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1955年3月2日、[[熊本県]]八代郡金剛村(現・[[八代市]])の畳職人の家庭に生まれた。片目が不自由だったため、6歳から20歳までを寄宿制の熊本県立盲学校で過ごし、針灸術を学ぶ。[[1973年]]3月同校を卒業後、[[東京大学|東大]]受験をめざし、[[1977年]]4月[[代々木ゼミナール]]渋谷校に入学したが、失敗に終わる。
1955年3月2日、[[熊本県]]八代郡金剛村(現・[[八代市]])の畳職人の家庭に生まれた。片目が不自由だったため、6歳から20歳までを寄宿制の熊本県立盲学校で過ごし、針灸術を学ぶ。[[1973年]]3月同校を卒業後、[[東京大学|東大]]受験をめざし、[[1977年]]4月[[代々木ゼミナール]]渋谷校に入学したが、失敗に終わる。


[[1976年]][[7月]]、知人を殴打する。これにより[[傷害罪]]で[[罰金|罰金刑]]を受ける。1977年頃から[[仙道]]や[[ヨーガ|ヨガ]]の修行を始める。 [[1978年]]、代々木ゼミナール池袋校で知り合った妻・知子と結婚して[[千葉県]][[船橋市]]で針灸院「松本針灸院」を開業。のちに「亜細亜堂」と名前を改め診察室兼漢方薬局の経営に転じ、経営は順調だったが、[[1980年]]保険料の不正請求が発覚し、670万円の返還を要求される。その後、[[新宗教|新興宗教]]団体[[阿含宗]]に入信。
[[1976年]][[7月]]、知人を殴打する。これにより[[傷害罪]]で[[罰金|罰金刑]]を受ける。1977年頃から[[仙道]]や[[ヨーガ|ヨガ]]の修行を始める。 [[1978年]]、代々木ゼミナール渋谷校で知り合った妻・知子と結婚して[[千葉県]][[船橋市]]で針灸院「松本針灸院」を開業。のちに「亜細亜堂」と名前を改め診察室兼漢方薬局の経営に転じ、経営は順調だったが、[[1980年]]保険料の不正請求が発覚し、670万円の返還を要求される。その後、[[新宗教|新興宗教]]団体[[阿含宗]]に入信。
[[1981年]]、健康薬品販売店「BMA薬局」を開局したものの、[[1982年]]に無許可の[[医薬品]]を製造販売したため[[薬事法]]違反で[[逮捕]]され、罰金刑(20万円)を受ける。
[[1981年]]、健康薬品販売店「BMA薬局」を開局したものの、[[1982年]]に無許可の[[医薬品]]を製造販売したため[[薬事法]]違反で[[逮捕]]され、罰金刑(20万円)を受ける。



2006年5月7日 (日) 11:58時点における版

麻原 彰晃あさはら しょうこう1955年3月2日 - )は、宗教団体オウム真理教の元代表で教祖

本名は松本 智津夫(まつもと ちづお)。著書では「真理の御魂 最聖 麻原彰晃尊師」名義を用いていた。信者からは尊師、もしくは本来ヒンドゥー教の導師を指すグルと呼ばれ、崇拝の対象となっている。

経歴

1955年3月2日、熊本県八代郡金剛村(現・八代市)の畳職人の家庭に生まれた。片目が不自由だったため、6歳から20歳までを寄宿制の熊本県立盲学校で過ごし、針灸術を学ぶ。1973年3月同校を卒業後、東大受験をめざし、1977年4月代々木ゼミナール渋谷校に入学したが、失敗に終わる。

1976年7月、知人を殴打する。これにより傷害罪罰金刑を受ける。1977年頃から仙道ヨガの修行を始める。 1978年、代々木ゼミナール渋谷校で知り合った妻・知子と結婚して千葉県船橋市で針灸院「松本針灸院」を開業。のちに「亜細亜堂」と名前を改め診察室兼漢方薬局の経営に転じ、経営は順調だったが、1980年保険料の不正請求が発覚し、670万円の返還を要求される。その後、新興宗教団体阿含宗に入信。 1981年、健康薬品販売店「BMA薬局」を開局したものの、1982年に無許可の医薬品を製造販売したため薬事法違反で逮捕され、罰金刑(20万円)を受ける。

1984年東京都渋谷区にヨガ道場「オウムの会」を結成し、株式会社オウムを設立。松本は麻原彰晃を名乗り始める。 1986年ヒマラヤで最終解脱と称す。同年、「オウムの会」を「オウム神仙の会」と改称。 1987年、さらに「オウム神仙の会」を「オウム真理教」に改称する。空中浮遊などのショー的なアピールで徐々に信者を獲得していく。

1995年5月16日山梨県上九一色村(現・富士河口湖町)のオウム真理教の教団施設で地下鉄サリン事件松本サリン事件など、オウム真理教が関係したとされる一連の事件の容疑者として逮捕された。

逮捕後の経過

1996年4月24日、一審の初公判。公判では突如英語を話したり、居眠りをしたりなどの異常な行動が目立ち、しばしば裁判長から注意を受ける。起訴案件の罪状認否に関しては留保した。

1997年4月、保留していた罪状認否について、起訴された17事件のうち16事件で無罪を主張。その後、検察は長期裁判を避けるため薬物密造4事件を起訴を取り下げ、案件を13事件を絞り込む。

2003年4月、一審の論告求刑公判で死刑求刑され、「わが国の犯罪史上最も凶悪な犯罪者」と指弾された。2003年10月31日、弁護側が「一連の事件は弟子たちの暴走であり被告は無罪」旨の最終弁論を行い一審が結審。2004年2月27日、一連の容疑に対して東京地方裁判所は求刑通り死刑の判決を言い渡した。これに対し弁護側は東京高等裁判所に即日控訴した。

彼の弁護団は1審判決後、彼が弁護団の問いかけに一切反応せず意思疎通が不可能であることや、弁護側が依頼した6人の精神科医が彼には裁判を受ける能力がないと意見していることなどを挙げ、裁判の停止を求め、控訴審の開始のために必要な控訴趣意書の提出を、2005年8月31日の期限を過ぎても拒み続けていた。

控訴審の開始手続きに関連して、裁判所側が依頼した医師による精神鑑定も行なわれたが、この鑑定で彼には裁判を受ける能力があるとされたことを受け、2006年3月27日に東京高等裁判所は、弁護側の控訴を棄却する決定をした。この控訴棄却の決定は、控訴審の審理が結審した後に下される控訴棄却の判決とは異なり、控訴趣意書が正当な理由なく期限までに提出されなかったため、刑事訴訟法の規定に従って、控訴審を開始せずに裁判を打ち切るという決定である。

弁護団はこの決定に対し、2006年3月30日に東京高等裁判所へ異議申し立てを行ったが、もし、この申し立てが棄却され、さらに最高裁判所への特別抗告も棄却されれば、1審の死刑判決が確定することになる。

起訴された罪状

(途中で取り下げた罪状は含まない)

入学拒否問題

彼の三女は和光大学の入試に合格し、一度は入学を許可されたにもかかわらず、2004年3月12日に大学から入学を拒否された。三女らは和光大学を提訴し、東京地裁は「入学拒否は違法」と認定、和光大学に損害賠償を命じた。

その後、同じく入試に合格していた文教大学からも入学を拒否されたが、学生としての地位保全を求める仮処分を申請。東京地裁がこれを認め、入学拒否は違法であるとの判断が再びなされたため、入学することとなった。

さらに2006年2月7日、今度は次男が春日部共栄中学校に合格したものの、松本被告の息子だという理由で入学を拒否された。次男らは、憲法で禁止された不当な差別によって精神的苦痛を受けたとして、共栄中学校に損害賠償を求める訴えをおこした。

関連項目

外部リンク