鄭玄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

鄭 玄(てい げん[1]127年永建2年) - 200年建安5年))は、中国後漢末期の学者。青州北海郡高密県(山東省高密市)の出身。康成。父は鄭數。子は鄭益(字は益恩[2])。孫は鄭小同(字は子真[3])。

生涯[編集]

鄭玄の八世前には、哀帝の時に尚書僕射まで昇進した鄭崇がいる。

鄭玄は邑里の小役人に過ぎなかったが、貧窮を物ともせず学問に励んだ。役人としての仕事には熱心ではなかったので、父は怒ったが、学問を禁止する事はできなかった。22歳で太学へ進んだ。京兆の第五元先から『京氏易』・『公羊春秋』・『三統歴』・『九章算術』を学んだ。さらに東郡の張恭祖から『周官』・『礼記』・『左氏春秋』・『韓詩』・『古文尚書』の講義を受けた。

鄭玄はそれだけに飽き足らず、当時一流の儒学者だった馬融の元に盧植とともに留学した。馬融はたくさんの弟子を抱えており、元々驕貴な性格でもあった。このため、鄭玄は3年間も馬融に会う事すら叶わず、その弟子から指導を受けるに甘んじた。鄭玄は日夜を通じて学問に打ち込んだ。後に馬融との対面がようやく叶った鄭玄は、馬融の質問によく答えたため、馬融から感心された。

勉学に勤しむ事10数年、鄭玄は郷里に戻る事になった。馬融は非常にこれを惜しんだという。

鄭玄は家に戻ると弟子をとって学問を指導した。貧しい生活に変わりはなかったが、ある時、東萊へ耕しに出かけると、数百から数千ほどの学生が同行してくる程であった。党錮の禁が起き、同郡の孫嵩ら40人程が禁錮処分になると、鄭玄は儒学に専念するため、門を閉ざし外出しないようになった。

この頃、何休は公羊学を好み、『公羊墨守』・『左氏膏肓』・『穀梁廢疾』を著述した。鄭玄がそれらの著書に反論をしたところ、何休は鄭玄の才能に感嘆した。

かつて中興の後、范升・陳元・李育・賈逵らが古今の学問について争論した事があったが、鄭玄は馬融と共に古文学の理論を深めたという。

霊帝の末年、党錮の禁が解除されると、何進が鄭玄を招こうとした。州郡が何進の権威を楯に鄭玄を脅したため、鄭玄は止むを得ずその招きを受けた。何進が鄭玄を厚遇し丁重に扱ったが、鄭玄は一泊しただけですぐに逃走したという。この時、既に鄭玄は60歳になっていた。また、弟子の趙商ら数千人が遠方より鄭玄の元へ遥々駆け付けて来た。

袁隗が鄭玄を侍中に任命させようとすると、鄭玄は父の喪を理由に辞退した。孔融は鄭玄を深く敬い屋敷を造営し、鄭玄のために高密県へ布告を出して一郷を特別に設置させたという。

董卓長安に遷都すると、公卿らは鄭玄を趙国の相に推挙したが、道が途絶していたため命令が鄭玄の元まで届かなかった。青州で黄巾の残党が蜂起すると、鄭玄は徐州に避難した。

晩年には朝廷に徴されて、大司農となった。ただそれは、鄭玄の本意ではなかったため、職を離れて生涯を学問の研鑚に捧げた。陶謙は鄭玄と面会し師友の礼をとった。

建安元年(196年)、鄭玄は徐州を離れ高密県に帰還した。道々で黄巾の残党数万人と遭遇したが、賊らは鄭玄を見ると皆拝礼し、またお互いに県境へ侵入しないよう約束した。その後、鄭玄は病が篤くなったため子に書をしたためた。

この頃、袁紹冀州において版図を拡大していたが、鄭玄に使いを送り賓客として処遇しようとした。鄭玄は最も遅れてその場に現れたが、上座を与えられた。鄭玄は身長8尺で一斗の酒を飲み、眉目や容姿も優れていた。袁紹の元には豪俊な人物が大勢居り、鄭玄と大いに議論となったが、鄭玄の学識を前に皆が納得せざるを得なかった。当時、応劭が袁紹の元に居り、鄭玄に師事を願ってきたが、鄭玄は応じなかった。また袁紹が鄭玄を茂才に推挙し、左中郎将に任命させようとしたが、鄭玄は全て辞退した。やがて大司農に推薦された。この時は公車を差し向けられ、鄭玄専用の車と送迎の長吏も用意されていた。しかし鄭玄は病を理由に家に戻った。

建安5年(200年)春、夢枕に孔子が現れたため、鄭玄は自分の寿命が近い事を悟った。やがて病を得て寝たきりとなった。丁度、袁紹と曹操官渡で争っていた時期であり、袁紹は子の袁譚に命じて鄭玄を随軍させようとしたが、応じさせる事はできなかった。鄭玄は元城県まで来たところで病が篤くなり、同年6月に死去した。74歳であった。葬儀は薄葬とするよう遺言したという。

当時の儒教のほとんどの書籍に注を作成しており、また自らも多くの著作を残した。

鄭玄の門人で著名な者としては、郗慮王基崔琰らがいる。また、国淵や任嘏が幼い時、鄭玄は「2人は成長して立派な人物になるであろう」と予言し、後に的中させた。他に劉備が徐州を治めた時、門人の孫乾も仕官させている。劉備も鄭玄に教えを受け、後に家臣の諸葛亮に対し「これまで陳紀殿や鄭玄殿の所へ赴き、いつも政治について素晴らしい教えを受けていたが、大赦の話は両先生ともお話になったことがなかった。」といい、年ごとに大赦を行なっていた劉表劉璋らを批判している。[4]

子は、孔融から孝廉に推挙されたが、孔融が黄巾の残党に包囲された時、その恩に報いるため援助に赴き、黄巾の残党に殺害された。子が死んだ時、子の妻は身篭っていた。生まれた孫を見た鄭玄は、その手文(手相の事か?)が自分に似ているという理由で小同と名づけた。孫はに仕えたが、後に司馬昭に殺害された。

儒学者としての鄭玄[編集]

儒学史の流れから言えば、前漢代の経学今文学派が全盛であり、また一経を専修し、師説を継承するのを良しとした。後漢代には、古文学派が発展し、一人で複数の経典を兼修するのが常となった。

鄭玄の立場は、古文を主とし、今文・古文の諸説を統合して一家の説を形成するものであり、広く六経全般を研究した。その立場に対して批判する者もあったが、彼の経典解釈の功績は甚大であり、後世、朝の漢学考証学)のために重要な資料を提供する事となった。現存する『三礼注』や『毛詩鄭箋』は、それらを代表するものである。

三国志演義[編集]

小説『三国志演義』にも登場する。劉備が袁術を討った後、曹操から自立して袁紹と手を結ぶのに協力し、依頼を受けて袁紹への推薦状をしたためている。袁紹は袁術を討った劉備を恨んでいたが、鄭玄の手紙を見て劉備への態度を一転させ、同盟関係を結ぶ事になっている。

脚注[編集]

  1. ^ 中国人名は漢音で読まれる事が多いが、鄭玄のように古くから日本で知名度の高い人物は古代の呉音が残るので、「じょう げん」と呼ばれる事が多い。
  2. ^ 『鄭玄別伝』
  3. ^ 『真誥』
  4. ^ 『三国志』後主伝に引く「華陽国志」に諸葛亮の言葉として、「先帝亦言吾周旋陳元方﹑鄭康成閒,每見啟告,治亂之道悉矣,曾不語赦也。若劉景升﹑季玉父子,歲歲赦宥,何益於治。」とある。

参考資料[編集]

関連項目[編集]