K XVII (潜水艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
K XVII
K XVII(1940年 – 1941年)
K XVII(1940年 – 1941年)
基本情報
建造所 フィエンノールト造船所英語版オランダ語版[1]ロッテルダム
運用者  オランダ海軍
級名 K XIV級潜水艦英語版オランダ語版
母港 スラバヤ
艦歴
起工 1931年6月1日[1]
進水 1932年7月26日[1]
就役 1933年12月19日[1]
最期 1941年12月21日触雷により沈没[1]
要目
排水量 771トンt
水中排水量 1,008t
全長 74.0m
機関 ディーゼルエンジン×2基
電動機×2基
出力 水上:3,200馬力 (2,386 kW)
水中:1,000馬力
推進器 2軸
速力 水上:17ノット (31 km/h)
水中:9ノット(16.6km/h)
兵装 533mm 魚雷発射管×8基(艦首×4門・艦尾×2門・外装×2門、魚雷14本)
88mm単装砲×1門
40mm機関砲×2門
テンプレートを表示

K XVIIオランダ海軍が運用した通常動力型潜水艦である。K XIV級潜水艦英語版オランダ語版の4番艦。

艦歴[編集]

就役[編集]

K XVIIは1930年6月25日に発注され、1931年6月1日にロッテルダムフィエンノールト造船所英語版オランダ語版で起工し、1932年7月26日に進水、1933年12月19日に就役した。1934年6月20日から8月1日まで、K XVIIは海防戦艦ヘルトーグ・ヘンドリック」と駆逐艦エバーツェン英語版」、水雷艇Z5英語版」、潜水艦「K XVIII」と共にニーウェディープ港英語版オランダ語版を出発し、バルト海へ演習航海を行った。艦隊はグディニャケーニヒスベルクリガコペンハーゲンに寄港した[1]

蘭領東インド[編集]

1935年1月、K XVIIとK XVIはニーウェディープを出航しオランダ領東インド(蘭領東インド)へ回航された。2隻はリスボンナポリアレクサンドリアアデンコロンボを経由して、1935年月26日にパダンに到着した[1]

1938年9月6日、K XVIIは姉妹艦と共に、スラバヤで開催されたウィルヘルミナ女王即位40周年記念観艦式に参加した[1]

インド洋の商船護衛[編集]

1940年5月10日、ドイツがオランダに侵攻し5月17日にオランダ政府が亡命する。インド洋にもドイツ艦隊出現の情報がもたらされ、9月15日、K XVIIはジャカルタ郊外のタンジュンプリオクを出航し、ダーバンに向かう商船「レマタン」を護衛した。9月下旬、K XVIIはダーバンに向かう商船「サランド」をスンダ海峡からインド洋まで護衛した[1]

1941年3月、ドイツのポケット戦艦「アドミラル・シェーア」がインド洋に進出して通商破壊を展開したことから、潜水艦「K IX英語版オランダ語版」「K X英語版オランダ語版」とK XVIIがスンダ海峡に展開した。6月には、東南アジア海域に日本軍の輸送艦隊出現の報を受け、K XVIIとK XVIIIが蘭領東インド北西海域の哨戒を行った。その後、7月下旬に定期修理のため、O16と共にタンジュンプリオクに戻った。2隻は11月15日にタンジュンプリオクを出航し、11月24日に帰航した[1]

マレー作戦[編集]

11月28日、K XVIIとO16はボルネオ島西部のサンバス英語版沖に派遣され、12月6日からイギリス海軍中国艦隊の指揮下で哨戒を始める予定だった。11月29日、2隻は12ノットで航行していたが、最高速度で急行するよう命令が下った。12月1日、2隻は中国艦隊の指揮下に入ったが、シンガポールに向かうよう命じられた。シンガポールに到着した2隻には、南シナ海北緯07度30分 東経103度00分 / 北緯7.500度 東経103.000度 / 7.500; 103.000から北緯08度 東経103度 / 北緯8度 東経103度 / 8; 103の海域の哨戒が命じられ、12月6日に出航した。12月8日、真珠湾攻撃により太平洋戦争大東亜戦争)が勃発し、オランダも日本に宣戦布告。日本軍はマレー作戦を発動しており、同日にはマレー半島東岸沖で日本の潜水艦「伊五六」が潜水艦を発見し追跡中に見失ったが、この潜水艦はK XVIIだったと考えられている[1]

12月8日、K XVIIはタイランド湾で哨戒を行った。同日、中国艦隊等が統合されて新編された東洋艦隊は、翌12月9日、O16とK XI、K XII、K XIII、K XVIIに東経180度一帯の哨戒を命じた。12月14日、K XVIIはイギリス領マラヤパハン沖を哨戒し、13時にK XIIと会合したのが、K XVIIが確認された最後だった。12月21日、K XVIIはタイランド湾から出ようとした際に日本軍の機雷に触れ沈没。乗員36人全員が死亡した[1]

沈没後[編集]

沈没後に刊行された『ニューズウィーク』1942年1月12日号の表紙をK XVIIの司令塔と艦載砲の写真が飾った[1]

1978年、ティオマン島沖の北緯03度10分 東経104度10分 / 北緯3.167度 東経104.167度 / 3.167; 104.167で潜水艦の残骸が見つかり、1982年にK XVIIと断定された[1]

1998年、ユニリーバがスポンサーとなり、シンガポールの日刊紙『ザ・ストレーツ・タイムズ』の潜水クルーがO16とK XVIIの撮影に成功した。しかし、この撮影はユニリーバが宣伝映像にするためだったことが明らかになり、抗議活動が起こったため映像は公開されなかった。その後、2000年と2003年、2005年にK XVIIとO16の写真が撮影された[1]

参考資料[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o Dutch Submarines: The submarine K XVII”. dutchsubmarines.com (2012年). 2021年5月4日閲覧。