黒野城

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黒野城
岐阜県
城址碑
城址碑
城郭構造 平城
築城主 加藤貞泰
遺構 水堀・土塁
指定文化財 岐阜市指定文化財
位置 北緯35度27分36.39秒
東経136度43分26.82秒

黒野城(くろのじょう)は、現在の日本の岐阜県岐阜市に、戦国時代から江戸時代にかけて存在した城である。

美濃国黒野藩の城であるが、わずか13年で廃城となった。

概要[編集]

古図によると東西・南北とも1キロメートルの方形をしており、四方に隅櫓を備えた城郭で、鉄砲の使用も考慮されていた[1]。面積は1万500平方メートル、水堀の周辺6,970平方メートルで、南西側に入城門があった[1]

歴史[編集]

1597年慶長2年)、加藤貞泰により築城される。

加藤氏は西美濃安藤氏の一族であり、代々美濃国黒野が所領であったという。土岐氏に仕えてていたが、加藤光泰(加藤貞泰の父)は斎藤氏豊臣秀吉に仕え、甲府24万石を与えられている。光泰は文禄の役に出陣したが、帰国途中の1593年文禄2年)に病死する。

子供の貞泰は幼少であるという理由で、美濃国厚見郡方県郡4万石に削封されてしまった。加藤貞泰は領地内の寺院を仮の住居とし、黒野城の築城に着手したという。

貞泰は黒野城の築城後、城下町の建設や、楽市制度の導入するなど基礎を固めていたが、1600年(慶長5年)、石田三成徳川家康が対立すると、西軍側の岐阜城城主織田秀信につき、竹中重門らと共に犬山城の警備を行う。しかし、岐阜城が落城すると東軍に和議を申し入れ、関ヶ原の戦いでは東軍に参戦する。貞泰は戦後、所領を安堵されたことにより、黒野城は黒野藩4万石の城となる。

1610年(慶長15年)、加藤貞泰は伯耆国米子藩6万石へ加増移封され、黒野藩は廃藩となった。これにより黒野城は廃城となる。

一説によれば、貞泰が長良川右岸の堤防整備を行った結果、長良川左岸の加納城が浸水したと、加納藩奥平信昌の正室・亀姫が実父・徳川家康に訴えたため、黒野藩は廃藩となったという。

現状[編集]

黒野城付近(1987年)国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成
  • 黒野城跡地は岐阜市史跡に指定されており[2]、公園として整備されている。
  • 本丸跡地にはグラウンドとなっており、水堀、高さ5mの土塁、城門の礎石などが残っている。ただし、本来の入り口は南側で旧状を留めていない。櫓があった部分も改変 されている。
  • 本丸北の多賀神社裏手に、東西に渡って外堀と土塁が残っている。黒野仲町側では、堀が鍵状になっているのが分かる。

 なお、本丸付近の水路は古図の堀と照らし合わせると、意外に合っているのが分かる。

交通機関[編集]

岐阜バス黒野線・岐阜大学病院線「折立平野総合病院前」下車、徒歩5分

9番のりば「御望野」「宝珠ハイツ」「西秋沢」行き
Eのりば「御望野」「宝珠ハイツ」「西秋沢」行き

脚注[編集]

  1. ^ a b 『日本城郭体系』9、新人物往来社、1979年、406 - 407頁。
  2. ^ 市指定文化財一覧”. 岐阜市. 2012年9月12日閲覧。

関連項目[編集]