河野傳

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河野 傳河野 伝)(こうの つとう、1896年明治29年) - 1963年昭和38年)10月24日)は、日本建築家技術者経営者宮崎県出身。旧国立駅舎の設計者と考えられている。

来歴[編集]

1896年(明治29年)に、宮崎県児湯郡美々津村(現:宮崎県日向市)の廻船問屋・河内屋[1]の河野勢蔵、リサの長男として出生[2]。美々津村立美々津尋常小学校(現:日向市立美々津小学校)、宮崎県立宮崎中学校(現:宮崎県立宮崎大宮高等学校)を経て、京都高等工芸学校図案科(現:京都工芸繊維大学)にて本野精吾の下で建築を学ぶ[3]。卒業後、建築家となり、フランク・ロイド・ライトに師事し、帝国ホテル新館(ライト館)の建設に携わる[4]1923年大正12年)には上野陽一邸の設計を手掛けている[5]

帝国ホテル建設後は、箱根土地(現:プリンスホテル)に入社。堤康次郎の下で、渋谷区百軒町の劇場、池袋白雲閣、軽井沢グリーンホテル、目白文化村のN氏邸[6][7][8][9][10]等の設計に携わる[4]。また、箱根土地が建設した国立駅の設計者と考えられている(後述)。

太平洋戦争後は渡米してトーキー製作技術を学び、トーキースタジオであるコーノトーン映画録音研究所を設立して独立[4]。ドキュメンタリー映画『音感』(大都映画文化映画部第1回作品)[11]、『オモチャの科学』[12]の企画・製作を行った。その後は洋明化学株式会社を起こし、万能ハンドクリーナーの開発、製造を行った[4]

1963年(昭和38年)10月24日に67歳で死去[4]

国立駅の設計者[編集]

1926年(大正15年)、箱根土地が東京府北多摩郡谷保村(現:東京都国立市)に開発した学園都市への住民誘致のために、中央本線国分寺駅立川駅との間に「国立駅」を作って鉄道省に譲渡した。イギリス田園都市レッチワースの小住宅のデザインを取り入れたとされる三角切妻屋根の建物である[13]。中央本線連続立体交差化事業に伴い2006年に解体されたが、国立市により文化財の指定を受け、2020年に再建されている。

国立駅舎の設計者については資料が残っておらず、1972年に当時の国立駅長がガリ版刷りの非公式冊子に「箱根土地会社のライト式建築のベテランで河野という人の設計と聞きました」[14]と言及しているのみであった。2013年に長内敏之が、F.L.ライトの下で帝国ホテルの建設に従事し、その後箱根土地株式会社に入社した河野傳という人物について著書で紹介した[15]

設計図面など一次資料での裏付けは欠くものの、現在、国立駅の設計者は河野傳であると考えられている[16]

脚注[編集]

  1. ^ 現:日向市歴史民俗資料館
  2. ^ 妹は後に新聞記者・黒木磐石の妻となる。黒木の寄贈した蔵書が日向市歴史民俗資料館内にある。“九州16日目 日向市美々津の町並、西の正倉院、若山牧水生家”. いちご畑よ永遠に - Yahoo!ブログ. (2009年7月9日). http://blogs.yahoo.co.jp/yuuutunarutouha/29919125.html 2013年11月9日閲覧。 
  3. ^ “東京・旧国立駅舎(大正モダン建築探訪)”. 関根要太郎研究室@はこだて. (2020年9月5日). https://fkaidofudo.exblog.jp/31353693/ 2021年3月5日閲覧。 
  4. ^ a b c d e “国立駅の設計者 河野傳(つとう)”. 長内敏之(国立市の市議会議員)ブログ. (2010年2月27日). http://osa.blog.ocn.ne.jp/osa/2010/02/post_08c3.html 2013年10月13日閲覧。 
  5. ^ 『建築画報』第5巻6号 (1924.6) 口絵。井上祐一, 初田亨「建築家・南信の経歴と住宅作品にみられる特徴について」『日本建築学会計画系論文集』第68巻第571号、日本建築学会、2003年、129-136頁、CRID 1390282679758912000doi:10.3130/aija.68.129_2hdl:10457/1076ISSN 13404210 
  6. ^ “吉屋信子の散歩道。気になる目白文化村”. 落合道人 Ochiai-Dojin. (2005年2月3日). https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2005-01-26-1 2013年11月9日閲覧。 
  7. ^ 1923年(大正12)当時のN邸間取り
  8. ^ “第一文化村のN邸を拝見する。気になる下落合”. 落合道人 Ochiai-Dojin. (2007年7月8日). https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2007-07-08 2013年11月9日閲覧。 
  9. ^ “再現・目白文化村を散歩する吉屋信子。気になる下落合”. 落合道人 Ochiai-Dojin. (2007年7月12日). https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2007-07-12 2013年11月9日閲覧。 
  10. ^ この他、同じ目白文化村内にあったK氏邸も河野の設計と伝わっている。“1923年(大正12)の「目白文化村」の夏。気になる下落合”. 落合道人 Ochiai-Dojin. (2010年7月23日). https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2010-07-23 2013年11月9日閲覧。 
  11. ^ 日本映画情報システム『音感』
  12. ^ 日本映画情報システム『オモチャの科学』
  13. ^ “旧国立駅舎は都内有数の歴史ある駅舎です”. 国立市役所ホームページ. (2010年7月8日). https://web.archive.org/web/20150322085535/http://www.city.kunitachi.tokyo.jp/ekishuhen/kyuekisha/001507.html 2013年10月13日閲覧。 
  14. ^ 『国立駅周辺プラン報告書』(2000年)[1]、P12に引用。
  15. ^ 『「くにたち大学町」の誕生―後藤新平・佐野善作・堤康次郎との関わりから』(けやき出版、2013年)
  16. ^ 国立市『三角屋根でまちあわせ 旧国立駅舎History book(歴史本)』(2019年)p6[2]による。国立新書編集委員会『旧国立駅舎』(国立市、2022年)[3]も河野の経歴を詳しく記載している。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

  • ライトと日本の窓 - フランク・ロイド・ライトを囲んでの集合写真中、左から2番目の人物が河野とされる。