Wikipedia:コメント依頼/みしまるもも 20140429

先日、著作物に対する鉤括弧の表記と、それに関するガイドライン(Wikipedia:表記ガイドおよびWikipedia:スタイルマニュアル)をめぐって以下の場所で議論が行われました。

おもに上記の議論における利用者:みしまるもも会話 / 投稿記録 / 記録氏の議論方法・議論態度等に対するコメントを依頼します。--新続頭痛会話2014年4月28日 (月) 20:20 (UTC)[返信]

依頼趣旨[編集]

1. 上記の一連の議論は、私(頭痛)のガイドラインの捉え方が誤っている、ということを被依頼者が主張し、基本的に被依頼者の主導で展開されたものです。ノート:坂口安吾で二者間の議論が行われ、井戸端でガイドラインの解釈に対する意見が公募され、ノート:表記ガイドでガイドライン改訂の打診が行われた、という流れです。(被依頼者の議論態度の問題に論点を絞るため、以下元の議論内容については必要最低限にしか触れません)

ノート:表記ガイドでは、井戸端では私(頭痛)と同じような主張をしている者が見受けられなかった、ということが、被依頼者により文言改訂の根拠の少なくとも一つとして繰り返し強調されています。ところが井戸端の実際の議論の流れを見ればわかるように、ある程度意見が集まったあとで行われた私によるガイドラインに対するまとまった量の意見と説明に対して、被依頼者からの異議を除けば「頭痛のガイドラインの解釈が合っているか、間違っているか」という点については明確な意見表明は行われていません。素直に見れば「頭痛の説明に多勢が納得したのか、間違っていると思うけど黙っているのか、まだよくわからない状態」です。

ガイドラインに対する私の見解が明白な誤りである、ということをガイドライン改訂の前提とするのであれば、まず私が直接行った説明・意見に対する、コミュニティ内の異論・賛同の有無を十分に確認しなければならないはずでしょう。そのステップを飛ばし、「頭痛と同じ意見を表明した人がいなかった」ということだけをもって、あたかも私の見解がコミュニティに否定されたことが確認済みであるかのようにガイドラインの改訂議論を進められたのがまずおかしい、と考えます。


2. 一連の議論における被依頼者の主張は、「日本文学では(海外文学と違って)短編と長編を区別して鉤括弧を使い分けることがない(ほとんどない)。そのような表記は見たことがない」ということを強い根拠としています。これに対して私は使い分けていると思われる例の中から、とりあえず比較的入手しやすい文庫解説の例を挙げて反論したのですが、「これだけでは短編と長編で使い分けているのかわからない」「スタンダードな方法ではない」として判断の根拠から退けられています。

例示したものの選定については私にも落ち度があり、被依頼者が井戸端で「書籍化されていないような作品や注目度の低い作品名を目立たなくさせる意味で、『』と「」を区別している場合もあることはあります」と書かれていたのを見落としていました(これを踏まえていれば手持ちの資料のなかからもう少し適した例を挙げることができていたと思います)。また文章量が少ないものを提示したので、これだけでは使い分けの判断基準がわからない、というのも一理あるでしょう。

しかしそもそも「鉤括弧をこのように使い分ける」と明言した上で文章を書く人などはいません。たまたま短編だけ「」を使っているように見えるだけだ、というようなことを言い出せばいくらでも言えてしまう。それに加えて「スタンダードかどうか」というようなことは急に付け加えられた論点で、そこまでの議論の流れのなかで「スタンダードなものはどれか」というような話はまったくしていません。むしろ被依頼者はそれまで「(雑誌などに収録されていることを示す場合以外で)同じ作家の同じような重要性を持つ作品に対して「」と『』が使い分けられたりすることはない」というようなことを言っていたのであって、提示したものだけでもその点に対する反証にはなるはずです。

自分の経験を根拠として意見を言うべきではない、などとは思いませんが、上のような仕方で「日本文学では短編と長編の鉤括弧の使い分けがされることはない」というふうに、客観的な検証が困難な形で自分の経験を前提として据え、それを日本文学以外の広範な領域におよぶ表記ガイドおよびスタイルマニュアルの解釈に対する判断の強い根拠とする、という論法に非常な無理があると感じます。


3. Wikipedia‐ノート:表記ガイド#著作物名の表記についての議論では、私(頭痛)が特定の表記方法を「強制」している、という発言が繰り返し見られます。ガイドラインの話ですから、ガイドラインに対するある解釈が妥当だと判断されるのであれば、それがガイドラインのもつ範囲での規範性を持つのは当たり前でしょう。問題とすべきは私(頭痛)の解釈がそのような意味で妥当なものであるか、という点であるはずで、論点1に示したようにそのような確認を飛ばした上で、ガイドラインの持つ強制力をあたかも私個人の恣意的な強制であるかのように繰り返して言うのは悪意のある言い換えである、と感じます。

このような点をはじめとして、上記の議論における被依頼者の態度は、反対意見を持つものに対する敵意があまりにもむき出しにされている、と感じます。私と被依頼者は過去にも意見衝突したことがあるのでその点もあるでしょうが、私とは無関係に提出された過去のコメント依頼(Wikipedia:コメント依頼/みしまるもも 20140302)の経緯などを見る限りでは、こうした問題は私一人に限ったものでもないように思われます。


4. 上記の3つを主な点として、他にも反対意見の一部分に対する、粗探しとしか思えないような指摘とそのための脱線(意見のどこかに少しでもおかしいところがあればその意見のすべてが否定できる、とでも考えておられるかのように感じられました)のほか、論理的な飛躍や議論手順のすっとばしのようなところがあまりに多いと感じたため、私は議論の途中から「これでは正常な議論にはならない」ということを言い始めたのですが、これに対して被依頼者はとにかく自分の意見の正当性と私の意見のおかしさに対する断定的な意見をひたすら書き続ける、という態度で反応されました。

特定の人物の意見が明白におかしいのであれば、それはコミュニティに広く判断を仰ぐことによって「おかしいかどうか」の議論を行うべきであって、対立意見を表明している一個人が自分の判断をひたすら書き連ねることでどうにかなるものではないことはほとんど自明であると思います。このような議論の仕方では単に議論の場が「荒れ」てしまい、他の利用者の参加を難しくしてしまうだけでなく、後日に同じ問題を別の観点を持った利用者がふたたび議論の俎上に載せることすらしにくくさせてしまいます。被依頼者がこのような議論運びを今後もどこかで意見衝突が起こるたびに繰り返されるのであれば、プロジェクトの発展を大きく阻害することになりかねない、と感じます。


5. 井戸端の被依頼者の意見の中に、「海外文学では短編は独立で一個で発表されることがほとんどなく、最初からあくまで短編集の中の一作品としてだけ扱われることが多い」 というものがありました。井戸端での議論中にも多少指摘しましたが、文学に関する常識としてありえない認識です。別に海外文学を専門的に学んだことなどなくとも、海外の作品の訳書解説程度のものに触れているだけで、海外(主に欧米のことを指しているのだと思いますが)にも日本と同じように文芸雑誌があり、雑誌・新聞類に短編小説や連載小説が掲載される文化が過去現在にわたってあるのだということは知識として自然に身に付くはずです。日本の近代文学とそれに関わる出版文化がそもそも欧米を真似しながら作ったものですから当たり前であって、上の発言は「何か勘違いした」とか「言い間違えた」とかで済まされるようなものではないと思います。被依頼者は三島由紀夫、川端康成など日本文学を主な専門領域として活動されている方ですが、そうした特定の作家から離れた文学一般に対する基本的な知識が大きく欠けているのではないかと感じました(これは上の発言ひとつのみからではなく、継続的に議論を行ったうえでの所感です。上のすぐ後に行われた、エドガー・アラン・ポーの短編小説は日本の短編小説と近い性質のもので云々、という発言もあやふやでわけの分からないものでした)。

論点2で示している被依頼者の主張は要するに日本文学には海外文学とは違う特殊性がある、ということを言っているのですが、海外文学に対するある程度の知識がなければそのような特殊性の判断は成り立ちません。被依頼者の発言にはこのような類の断定的な発言や判断が多いのですが、このような断定の多さは基本的な知識・常識を欠いていることの裏返しではないか、と感じています。


以上コメントいただきたい論点を5つに分けて提示しましたが、どれか一つ、またはこれ以外の点でも構いませんのでコメントを寄せていただければと思います。ただ論点の拡散は避けたいので、上述の表記ガイドやスタイルマニュアルはどのように解釈するのが妥当か、といった点の意見表明はこの場では控えていただき、被依頼者の議論態度・議論方法に絞ってご意見をいただきたいと思います。

なお継続的な編集履歴のないIPアドレスやアカウントからのコメントは御遠慮ください。--新続頭痛会話2014年4月28日 (月) 20:20 (UTC)[返信]

被依頼者に対する過去のコメント依頼

依頼者コメント[編集]

中間コメント1)ここまでコメントありがとうございます。依頼文が長くて趣旨の要点がわかりづらかったかもしれません。

私が一番問題に感じていることは「上のような議論態度では議論が成立しない」ということです。私は議論ではしばしば少数意見を堅持し、それがもとでときに議論が長期化したことがありましたが、議論を尽くした上で多勢の意見が変わらず、かつどちらかの意見を採用しなければ状況がうごかない、というような場合にはやむを得ずではありますが譲歩したり、妥協案を飲んだりしてきています。それが出来るのも、開かれた議論によって利用者が集まり意思決定に参加する、というWikipediaの原則を私なりに尊重しているからです(まあ、無視したらブロックされるという公算が働いている結果ではあるかもしれませんが)。

今回のケースでは、私はガイドラインの文言をこのような仕方で解釈するのが自然である、ということを主張しました。その主張が利用者の多勢の感覚から見て明らかに相容れないものであったり、変更を要するものであったりするのであれば、そのことは開かれた議論の中で意見をやりとりすることによって確認されねばなりません。議論内容自体は高度に専門的なものでもなんでもなく、一定数の利用者を交えて落ち着いて議論をする機会は十分にあったはずです。被依頼者の段階を踏まない議論運び、意見に対する間髪を入れない長文の応酬といった方法は、他の利用者を遠ざけその機会を絶ってしまったと思います。

依頼者と被依頼者の二者間の問題ではないはずです(この場で依頼者の問題を指摘することは妨げませんが)。前回の被依頼者に対するコメント依頼およびブロック依頼では、逐次的で感情的・非論理的な長文に対する問題の指摘が私以外にも複数の利用者からありました。ブロック依頼を閉じる管理者の判断が、寄せられている意見を総合的に判断したものに過ぎない、ということを考えればkojidoi氏の述べている「決して無罪放免という判断ではない」という意見は誇張ではないでしょう。前回の議論から指摘されている問題が改善されていますでしょうか。

Wikipedia‐ノート:表記ガイド#著作物名の表記についてで被依頼者が行ったことは、自分の考えしか書かれていない一方的な長文を繰り返すことで議論を不成立にし、コミュニティの判断が確認できない状態にしたうえで「自分は自分のやりたいようにやる」と捨て台詞のように独り決めをしてしまう、というようなことでした。こうしたことは部分的にではあれ、コミュニティの意思決定機能を破壊する行為ではないでしょうか。--新続頭痛会話2014年4月30日 (水) 09:52 (UTC)[返信]


中間コメント2T6n8さん、コメントありがとうございました。

被依頼者からのここまでのコメントを読みましたが、残念ながらこの依頼の趣旨自体がまったく伝わっておらず、元の議論とまったく同じ行動を繰り返されているようです。主張や事実の認識にあまりにも飛躍が多い。個々のおかしな点を指摘していくと以前に倍する長文で返され、その長文に同じように飛躍や齟齬があるため終わりがない。その過程で他の利用者が参加を敬遠してしまい議論自体が成立しなくなってしまう。

被依頼者は私がまだ鉤括弧の話をしているように見えるのでしょうか。--新続頭痛会話2014年5月2日 (金) 12:03 (UTC)[返信]


中間コメント3)コメント依頼提出から1週間経ちましたが、懸念したとおりというか、やはり十分な数のコメントは集まらず、被依頼者にもそもそもなにが問題となっているかが伝わっていないようです。

もとの鉤括弧の議題に具体的に言及するのは前述の理由で避けたかったのですが、多少被依頼者のコメントに対して指摘を行っておきます。

  • 被依頼者が繰り返している「中編小説をどうするのかという疑問に答えていない」という言明はまったく事実に反しています。収録関係(単行本・文庫本等で作品集に収録されることが多いか、単独で刊行することが多いか)および「一般的に単独刊行される長さであるかどうか」で蓋然的に判断することができる、という説明を1回か2回行いました。「二流の人」はどうするのか、という特定の作品に対する質問には答えていませんが、すでに場が混乱していたこと、上のような判断の指標をすでに示しているにもかかわらずなぜこれが「」なのかわからない、と言っている時点で話になるまいと考えて答えていません。また例外があることを織り込んで「多いかどうか」「蓋然的に」と言っているわけで、それを考慮せずに「複数収録されている長編もある」「短編の単刊もある」ということを示してこれが否定できるかのように言われていることのおかしさについては言わずもがなでしょう。
  • 私が特定の表記を押し付けている、だそうですが、私にリバートされた被依頼者の編集を振り返ってみてください[1][2]。この時点で被依頼者が表記ガイドの存在を知らなかったのは明らかであり、私は表記が不統一であるという被依頼者のクレームを受けて、私が理解している表記ガイドの理解に従って統一を試みたというだけです。自分の当初のガイドラインに対する無知を棚に上げて、この数度のリバートをもって「特定の表記を押し付けられた」と繰り返し繰り返し非難する。被依頼者は自分でやっていてなにかおかしいと思わないのでしょうか。
  • 井戸端の議論では、時系列を考慮せず意見の内容だけで言えば「小説のタイトルを単独で表記する際の指針はないようだ」というのが多数派でしょう。いすか氏やJkr氏のコメントは「頭痛の解釈に沿った場合に起こる煩わしさや疑問」に言及しているだけであって、このコメント内容だけでは「現状のガイドラインの解釈」としての妥当性に対する判断はわかりません。これらの議論結果を「頭痛のように解釈している人はいなかった」→「頭痛のように解釈するのは間違っている」と判断するのが著しい論理の飛躍であり、これでは話にも何もなりません。
    • さらにこのような論理や議論段階の飛躍を問題にしているところで「頭痛さんが、井戸端の意見だけでは足りない、分からないと主張するのなら、もう一度そのことについての新たなコメント依頼を頭痛さんがお出しになればよかったのではないでしょうか?」とくる。論理的な飛躍の問題を「頭痛がそう感じたなら」という個人の感覚の問題として論点をすりかえてしまうわけですね。「原則として短編には「」を用いる」という話もT6n8さんの指摘のとおりで、これを「どんなときにも短編には一貫して「」を用いる」という文に言い換えるのは(しかも強調文字まで使って)明白な飛躍があります(これは表記ガイドのノートでも一度書きました。どうしても理解していただけないようです)こうした飛躍や論点のすり替えを多数混ぜ込みながら長文で返答を行い、飛躍している点、論点のすり替えを指摘するとそのたびに同じような形で長文が返ってくる。これで議論になるはずはないですよ。

前述のように私は議論ではしばしば少数派ですので、今回の議論も正常に進めば「頭痛の言うような解釈は不自然である」あるいは「そのように解釈できるが、そうすると不都合のほうが多いので改正したほうがいい」という意見が多勢を占め、結果としてそちらのほうに議論が進んでいたかもしれません。これも前述のように、正常に進んだ議論であればいくつかのケースでは私も(完全に納得はしなくても)譲歩したり、妥協案を飲んだりしてきました。しかしこのように論理的に飛躍した文の連続で意見の整理もつかず、他の利用者も離れてしまい、結果として議論が正常に成立しなくなるような状況で、特定の利用者の不満を宥めるためだけに妥協案を飲んだりすることはできません。不合理な提案を退けるだけならさほどの苦労はいりませんが、これでは(他のプロジェクトのように)合意事項・不合意事項を確認して積み上げていくということがまったくできなくなってしまう。これは大きな問題です。

なおFloter氏は5に付いて粗探しに過ぎないとかかれましたが、私はそうは思っていません。これが「年号を間違えた」とか「ある作品を別の作者のものと間違えた」程度のものであれば「書き間違え」とか「度忘れ」で済むでしょうし、こんなレベルのことで常識や素養を問うているのであれば粗探し以外の何ものでもなかったでしょう。しかし5で言われているようなことは「この分野の非常に基本的な事柄についてまったく知らなかった」以外の説明のしようがありません。その上で被依頼者は「海外文学に対する日本文学の特殊性」について断言調で延々と論じていたのです。

以上のような知識の問題・論理的な理解力の問題を見るかぎり、正直私は被依頼者には方針・ガイドラインその他ウィキペディアのプロジェクトあるいは特定の分野全体に関わる包括的な議論には関わって欲しくありません。--新続頭痛会話2014年5月6日 (火) 07:42 (UTC)[返信]

(追記)新たに加えられた被依頼者コメントを見ましたが、正直お手上げです。何を言ってももとの話に引き戻して依頼者の悪意に繋げられてしまう。「ロマンとショートストーリー」あたりのおかしさも指摘しようと思ったのですが、つっこんだ話をすると周りがついてこれなくなり、あたかも(実際には論理的なおかしさを指摘しているにすぎないのに)なにか専門的なことについて議論しているかのように見えてしまう。
簡単に書けば、長編作家だろうと短編を書けば普通に新聞雑誌に載せるし、書き下ろし刊行の慣習があろうがそれはかわりはしません(論理的に短編の発表形態の話とまったく関係がない)。単語レベルで分かれていることと語用レベルで分かれているどうかはまったく別ですし、それは例えばen:novellaでノヴェラだと書かれているものが個々の記事ではnovelだったりshort storyになっていたりすることからもわかる。大体「ロマン」(=長編小説)はドイツ語かフランス語の単語でショートストーリーという英単語とセットにするのは間違いなんですが、三島がそういうことを言っているのですか。それ以前に、三島一人が意見を言ったところでそれが学問的な検証も経ずに文学全体の主流の見解になるわけじゃない。本来ならいちいちつっこまなくても当たり前すぎるほど当たり前のことです。
結局ここでもほとんど二者間の文の応酬になってしまったようです。どうしょうもないですね。(前回のコメント依頼では話題性のある記事が関わっていたので耳目が集まりましたが)文学分野は参加者が少ないこと、それに加えて長文のやりとりが続いて敬遠されることで被依頼者の問題がなかなか認識されないのは非常に歯がゆいです。地道に問題を指摘し続けるしかないのでしょうか。--新続頭痛会話2014年5月6日 (火) 14:30 (UTC)[返信]

中間コメント4)MEGEVANDさん、コメントありがとうございます。
前の議論でも少し書いたんですが、収録関係を示さないところではすべて『』で統一することにする、というのは一意見として出されるのであればまったくおかしな意見ではありません。私は反対意見を出しましたが、一定数の利用者を集め、論点を整理しながら議論を進めればどうするのがよいかという議論ができたはずです。それ以前の問題として、被依頼者のようなやりかたではそのような議論自体が成立しない、というのがコメント依頼の趣旨でした。その点を理解して頂ければと思います。

みしまるももさんは私に「novel」と「short story」を教授されたおつもりのようですが、生憎こういったことは海外文学科では初年時くらいに習うか知るかすると思います。必要ならドイツ語のロマーン/ノヴェレ/クルツゲシヒテの構造上の違いについて説明することもできますが。
それでそのみしまるももさんの説明によれば[3][4]、日本語では「(長編)小説」「短編小説」でどちらも「小説」だが、英語では「novel」と「short story」で分かれているから海外のshort storyは「小説」に入らないのだそうです
「novel」は「short story」とは区別されるからnovelにshort storyは入らない。だから「novel(英語)」と「小説(日本語)」は意味範囲が違います。なのにnovelが翻訳上「小説」と訳されることをもって「novelにshort storyは入らない」を「小説にshort storyは入らない」に置き換えて「だから海外では短編小説は小説ではないのだ」などと書いてしまう。その論理的錯誤がこの方にはまったくわからないのです。
もうはっきり書きますが、このような知的レベルの方と議論が成立するわけはないです。--新続頭痛会話2014年5月7日 (水) 05:06 (UTC)[返信]

中間コメント5)Zai零細系統保護協会さん、ありがとう。私のほうはしばらく本依頼には触れずに様子を見ることにします。--新続頭痛会話2014年5月7日 (水) 05:55 (UTC)[返信]

終了コメント[編集]

残念ながら事前に危惧したとおり元の議論と同じような結果となってしまいました。この長文のやりとりで埋められたコメント依頼に新たな参加者がつくのは望み薄ですし、それ以上に依頼者の意見に同調する利用者がほかに一人二人加わったところで、この流れでは被依頼者に立ち止まってなにかを考えさせるということすらできなさそうです。

被依頼者とは以前にも継続的に議論を行ったことがあり、議論の正常な進行を妨げるような被依頼者の議論参加方法等に継続的な問題を感じて本依頼を行いましたが、その依頼意図が第三者にかならずしも十分伝わらなかったのは残念です。鉤括弧をどうするかというような話をしたいのではない、ということは何度も念を押したつもりだったのですが。

現時点で被依頼者がこのような議論態度でプロジェクトに参加していることは、特に文学分野の共通了解事項を他の分野のプロジェクトのように積み重ねることができないという点で大きな弊害を感じています。論理の飛躍の多さ、感情的な長文の繰り返し、常識レベルの知識の欠如といった明白な問題点がこれだけ顕著に顕れているにも関わらず、一見生産的な執筆活動のためか(前に指摘したように、被依頼者はこの点にも一部問題を抱えているのですが)ごく少数の方にしかその問題点が認識されない、というのはなんとも歯がゆい思いがします。

依頼の発端である鉤括弧の表記に関しては、被依頼者の混乱した提案を退けたところで一応よしとしているのですが、若干周囲に混乱を起こしているような気もしてきたので、意見を整理し順を踏んで議論するためのコメント依頼をまた別の角度から募ろうかと考えています。依頼者の議論態度や議論方法の問題に関しても「問題としては何も解決しなかった」という認識ですので、またこれとは別に機会を見つけ、より論点を整理したかたちで再度問題提起を行うつもりです。なお依頼中に出されたWikipedia:コメント依頼/みしまるもも 20140516については参加するつもりはありません。

依頼者に対するコメントに関し、差し戻しについては以前も他の利用者に苦情を言われたことがありました。なるべく考慮したいと思いますが、元の議論は私のガイドラインの解釈を難じて行われたものですので、最初の差し戻しの時点で表記を直していれば問題はこじれなかった、というのは認識違いかと思います。

可変IPでの利用者コメント依頼などの参加に関しては考えを改めるつもりはありません。本題ではないので詳しくは述べませんが、「自分の編集履歴を辿られるのはイヤ。でも他人の編集履歴は追跡してあれこれ批判したい!」というような輩の言うことを一人前に取り扱ってやる必要はありません。

各位コメントありがとうございました。--新続頭痛会話2014年5月16日 (金) 13:59 (UTC)[返信]


(後日追記)「日本文学では短編を括弧で区別することはない」という被依頼者の知見についてはやはり根拠のないものであったことがわかりました。こちらで報告しています。--新続頭痛会話2014年5月26日 (月) 04:16 (UTC)[返信]

被依頼者コメント[編集]

先ず一点、私が、海外の作家と日本の作家の、小説発表の違いを言ったのは、海外の「長編小説(ロマン)」を主体にして執筆している作家のことを言ったのであって、ポーなどの元から短編小説や詩を主体しているような作家のことを指したわけではありません。このことは井戸端の中でも私は充分に説明しています。それなのに、頭痛さんは、それを一切無視して私が間違ったことを言ったかのように、ここの場で「誇張」しています。海外では、「小説」といえば「ロマン(長編小説)」を指し、「Short story(短編)」と、区別されることが多く、日本文学のようにそのような区分けがなく、短編小説も中編小説も長編小説も「小説」として同じように扱っている事情とは違いがあるということは、作家の三島由紀夫も語っており、私は「長さ」で「小説というもの」を区別することがないという日本文学作品の性質を説明したのです。なので、頭痛さんは人の言っていることの「全体主旨」を理解しようとせずに、「字面」だけを追って、短絡的な解釈をする傾向があります。これは、今回の発端となった、頭痛さんの表記ガイドの解釈の仕方にもよく表れています。

頭痛さんは、表記ガイドの「字面」だけを追い、そのガイドが意味する全体的な説明主旨を捉えようとせずに、「比較的長大」「比較的短小」という中の「長短」という「字面」だけに囚われてしまい、あくまでも短編小説に対しては一貫して「」を用いる 、などという「現実的に無理な解釈」を主張しています。そして、それを正当化するために、たまたま見つけた柄谷行人や三好行雄の新潮文庫での解説の事例を示して、「こういう表記をする人は一定数いる」と意味のことを言いました。しかし私が実際にその本を手にとってよく確認すると、確かに柄谷行人は短編小説を「」表記にしているものもありましたが、294頁では『日本文化私観』を、『』表記にしていたり、302頁では「」表記にしていたりと、その時々によって好きなように変えており、必ずしも一貫性はありませんでした。特にその二点を雑誌掲載時とか書籍で区別しているというわけでもなく、同じような語りにおいて『日本文化私観』の表記を恣意的に変えているので、一体何を基準にしているのかはあいまいであり、頭痛さんの主張するような「一貫した法則性」はありませんでした。そして、その私の指摘に対して、頭痛さんは何の反論もできませんでした。

また、井戸端で頭痛さんが示した事例に関しても、「短編小説」だからという理由で「」表記になっていたわけではなくて、「雑誌掲載時の受賞を表わす意味において」、「書籍と区別するために」表記を変えていただけでした。そして私が手持ちに多くある文庫本の年譜や解説文、全集の書誌情報などでは、短編小説も長編小説も区別なく、同じように状況に応じて、「」表記あるいは『』表記になっているのが一般的になっています、短編小説に対しては一貫して「」を用いる などという「現実的に無理な表記」はスタンダードになっていません。現に頭痛さんは、「中編小説はどうするんですか?」という主旨の私の質問には、一切答えられませんでした。頭痛さんは、坂口安吾の中編『二流の人』を坂口安吾の記事内において、(短編小説に対しては一貫して「」を用いる長編小説に対しては、雑誌掲載時でも一貫して『』を用いる)という独自の基準の元で、「」表記にしています。これは頭痛さんが、中編『二流の人』を短編小説と同じ表記にしているということです。

新潮文庫本の坂口安吾の年譜では、作品の長さにかかわらず、雑誌掲載時や執筆時には「」表記(三島由紀夫や川端康成の年譜は『』表記)に統一されてますので、中編も「」表記になるので、その理由は明確ですが、頭痛さんの場合は、どんな時でも短編小説に対しては一貫して「」を用いる長編小説に対しては、雑誌掲載時でも一貫して『』を用いるという基準ですので、「二流の人」と頭痛さんがしたのは、中編を、長編ではなくて短編と同じ表記にしたということです。その「根拠」に対して、私は何度も頭痛さんに真面目に説明を求めましたが、一切それに答えようとなさらずに、私の呈した「長さを基準にする小説表記に関わる根本的疑問」を無視して、「みしまるももの議論が仕方が悪いから議論する気がない」という方向にすり替えてしまい、ついにはこのような私へのコメント依頼を出して問題点をうやむやにしています。

いったい頭痛さんは、誰にでも使いやすい妥当性のある表記のことを真面目に考えているのか、甚だ疑問です。私が文学作品の一般的表記(年譜や全集の書誌情報や、多くの解説)では「作品の長さの基準」で表記を変えるということは、ほとんどないということを、何度も説明しても、「いつまでも納得しない」姿勢を崩しませんでした。そして私は何も、現在頭痛さんがポーなどの記事の文章内で短編小説を「」表記にしているのを、『』に変えろなど言っているわけではなくて、それをどんな時でも短編小説に対しては一貫して「」を用いる などと、他の三島由紀夫や川端康成や坂口安吾のような長編にも中編にも短編にも重要な代表作品がある作家の場合にも、強制するような表記を押しつけないでほしいということです。

現在頭痛さんは、坂口安吾のテンプレ内でも、同じ作家の同質の代表作であるにもかかわらず、『不連続殺人事件』だけ『』表記にしており、コメントアウトとして「長編であるため二重鉤にしている」と書き、 短編小説を「」表記、長編小説を『』表記をどんな場面でも貫き通すことに固執 して、他の利用者がそれを修正することを阻止しているのです。こういう頭痛さんの独りよがりの巻き戻しや、他者の編集を断固として容認しない姿勢は、「非妥協性」「臨機応変のなさ」は、「ルールの悪用」に繋がりかねないと思います。そしてきちんとした議論を重ねて、私が呈した「長さを基準にする小説表記に関わる根本的疑問」をはぐらかしてしまい、逆にこのような依頼で相手を非難・糾弾する方向にすぐにすり替える頭痛さんのコミュニケーションや議論の姿勢についても、多数の利用者が編集に関わるという側面から、かなり根本的に問題があると思います。--みしまるもも会話) 2014年4月29日 (火) 03:50 (UTC) 修正--みしまるもも会話2014年4月29日 (火) 03:59 (UTC)[返信]

頭痛さんへのコメント[編集]

私がいつ、「自分は自分のやりたいようにやる」と捨て台詞のように独り決めをしているというのでしょうか。私は頭痛さんに、短編小説に対しては一貫して「」を用いるということを、押しつけないでください、と最後にお願いしただけです。

短編小説も長編小説と同じ「小説」「文学作品」であり、「小説」も「戯曲」も同じ性質の「著作物」であり、単行本になっているものですから、『』表記にすることは、何ら表記ガイドに違反したことではありません。

自分の考えしか書かれていない一方的な長文を繰り返すことで議論を不成立というのも、とても心外です。私は真面目に頭痛さんと議論し、日本文学のこと、小説や戯曲のこと、それらの表記の一般的な使われ方について説明をし、頭痛さんへの反論、疑問を呈しただけです。そして中編小説にも絡んでくる、「長さを基準にする小説表記に関わる根本的疑問」を、私がいくらお尋ねしても、頭痛さんは一向にそれに対して真摯に答えようとしませんでした。それは何故ですか? 

私からすれば、議論を不成立にしていたのは、頭痛さんの方です。頭痛さんは私が呈した中編小説はどうするのかには、とうとう一切無言でした。他にも以下のようないくつもの疑問点を私は提示しましたが、頭痛さんからは一向に明確な答えがありませんでした。これらも「長さを基準にする小説表記に関わる根本的疑問」です。

  1. 中編と長編の境界線、短編と中編の境界線のあいまいさをどう判断するのか(評論家によって判断が変わる場合もままあるため)。
  2. 短編といっても「小説」だから一定の長さがあり、その中には当然「章」があるため、その「章」との表記の関係はどうなるのか
  3. 同じ作家の代表作を羅列併記する場合の表記不統一の問題。
  4. 長編にも中編にも、複数作品収録の書籍が結構あること。短編でも単独書籍が結構あること。よって短編だけが、「同名タイトル書籍と、その同名作品の関係性」が生じているわけではないこと。
  5. 「戯曲」は長短の区別なく、全て「戯曲」と呼んでいるが、短編と同じ長さの「戯曲」が多く存在していること。作品の長さで表記を変えるなら、それをどうするのか。
  6. 短編を一貫して「」表記にしなければいけないなら、中編はどうするのか。長編に近い中編も短編と同じ「」表記にするのか。

以上の私の疑問点に頭痛さんは、きちんと向き合ってに答えようとしていません。

それから私は、表記の問題は「二者間の問題」ではないからこそ、より多くの人たちが見ていると思われる井戸端でご意見を募りました。これはきちんと多数の意見を確認するという手続きをとらないと、表記ガイドのノートで「二者間」でやっても仕方がないと思ったので段階を踏んでやったことであり、その結果、頭痛さんに賛同する方がいなかったと確認してから、uaaさんやikedat76さんのご意見を参考にして、ガイドの説明文の書き方の変更案を出したまでです。ガイドの説明文を変えることは、井戸端でikedat76さんやuaaさんが提唱したことで、ノートでもuaaさんはアイデアを出してくださってます。なので、これも私の「自分は自分のやりたいようにやる」と捨て台詞のように独り決めしたことではありません。

そして頭痛さんが、井戸端の意見だけでは足りない、分からないと主張するのなら、もう一度そのことについての新たなコメント依頼を頭痛さんがお出しになればよかったのではないでしょうか? 私が再び同じことを何度も新たに公募することは、くどいことになりかねませんので(違反行為?)、井戸端の意見だけでは不満だという頭痛さんが、コメントを募って確認するのが筋だと思います。なので、それを私がしなかったからと言って、「不正」だみたいにするのは何かおかしいんじゃないでしょうか。もしも私が一方的に議論を進めようとしたというなら、頭痛さんが新たに広く「小説の表記について」のコメントを正々堂々と求めればいいことでしょう。何か頭痛さんは私の呈した疑問や質問に真正面から答えたくないため、それをはぐらかすために議論や対話を拒否して、このような「私へのコメント依頼」に矛先を変えていると思います。--みしまるもも会話2014年4月30日 (水) 12:42 (UTC)[返信]

T6n8さんへのコメント[編集]

頭痛さんがいくらかでも、T6n8さんの言う「例外」を少しでも認めるような姿勢だったら、私はここまで苦労することはなかったでしょう。上記でも挙げたように私は頭痛さんへ、いくつもの反証や疑問点を、様々な具体例を示しながらすでに挙げていました。それに対する頭痛さんの私への対応については上で言及しましたので、繰り返しません。

T6n8さんは頭痛さんの主張を、原則短編小説に対しては「」を用いる&ここは例外ではない(例外だとする側に挙証責任あり)という論理構造で結果として「」という主張であると見えます。 と捉えてますが、「例外ではない(例外だとする側に挙証責任あり)」という厳しい規定は、結局は「頭痛さんが認めなければ、基本的には例外を許容しない」ということを同じことだと思います。そして頭痛さんは以下のようにはっきりと主張しています。

  • 私は現在の表記ガイドおよびスタイルマニュアルは「短編小説に対しては一貫して「」を用いると考えるのが自然である」ということを言っているのです

これは、実際に頭痛さんが現在表記編集した坂口安吾の表記方法をご覧になれば一目瞭然ですが、頭痛さんは、短編小説や中編小説を一貫して「」表記にして、テンプレ内でもそのように変えてしまい、他の利用者が変更できないように、一筆コメントアウトも入れてます。

「風博士」(1931年)

「堕落論」(1946年、評論)
「白痴」(1946年)
「桜の森の満開の下」(1947年)

『不連続殺人事件』(1947年)

私は頭痛さんに対して、三島由紀夫坂口安吾川端康成の代表作を同じように記述する際、例えば、三島の『憂国』、川端康成の『伊豆の踊子』『片腕』『眠れる美女』、坂口安吾の『堕落論』『白痴』『二流の人』などのような長編ではない作品を、全部「」表記にしなければいけないことに対する疑問を呈しましたが、頭痛さんはそれ対して「容認」はしておりません。そして私と同じ疑念は、井戸端でも他の方からも出ています。

  • 単体作品の中で「比較的長いもの」と「比較的短いもの」について違いを示さなければならないほど、両者に質的な違いがあるのかは疑問に感じます。--Jkr2255 2014年4月11日 (金) 03:24 (UTC)

このように、特に全集や作品集の収録状態、雑誌掲載時との関係を示す局面でもなく、通常の「作品自体」を語って記述している時でさえも、頭痛さんは、短編小説に対しては一貫して「」、長編小説には一貫して『』を用いることにこだわり、実際に「例外は認めていない」のです。

そして頭痛さんは、坂口安吾記事内の短編小説を全部「」に変えてしまっただけではなくて、年譜などで雑誌掲載時との関係性を表わす状況においても、なぜか長編小説だけを一貫して『』表記にすることにこだわり、そのように変えてしまいました。これは表記ガイドの指針とズレてますので、頭痛さんの表記の問題は、短編小説の問題だけでもないのです。なので、短編小説に対しては一貫して「」を用いる長編小説に対しては、雑誌掲載時でも一貫して『』を用いるというのは、何も私の誇張でも何でもなく、頭痛さんが実際に貫いている主張や行動をありのままに言っていることなんです。これは詳細によく頭痛さんの主張内容や編集方法、有無を言わさない巻き戻しを見れば、明確にお分かりになると思います。--みしまるもも会話) 2014年5月1日 (木) 03:02 (UTC) 修正--みしまるもも会話2014年5月1日 (木) 03:12 (UTC)[返信]

頭痛さんへのコメント2[編集]

頭痛さんが、短編小説に対しては一貫して「」を用いると考えているのは、私の誇張でもなんでもなく、頭痛さんがはっきり明言して実行している「ありのまま」であることは、上記で説明していますので繰り返しません。そのことは頭痛さん自身が一番分かっていることでしょう。もしそうでないと言うなら、私が坂口安吾のテンプレを元の表記に戻しても、頭痛さんは巻き戻しませんか?

「中間小説をどうするのか」という私の疑問に答えたとも頭痛さんは言っていますが、私の疑問に頭痛さんは全く答えてません。相変わらず、どういう意図の元で『二流の人』を「」表記にしたのかに対しての明確な理由や答えは今もありません。頭痛さんは何故、真面目に真っ向から具体的に答えようとしないのですか? いろいろと答えない理由をあれこれと取ってつけたような詭弁でいつものように言い訳してますが、私が質問した中間小説の具体例に向き合わなければ、頭痛さんが議論放棄したということになります。

頭痛さんは、今あたかも前の議論内で「中間小説」についてきちんと説明したかのように言っていますが、それは頭痛さんがuaaさんを説得するため、短編に一貫して「」を使うことの意義に言及している中において、「中間的な形態で迷いが出そうなもの、というのは例えば明らかに短編という長さのものだが単独で刊行されて広く普及している、とかそういったようなものだと思います。」と頭痛さんが言ったあたりのことだと思いますが、これは、「明らかに短編という長さ」で単独で刊行されているものについて言及しているだけでしょう。百歩譲って、もしもこれが中編小説について言っていたというのならば、なぜ私が具体的に中編『二流の人』について聞いたときに、「単独で刊行されているから『』でいい」と明確な答えができなかったんでしょうか? それに今回、頭痛さんが説明したものと照らし合わせても、単独で刊行された『二流の人』を、なんで頭痛さんが「」表記にしてこだわっているのか理由が不明で、ますます矛盾が生まれているだけでしょう。ご自分が何を言っているのか、頭痛さんはよく頭を整理した方がいいですよ。

  • 収録関係(単行本・文庫本等で作品集に収録されることが多いか、単独で刊行することが多いか)および「一般的に単独刊行される長さであるかどうか」で蓋然的に判断することができる

というのも、非常にあいまいです。例えば初刊本で単独刊行されていても、現在は文庫版の中で、他の作品と複数収録されている場合が多ければ、「」表記になってしまうというのも何かよく分からない基準です。別にその作品が「One of them」で扱われるものでもないのに、長さが長編よりやや短いから、他の作品と抱き合わせで、たまたま一緒になっているというような、出版社の都合による出版形態に左右されて小説の表記が決まるなどという頓珍漢な話があるでしょうか。いったい頭痛さんは「小説そのもの、文学作品そのもの」という概念で著作物をみているのか、甚だ疑問です。そもそも「中間小説の表記をどうするか」などという問題や疑問が生じるという表記の基準自体が、小説そのもの自体を語る世界において異様なのであって、それが頭痛さんには分からないようです。

ちなみにuaaさんのご意見は以下のようなものでした。

  • 「中間的なものに対して迷う必要がなくなる」メリットの方が「視覚的に分かりやい」なんて愚にもつかない理由よりはるかに大きいと思いますね。
  • タイトルは原則『』とし、収蔵する作品群と共に記述する場合のみ、作品群と区別するために「」を用いることとしました。この方がシンプルでいいのではないでしょうか?--uaa

それと、海外文学の長編作家(フランスなどの)が、日本の作家のように雑誌の連載ではなくて、長年かけて「書き下ろし」で長編小説を刊行することが多く、両者に違いがあることは別にでたらめでもなんでもなく、三島由紀夫が説明していることです。また、日本の近代文学の中身に関しても、すべて海外からの影響で成り立っているわけではないことは、日本の古典文学から江戸文学からの影響を考えれば周知のことです。

私が「表記ガイドの存在を知らなかった」という中傷に至っては、呆れるばかりです。坂口安吾で私が一旦、著作物を『』表記にしたのは、それまでの版のごちゃ混ぜの不統一を整理するためと、記述の中の「」表記の文言と著作物とが混同されやすくなっていたので、あえて著作物は一旦『』にしたんです。別に表記ガイドは強制ではありませんので、そのケースバイケースで読者の人が、区別しやすいようにと考えてやったことで、そのことは坂口安吾のノートできちんと私は頭痛さんに説明しています。なので、「表記ガイドの存在を知らなかった」などと、私を貶めてまでして、頭痛さんは一体何を目指して、何をなさりたいのかさっぱり分かりません。私の提示した具体例や私の根本的疑念には一切答えようともせずに、文学作品の表記のことは二の次なんでしょうか。

ご自分が表記についての意見募集のコメント依頼を出さない理由や言い訳も、そんなふうに私のせいにしてみたり、論理の飛躍だとか私に対する中傷や詭弁を弄するするばかりです。「妥当性に対する判断」が井戸端でなされてなかったというなら、なおのこと頭痛さんがコメント募集すればいいだけの話です。別に私はそれを拒否しませんから、今からでもお出しになったらどうでしょうか。そんなふうにご自分が一向に私の疑念について真面目に答えてくださらない態度や、正々堂々とコメント募集をしないことをはぐらかしている頭痛さんを見ていると、何かこの依頼自体が最初から、論争相手の私を封じ込めるのが目的のコメント依頼なのではないかと、だんだん思えてきました。--みしまるもも会話2014年5月6日 (火) 13:04 (UTC)[返信]

頭痛さんへのコメント3[編集]

「非常に歯がゆい」のは、こちらの台詞です。新たな頭痛さんのコメントから、あらためて頭痛さんが具体的なお答えを真面目にするつもりもなく、私の議論が悪い、私がまるで文学の知識がないという方向にはぐらかし続けるだけなのがよく分かりました。私から見れば、これまで頭痛さんと過去から対話していて、頭痛さんが日本文学に関して門外漢であると感じたことは何度もあります。

「Short story」に対応する英語が「Novel」なんてことは、そもそも一年前にTemplate‐ノート:基礎情報 文学作品で私が先に頭痛さんに言ったことですから、今更そんなふうに鬼の首でも取ったかのように頭痛さんにあらためて言われると何かおかしくて仕方ありません。「Novel」「Short story」のことは、一年前頭痛さんが英語版の「Short story」用のテンプレを元にしてしまって、日本の小説(長編も短編も包括する)のテンプレを作ろうとしていたおかしさに対して、私が指摘したことでしょう。私が今回たまたま「Novel」のことを、フランス語で「ロマン(長編)」と言ったことぐらいのことで、あたかも私が「Novel」という語を知らなかったと偏向してまで、私を貶めようとする頭痛さんの詭弁には、本当に呆れるばかりです。そこまでして私を中傷したいんですか。

それから頭痛さんは以前、Template‐ノート:Infobox Film#英題の記載についての議論においても、テンプレ内の小説や映画タイトルに『』「」をつけることを主張し、それをルールにしようとしてました。これは例えば、谷崎潤一郎の『卍』のような作品も、テンプレ中で『』を付けなければいけないということです。括弧類というものは、あくまで通常の文章において、他の地の文と区別する際に必要となる「記号」であり、それが作品名に常に同じように付随しなければいけないという類のものではなく、特に小説名の「文字」は作品の一部であり、括弧類は「タイトル文字」ではないので、このような「記号」を必要性もないところでも常に付随させることに私は反対しました。

私と同じ意見の人(Ambivalenceさんなど)は他にもおり、テンプレにまで括弧類を付随することへの違和感や反対意見が強くありました。そしてその流れで、タイトルの背景色を付けるという意見が多勢を占めましたが、頭痛さんだけがあくまでも一人でいつまでも反対していたために、多くの人を疲弊させたまま何の合意も得られずに議論が凍結してしまったこともあります。そして頭痛さんはご自分のやりたいような形式を通すために、少なからず文学記事立項に関わっている私に何の相談も連絡もなく、勝手に一人で新たな小説用のテンプレを作成し、そこでも鍵括弧をテンプレ内で、短編は「」、長編は『』を付けるよう推進する記入例を作ってました。

このような事例をとってみても、頭痛さんが、『』「」という「記号」を、ある作品(短編小説)には「」、ある作品(長編小説)には一貫してどこでも「同じ記号」を付随させなければ気がすまないという、偏執的なこだわりが強すぎる傾向があることは事実であり、実際にそういうことを他者にも要求したり、形式的に統一させようとします。こういった鍵括弧類は、その時々によって変化したり、省いたりするものなので、そもそも常に一貫して短編小説に「」を表記しなければいけないというような解釈は、「自然の解釈」でもなんでもなく、臨機応変さを欠いたものです。この場で、はぬまんさんも言っていたように、強制される類の事柄ではないと思います。私は頭痛さんの考える「自然の解釈」には同意できませんので、頭痛さんがご自分の立項する記事内でおやりなるのは結構ですが、こちらにまで無理にそれを波及させないでほしいと思います。--みしまるもも会話2014年5月7日 (水) 03:23 (UTC)[返信]

頭痛さんへのコメント4[編集]

Zai零細系統保護協会さんコメントありがとうございます。しばらくコメントは控えますが、その前に上の頭痛さんの私への中傷にはきちんと反論しておきたいと思います。頭痛さんは相変わらず、何か私が変なことを、あたかも言ったかのような印象操作をしているので、黙っていると頭痛さんの詭弁が正しいと思い込む人もあるかもしれないので、述べさせてください。

海外では「novel」と言えば、「長編小説」を指すのが一般的であることは事実であり、「Short story」と分けているというのは、何も私が勝手に考えたものではなく、三島由紀夫が説明していることです。「Short story」や「コント」でも、日本では広義で小説ですが、海外では「novel」や「roman」と区別されることが多く、日本のように短編も長編も明確な区分けがなく、「等しく同じ小説」として見なしているのと、やや異なる概念を海外では持っていることは、三島由紀夫がきちんと解説しています。頭痛さんは、私の言った「字面」のみの理解しかできずに、そもそも、文学的見地からの「小説というもの」がよく解ってないので、私や三島由紀夫のような作家が意味して言っていることが理解できないようです。

そして頭痛さんはそういう背景をよくご存知なかったために、英語版の「Short story」用のテンプレを元にして、日本の小説(長編も含む)用のテンプレを作ったという頓珍漢な「不備」をやらかしたわけです。そのことを一年前に私が指摘したのであって、何も私は海外の短編小説が小説ではないなどという意図で言ったわけではなくて、英語版の「Short story」用のテンプレを、日本文学のテンプレに転用することの不備を指摘しただけです。それをこのように、あたかも今回の「短編小説の表記の件」と結びつけて、私が海外の短編小説を小説ではないと考えているかのような、頭痛さんの詭弁には、本当に呆れるばかりです。

「収録関係を示さないところではすべて『』で統一することにする」というのも、私やuaaさんの改定案の中で、それが明確になるようにきちんと示しています。頭痛さんはそれにあくまでも反対するだけだったので、議論が長引いたというだけの話でしょう。そして頭痛さんは、こちら側の疑問点には一切、答えることができなくなり、議論が不利になったため、ご自身の解釈が許容されうるようなあいまいな表記ガイドの書き方のままで触らずに置いておきたいために、議論を放棄しているだけです。「みしまるももの議論が悪い」というすり替えにして、論争相手の私を封じ込める目的でこのようなコメント依頼を出せば、そのままになるからです。本当に頭痛さんが、もっと大勢を呼び込んできちんとした議論をしたいのであれば、それについてのコメント募集をすればいいだけの話ですから。--みしまるもも会話2014年5月7日 (水) 06:56 (UTC)[返信]

T6n8さんへのコメント2[編集]

T6n8さんの示した争点の、「2 例外にあたるか」というのは、私は争点にはしておりません。それは、このコメント依頼の中でT6n8さんが、頭痛さんの解釈でいう表記の基準に対する「例外」という見方を持ち出したのであって、私自身は、短編小説を『』表記にすることを「表記ガイドの例外」などと、捉えたことは一度もありません。

よくお読みになればお解りになると思いますが、私がこの場の「T6n8さんへのコメント1」の中で、「例外」という言葉を使ったのは、あくまで、T6n8さんが捉えた「例外」という概念を受ける形で述べたまでで、実際に私は明確に、「T6n8さんの言う「例外」を少しでも認めるような姿勢だったら、」と、わざわざ「T6n8さんの言う」という形容詞をあえて付けていますので、そこのところを見逃さないようにしていただきたいと思います。これは、私がその「例外」というのを、「表記ガイドの例外」とは決して捉えていないことの表明ですので、そこのところを誤解ないようにお願いいたします。

上でも私ははっきりと、以下のように主張してます。

  • 短編小説も長編小説と同じ「小説」「文学作品」であり、「小説」も「戯曲」も同じ性質の「著作物」であり、単行本になっているものですから、『』表記にすることは、何ら表記ガイドに違反したことではありません。

それから、T6n8さんの言う「時にはガイドラインで原則「」というのを否定しているようであり」と、「ガイドラインを変えるべきということを主張し」というのも、その意味する中身や「文脈」をきちんと見ていただければ、矛盾はしていないことはお解りになると思います。

私は、「ガイドラインに誤解(短編小説が常に「」表記と受け取られかねないような)が生じないように、説明文を分かりやすく変えるべき」と主張していましたので、「両者の意味する中身」にはT6n8さんの捉えているような「相反性や乖離性」はないと思います。そして私と同様にガイドラインの説明文を変える案を出していたUaauaaさんも、私の改定案をさらに整理して、「比較的短小な作品」のような後で揉めるような文言が残っていますね。と言って、「楽章」「章」「幕」「組曲中の曲名」を意味する「比較的短小な作品」が、それ単体で独立している小説(短編小説や中編小説)だと誤解されないように、より説明文をスリム化する改定案を出しています。なので、私やUaauaaさんが、ガイドラインの文言を変えようとしていたことは、「ガイドラインの原則を変更」しようという意図ではありませんから、ただの「字面」や「言葉の表層」だけで、「ガイドラインの変更」イコール「ガイドラインの原則を変更」と誤解なさらないようにお願いいたします。

この詳細の内容のことは、私やUaauaaさん改定案の「中身」や「文脈」をよくお読みになればお解りになると思いますので、私の言いたいことの一部を下に引用しておきます。

なので、「表記ガイド」の説明の『』のカテゴリーに「小説名」という文言を加えた説明文にして、わずかな長さの違いで小説の表記が変えなければいけないかのような錯誤が生じないようにしてもらいたいと思います。また、「比較的長大な作品」「比較的短小な作品」という文言も、「同じ性質の作品の間での長短」というふうに捉えられてしまうと、例えばテレビドラマの場合でも、大河ドラマに比べれば、単発ドラマは短小作品ということも言えますし、交響曲に比べれば、ショパンの『子犬のワルツ』は短小な作品とも受け取られてしまい、上記の小説の場合のように、それぞれ独立した同格のドラマ作品や楽曲にもかかわらず、長さで表記を変えなければいけないかのような誤解が生じますので、この言い回しにも何か工夫が必要だと思います。

ただし、これらの改定案が通ることは、頭痛さんの強い反対もありますので現実的は無理だと思われますから、現状のままとなることでしょう。私としては、上の方のコメントで言ったように、頭痛さんがご自分の立項する記事内で、短編小説を一貫して「」表記でおやりなるのは結構ですので、こちらにまで、そのルールを波及させるようなことがなければ、この件はこれで収めたいと思います。このようなことで皆さんをいつまでも巻き込むのはいけないことだと思いますので。--みしまるもも会話2014年5月9日 (金) 01:49 (UTC)[返信]

最後の段落は不要ですよね。なんで他者の神経を逆撫でするような言い回し(憎まれ口)をするんでしょう?「強い反対」だとか「皆さんをいつまでも巻き込む」という表現は、頭痛さんを悪者扱いしているようにしか読み取れません。国会論戦じゃないんですよ。火の気のないところに可燃物を持ち込むようなことはやめてもらいたい。--133.208.212.72 2014年5月9日 (金) 13:40 (UTC)[返信]

終了コメント[編集]

頭痛さんの終了コメントを読みましたが、私にはなぜ頭痛さんが私の提示した疑問点に一切どこでも答えようとなさらなかったのか、とても残念です。全体的に頭痛さんのコメントは、私の「長文が感情的、論理の飛躍」という、何の具体性もない抽象的な言いぶりだけの一点張りでした。あとは、私が「Short story」に対するのが「Novel」だというのを知らなかったとか、ありえないような類の低レベルの嘘をついているだけでした。すべては履歴をきちんと追ってみていただければ、皆さんにお解りになると思いますので、再び同じコメントは繰り返しません。

私の引用のことでコメント依頼を出された時も、頭痛さんの指摘ももっともな面はありましたが、私がその指摘や法律に注意しながら、きちんとルールの規定内でやっていること、どうしても説明上省けない文言があることなどを頭痛さんには理解してもらえずに、「剽窃」呼ばわりされたこともありました。私は評論家たちの名前を必ずいつも明記しているので、法律的にも「剽窃」になり得ないことは、Ks aka 98さんもその旨を説明してくださっています。コメント依頼の中身をきちんと追ってみていただければ、皆さんにお解りになると思います。その場の方からも、「頭痛さんとの関わりを記事を含めていったん断ってください」、「記事を書いている方の味方でいることを私は望んでいます」、「感情的になったら負けです。ひとまずは、時間のコミュニティがどちらが理があるか、最後は示してくれると信じてみてはいただけませんか」というありがたいご意見もあったので、あらためてそれを自戒、励みにして注意して行きたいと思います。この場で新たにコメントしてくださった皆さんもありがとうございました。耳に痛い言葉もありましたが、それも受け止めて注意していきたいと思います。--みしまるもも会話2014年5月17日 (土) 03:56 (UTC)[返信]

いつまでそうやって続けるつもりですか?依頼者が終了宣言をしているのだから、スルーしておけばいいではないですか?最後っ屁の必要を感じません。コメント依頼は第三者の意見をもとに公正中立な結論を導くところです。論争の続きをやるところではありません。第一パラグラフに至っては正論だったとしても暴言(具体性もない抽象的な言いぶりだけ、低レベルの嘘)です。撤回される気はないでしょうが、コミュニティーの皆様はみしまるももさんは論争相手に暴言を吐く人であると感じたでしょうね。--218.227.83.170 2014年5月17日 (土) 11:52 (UTC)[返信]

大阪の光回線のIP:218.227.83.170会話 / 投稿記録 / 記録 / Whoisさんこと、先日無期限ブロックとなった不正多重アカウントの利用者: S.Noue 会話 / 投稿記録 / 記録利用者:ガーグル会話 / 投稿記録 / 記録さん、こんばんは。大変ご親切なご忠言承りました。最後っ屁の臭い匂いが漂うところへわざわざお越しいただいてありがとうございました。新しい別アカウントの利用者:Hyshi会話 / 投稿記録 / 記録さんにもよろしくお伝えくださいね。ああ、お知り合いでなければ、これは無視して結構ですけれど(笑)--みしまるもも会話2014年5月17日 (土) 12:20 (UTC)[返信]

残念でした。S.Noueでもガーグルでもありません。もはや他者の忠言をまともに聞く耳すらなくしてしまったようですね。ご愁傷様です。(ちなみにHyshiさんはISPが違うようですよ(笑)みしまるももさんに意見するドッペルゲンガーが日本各地にいるようですね(笑))--218.227.83.170 2014年5月17日 (土) 13:17 (UTC)[返信]
ドッペルゲンガーでもなんでもなく、Hyshiさんは別アカウントによるブロック破りとして無期限ブロックされました。--119.72.195.93 2014年5月20日 (火) 19:52 (UTC)[返信]


頭痛さんの「後日追記」についての私の意見は、そのリンクの下部に書きました。--みしまるもも会話2014年5月26日 (月) 06:46 (UTC)[返信]

第三者コメント[編集]

  • コメント悪い言い方をしますが、依頼者と被依頼者、どっちもどっちだと思って見ていました。今回の流れの発端は、この差し戻しですよね。これはHelp:以前の版にページを戻す方法#取り消しや差し戻しの前にを持ち出すまでもなく、明らかに依頼者の方が失礼だと思います。被依頼者は鉤括弧以外にも修正を行っているのに、依頼者は「斜体文表記ガイドに従ってください(この版も何か不統一だが。)」という理由で差し戻しています。不統一な状態だとわかっているのに差し戻しをしており、その後修正をしていません。このような場合、通常は差し戻すのではなく、記事の内容を改善するべきでしょう。被依頼者が次の編集で「リンク部や表記以外のものも修正しているので、短絡的に全部巻き戻さないでください。元の版も、同じようなところで『』だったり、「」だったりと不統一だったから。)」と言われるのも、ガイド云々を言う以前にもっともな発言です。しかもその後、「該当部分だけ直させられるのは苦痛なのでまとめて戻します。ごめんなさい。」という理由で、しかも相手がノートで議論を持ちかけているのに編集を全て差し戻すのも、依頼者が失礼でしょう。記事は依頼者の所有物ではありません。
あとはそこから、互いに喧嘩をしているだけにしか見えません。印象論ですが、内容の正誤を問う以前に、お二人とも相手を屈服させようとしているだけと感じます。その結果が、被依頼者によるガイド改訂の打診にまで行ってしまったと思います。売り言葉に買い言葉でしょう。依頼者が記事を差し戻しせずに修正していたら、ここまでの議論にならなかったのではないかと思っています。
ここは被依頼者へのコメント依頼だから、依頼者の行動は関係ないし議論に挙げるべきではないと言われるかもしれませんが、今回の一連の議論は双方の編集姿勢に関連しているものと考えます。
なお、3についてですが、確かに被依頼者は「反対意見を持つものに対する敵意があまりにもむき出しにされている」部分があると思いますので、相手の意見を聞いて落としどころを探る編集を心掛けるべきだとは思います(これは自戒もこめての発言です)。
また5は不要でしょう。議論ではなく、依頼者の推測による被依頼者への批難にしかなっていませんし、4でいう「粗探し」とレベルは変わりません。--Floter会話2014年4月29日 (火) 02:26 (UTC)[返信]
  • コメント少なくともWikipedia‐ノート:表記ガイド#著作物名の表記についての経緯はもう滅茶苦茶だと思います。自分から改定案を持ち出し、「短編小説」を加えるの加えないのとあれだけ騒いでおきながら、反対意見を出された途端、《私は、「ガイドラインを改正」するつもりは全くありません》とは一体どういうことなのでしょう。被依頼者の姿勢から伺えるのはなりふり構わぬ「批判封じ」のみです。そもそも「改正する必要がない」なら何のためにノートで議論を興したのかという話になり、実際、被依頼者の発言の大部分が「頭痛氏の解釈や姿勢が如何に間違っているか」を繰り返し論難するという以外のものではないことをみれば、現在の被依頼者がやっていることはノートページの目的外使用としか評価できません。過去の依頼者との闘争は私もいくらか見ていますし、上でも指摘されているように頭痛氏の生硬な対応にも問題無いとはいえないでしょうが、それを差し引いてもあまりにひどすぎます。
被依頼者に対してはつい先日ブロック依頼が出されたばかりで、そちらはブロックせずが一応の結論ではありましたが、決して無罪放免という判断ではないということは頭にとどめておくべきでしょう。--Kojidoi会話2014年4月29日 (火) 03:42 (UTC)[返信]
一利用者の意見を以て「無罪放免という判断ではない」という書き方は誇張だと思いますよ。依頼を閉じた管理者のコメントではないのですから。--Floter会話2014年4月29日 (火) 04:10 (UTC)[返信]

コメント(Kojidoiさんへ) 私が「短編小説」を加えるの加えないのと騒いでいるだけというのはとても心外です。私は「小説」全体のことと、その表記の適切さについて言っています。そして現在の表記ガイドも、「『』表記に短編小説は絶対入らない」という指針になっているわけではありません。もう少し井戸端とノートとの全体の経緯を最初から、冷静によく読んでから、コメントしていただきたいと思います。--みしまるもも会話) 2014年4月29日 (火) 04:55 (UTC) 修正--みしまるもも会話2014年4月29日 (火) 06:59 (UTC)[返信]

コメントなんというか…表記ガイドでここまで口論して利用者コメント依頼まで発展するって、不毛極まりないなぁと思うのですが。ウィキペディアは規則主義ではありませんウィキペディアは戦場ではありませんよ。表記ガイドは「無理に従う必要はありません。」ともあるような、そもそも喧嘩するような内容じゃないですし…。--はぬまん会話2014年4月29日 (火) 06:06 (UTC)[返信]
《私が「短編小説」を加えるの加えないのと騒いでいるだけ》などと私は言っておりません。冷静さが必要なのはみしまるももさんのほうでしょう。--Kojidoi会話2014年4月29日 (火) 06:20 (UTC)[返信]
  • コメント 「頭痛と同じ意見を表明した人がいなかった」のなら、いつまでも納得しないのはやめて、論争を続けるべきではないと思います。また、「なお継続的な編集履歴のないIPアドレスやアカウントからのコメントは御遠慮ください。」などと、方針で認められている発言権を一方的に認めない的なことを決定する権利は、依頼者にはないはずですよね? コメント依頼というのは、素直に耳を傾ける心構えがないと、依頼に出しても無意味ではないでしょうか? 依頼文しか読んでいませんが、依頼者が自説を押し通したいための依頼という気がしました。--114.158.97.224 2014年4月29日 (火) 06:51 (UTC)[返信]
  • コメント議論を拝見しましたが(熟読はしてません)、最初に感じるのは、どなたかがどこかでおっしゃっていましたが、「この2人相手にこの話題で迂闊に口を挟めないな」というものです。お二方とも明らかにテーマに見識がある方なので、中途半端な口を挟んだら「素人は黙ってろ」と言われそうな気がして入っていけません。
次に感じるのは「どっちでもいいじゃん」とはできなかったのかなあということです。みしまるももさんは、「新続頭痛さんは自分の解釈を強制しようとしている」「人に強制しなければ済む話」とご批判なさっています。しかし、発端では、みしまるももさんはご自身の考えに基づいて他の編集者の「」と『』を書き換えています。自分が正しい/間違いと思ったスタイルを他の方の記述にまで適用しようとしているという点では一緒かなと感じます。
議論が当初から<AかBか>になってしまったので、AでもBでもいいじゃん、とはできなかったのかなと思います。お二方ともそれぞれのご意見が強いので、表記ガイド(既存ルール)がどうであったとしても、きっと論争になったのでしょう。つまり、ルールには「Aです」と明記してあっても、なるほどルールがそうならしょうがないね、と引き下がらずに、いやそのルールはおかしい、Bだろ、という風になったのではないでしょうか。
全角と半角でリンクが壊れるんだとか、どうしてもどちらか一方に決めなければいけない問題であればいざしらず、本件は「どちらでも別に間違いというわけじゃないし、いいんじゃない?どっちでも。」という気がします。AもBもそれなりに妥当で、なおかつ両者が譲らないのであれば、どっちでもいい、じゃダメですかねえ。
Floterさんがおっしゃるように「お二人とも相手を屈服させようとしているだけ」、合意を目指さず論破を目指しているように感じました。--零細系統保護協会会話2014年4月29日 (火) 18:14 (UTC)[返信]
  • コメント依頼として第三者のコメントを募る場であるはずですが、お二方の応酬になってしまっています。本件は早急に結論を出さなければ困るというような重大な緊急性は無さそうに思いますが、お二方とも言いたいことはあるのでしょうけれども、少し手を止めて周りの方の意見を静かに聞いてはいかがでしょうか。--零細系統保護協会会話2014年5月7日 (水) 05:52 (UTC)[返信]
  • コメント 前回衝突したものです。まず、Kojidoiさんが指摘している、差分:Wikipedia‐ノート:表記ガイドは、論理的でないといわざるを得ません。最初の段落で「私は、「ガイドラインを改正」するつもりは全くありませんし、「ガイドラインを改訂しろ」とも主張してません。」と書いたものの次の段落では「その「説明の書き方」を少し変えて、分かりやすくした方がいいのではという提案をしていただけです。」と書いており、結局のところ改正・改訂を求めているわけです。文言を変更することは、当然に改正・改訂と捉えるべきで、改定案、改定案2というのをそれまでに出しているのに、改正、改訂をもとめていないというのは、その定の字が大きな意味の違いを持っていると主張しているのかもなどの可能性もありますが、これでは通常の人を説得する文にはなりません。
みしまるももさんは今一度Wikipedia:ノートページのガイドラインをよくお読みになったほうがいいと思います。
まず、Wikipedia:ノートページのガイドライン#推奨される習慣の最初2項目「マークアップをしすぎない」「簡潔に」の2点をお読みいただきたい。この両者を守ればだいぶ良くなる可能性があると思います。特に、長文でほぼ同じ内容の投稿が繰り返されることから議論が困難になっているわけで、短くする努力を払い、違いに着目して要点を絞れば説得力が上がる可能性があります。
「他の利用者の行為や発言に言及する時には、正しい文脈とともに正しく伝えなければなりません。」も重要です。
みしまるももさんは「頭痛さんの場合は、どんな時でも短編小説に対しては一貫して「」を用いる」と書いていますが、頭痛さんがそういうことを書いているようには受け取れません。原則短編小説に対しては「」を用いる&ここは例外ではない(例外だとする側に挙証責任あり)という論理構造で結果として「」という主張であると見えます。これを「どんな時でも短編小説に対しては一貫して「」を用いる」として難じるのは一種のわら人形論法であり、議論にならないと感じられるでしょう。
原則短編小説に対しては「」を用いるということを否定する証拠をだすか、ここは例外であるという証拠を示すという方向で議論するなら意味があるかもしれません。結論としての「」『』の是非、賛否等については、ここで意見は述べません。--T6n8会話2014年4月30日 (水) 13:58 (UTC)[返信]
被依頼者さんは強迫神経症的な方と絡むとヒートアップしちゃうので少し落ち着かれて下さい。で、一方の依頼者さんは何処で意見を募っても、賛同意見がほとんど出ない事や、他者への関わり方を注意されている事が多いので、まず御自身がそこを改善されてから他者のコメントややり方に意見をする方が良いんじゃないでしょうか。依頼者さんの特に形式における他者への干渉過多は今に始まった事ではありませんが、そちらの方が問題かなという気がします。これまで依頼者さんと絡まれた方で、Wikipediaに有益と思われる執筆者の一部が議論の末やる気を失ったり、疲弊したりしているシーンが多すぎるように感じており、ノートやコメント依頼や井戸端で依頼者さんが他者とヒートアップしているのをお見かけすると非常に頭が痛くなります。私と同じように感じている方はアカウントユーザーにも少なからずいると思いますが、もはやコメントをした所で難しいかなと感じている風潮が漂っておる事は否めません。色んな意味でこのコメント依頼もあまり必要性を感じません。何故なら相手が依頼者さんだからです。むしろ依頼者の問題点をコメント依頼で指摘した方が良いかなと思っていますが、その労を取る親切心すら失せていますね。被依頼者にコメントを付け加えておくとするなら、まず依頼者に関わらようにするか、この際過去に依頼者が関わった末相当の無駄があったlogを列挙して関わらないで下さいと宣言する方が効率高いと思います。大体依頼者の方が近寄って行って揉め事になってる事を事例を集積して証明するのはそれほど困難でもないだろうなとは思います。--119.72.194.74 2014年4月30日 (水) 21:26 (UTC)[返信]
追加で言っておくと、鉤括弧をどちらにするかで大量の議論が費やされていますが、大方の意見は解釈や見解が分かれる幅が広い領域では、意見統一する必要性を感じずという事であろうことは間違いないでしょう。大半の読者がどちらの鉤括弧かを気にしているとは到底思えず、ある意味個人の拘りの領域ならば例えガイドラインにした所で、他者の記述に対する修正を指摘する作業が膨大になるだけです。長期的にはリソース消費の割りに、結果に対する効用が低い。依頼者は被依頼者のような方に対して必要のない議論を仕掛け誘導している節すら感じますが、そろそろパターンが明確になって来ているので良い加減にした方が良いですね。解釈の幅の違いを何処までも他人と共有したいと、とめどなく議論を仕掛けるのはもはや病的な行為ですということを、主に依頼者に向けて述べておきます。単純に言うと実統計や不確定性を定量予測せず論理を語るのは愚かですし、論理的に対話で結論が出ると考えているのが愚かです。文字数をカウントしてカッコを変えるぐらい今も将来もボットもできるし、そういう作業をやる領域に人間が関わる必要は無い。ましてや多くの人が感覚的に理解できる前提を、論理的に突き詰め、議論を他者に仕掛けないと理解出来ないという類の行為の利用者は、今後は誰であれブロック対象になり得ると思う。119.72.197.13 2014年4月30日 (水) 23:09 (UTC)[返信]
コメント 頭痛さんは「ガイドライン」に従うなら、短編を「」にする方が自然だと仰っていて(従って、ガイドラインに従うことを良しとする)、みしまるももさんはその短編という定義を問題にしているんですよね。どうなんでしょうか。別問題として扱うのが良いのでしょうか。そうすれば話がスムーズに進むのであれば、とりあえずは「ガイドライン」の「自然な解釈」従って、頭痛さんの仰るままにしておく方が、揉めずにすむと思いますが。
井戸端でikedat76さんが仰っていたのは、タイトル単独でとか、ナントカ集の一部に収録されているとかという枠組みで考えるのではなく、違う方法でと仰ってましたから、長編とか短編とかは、やはりページ数が基準になるのでしょうか。いずれにせよ、門外漢の私からすれば、そういう枠組みを取って考えるとなれば、全部小説のタイトルに違いないのだから、タイトルだということさえ分かれば良い、カギ括弧を区別するためにここまで揉めなくても良いのにな、というのが率直なところです。「何何集の中の何何というタイトル」という枠組みが文章中に出たときのみ、使い分けをすれば良いのかなとも思いました。カギ括弧のことには触れないで良いということでしたが、これだけおふたりの間で揉めるぐらいなら、それぐらい簡潔にしたら良いのになと思いました。--MEGEVAND (会話) 2014年5月6日 (火) 15:21 (UTC)[返信]
IP:119.72.195.153会話 / 投稿記録およびIP:119.72.198.9会話 / 投稿記録と同じ発信元ですね。可変IPからのよく似た粘着行為は以前のアカウントでもありました。一見もっともらしいことを書かれているように見えるかもしれませんが、他の方は撹乱されないようにお願いします。--新続頭痛会話2014年5月2日 (金) 12:03 (UTC)[返信]
  • コメント Wikipedia:コメント依頼/朝姫 201405における頭痛さんの複数回の暴言[5][6]には驚きました。こうした発言を目の当たりにしては、みしまるももさんに問題があるのではなく、むしろ、頭痛さんにより大きな問題があるようにしか思えなくなりました。このコメント依頼だって、もともとなにも問題が起きていなかったのに、頭痛さんが自分の思い通りにやろうとして、頭痛さんが争いを起こしたようにも見えます。頭痛さんにはWikipedia:議論が白熱しても冷静にWikipedia:論争の解決の熟読をお願いしたいです。--114.158.97.224 2014年5月5日 (月) 13:17 (UTC)[返信]
    • コメント依頼は可変IPが好き勝手に感想書く場所じゃないんですよ。可変IPからどのように見えようとどうでもよろしい。アカウントユーザー間の問題にしゃしゃり出てくるのはやめなさい。--新続頭痛会話2014年5月5日 (月) 13:26 (UTC)[返信]
  • コメント みしまるももさんは印象操作という語句がとてもお好きなようですね。使うのは構いませんが、ちょっと待っていただきたい。コメント依頼、ブロック依頼などで議論や履歴を追わずに意見を述べるひとはいらっしゃるでしょうか?中にはいるかもしれませんが、9割9分の方はちゃんと追っているでしょう。そんな中、印象操作だとか詭弁だとか仰るのは相手を論破するどころかご自身の印象を下げていることに他なりません。いくら正しいことを言っているとしても接し方次第で誤り扱いされる、これがWikipediaなのはあなた本人がよくご存知のはずですが。--118.111.194.101 2014年5月7日 (水) 13:23 (UTC)[返信]
(118.111.194.101さんへ)貴重なアドバイスどうもありがとうございました。真摯に受け止めさせていただきます。--みしまるもも会話2014年5月8日 (木) 00:59 (UTC)[返信]
  • コメント いくつかコメントさせていただきます。
    • (頭痛さんへ)IPアドレスでの議論参加が完全に禁止されているわけではありません。頭痛さんは反応しすぎです。荒らし目的のIPアドレス投稿も多々あると思いますし、頭痛さんがそれに困っているのだろうという思いもありますが、IPアドレスの方からの意見にも取り上げられるべきものもありますし、内容を確認せずにすべてばっさりと切り落とす議論姿勢はいただけないと思います。荒らしに対して反応することで荒らしを助長するという考えもあります。取り上げられるべき意見でなければ無視すればそのまま流れていくと思いますし、目に余るようなら今回のように別件でもブロックされるものです。下のコメントともかぶりますが、反応しすぎないようにした方が良いと思います。
    • (頭痛さん・みしまるももさん双方へ)このコメント依頼に対して、ともに第3者の意見に対してコメントしすぎと思います。そもそもコメント依頼というものは、意見の対立などを起因として「第3者の意見を求める」のであって、(言い古された言葉かもしれませんが)自分にとって都合のよい意見が集まるまで待つ、というものではありません。反論したいところもあるかもしれませんが、都度ではなく、ある程度の期間注視した上で、意訳になり過ぎない程度に、意見の趣旨を理解し、総括的にコメントするのがスマートではないでしょうか。
    • (議論について)正直なところ、ここまで熱く議論するようなネタではないようにも思えます。1:1で討論していて、らちが明かなければコメント依頼して、それでも合意がなされないのであれば、そのテーマについては現行のまま、というのが正しい議論姿勢であると思います。が、この場合、変更したい側の方が折れる必要があるため、そのあたりの折り合いが難しいのではないかとも思います(このあたりは自戒を込めて...)。現在の議論は対人論証になってしまっていて、内容の議論から離れていってしまっているように見えます。こちらも都度コメントではなくある程度他者の意見を待つ姿勢を持ってほしいと思います。
長くなりましたが、以上です。--Kubou会話) 2014年5月8日 (木) 07:31 (UTC)--Kubou会話2014年5月8日 (木) 07:39 (UTC)(下線部追加)[返信]
  • 2回目のコメントになります。

括弧をどうするかについては

1 短編小説の題について原則「」を用いることのの適否
1a 現在のガイドラインは原則「」となっているか
1b 現在のガイドラインは妥当か
2 例外にあたるか

というような異なる論点があり、各点の評価を経て、それぞれの括弧が選ばれる話になるわけでしょう。そして、みしまるももさんの主張は最終的にここで「」ではなく『』を用いるべきという点だけが強く繰り返し主張されているけど、その根拠は一貫してないようにみえます(時にはガイドラインで原則「」というのを否定しているようであり()差分:Wikipedia‐ノート:表記ガイド)、ときにはガイドラインを変えるべきということを主張し(差分:Wikipedia‐ノート:表記ガイド)、またあるときは例外として認めてくれないのが問題という(差分:Wikipedia:コメント依頼/みしまるもも_20140429)。議論の結果としての考えの変遷はあってもいいのですが、現在の論点、立ち位置が理解できません。Wikipedia:論争の解決のレベル6 要点集中やレベル5 論点明瞭になっていないわけです。「短編小説の題について原則「」を用いることのの適否」自体をきちんと議論するなら例外がどうとか問題ではないし、「どんな時でも短編小説に対しては一貫して「」を用いる 、長編小説に対しては、雑誌掲載時でも一貫して『』を用いるという基準」であると言って非難するメリットはなく、本来の原則どうあるべきかに集中するのが妥当です。「どんな時でも」という言明はされていないので実際の例を有限個持ってきても「どんなときも...という基準」かどうかは示せません。--T6n8会話2014年5月8日 (木) 13:48 (UTC)[返信]

お知らせ[編集]

いすかさんよりWikipedia:コメント依頼/頭痛、みしまるもも‎が提出されています。御意見をお願いします。--新続頭痛会話2014年5月27日 (火) 09:10 (UTC)[返信]