黒野城

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黒野城
岐阜県
城址碑
城址碑
城郭構造 平城
築城主 加藤貞泰
遺構 水堀・土塁
指定文化財 岐阜市指定文化財
位置 北緯35度27分36.39秒
東経136度43分26.82秒

黒野城(くろのじょう)は、現在の日本の岐阜県岐阜市に、戦国時代から江戸時代にかけて存在した日本の城である。

美濃国黒野藩の城であるが、わずか16年で廃城となった。

概要[編集]

黒野城は平城本丸を中心に二の丸、三の丸と三重の堀に囲まれた輪郭式の曲輪。 規模は東西約1000m、南北約800m。

外堀の土塁は防御に適した凹凸形状の横矢構造で、要所には神社寺院風水思想で配置されていた。 郭内は二ノ丸・広小路・役所・道場・馬場・蔵屋敷など城の施設と、家臣196家の屋敷などが並んだ。

主な屋敷は土塁・堀に囲まれ、外敵に備えた環濠集落に似た構造である。南西側には、15の町屋敷が整然と配置されていた。

本丸の規模は約110m四方の方形。その土塁は高さ約5m、幅約15mの堀に囲まれていた。 入口は枡形虎口で織豊系城郭の特徴があり、現在の城址碑付近に石垣に囲まれた城門と橋があった。 本丸土塁上の北西と南東隅にはが設けられていた。

歴史[編集]

1594年文禄3年)、加藤貞泰により築城される。

加藤氏は西美濃安藤氏の一族であり、代々美濃国黒野が所領であったという。土岐氏に仕えてていたが、加藤光泰(加藤貞泰の父)は斎藤氏豊臣秀吉に仕え、甲府24万石を与えられている。光泰は文禄の役に出陣したが、帰国途中の1593年文禄2年)に病死する。

子供の貞泰は幼少であるという理由で、美濃国厚見郡方県郡4万石に削封されてしまった。加藤貞泰は領地内の寺院を仮の住居とし、黒野城の築城に着手したという。

1600年慶長5年)、石田三成徳川家康が対立すると、西軍側の岐阜城城主織田秀信につき、竹中重門らと共に犬山城の警備を行う。しかし、岐阜城が落城すると東軍に和議を申し入れ、関ヶ原の戦いでは東軍に参戦する。貞泰は戦後、所領を安堵されたことにより、黒野城は黒野藩4万石の城となる。

加藤貞泰は城下町を整えると共に治水事業を行い領内の生産を高め、1610年慶長15年)正月に楽市の免許を町に出した。また町人に対して土地の年貢と諸役を向こう5年間免除するとした。

1610年慶長15年)、加藤貞泰は伯耆国米子藩6万石へ加増移封され、黒野藩は廃藩となった。これにより黒野城は廃城となる。前述の政策もわずか半年の実施となった。

一説によれば、貞泰が長良川右岸の堤防整備を行った結果、長良川左岸の加納城が浸水したと、加納藩奥平信昌の正室・亀姫が実父・徳川家康に訴えたため、黒野藩は廃藩となったという。

現状[編集]

黒野城付近(1987年)国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成
  • 黒野城跡地は岐阜市史跡に指定されており[1]、公園として整備されている。
  • 本丸跡地はグラウンドとなっており、幅約15mの水堀、高さ5m傾斜45度の土塁、石垣などに使われた石材が残っている。
  • 現在の南側土塁は昭和時代に造成されたもので、造成の際に南側に橋、南西部は遊具が設置され虎口の原形の面影は少ない。
  • 本丸北の多賀神社裏手に、東西に650m、幅約4~5m、高さ約2mの空堀跡が残っている。さらに西約400mには土塁がL字形状に現存している。
  • 古図の外堀は現在では水路となっている場所が多数ある。また周囲には「二の丸」「惣門口」といった地名も残っている。
  • 2013年から発掘調査が進められており、2014年、入り口部分にて黒野城ではじめて石垣列が確認された。[2]

交通機関[編集]

岐阜バス黒野線「黒野城跡前」下車、徒歩約5分

8番のりば「御望野」「宝珠ハイツ」「西秋沢」「本巣市役所」行き
Eのりば「御望野」「宝珠ハイツ」「西秋沢」「本巣市役所」行き

脚注[編集]

  1. ^ 市指定文化財一覧”. 岐阜市. 2015年5月14日閲覧。
  2. ^ 岐阜市史跡 黒野城跡 発掘調査”. 岐阜市. 2015年5月15日閲覧。

外部リンク[編集]