現代ラサ・チベット語の文法

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本項目では、中央チベット語のうちラサ市周辺で話される変種である標準チベット語英語: Standard Tibetan; チベット語: སྤྱི་སྐད་, ワイリー方式: spyi skad)[1]形態論及び統語論について概説する。チベット人共通語である標準チベット語は、ラサ・チベット語(Lhasa Tibetan; ལྷ་སའི་སྐད་, lha sa’i skad)とも呼ばれている[注釈 1][2][3][4]

語順[編集]

標準チベット語はSOV型の言語である[5]

名詞句は基本的に以下の語順を取る[6]

  主要部  形容詞 指示詞 数詞[注釈 2] 限定詞[注釈 3] 標識 話題標識
ཁང་པ་ ཆེན་པོ་ གསུམ་ འདི་ གྱད་ ལ་ ནི་
khang pa chen po gsum ‘di gyad la ni
大きい-名詞化 これ 複数 処格 話題
「これら三件の大きな家では...」

形容詞は主要部名詞に後置させるだけでなく、属格標識を介して前置させることもできる[7]

  • གྲོང་ཁྱེར་རྒྱ་ཆེན་པོ grong khyer rgya chen po(街-広い)「広い街」
  • རྒྱ་ཆེན་པོའི་གྲོང་ཁྱེར rgya chen po'i grong khyer (広い-の-街)「広い街」

名詞類[編集]

代名詞[編集]

標準チベット語では、人称及びに応じて異なる人称代名詞を使用する。二人称では敬意のレベル、三人称ではさらに性別に応じた区別も見られる[8]

一人称  二人称 三人称
単数 ང་ nga ཁྱོད་ khyod ཁོ་ kho「彼」
རང་ rang མོ་ mo「彼女」
ཁྱེད་རང་ khyed rang(敬) ཁོང་ khong「彼/彼女」(敬)
双数 ང་གཉིས་ nga gnyis ཁྱོད་རང་གཉིས་ khyod rang gnyis ཁོ་གཉིས་ kho gnyis
ཁྱེད་རང་གཉིས་ khyed rang gnyis(敬) ཁོང་གཉིས་ khong gnyis (敬)
複数 ང་ nga tsho ཁྱོད་རང་ཚོ་ khyod rang tsho ཁོ་རང་ཚོ་ kho rang tsho
ཁྱེད་རང་ཚོ་ khyed rang tsho(敬) ཁོང་ཚོ་ khong tsho(敬)
ཁྱེད་རྣམ་ཚོ་ khyed rnam tsho(最敬) ཁོང་རྣམ་ཚོ་ khong rnam tsho(最敬)

指示詞[編集]

標準チベット語では、指示物と話者の距離のみならず、話者から見た指示物の位置にも応じて異なる指示詞を使用する。[9]

  • འདི ’di:近称
  • དེ de:中称
  • ཕ་གི pha gi:遠称
  • ཡ་གི ya gi:話者の上方
  • མ་གི་ ma gi:話者の下方

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接尾辞のཚོ་ tshoは、代名詞や指示詞に付して複数を標示する[10]。名詞の数は通常標示されないものの、定(definite)/ 特定(specific)の人物を指すに限り接尾辞tshoで複数が標示される(他の有情名詞や無情名詞には付かない)[10]

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文法性はチベット語に存在しないが、語彙的ないし形態論的な手段で性差が表される名詞もある[11]

  • གཡག་ g.yag「雄ヤク
  • འབྲི་ ’bri「雌ヤク」
  • ཁམས་པ་ khams pa「カム人」
  • ཁམས་མོ་ khams mo「カム人女性」
  • མཛོ་ mdzo「
  • མཛོ་མོ་ mdzo mo「メスの

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標準チベット語は能格言語である。格は、絶対格・能格・属格斜格与格-処格)・奪格共格の6つを認める。絶対格以外は格マーカーによって標示される[12]

  • གིས gis:能格
  • གི gi:属格
  • ལ la:斜格
  • ནས nas:奪格
  • དང dang:共格

これらの格マーカーは、先行する要素に応じていくつかの異形態(または allograph)を取りうる[13]

関係名詞[編集]

標準チベット語においては、事物の空間的位置を表す関係名詞がいくつか見られる[14]

動詞[編集]

動詞の分類[編集]

標準チベット語の動詞は、行為者に制御可能な動作を表す意志動詞とそれ以外の無意志動詞に区別できる。意志動詞は話し手の意図を表す助動詞(pa yin)と共起できる、命令標識と共起できるといった性質を持つ[15][16]

また、チベット語の動詞は、目的語を取る他動詞とそれ以外の自動詞に区別することもできる[15]。以下の表は、チベット語における動詞の分類をまとめたものである[17]

意志動詞 無意志動詞
他動詞 ལྟ་ lta「見る」 མཐོང་ mthong「見える」
ཉན་ nyan「聞く」 གོ་ go「聞こえる」
བཟོ་ bzo「作る」 ཧ་གོ་ ha go「分かる」
自動詞 ཉལ་ nyal「横たわる」 ན་ na「病む」
ལང་ lang「起き上がる」 ཤི་ shi「死ぬ」
འགྲོ་ ‘gro「行く」 དྲག་ drag「回復する」

チベット語には、一定の音韻的交替に基づく意志動詞と無意志動詞も認められる[18]

意志動詞 無意志動詞
སྐོལ་ skol / ̄köö/「沸かす」 འཁོལ་ ‘khol / ̄khöö/「沸く」
སྙིལ་ snyil / ̄nyir/「崩す」 ཉིལ་ nyil / ́nyir/「崩れる」
སྒུལ་ sgul / ́küü/「動かす」 འགུལ་‘gul / ́güü/「動く」

なお、語頭の有気性や有声性に応じて動詞の他動性が交替する現象は、漢語を含む他のシナ・チベット語においてもしばしば観察されている[19]

語幹[編集]

現代標準チベット語の動詞においては、非完了形、完了形、命令形が区別される。ただし、実際に語形変化が生じる動詞は少数である。星 (2003) に収録された約1,000の動詞の中では、1割程度を占めるすぎない[20]

助動詞[編集]

助動詞[注釈 4] は動詞に後続して時制アスペクト証拠性/エゴフォリシティを標示する[21]

ego non-ego[注釈 5] 直接証拠性 間接証拠性
完結 པ་ཡིན་ pa yin པ་རེད་ pa red སོང་ song ཞག་ zhag
完了 ཡོད་ yod ཡོག་རེད་ yog red འདུག་ ‘dug
未完了 གི་ཡོད་ gi yod གི་ཡོག་རེད་ gi yog red གི་་འདུག་ ~ གིས་ gi ’dug / gis
未来 གི་ཡིན་ gi yin གི་རེད་ gi red

直接証拠性[注釈 6]は発話者が五感で直接得た情報を、間接証拠性[注釈 7]は発話者が何らかの痕跡から推測して得た情報を標示する。

  • གངས་བཏང་སོང། (gang btang song)

 「雪が降った。」(降っているのを見て知った)[22]

  • གངས་བཏང་བཞག། (gang btang bzhag)

 「雪が降った。」(積もっているのを見て知った)[23]

名詞化と関係節[編集]

現代標準チベット語の動詞やは、རྒྱུ་ rgyu、ཡག་ yag、ས་ sa、མཁན་ mkhan、པ་ paといった名詞化辞を後続させることで名詞化できる[24][25]。こうした名詞化節は、関係節ないし連体修飾節としても用いられる[24][25]

関係節とそれが修飾する名詞の語順には、以下の3パターンが認められる[26]

(1) 関係節+属格標識+名詞

ཁོས་བཅག་པའི་ཆུ་ཚོད་ངའི་ཡིན།
khos bcag pa'i chu tshod nga'i yin
彼-能格 壊す:完了 名詞化-属格 時計 私-属格 コピュラ

(2) 名詞+関係節

ཆུ་ཚོད་ཁོས་བཅག་པ་ངའི་ཡིན།
chu tshod khos bcag pa nga'i yin
時計 彼-能格 壊す:完了 名詞化 私-属格 コピュラ

(3) 主要部内在型関係節

ཁོས་ཆུ་ཚོད་བཅག་པ་དེ་ངའི་ཡིན།
khos chu tshod bcag pa de nga'i yin
彼-能格 時計 壊す:完了 名詞化 指示詞 私-属格 コピュラ
「彼が壊した時計は、私のだ。」

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ただし、ラサで用いられるチベット語の特徴が、周辺地域においても見られるとは限らない。
  2. ^ Denwood (1999) は指示詞と数詞を共に“deictic(s)”として記述している。DeLancey (2003:273) は無標な語順において指示詞は数詞に先行すると述べているが、本項目で用いた例においては両者の出現位置が逆転している。
  3. ^ Denwood (1999) はこれを“numerator”として記述している。
  4. ^ Tournadre & Dorje (2003) は"auxiliary"、星(2003)は「述語動詞」、DeLancey (2018) は”verb ending”と呼称している。
  5. ^ DeLancey (2018) は”factual”という用語を用いている。
  6. ^ Tournadre & Dorje (2003) の用語では"testimonial"。
  7. ^ Tournadre & Dorje (2003) の用語では"inferential"。

出典[編集]

  1. ^ Tournadre & Dorje 2003, p. 25.
  2. ^ Tournadre & Dorje 2003, p. 26.
  3. ^ Denwood 1999, pp. 34–35.
  4. ^ DeLancey 2003, p. 270.
  5. ^ DeLancey 2003, p. 273.
  6. ^ Denwood 1999, p. 98-99.
  7. ^ 白井 1999, p. 59.
  8. ^ Tournadre & Dorje 2003, p. 92.
  9. ^ Denwood 1999, pp. 93–94.
  10. ^ a b Tournadre & Dorje 2003, p. 86.
  11. ^ Tournadre & Dorje 2003, p. 87.
  12. ^ Tournadre & Dorje 2003, pp. 100–101.
  13. ^ DeLancey 2003, p. 274.
  14. ^ DeLancey 2003, p. 275.
  15. ^ a b Tournadre & Dorje 2003, p. 141.
  16. ^ 星 2003, p. 42.
  17. ^ Tournadre & Dorje 2003, p. 142.
  18. ^ 星 2003, pp. 42–44.
  19. ^ LaPolla 2003, p. 23.
  20. ^ 星 2003, p. 44.
  21. ^ DeLancey 2018, p. 587.
  22. ^ Tournadre & Dorje 2003, p. 167.
  23. ^ Tournadre & Dorje 2003, p. 168.
  24. ^ a b DeLancey 2003, p. 276.
  25. ^ a b 星 2003, pp. 58–60.
  26. ^ 白井 1999, p. 60.

参考文献[編集]

  • DeLancey, Scott (2003). “Lhasa Tibetan”. The Sino-Tibetan Languages. London: Routledge. pp. 270–288 
  • DeLancey, Scott (2018). “Evidentiality in Tibetic”. The Oxford Handbook of Evidentiality. Oxford University Press. pp. 580-594. doi:10.1093/oxfordhb/9780198759515.013.27. ISBN 0-19-875951-7 
  • LaPolla, Randy J. (2003). “Overview of Sino-Tibetan morphosyntax”. The Sino-Tibetan Languages. London: Routledge. pp. 22-44