Wikipedia‐ノート:スタイルマニュアル/人物伝/過去ログ3

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年齢の表記について[編集]

歴史上の人名の年齢は数え年と満年齢のどちらを採用すればよいでしょうか? 多くの歴史書では、明治以前の人物について、数え年を採用しています。 例えば、細川忠利の享年は、満54歳・数え56歳となりますが、大名・武将など多くの歴史人物は 生年だけで誕生日が判明しないので、数え年は計算できても満年齢は計算できません。 更に、織田信長など、誕生日が判明していても和暦かユリウス暦かで満年齢が異なる例もあります。

スタイルマニュアルで、「誕生日を1月1日と仮定した満年齢を表記する」などと注釈するか、数え年に統一するか、何らかの指針が必要だと思うのですが、いかがでしょうか? 墓石と鉄塔 2005年2月28日 (月) 07:43 (UTC)

ページ名を変更しました[編集]

記載が複雑になっていたためページ名を変更し整理しました。

  • スタイルマニュアルのサブページ化 - これはそれぞれのスタイルマニュアル間で矛盾がでてくることを防ぐため、一体感を強くした方がよいと判断しました。
  • 名前の付け方に関する記載を減らす。Wikipedia:記事名の付け方およびそのノートで議論したほうがよいことが、このノートで行われがちなので思い切って減らしました。こっちで議論されてしまうと、記事名の付け方と矛盾がおこりやすくなってしまいます。
  • 慣習の追加。現行ですでに慣習とされていると思われることを追加しました。

私の認識不足の点もあるかと思いますので、問題のある記述は修正してください。--以上の署名のないコメントは、Michey.M会話投稿記録)さんが 2005年2月11日03:10 (UTC) に投稿したものです(タバコはマーダー会話)による付記)。

Templateを用いた場合の生没年月日の記法について[編集]

現在のスタイルマニュアルで、「生年月日・没年月日は、最初に記載される名前の直後の括弧()の中に記載してください。」とありますが、Wikipedia:ウィキプロジェクト 武士/Templateを用いる記事では以下の理由により、生没年月日を記事冒頭の表中に移したいのですが、良いでしょうか?

  • 本文()内に記すと、和暦、西暦、旧暦、新暦を併記する日本史上の人物は本文が見づらく、元号が並立している南北朝時代の人物などは特に見づらい。
  • 生没年月日を表に移しても、表は記事冒頭に有るため、生没年月日を知りたい閲覧者は容易に見つけられると思われる。
  • 長い記事は本文冒頭に概要を記すと良いと思うが、人物の概要の理解には、生きたおおまかな時代があれば十分と感じる。
  • 源頼朝足利尊氏織田信長豊臣秀吉徳川家康で生没年月日を表に移し一ヶ月近く経つが、いままで反対意見は出ず、移動は概ね支持を得ていると思われる。

-- 2005年4月24日 (日) 04:50 (UTC)

俊さん、こんにちは。「ウィキプロジェクト武士」、活発なご様子で、お喜び申し上げます(でも、専らtemplateの議論なのですね)。さてご提案の件ですが、個人的にはスタイルマニュアルの例外はあまり好ましくないと考えています。
私は他言語版とのリンクを張る作業をよくするのですが、知らない言語版を解読するのは大変です。そのような時に、例えば人名記事で項目名すら読めない言語でも、冒頭()内に生没年月日が書かれていれば記事が何であるか判別できるという経験を何度もしています。これが例えば表に組み込まれてしまって本文に書かれていないと、難しくなったことでしょう。やや特殊な例ですが、表に書いてあるから容易に見つけられる、とは必ずしも言えないというケースを挙げました。
西暦和暦の併記により本文が煩雑になる点は同意いたします。より重要かつ一般的なのは和暦より西暦かと思いますので、「本文()内は西暦のみでも可」というのはいかがでしょうか。Yas 2005年4月26日 (火) 21:27 (UTC)
Yasさん、ご意見有難う御座います。とりあえずは新たに設けたtemplateを固めようと思っています。
確かに知らない言語で書かれた記事から表内の生没年月日を見つけるのは難しいですね。日本語を読めない読者にどこまで配慮するかは難しいですが、日本語版の多くの記事は、概ね一般知識を持つ日本語話者を読者として想定している様に感じます。同様に「より重要かつ一般的なのは和暦より西暦」は、日本語話者を読者と想定した場合、そうとは言い切れないと思います。
異なる言語間で書式が統一される事に対して、確かに魅力は感じますが、それほど重視すべきものでは無い様にも感じ、「本文()内は西暦のみでも可」は一つの案だとは思いますが、現時点では、やはり()内に生没年月日は入れない方が良いと思います。-- 2005年4月27日 (水) 14:22 (UTC)


Yasさん、こんばんは。Templeteの議論に関わったものです。とりあえず、俊さんが自ら立ち上げたTempleteを完結するために時間を割り振っているように思える状態を、専らtemplateの議論と位置づけるのは、いかがなものかと。。。誤解のないように。
データ表がある場合、人物の生没年月日は、本文中に詳細情報の羅列があるだけのように思えますので、データ表へ集約したほうがいいように感じます。俊さんが言われた容易に見つけられるというのは、記事冒頭にあるという場所を指したもので表にあるからではないように読めます。ただ、Yasさんの言われる他言語の方が分かるかという面に対して考えていませんでした。しかし、他言語の方が見てそんなに分からないものなのでしょうか。
適用されている記事を見る限りではすっきりと冒頭部分が見えるため、データ表への集約に賛成します。もしYasさんのいわれる生没年月日を冒頭に残すとの方向性になるならば、生没年だけでいいように感じます。--Toto-tarou 2005年4月27日 (水) 15:46 (UTC)
西暦と和暦の併記が見にくいことには同意します。一般の人物記事と同様に、括弧内に西暦だけを書くようにすれば見づらさは十分に解消されるでしょう。括弧内から生没年月日を削除する必要はありません。--morita 2005年4月30日 (土) 16:19 (UTC)

俊さん、Toto-tarou さん、こんにちは。他言語から見て云々というのは単に具体例を挙げたかっただけですので、確かに重視すべき論点ではありません。一般論として、テンプレートに書いたことを本文から外す是非という点について考えると、読者(百科事典の利用者)が引用をする場合の利便性を考慮して、重要な情報は本文にあるのがベターだと思います。

とは言え、ある限られたジャンル(今回は「武士」)について、このジャンルに強く興味を持つ方々によって意思の統一がなされたのであれば、そのような結論も認められるべきだと思います。(私のような)ジャンルの外から見た意見よりも、ジャンルに近しい利用者の意見を優先しても構わないと思います。

…と書こうとしたら、moritaさんのような意見も出てきましたね。もう少し広く意見が集まればいいなと思います。Yas 2005年4月30日 (土) 16:48 (UTC)

たしかに。。。もう少しいろいろなジャンルの執筆者の意見を聞きたいところです。--Toto-tarou 2005年5月1日 (日) 06:15 (UTC)
お返事遅くなりました。
「括弧内に西暦だけを書く」は、どうも中途半端に感じ、中立性の面でも問題が有るように思われます。「重要な情報は本文にあるのがベター」は、どう引用されるかにもよりますが、記事の全てを引用するのなら表も引用すれば良い様に思います。ただ生没年月日に関しては、武士の記事では概ね、本文最初の章を「生涯」とし章内に生誕から死没までを記しているので、そこに和暦西暦旧暦新暦の生没年月日を記せば問題ないと思います。
いずれにせよ、皆さんと同様に、もうすこし意見を伺えたらと思います。-- 2005年5月6日 (金) 16:29 (UTC)

中立性に問題があるとは思ってもみませんでした。西暦を書かないことに反対したのは、「特別な事情がない限り基本的なことは統一したほうが良い」という単純な考えからです。僕はあまり歴史に詳しくないし、武士の記事に携わったことがありません。日本史に深く関わる人たちのあいだに、西暦だけでは中立でないという共通認識があるなら、口を挟むつもりはありません。--morita 2005年6月8日 (水) 13:24 (UTC)

和暦・新暦並記になったのは、それ以前では月日が西暦のものか和暦のものかが曖昧になっていたからだったと思います。本能寺の変は天正10年6月2日ですが、これがそのまま1582年6月2日に表記されがちだったからです。本文の日付は誤解を生まない形になっていれば異論はありません。

もうひとつ、人物の生没年は人物伝にとって重要度はかなり高いものです。表に移して「表も引用せよ」というのは違和感があります(違和感は年だけで月日まではこだわりません)。--Michey 2005年6月9日 (木) 06:10 (UTC)

お返事ありがとう御座います。皆さんの意見を伺っていると、括弧内に生没年を和暦西暦ともに記す程度が妥当でしょうか、、。「西暦だけでは問題がある」に対しての「意思の統一」や「共通認識」は、慣習的ですが恐らくあると思います。-- 2005年6月10日 (金) 14:26 (UTC)

これまでの意見を聞いて、「冒頭における生没年の表記は行い、その際には年のみの表記(他記事とかけ離れず、一番短く記載できるとの意味づけで、西暦の年のみ生没表記)」としては。。。と思いましたが、慣習としてあるのならば、西暦・和暦の併記部分については話し合われたほうがいいかもしれません。

Micheyさんの言われた併記の経緯を考えると、年月日を記載してしまうとまた問題になりそうなので、生没(年のみ)表記がいいように感じます。統一性としても、表を使用していない記事との違和感の軽減にもなりますし。。。英語版などでも表を使用した際、冒頭の生没年を年月日でなく年のみにしているinfoBoxもあるので、共通性を考慮して「年のみ生没表記」でいいような気がします。

ところでちょっと気になったので書いておきますが。。。「日本史に深く関わる人たちのあいだに、西暦だけでは中立でないという共通認識」がもしあったとしても、日本語版としての共通スタイルとしてどうするかという問題もありますから、moritaさんの統一性を重視すべきとの意見は重要であり必要だと思います。ここで議論される中心は「人物伝の書式標準化」であるので、それを踏まえて各分野での特性との兼ね合いをどうすべきかということだと考えます。--Toto-tarou 2005年6月10日 (金) 16:07 (UTC)

  • 論議が止まっていますが結局どちらなんでしょうか?スタイルマニュアル/人物伝にそもそも従うべきなのかどうかは分かりませんが、同様に生誕、死没の項目があるTemplate:競走馬が使われている競走馬関係の記事では現在ほとんど冒頭での生没年が明記されていません(例:シンザン。テンプレが使われていないブライアンズタイムでは明記されている)。生没年を明記するべきでしょうか?影響を受ける記事が500件位あるのですが。--Galopin 2006年4月8日 (土) 16:15 (UTC)


競走馬は人物ではありませんから、競走馬の執筆をなさる方々の間で、独自の書式を定めれば良いと思います。競馬には詳しくありませんが、ちょっと見たところ、生没年は表中にあれば十分な感じもします。
ついでですが、人物伝に関して議論が止まっていた間に思った事を記しておきます。
冒頭の表に生没年月日を書くのであれば、括弧内には生没年のみを記すのがやはり妥当です。括弧内に多くを書くのは見づらいですし、月日は最初の一文に記すほど重要な情報とも思えません。また暦法や紀元元号等は、その人物が生きた地域や時代に用いられたもの、史料が用いるもの優先すべきです。紀元は、西暦、イスラム暦、仏暦等、宗教に由来するものがほとんどで、いずれか一つの使用を定めるのは中立に反します。とは言っても紀元がばらばらでは不便ですし、改元のある暦は面倒なので、世界で最も広く使用されている西暦は付記されていると便利です。-- 2006年4月9日 (日) 12:01 (UTC)

問題提起しろと言われたので[編集]

  • 分かりやすく、親切に、前もって雅号を、それも明治時代においては当然、今日においても流布している雅号を付加して、松菊木戸孝允南洲西郷隆盛甲東大久保利通のように表記しておくことに反対のガチガチの守旧派の人は、いくら何でも具体的理由を明示してもらえませんか?
  • 恐ろしく固定観念が強い人がいるようですが、よく見てください。木戸孝允西郷隆盛大久保利通としてもそのまま同時に表現しています。源九郎義経を略して源義経と表記しているのとは訳が違います。表記内容の変更というよりは、雅号の付加に過ぎません。それが気に食わなくてしようがないという反「薩長」の人もいるでしょうが、それ故に反「薩長」であり、いまだに明治維新に乗り遅れているわけです。それはその人の個人的な狭量さや悪感情の問題に過ぎません。
  • 大体、私に文句を言う前に、「松菊木戸公伝」とか「南欧遺訓を読む」とか「甲東逸話」という表題で本を出している人たちに、文句を言って取りやめさせるべきでないでしょうか。
  • 欧米では名前が三つあっても、このような弾圧を理不尽に受けることはないし、逆に、詳しく表示しないと、信用性そのものを疑われてしまいます。略しに略してさえ「JFK」です。日本も明治までは、雅号が新聞記事を賑わせていました。
  • 余り有名ではない号は当然困るでしょうが、代表的な雅号をタイトル名に一つ付加しておくぐらい、むしろ当然の義務じゃないでしょうか。
  • 最低、維新の三傑と有名な元勲くらいは雅号つきタイトル名をで出しても良いのではないでしょうか。ガチガチの悪平等主義が大好きな社会主義者・共産主義者ばかりがこのWikipediaを利用しているとは、私にはとても考えられません。
  • 私に警告を出した人は、『あっちを見ろ』ではなく(見ても意味がよく分からないので)、その要点だけでも自分自身の言葉で、一体どういう具体的理由で、どういう意味の警告を出してくれているのか、あらためてよく分かるように説明してもらえないでしょうか?
  • 『決まりだから』などというのは、この場合、現実も歴史も無視しているナンセンスに過ぎません。大体、合議制やコミュニケーションというものを無視しています。

(万春木戸信長、2005年9月19日記す)


(以下の私の文言は東アジアの人名記事に限って適用させていただくことをご了承ください) こんにちは。木戸さんのノートに書き込んだこともあり、私の思うところを書かせていただきます。

さて、実は木戸さんのおっしゃることに私は大きく同意できる部分もあるのです。確かに現在の多くの記事の中では、人名に付加する姓・氏・苗字・通称・字・号・戒名その他の情報がややなおざり、かつそれぞれの区別ができていない部分があり、利用者の利便性を損なっていると感じてきました。このあたりの問題の解決への提起とすれば、木戸さんのご意見には意義があると私は考えております。

ただし、それって項目名でわざわざすべきことなのでしょうか?私は項目名ではなく、本文で対応すればいいと考えています。また、「記事名は姓名のみにする」ということをある程度しておかないと非常に索引能力が下がるし、初学者は項目名を見て「どれが姓でどれが名なんだ」とごく基本的なことすら誤解を招きます。項目名は最も人口に膾炙した姓名のみの簡明なものにすべきです。また、維新の人物だけそうすべきであるとのご主張は、なぜごく一部だけそういったルールにするのかその理由がわからず理解に苦しみます。また、中国の人物はまことにさまざまな別称を持つので、もし同時代人が「李鴻章のことを指す」と判別できる情報を全て出せといわれたら、

李鴻章(姓名)
少筌(字)
儀叟(号)
文忠公(諡号)
合肥(李の出身地だが、同時代史料ではこれのみで「李鴻章」のことを指すと理解することが求められる)

とすぐ挙げるだけでもこれだけでてきますが(実はまだまだあります)、すべて項目名に足していきますか?バカな話なのはご理解いただけますよね。なお、JFKのJ・Fはどちらもれっきとした「名前」であり、Kは「姓」ですが、号その他では断じてありません(バルバロス・ハイレディンなど異名が通り名となっている特殊なケースもないわけではないですが)。

加えて、ノート:木戸孝允にも書きましたが、辞典等で東アジアでは人物を項目名とする場合、紀元前1世紀の歴史書である『史記』からすでに人物の項目名は君主以外は姓名のみとしております。あなたのおっしゃる明治時代について書名は新聞記事などはそうかもしれませんが、当時よく編纂された紳士録にせよ項目名はあくまで姓名を採用しています。号を項目名として採用せよとのご主張は、明治時代からあるものではなく、あなたが今ここで始めた独自の発言であることをご理解ください。

さて、最後に老婆心から書かせていただきますが、「ガチガチの守旧派の人」「ガチガチの悪平等主義が大好きな社会主義者・共産主義者」などと人をレッテル張りしておとしめて書くのは今後はおやめになったほうがいいですよ。木戸さんがここを見ている全ての方から軽蔑されるだけのことですからね。

では、お返事待っております。Aboshi 2005年9月19日 (月) 03:42 (UTC)(号はえーと、揖保糸(いぼし)ということで)


  • 申し訳有りませんが、Aboshiさんと同意見です。残念ながら、松菊=木戸孝允、春畝=伊藤博文、甲東=大久保利通、南洲=西郷隆盛などの認識は、一部の詳しい人達にしか通用しません。信じられないかも知れませんが、木戸信長さんの思うほどには流布していないんですよ…。もし何かの文献で「松菊」と言う人物名らしき単語が出てきて誰だかわからない時、ウィキペディアで検索すれば「木戸孝允」がでる、その本文を見れば木戸孝允の雅号だったことがわかる、それで「松菊は木戸孝允の雅号の一つ」という認識が少しでも広がれば充分じゃないですか。通り名がわかっているのにわざわざ頭に雅号を付けて検索する人は滅多にいないと思いますよ。--たとゥ 2005年9月19日 (月) 12:45 (UTC)

百科事典(ひゃっかじてん)とは、一般市民の啓発を目的として、人文科学自然科学社会科学芸術等さまざまな分野の知識概要を、項目ごとに整理・記述して、誰でも容易に理解できるようにまとめたものである。

これは、ウィキペディアにおける百科事典の定義の引用である。つまり、ここは誰もが容易に知識を得るための場所である。従って、ウィキペディアの利用者の中には「西郷隆盛や木戸孝允を全く知らない利用者」が存在しうる可能性にも考慮して記述される必要性がある。それを単なる「悪平等主義」というのであれば、それは百科事典(及びウィキペディア)の存在意義そのものの否定行為ではないのか? 人間社会において法律が無ければ、勝手に人を殺しても許されるわけではなく、決まり云々以前に百科事典の役割を否定して知識を一般市民から切り離して、一定以上の知識のある特定層だけの占有物が如く誤解を与えかねないような行為はいかがなものか。--220.211.247.48 2005年9月20日 (火) 06:45 (UTC)

東洋における慣習として、雅号は、姓名連記に付して用いるものではないのではないでしょうか。例えば、南州は『南州公』、『西郷南州』、『南州西郷公』の形態で用いはしますが、『南州西郷隆盛』の形態での使用はありえません。そもそも最初に『南州』と敬意を表する雅号で呼びながら隆盛と実名を呼び捨てにするのは東洋の慣習では無礼な行為です。あえて連記するなら漢文表記の慣習に従って『西郷隆盛号南州』となる。同様に中国の字も姓名と共に用いません。『劉備』の字は『玄徳』ですが、『劉玄徳』の形で用いますが『劉備玄徳』の形では用いません。字で呼ぶことで敬意を表しますので実名で呼ぶこととは両立しないのです。漢文で列記する場合には『劉備字玄徳』です。このように単純に連ね書きしないことの一因は漢字文明圏は書字文化である事が大きく与っています。ヨーロッパは基本的にギリシア・ローマ、古代ゲルマンの民会の伝統以来の演説文化圏です。演説による発語は書字よりもよりシークエンシャルにならざるを得ません。何が何でもシークエンシャルに並べて例えばジャン=バティスト・ピエール・アントワーヌ・ド・モネ・ド・ラマルクなどと表記するのは、ヨーロッパでの文書が演説を文字によって固定したものとしての性格を強く持つからです。東洋漢字文化圏ではこれと違って正式な主義主張の表明手段は書字でしたので、このように羅列する習慣を持たず、文書のTPOに従って最適な名称を使うのが伝統です。つまり、『西郷吉之助』『藤原朝臣隆盛』『西郷南州』『南州』『西郷隆盛』を使い分けるわけです。ですから、これらの数ある名称から『西郷隆盛』へリダイレクトを引き、『西郷隆盛』の項目で『西郷』『吉之助』『隆盛』『南州』などについての解説を付す事こそが、真に伝統を重んじることになるのではないでしょうか。--ウミユスリカ 2005年9月20日 (火) 07:54 (UTC)
ウミユスリカさんの「東洋における慣習として、雅号は、姓名連記に付して用いるものではない」に関して質問です。五・一五事件で犬養毅が暗殺された後の出版だと思いますが「木堂犬養毅」なる評伝が出版されています。正確に言えば「木堂」と「犬養」の間にはスペースが入ったような入っていないような、そういった背表紙でした。それに限らず「号+姓+名」という表記は伝記出版物を中心としてそこここで見かけるのですが、これは誤りである、と言い切っていいのでしょうか。私も「南洲西郷隆盛」等々のエントリーが(リダイレクトであっても)必要かどうか、と言われればNoの方に傾いているのですが、木戸信長さんがこの書き方を「正式のもの」と考えていらっしゃる原因が、もしかするとそこにあるのでは、と考えた次第です。--にごう 2005年9月25日 (日) 09:03 (UTC)
私はにごうさんが例に挙げられたような比較的新しい時代の「木堂犬養毅」のような表現は、明治の戸籍令以降「家名」・「通称」・「本姓」・「諱」あるいは「家名」・「通称」・「諱」の形の正式名が消失して「戸籍姓」・「戸籍名」のスタイルに一本化し、西洋式の学問を学んだ層の間で日本の伝統的な人名構成の教養が希薄化した産物だと思っています。最大の要因は、その人物の目上でない者が諱を呼ぶことが無礼なのだという認識が薄れたことでしょう。だから、諱を呼ぶことを避ける効果を持つ雅号で敬意を表しておきながら諱を最後の最後で呼んでしまうという行為の無礼さに気がつかないわけです。それでしたら「犬養毅」と戸籍名でずばっと呼んでしまったほうが、話者が上からでも下からでもない中立者として呼んでいるという意思表示ができているわけでよっぽど無礼さが薄れます。本当は歴史的人物の名称の表記でも、「明智十兵衛源光秀」、あるいは「明智十兵衛光秀」と呼ばねばならない人物を家名と諱を直結させて「明智光秀」と表記することはおかしいのですが、通称は人生の中で何度も変化するものであること、本姓が明らかになっていない人物も多いこと、最低限名字、家名を表しておかないと、実際にその人物が所属し、機能していた家組織がわからないことを併せ考えると「家名」・「諱」式の人名表記はやむをえない部分もある・・・というか、ぎりぎりの妥協線だと思うのですよ。タイトルにどうしても雅号を入れたければ、「西郷南州」、「犬養木堂」、「木戸松菊」をタイトルにすべきです。歳時記なんかではこういう人名表記になっていることが多いですよね。--ウミユスリカ 2005年9月25日 (日) 16:27 (UTC)
返事が遅くなってすみませんでした。「家名」・「諱」で表記するか、「家名」・「号」で表記するかというのも微妙なニュアンスの違いがあって、前者の場合は公的な人物として、つまり朝廷との君臣関係や封建的主従関係、共同体の中に位置付けられた人物を指しているのに対し、後者の場合はそうした縁、しがらみから一定の距離を置いた存在、例えば文化人として位置付けられた人物を指しているという傾向があります。もともと「家名」・「通称」が封建的主従関係を、「本姓」・「諱」が朝廷との君臣関係を背景にした呼称だからです。号を使うと、そうした関係性からの自由度が生じると私はとらえています。明治以降の戸籍名とペンネームなど非戸籍名の関係もそれと似ていますよね。武将としての細川藤孝を主とするか、文化人としての細川幽斎を主とするかというラインは、一概に決めてしまわず、ケースバイケースで個々の記事のノートなどで議論して決めたほうがよいのかもしれません。--ウミユスリカ 2005年11月5日 (土) 01:14 (UTC)
文化人は、「姓+号」が普通ですよね。森鴎外夏目漱石樋口一葉でしょう。森林太郎夏目金之助樋口夏子なら、リダイレクトにするのがわかりやすいと思います。実際そうなっています。 --ねこぱんだ 2006年2月2日 (木) 14:01 (UTC)
ていうか、小説家はペンネーム、芸能人は芸名ということでしょう。 61.210.161.11 2006年2月3日 (金) 12:11 (UTC)

本名非公表に関するコメントアウト[編集]

本名公開か非公開かで削除依頼や編集保護が発生し、合意形成の結果として非公開となった記事において、ノートの議論を全く読まない新参者が他の記事で本名を書いていることを受けて本名を書いてしまい、再び編集保護になってしまう事例がいくつか存在しました。そのような例を防止するために、非公開とした場合には、<!--本名は非公開。公開すると削除の対象になります-->とコメントアウトすることを「スタイルマニュアル/人物伝」の方針として記載することを提案します。--経済準学士 2005年11月14日 (月) 15:27 (UTC)

  • マニュアル化は行き過ぎの気がしますが(反対まではしません。)。注意を喚起させる策としては賛成。あと、<!--本名は非公開。公開すると削除の対象になります。ノートも参照。-->の方が良いような。--Los688 2005年11月14日 (月) 15:31 (UTC)

「本名は非公開」と表に明記してよいと思います。コメント文はよいとして。 --Yas 2005年11月15日 (火) 23:02 (UTC)

勿論、「本名は非公開」と表に表記することが前提です。しかし、ノートの議論やスタイルマニュアルを全く読まない新参者が他の記事で「本名は○○」と表記していることを受けて、本名を書いて編集保護になることを防止するために、コメントアウトで注意を促す必要があることを指摘したいと思っています。--経済準学士 2005年11月16日 (水) 02:29 (UTC)

人物伝冒頭の定義における「平成期」なる加筆について[編集]

以下はWikipedia:井戸端より移動 スタイルマニュアル/人物伝の記述例には「安土桃山時代の武将」とか「昭和・平成の政治家」といった例が存在しますが、これは過去の歴史的人物、あるいは政治家や学者といった人物の説明でよく見かける記述ではあっても、存命中の小説家や漫画家、現在も活躍中の芸能人やアスリートに用いるのは不適切と考えております。しかしながら一所懸命にこれを書き加える方も見受けられます。そこでこの際、広く意見を募って「歴史上の人物なら記載が好ましい」、「小説家の場合はマニュアル化しない」、「漫画家の場合は不要」等々のガイドラインを決められるだけ決めて、人物伝の下位に想定されるプロジェクトに明記してはどうかと思い提案します。Lan-Cruer 2005年12月8日 (木) 12:19 (UTC)

Wikipedia:すぐに古くなる表現は使わないをどうぞ。Tietew 2005年12月8日 (木) 14:41 (UTC)
早速ありがとうございます。念のためというか確認させて欲しいのですが、Tietewさまの意見を具体例化するならば「○○○は昭和末期・平成期のお笑い芸人である」という風に書き込む人へ「すぐに古くなる表現はつかわない」を参照例として示し、無用の編集を中止させましょう、となりますか? それとも「すぐに古く~」を活用してウィキプロジェクトの修正を行いましょう、となりますか?(両方かなw)。 すみません、実社会でも「オマエ鈍い!」とよく言われるんでひとつお手柔らかに願います<(_ _)> Lan-Cruer 2005年12月8日 (木) 16:01 (UTC)

こんにちは、現代の人物に関するそのような表記は違和感がありますね。ただ、違和感は感じるのですが、ではそれはすべきではないかと言われると迷います。注意書きを加えるなら、ジャンルごとで記述を分けるよりも、「存命、活躍中の人物に関しては使わない」という書き方で十分のような気がします。その場合は注意書きはウィキプロジェクトではなくWikipedia:スタイルマニュアル/人物伝でしょうね。--Yas 2005年12月10日 (土) 17:02 (UTC)

Wikipedia:すぐに古くなる表現は使わないの内容は、むしろ「昭和・平成期の~」とか「1980年代に活躍した~」という表現の方が推奨されますよ、というものです。存命中であっても、いつ頃脚光を浴びていたか、いつ頃活躍したかというのは、百科事典にとって結構重要な情報だと思います。++shimoxx 2005年12月10日 (土) 17:34 (UTC)
Yas様、shimoxx様、参加ありがとうございます。「存命中である、現在も活躍中である人物」という枠での使用制限を盛り込むという形であれば、成る程スタイルマニュアルに加筆するのがよさそうです。問題提起した当方としては、これはshimoxx様の指摘にも繋がるのかもしれませんが、その人物の活躍している業種によっては冒頭から明記する方が良い場合もあるのかなぁ~?と思った為で、故に提案から強硬主張する事は遠慮しました。スタイルマニュアルに加筆できるなら当面ベストかと考えます。
それと、shimoxx様の意見に関してですが、ご指摘の通り「すぐに古く~」では当方の問題提起よりむしろ積極的に記載せよと解釈されそうである事は承知しており、TIETEW様へは実はそれも含んでの問いかけでした。ただ、今回私が基本的に無用では?と考えたのは記事冒頭での(よみがな 生没年)の直後附近における記載の必然性についてであり、中でも存命中の漫画家や芸能人ともなれば40歳未満の方の記事が大半です。仮に漫画家活動や芸能生活が60年を越える人であったとしても、果たして本当に冒頭で特筆すべき重要な事項でしょうか? どうしても脚光を浴びた時期等に触れたい場合であっても詳細項目の段で触れておけば充分ではないか(モーニング娘。の黄金期の項みたいに)と思う訳です。そう考えつつも一歩引いて提案したのは、例えば現役期間の短いアスリートの場合などで判断に迷いがあった(個人的には無用と考えている)為です。と言う訳ですので、プロジェクト化あるいはマニュアル記載を念頭に「冒頭の定義文の中に必要か?」に明確に絞って進めさせて下さいますよう、念の為お願い申し上げます。(shimoxx様の現在の文章は第三者には冒頭・本文どちらにも解釈可能なので…)Lan-Cruer 2005年12月10日 (土) 18:57 (UTC)
冒頭で「昭和・平成期の」と書くことが有用か無用かと問われれば、有用だと思います。そこまで制限する必要もないでしょう。今活躍してるタレントや漫画家だって10年20年も経てば殆どが忘れ去られてしまうわけですし、存命の人であっても、20年前なら誰でも知ってたのに今では誰も覚えてない人は大勢います。そんなとき、冒頭部分に「~は上方を中心に活動する落語家。1960年代末期から1970年代初頭にかけて、乳房は夫のものでないですよという意味のギャグで一世を風靡した。」と書いてあれば、わざわざ本文を読まなくても月亭可朝のおおよそのことが判るじゃないですか。そっちの方が読者にとって親切だと思いますよ。ともかく、今でもルールが多すぎる位なのに、「冒頭部へ『○○期~』と書くことは禁止する」と無用とも言えるルールができることには反対です。++shimoxx 2005年12月10日 (土) 19:29 (UTC)一部修正shimoxx 2005年12月10日 (土) 19:34 (UTC)
ご意見ありがとうございます。当方の提起にやや過剰に反応しているようでもありますが、ここはやはりスタイルマニュアルへの記載まで考えるのは行き過ぎという事なのでしょうね。ただ、shimoxx様に冷静に考えて欲しいのは、何故存命中の人物について活躍期を述べると違和感が存在するのか?です。「10年20年も経てば~」とのことですが、ウィキペディアは予言ではなく、したがってその10年で特筆すべき活躍が増える場合や逆に明日にも急逝するケースだって否定は出来ません。存命中とはそういう事でもあります。月亭可朝の例と同じ扱いにして「綿矢りさは平成期に活躍した小説家」で良いですか? 彼女の今後は切り捨てでよいですか? 元号が変わったら活躍しないと予言でもするのでしょうか? 芸能人に至ってはもっと若い人でも著名(神木くんとか)ですよね? 言わんとする事を理解していただけたと思います。これについて「将来的に修正すればよい」と主張するなら「当面記載しなくてよい」とも主張できるのです。生年月日や略歴が整ってさえいればいつでも加筆修正できるからです。今回shimoxx様は○○年代という表現で例示されましたが、当方が懸念したのはあくまでも「平成期」との記載に懸命な方の事です。またこれと同時にshimoxx様は、出来ればルール増加も控えたいとの意見に思われました。当方も細かい決め事が少なくて済むのは歓迎です。しかしながら現状では一緒懸命に書き加える方とせっせと削除に励む方が存在するわけです。だからこそここへ問題提起した訳ですから。
当方の主張を絶対通せというつもりはありません。また必ずしも絶対的ルールを追加せよと求めるものでもありません。ただ現状ではスタイルマニュアルを各個人が自由勝手に解釈することが可能、つまり前述の例文を元に「記載すべき」とも「記載されなくてよい」ともなります。これが編集合戦(まだ静かに進行してる程度ですが)の根源になっている訳です。だからといってshimoxx様が明記されたように「禁止」という強制的なものでなければならないという事もないでしょう。そこまで決め決めでなくともプロジェクトとして、例えば漫画家では必ずしも書かなくて良いとか、なるべく書くとかいったどちら寄りかという方向を示すだけでも合意となれば大変有意義であると考えます。無論徹底出来るならそれも良いと思いますが。
もともとは良い意味でのグレーゾーンだったのかもしれませんが、いざ編集合戦となればやはり方向性が示される事は大変重要だと考えます。今回は某記事において現実に編集合戦となる予兆を見てこちらへ提起しました。プロジェクトの編集を出発点にする事も考えましたが、石原さとみの本名公開問題や性別明記問題が頭をよぎり、それらと同様に単一記事だけでなく複数の記事やプロジェクトに関係すると判断しました。「そんなんどっちでもええやん!」という方に無理に意見を求めるものではありませんが、どちらかでないと気が済まない方への対処の為には方向性が見える事は大変有意義と思います。完結していない作品について使用するテンプレなどもあるわけですから、現在進行中である記事の扱いは完了の物と同一である必要はないと思います。今暫くは引き続き意見を募りたいと思います。そののちにプロジェクトへの加筆を考えています。 Lan-Cruer 2005年12月10日 (土) 22:38 (UTC)
まあ、例えば自分が中村弘海の項目を書いたとして、冒頭を「~は昭和期の政治家。長崎出身~」と始めたときに、「それはスタイルマニュアルに沿ってないからダメだ」と言われることがなければそれで良いです。「綿矢りさは平成期の小説家。」これを絶対ダメという訳にもいかないと思います。ウィキペディアはみんなで執筆するものですから、広い心でもって、割とゆるやかな決まり事の中でやっていければ良いと思います。++shimoxx 2005年12月11日 (日) 02:02 (UTC)
言い忘れましたけど、広い心であっても、あくまで百科事典を作ることが最優先事項ということは認識してます。なので、「平成期の~」と書くことが百科事典にとってそんなに有害かなあ、とも思う訳です(ウソ書いてる訳じゃないし。困る人がいる訳じゃないし)。それでは。++shimoxx 2005年12月11日 (日) 03:46 (UTC)
日本国内で完結しているならともかく、日本でも海外でも活動した人物にまでそれを適用する人が居る(Wikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト スポーツ人物伝)のでどうかと思います。けふこえて 2005年12月11日 (日) 09:20 (UTC)
けふこえて様、連絡誘導をありがとうございます。スポーツ人物伝での討議に一通り目を通してきました。えっと、いかがなもんでしょう? こちらの討議とも併せて考えると、とどのつまりは「昭和期」、「平成期」という表現が幾多のトラブルの引き金に成っていると思うのです。shimoxx様との意見交換をふまえるとして、以下の文章でどうでしょうか?
  • 冒頭の定義において人物の活躍期を明示する場合は原則として西暦を用いることとする(例:1980年代に活躍した、等)。これは存命中の人物においては特に留意されたい。ウィキペディアは未来を予言するものではなく、現在までの事実に基づいて記述されるものである。尚、過去の人物において和暦などを用いる方が理解が容易な場合においては西暦と併記される事が望ましい。
部分的には既に存在しているルール(生没年などで)なんですけど、活躍期の場合も同じなんだよ!ってことを(理解してくれない人の為に)改めて明記するって感じになります。いかがですか? Lan-Cruer 2005年12月11日 (日) 15:56 (UTC)
師走の喧噪ではや2週間近く過ぎてしまいましたが、特に反論もない様ですので上記文例を持ってスタイルマニュアル/人物伝の下位相当とされる各プロジェクトへの明文化を進行させたいと思います。尚、当方が把握しきれていないプロジェクトがあるやも知れませんので、同意者の協力が頂戴できるなら幸いです。 Lan-Cruer 2005年12月23日 (金) 05:48 (UTC)
活躍期は、本来生没年が不詳の場合に使うものでしょう。(和泉式部とか)そうした記載は、記述のところで展開するもので、最初の紹介の項目は、生没(or活躍期)+国(地域)+分野 という形がよろしいのでは? ねこぱんだ 2005年12月26日 (月) 03:12 (UTC)

冒頭の最低限情報の一つとしてあっても良いのでは?それにしても、既に余りにも多くの記事で活躍期が書かれてしまっているんですよね。件の氏は、特別:Contributions/210.199.110.13のように今度は元号と西暦を併用されるようになりました。ただ、-でなく~を使ったり「~出身。」という妙な切り方は変えていませんが。けふこえて 2005年12月26日 (月) 06:02 (UTC)

元号と西暦について「どちらを使う」などといった決まりを定めるのは良くないです。人それぞれに好みや考えが有りますから。それに大まかな時代の記述は有っても良いと感じます。場合によってはそちらの方が内容を理解しやすいかもしれません。ということで、新たな決まりは加えない方が良いと思います。-- 2006年1月2日 (月) 19:41 (UTC)

とりあえず論点としては、

  1. 「○○出身。」という妙な文の切れ方
  2. 健在で活動中の人物に行われる違和感
  3. 海外・日本の両方で活躍した人物に対する日本の視点しか存在しないいい加減な記述

といったものが挙げられています。

闇雲にルールを決めない方が良いという主張は理解できますが、問題は複雑でして、上記の論点に加え、こういった行為を行っているユーザーは実質一人と思われ、しかも呼びかけに対する応答が0なのです。(利用者‐会話:210.199.110.76利用者‐会話:210.199.111.51けふこえて 2006年1月3日 (火) 08:54 (UTC)

えーと、この件なのですが、最近「昭和後期(1970年代-1980年代)」を冒頭に書かれる人がいるようですが、これ、見ていて非常に疲れます。冗長な表現だと思います。記事本文にきちんとした年代があれば済む話だと思うのですが、どうでしょうか。まあ、もんだいはけふこえてさんのいうように、勝手に進める人なんでしょうが。あまりにも呼びかけに応じない場合、ブロック依頼するべきですかね。ゆきち 2006年1月6日 (金) 18:24 (UTC)

こんな風にコメントアウトで書いてみたけどそれも無視して書き込んでますね。これはブロックの対象にならないんでしょうか?Singletwin2000 2006年2月26日 (日) 04:37 (UTC)

翻訳に支障をきたしますので、できれば西暦を使ってほしいですね。昭和期や平成期を殊更強調する必要もないのですが。--H.L.LEE 2006年2月27日 (月) 07:53 (UTC)
[1]『福岡ソフトバンクホークス(入団時は福岡ダイエーホークス)の投手』なんて蛇足な表現がお好きなようです。いつからいつまでがダイエーだったかなんて球団の項目を見れば良いだけのことなのに。Singletwin2000 2006年2月28日 (火) 05:16 (UTC)
  • 諸般の事情から止むを得ず半年ばかりアクセスしておりませんでしたが、その後に私と同じ様に疑問に感じた方があり、一定の合意が形成された様です。以下の節がその模様で、後々の検索も考慮して「同一事案」として同一ページ内の下の方からこの場所へ平行移動させました。それぞれの議論に参加された皆様、どうかご了承下さい。Lan-Cruer 2006年8月26日 (土) 14:01 (UTC)

「昭和・平成期の○○」について[編集]

よく、人物記事の冒頭部分で「昭和・平成期のプロ野球選手」というものを見かけますが、これは不要だと思います。近世以前(「千歩」譲って1945年以前)ならともかく、いつ活躍したかなんて冒頭部分に書く必要がありますか?本文で記載すれば十分です。--Goki 2006年3月15日 (水) 01:03 (UTC)

  • 賛成です。○○時代って名前はいずれ歴史家が作るでしょうから、いま無理に元号で表す必要はないですね。それに引退された方ならまだしも現に活躍なさっている方に時期を限定してしまう文章は抵抗があります。--代言人(!) 2006年3月15日 (水) 02:37 (UTC)
  • (賛成) 代言人さんと同じ理由。--Koichi 2006年3月15日 (水) 04:06 (UTC)
  • (賛成) 活躍期にしても野球の外国人選手に関しては日本での活躍時期しか考慮してなかったり、現役引退してしばらくして指導者に復帰した人物でも、まるでずっと現役を続けていたり引退後の空白期間がなかったかのような誤解を与えかねない記述があります。いい加減な記述が多いので必要性を感じません。大量に記述して既成事実化を謀ろうとしているのかもしれないし、何らかの対処が必要でしょうね。singletwin2000 (talk) 2006年3月15日 (水) 04:35 (UTC)
  • (賛成)人物記事の冒頭で書く必要はない。本文で書けばよい。--hyolee2 2006年3月15日 (水) 04:38 (UTC)

(報告)と、いうわけで撤去作業が開始されました。 58.188.69.33 2006年3月28日 (火) 08:14 (UTC)

(報告)例からも「昭和・平成」の文字を削除しました。--Goki 2006年6月6日 (火) 02:47 (UTC)

波ダッシュについて[編集]

去年の12月ごろから元号による表記を冒頭に加え、尚且つ西暦を加える際には「 - 」ではなくて「~」を使う方(特別:Contributions/210.199.100.130氏、特別:Contributions/210.199.110.76氏ら他多数)が居られるのですが、wikipediaにおいては「~」と「-」ならば後者が推奨されるという認識でよいのですか? けふこえて 2006年1月1日 (日) 04:13 (UTC)

波ダッシュに書かれてある通りです。Wikipediaに限らず使わない方が良いかと。Category:高速バス路線を見ると、項目名に波ダッシュを使ってる項目が散在するようですが--Juyukichi 2006年1月1日 (日) 11:39 (UTC)訂正--Juyukichi 2006年1月1日 (日) 17:10 (UTC)

補足--けふこえて 2006年1月1日 (日) 17:59 (UTC)

波ダッシュの使用に関しては人物伝に限らず使用されています。人物伝のスタイルマニュアルだけではなくWikipedia‐ノート:スタイルマニュアルで議論して、使用しない文字と言う事でコンセンサスを得た方が良いのではないでしょうか?--Juyukichi 2006年1月2日 (月) 12:56 (UTC)

わかりました。ただ、井戸端で「細々したことを直すために費やすリソースが勿体無い」というような話を見たことがありましたし、、ご指摘のことも鑑みてとりあえずこちらではちょっと保留しておこうかと。。

問題は上記の活動期の記載なんですよね。。

  1. 「○○出身。」という妙な文の切れ方
  2. 健在で活動中の人物に行われる違和感
  3. 海外・日本の両方で活躍した人物に対する日本の視点しか存在しないいい加減な記述

といったものが問題として挙げられました。 けふこえて 2006年1月2日 (月) 15:42 (UTC)

韓国語ウィキペディアが~(半角チルダ)で書くようにさせていますが。問題ないのでしょうか?ko:????:?? ??私は上記のような理由で反対しています。

例)XXXX(1900年~1950年) --hyolee2 2006年5月27日 (土) 23:05 (UTC)

敬称について[編集]

ノート:勝道上人について、「敬称は用いない」ということで勝道への項目名移動が提議されたところ、「『勝道』表記が使われた事がないのにおかしい」という意見が出ているようですが--210.196.189.19 2006年1月20日 (金) 03:07 (UTC)

僧侶の場合、「上人」だとか「和尚」とかはつけないのがこうした史的記述には必要だと思いますよ。「鑑真」「空海」「一遍」と考えてみればわかるのではないでしょうか。その宗派で尊敬して述べるのとは、事典はちがいますから。 --ねこぱんだ 2006年2月28日 (火) 13:36 (UTC)

敬称について(2)[編集]

2005年2月11日に利用者:Michey.Mにより、「敬称を入れるべきです」という旨の記述が追加されています。当時のノートを紐解くと、「敬称をいれたほうがいいでしょう」との旨の記述に疑問が提示されており、何の返答もないままの「敬称を入れるべきです」の追加となっています。このような経緯から、該当記述はいったん削除すべきと考えます。kaz 2006年2月27日 (月) 14:46 (UTC)

それは読み方を間違っています。元々敬称、ミドルネームを入れると良いでしょうと記述してあったのを「第1段落で紹介するが本文では使用しない」と改訂したのです。--代言人(!) 2006年3月5日 (日) 04:00 (UTC)
書き換えられた内容のほうを問題視しているのではありません。「敬称をいれたほうがいいでしょう」との旨の記述に疑問が提示されていたのにも関わらず、何の議論もないまま書き換えられたことが問題なのです。kaz 2006年3月5日 (日) 12:23 (UTC)
一年前の事を引っ張り出してくる程の問題だとは思わないけど…第一にその疑問が提示されているというのはこの上位ページであるスタイルマニュアルの記述と人物伝どちらに従えばいいのかという質問で、その質問者はその当時の記述を読み違えている。スタイルマニュアルの「敬称を使用しない」は文章として敬称を使用しないという規定であって、その後に「ある特定の集団からは○○と敬称をつけて呼ばれる」のような中立的な観点から敬称を紹介するのは問題ありません。と書いてあります。当時のスタイルマニュアル/人物伝の問題の節には記事名でファーストネーム、セカンドネームしかない場合でも敬称、ミドルネームを入れると良いでしょう。これは紹介を目的とした記述方法を紹介しているに過ぎないでしょう。だから誤解を招かないように人物が敬称で呼ばれる場合は第1段落中で紹介するべきです。ただし、あくまで紹介にとどめて、本文を敬称で書かないようにしてくださいと変更したのでしょう。元々規定されていた文章の意図に反した編集を行った訳ではないし、当時もスタイルマニュアルと人物伝の間に矛盾はなかったので手順について一年前の文章を蒸し返す必要はないと思います。--代言人(!) 2006年3月5日 (日) 13:42 (UTC)