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著書に『嫁姑合戦―えり子の場合』『走りつづけてー父・山谷親平五千六百一回目の朝』など多数。
著書に『嫁姑合戦―えり子の場合』『走りつづけてー父・山谷親平五千六百一回目の朝』など多数。


父親は[[ニッポン放送]]で「お早うニッポン」を担当、「パーソナリティ」という言葉を日本で初めて使ったといわれる故・山谷親平(元[[福井新聞]]、産経新聞記者)。山谷親平は、実家が福井の芦原温泉で芸者が頻繁に出入りする旅館を経営していた影響で、若いころから早熟であった。この経験は後にラジオの人生相談で生かされることになる。文芸春秋1975年6月号山谷親平「セックス相談3万件」


基本的な政治姿勢は[[保守]]である。[[ジェンダーフリー]]教育に反対し、[[家庭科]]の教科書や教育機関での問題のある[[性教育]]を、国会で取り上げた。平成17年には、過激な性教育についての自民党プロジェクト・チーム事務局長として、全国調査を行い全国より約3500の事例を集め、教育現場の異常な実態を明らかにした。この調査結果が基となり、昨年暮れの「第2次男女共同参画基本計画」改定の際、ジェンダーの定義、ジェンダー・フリー教育が現行法上認められないことが、基本計画に明記された。
基本的な政治姿勢は[[保守]]である。[[ジェンダーフリー]]教育に反対し、[[家庭科]]の教科書や教育機関での問題のある[[性教育]]を、国会で取り上げた。平成17年には、過激な性教育についての自民党プロジェクト・チーム事務局長として、全国調査を行い全国より約3500の事例を集め、教育現場の異常な実態を明らかにした。この調査結果が基となり、昨年暮れの「第2次男女共同参画基本計画」改定の際、ジェンダーの定義、ジェンダー・フリー教育が現行法上認められないことが、基本計画に明記された。

2006年9月5日 (火) 02:32時点における版

参議院議員 山谷えり子
生年月日1950年9月19日
出身地東京都武蔵野市生まれ
最終学歴聖心女子大学文学部
前職ジャーナリスト
衆議院議員
役職内閣府大臣政務官
世襲の有無世襲ではない
選挙区参議院比例区
当選回数1回(衆議院1回)
所属党派(民社党→)
(民主党→)
(保守新党→)
自由民主党(清和政策研究会
党の役職-
会館号室参議院議員会館611号室
ウェブサイト参議院議員 山谷えり子

山谷 えり子(やまたに えりこ、本名・小川 惠里子、1950年9月19日 - )は、日本政治家自由民主党清和政策研究会所属の参議院議員(1期)。衆議院議員(1期)。東京都武蔵野市生まれ。 都立駒場高校聖心女子大学文学部心理学科を卒業、出版社に入社、のち渡米。1985年3月サンケイリビング新聞編集長になる。テレビキャスター、エッセイスト、中央児童福祉審議会委員などを歴任。 1989年第15回参議院議員通常選挙民社党比例候補。2000年6月の第42回衆議院議員総選挙民主党比例区東海ブロック一位で出馬し初当選 。2002年12月、熊谷弘らとともに民主党を離党。自民党や保守党への参加は比例代表選出議員の政党間移動が禁止されているため、新たに保守新党結党に参加。2003年衆議院選挙では当初東京3区からの出馬を予定していたが石原宏高も3区からの出馬を表明したため、急遽国替え東京4区から出馬するも落選。2004年7月の第20回参議院議員通常選挙では仏所護念会教団等幅広い保守層の支持を受け自民党より比例区に出馬し当選。2005年11月内閣府大臣政務官に就任。日本会議国会議員懇談会監事、神道政治連盟国会議員懇談会の副幹事長[1]、平和靖国議員連盟の幹事長として首相の靖国神社参拝を求める運動を推進している。 但し本人はカトリック信徒。

著書に『嫁姑合戦―えり子の場合』『走りつづけてー父・山谷親平五千六百一回目の朝』など多数。

父親はニッポン放送で「お早うニッポン」を担当、「パーソナリティ」という言葉を日本で初めて使ったといわれる故・山谷親平(元福井新聞、産経新聞記者)。山谷親平は、実家が福井の芦原温泉で芸者が頻繁に出入りする旅館を経営していた影響で、若いころから早熟であった。この経験は後にラジオの人生相談で生かされることになる。文芸春秋1975年6月号山谷親平「セックス相談3万件」

基本的な政治姿勢は保守である。ジェンダーフリー教育に反対し、家庭科の教科書や教育機関での問題のある性教育を、国会で取り上げた。平成17年には、過激な性教育についての自民党プロジェクト・チーム事務局長として、全国調査を行い全国より約3500の事例を集め、教育現場の異常な実態を明らかにした。この調査結果が基となり、昨年暮れの「第2次男女共同参画基本計画」改定の際、ジェンダーの定義、ジェンダー・フリー教育が現行法上認められないことが、基本計画に明記された。
山谷は結婚後も旧姓を名乗り、2000年9月には夫婦別姓選択制導入などを盛り込んだ民法改正案の推進を求める申し入れに署名[2]する等、夫婦別姓推進論者であったが、一転、2001年11月統一教会系の日刊紙世界日報における夫婦別姓反対インタビュー[3]では2回にわたって夫婦別姓に慎重な姿勢を表明した。
2005年衆院解散で山谷も刺客としての出馬を打診されたが固辞 (日刊県民福井2005年8月12日 [4])、代わりに8月15日雑誌の取材で靖国神社にいた稲田朋美を衆議院候補にスカウト (読売新聞2006年1月12日)。
元衆議院議員の米田建三を「よねけん兄さん」と呼んで慕っており、2007年の参議院選挙に出馬予定の米田を全面的に支援すると表明[5]している。


関連項目

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