対処法ではいかがでしょうか。
  • (現行)「03月05日」のような0を入れた書き方は、リンクが正しくされないので使わないでください。
  • (改定)「03月05日」のような0を入れた日時の書き方は記事の中では使用しません。表の桁揃えが必要な場合には、スタイル指定で文字を右揃え("text-align:right")にするか、テンプレート {{0}} を使用してください。
--ディー・エム会話2014年10月18日 (土) 08:18 (UTC)[返信]
  • 条件付賛成 原則的にはそのような書き方をしない方向で良いでしょう。ただし「固有名詞で用いられる場合に限り、この限りではない」(単に日時表記を行うために用いることは不可)という断りを付せば良いと思います。--Don-hide会話) 2014年10月18日 (土) 08:26 (UTC) 票変更。--Don-hide会話2014年10月27日 (月) 12:58 (UTC)[返信]
  • (条件付賛成) 原則として「しない」としてよいと思います。ただし、Don-hideさんが指摘されている固有名詞だけでなく、(実際の例の有無はともかく)引用のような「そのまま引き写すことが必要な場合」を除くと条件を付ける必要はあるでしょう。--Claw of Slime (talk) 2014年10月20日 (月) 11:58 (UTC)--2014年10月22日 (水) 18:04 (UTC)条件付き賛成を取消[返信]

コメント ご意見ありがとうございます。たしかに、固有名詞や引用の場合は除くと明記しておいたほうが良さそうです。下記のとおり改定案を修正したいと思います。

  • (改定案2)「03月05日」のような0を入れた日時の書き方は、原典の引用や固有名詞の表記に用いる場合を除き、記事中では原則として使用しません。表の桁揃えが必要な場合には、スタイル指定で文字を右揃え("text-align:right")にするか、テンプレート {{0}} を使用してください。

--ディー・エム会話2014年10月21日 (火) 10:38 (UTC)[返信]

コメント 表記ガイドとしては原則的な書き方を規定するものなので、0を入れた書き方はしないとして良いと考えます。その上で細かい点ですが、Wikipedia:表記ガイド#年月日・時間の節の先頭に『以下は記事の中で年月日・時間について記述する場合に適用します。著作物の名前に年月日・時間が含まれる場合など「固有名詞」には適用しません。また、引用する場合にも適用しません。』という文が既にあり、冗長になるで、提案箇所については当初のディー・エムさんの案のままの方が良いと思います。--アルビレオ会話2014年10月22日 (水) 04:41 (UTC)[返信]

コメント ご意見ありがとうございます。確かに節の冒頭に書かれていました。あと1週間程度待った上で、アルビレオさんご指摘の内容(節冒頭に断り書きがあるので修正部分の文面は原案の方を採用)で特に異論が出ないようでしたら原案の文面で文書の改訂を行いたいと思います。--ディー・エム会話2014年10月26日 (日) 13:09 (UTC)[返信]

  • 余計なことをいいます。みなさんの指摘する問題は概ね仰るとおりと思います。ただ、フッと目に入ったので気になってしまったのですが、署名をするときの時刻表記には「08:15」みたいに、桁そろえのための0が入りますよね・・・(設定によって違うのかな?)。「日時」のうち「時」に関してはシステムがこうなっているのに、「日時で0はダメよ」というのは塩梅がわるい気が・・・。--柒月例祭会話2014年10月27日 (月) 20:11 (UTC)[返信]
まずは事実。私の設定では、表示を標準のベクターではなくモダンにしています。その環境では、例えばウォッチリストの時刻表示は08:15のように時の前ゼロが表示されますが、ノートページ内の署名は8:15のように、時の前ゼロはサプレスされます。ただし、13:09のように分については前ゼロは表示されます。日付についてはウォッチリストでも10月2日のように、月の後の日でも前ゼロは表示されません。
以下私の推測。特に時刻でhh:mmやhh;mm;ssの形式で表記する場合、hhの前ゼロは表示することと抑止することの両方があるが、mmやssについては前ゼロを表示することが一般だと思います。一方日付については前ゼロはサプレスする方が多いのではないでしょうか。年月日でも、2005-06-02(本ノートページの先頭付近にあります)のような形式では月も日も前ゼロをサプレスしないことも普通です。
もし書くのであれば、2014-09-02や12:02のようにハイフンやコロンを使う形式では、ハイフンやコロンの後ろのゼロも表示して構いません、くらいでしょうか。ここまでガイドに書くかどうかという話もありますが。--アルビレオ会話2014年10月28日 (火) 00:28 (UTC)[返信]
「2000-01-01」のようなハイフン区切りでの日付表記や「01:01」のようなコロン区切りでの時刻表記において前ゼロを入れてそれぞれ2桁表示とするのは、ISO 8601によって規定されているものであり、広く用いられているものですので、このような表記まで禁止する必要はないでしょう。特に時刻表記においては、「01:23」を「1:23」と表記することはあっても「12:03」を「12:3」と表記することはまずないですし。一方で、日本語において年月日や時分を区切りとした「2000年1月1日」や「1時1分」を「2000年01月01日」や「01時01分」とすることは一般的ではないよね、というのが今回の提案と理解しています。「2000-01-01」「01:01」について表記ガイドで触れる必要があるのかは微妙なところだと思います。--Claw of Slime (talk) 2014年10月28日 (火) 06:45 (UTC)[返信]
コメント とりあえずはこのノートで明確な解釈を確認できていますので、大丈夫ではないでしょうか。もし今後、誤解されたり拡大解釈されてままならないことがあれば改めて説明の追記を検討ということで問題無いと思います。--ディー・エム会話2014年10月29日 (水) 13:13 (UTC)[返信]

報告 最終の合意以降、特に異論がありませんでしたので、当初案の内容でガイドラインの文言を修正しました。ありがとうございました。--ディー・エム会話2014年11月2日 (日) 15:12 (UTC)[返信]

「具体例による説明」について質問[編集]

Wikipedia:表記ガイド#具体例による説明」では記号は半角を使用することになっていますが、例外として全角を使用する場合も記述されています。その中で、「下記参照」とされていながら、イコール(=)については記述が見当たらないのですが、イコールを全角で使用する時とはどのような時なのでしょうか。--V5+c6-S3+w8=DDss会話2014年11月4日 (火) 08:39 (UTC)[返信]

コメント ありがとうございます。気づきませんでした。--V5+c6-S3+w8=DDss会話2014年11月4日 (火) 12:15 (UTC)[返信]

「プロジェクト:放送番組/表記ガイド」のガイドライン化について[編集]

プロジェクト‐ノート:放送番組/表記ガイド」にて、同プロジェクト文書のガイドライン化について再確認の発議を行っています。追加の検討事項や議論延長のご要望があればあちらのノートまでコメントをお寄せください。--ディー・エム会話2014年12月28日 (日) 16:26 (UTC)[返信]

報告 当面の文書改定作業がひとまず完了しましたので、当該の内容であと1週間待って異論がなければ文書名を「Wikipedia:表記ガイド/放送関連」に改名の上、正式にガイドライン化したいと思います。プロジェクト関連文書から「表記ガイド」への改名を伴う改定となりますので、こちらのノートにも再度お知らせいたします。--ディー・エム会話2015年1月17日 (土) 14:11 (UTC)[返信]