おせんころがし殺人事件

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おせんころがし殺人事件(おせんころがしさつじんじけん)は、1952年昭和27年)10月11日に、千葉県勝浦市にある断崖、通称「おせんころがし」で起こった殺人事件である。母子3人が1人の男に強姦され、殺害された。また、この事件の同一犯人の起こした合計8人の連続殺人事件の通称でもある。

[編集] 事件の概要

この事件の犯人・栗田源蔵(くりた げんぞう、1926年11月3日 - 1959年10月14日)は、秋田県の極貧家庭に生まれた。川漁師だった父親は病弱だったため母親が家計を支えていたが、典型的な「貧乏人の子沢山」で、源蔵は両親から放置されながら成長した。さらに源蔵は夜尿症小学校就学期になっても直らず、学校では尿臭が原因でいじめに遭っていた。小学校卒業後は農家に下男として奉公するものの、やはり夜尿症が原因で嫌われて追い出され、1年間に10回以上も奉公先を代わらざるを得なくなる。この夜尿症は後の死刑執行直前ごろまで彼を悩ませ、心身を蝕んでいった。

1948年ヤミ商売のブローカーとして生計を立てていた源蔵は、三角関係のもつれから静岡県において交際女性を2人とも殺害した。さらに1951年8月8日栃木県で子供を寝かしつけようとしていた主婦を強姦しながら絞殺した揚句、死姦した。10月10日には千葉県勝浦駅において行商に出たまま行方不明になった夫を探すために偶々同駅に降り立った母子4名[1]を誘い出し、日付が変わり翌日深夜長男と長女を断崖絶壁の「おせんころがし」にて投げ落とした挙句、主婦を強姦して背中に背負っていた次女ごと投げ落とした。被害者達は崖の途中に止まっていたが、犯人はそんな被害者達を石で殴打し殺害した。長女だけは軽傷で隠れていたため奇跡的に生き延びる事ができた。1952年1月13日、千葉県検見川町(現在の千葉市花見川区)で主婦と叔母が殺され、主婦は死姦された。この際指紋が検出され、これにより犯人が割り出され逮捕された。

まず、1952年1月13日の事件で千葉地裁1952年8月13日死刑判決。1953年12月21日宇都宮地裁で他の件に関して死刑判決。控訴は取り下げたものの、判決後は衰弱がひどく、再審を繰り返す。1959年10月14日に死刑は執行された。一審で二つの死刑判決を受けた初の例でもあり、後に警察庁広域重要指定事件113号が起こるまでは、この例は裁判例としては死刑を二つ宣告された唯一の例だった[2]。また、1956年に死刑を廃止か存続かの問題で国会で論争になった際には、死刑存置論者に「凶悪無比な特殊な極悪人」として矛先に挙げられた[3]

本人は「懺悔録」という手記を書いている。曰く、「女と寝る時は叩いたり、締めたりすると、とてもいいぞ」と9歳の頃老人に言われたとの事である。本人はこの書物を売ろうとしたが断られてしまった。

あまりにも残虐な事件であるため、死刑賛成派[誰?]が死刑反対派[誰?]に対して、「世の中には矯正不可能な犯罪者が存在する」として、死刑制度を存続させる根拠として取り上げられることがある。

[編集] 脚注

  1. ^ 石井暉二「おせんころがし殺人事件」『千葉大百科事典』(千葉日報社、1982年)
  2. ^ 1965年3月には前橋地裁1976年2月には松山地裁で、一人の被告人に対し、二つの死刑判決が宣告された例があるが、控訴審で前者は無期懲役に、後者は一つの殺人について無期懲役に減刑されている。松山の例は残る一つの殺人については死刑が確定し、すでに執行されている。
  3. ^ 第024回国会 法務委員会公聴会 第2号

[編集] 関連項目

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