木下尚江

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
木下尚江

木下 尚江(きのした なおえ、1869年10月12日明治2年9月8日)- 1937年昭和12年)11月5日)は、日本社会運動家、作家。男性。尚江は本名。

生涯[編集]

信濃国松本城下(現長野県松本市)に松本藩士・木下廉左衛門秀勝の子として生まれる。長野県中学校松本支校を経て、1888年(明治21年)、東京専門学校を卒業する。オリバー・クロムウェルの影響を受け、法律を学ぶ。松本に戻り、しばらくは地元でローカル紙「信陽日報」の記者や社会運動家、弁護士などの活動をする。25歳で松本美以教会の中田久吉牧師より、キリスト教の洗礼を受ける。1899年(明治32年)に毎日新聞(旧横浜毎日新聞、現在の毎日新聞とは無関係)に入り、廃娼運動、足尾銅山鉱毒問題、普通選挙期成運動などで論陣を張る。

1901年(明治34年)には幸徳秋水片山潜堺利彦らの社会民主党の結成に参加する。日露戦争前夜には非戦論の論者として活躍。

1906年(明治39年)の母の死をきっかけに、社会主義から次第に離れるようになる。田中正造の死期に立ち会い、看護を行っている。後年は人間主義の著作活動を行う。

教文館より『木下尚江全集』全20巻が刊行されている。また、松本市の松本市歴史の里内に木下尚江記念館がある。

年譜[編集]

1901年の木下(中央)。向かって右隣は片山潜、左隣は幸徳秋水で、左端は安部磯雄
  • 1869年明治2年)9月8日(旧暦):信濃国松本天白丁(現松本市北深志2丁目4番26号)に生まれる。父は松本藩足軽の木下秀勝、母はくみ。家族に祖母てふ、1875年生まれの妹伊和子(のち旧松本藩士族菅谷徹に嫁す)
  • 1876年(明治9年)3月20日:新築の開智学校に入学
  • 1881年(明治14年)秋 松本中学校に入学
  • 1885年(明治18年):飯田事件の被告を目撃し感動。クロムウェルを知り、「国王を裁く法律」を学ぶ決心
  • 1886年(明治19年)2月13日:長野県中学校松本支校を卒業
  • 1886年(明治19年)3月:東京の英吉利法律学校(現中央大学)に入学
  • 1886年(明治19年)4月 東京専門学校(現早稲田大学)法律科に転学
  • 1887年(明治20年)10月21日:父が胃癌で永眠、心の空洞を体験
  • 1888年(明治21年)7月20日:東京専門学校邦語法律科卒業
  • 1888年(明治21年)11月ころ:『信陽日報』(松本)の記者となる
  • 1890年(明治23年)夏:県庁移転問題で排斥され『信陽日報』廃刊
  • 1890年(明治23年)秋ころ:キリスト教の博物書を読み神の存在を信じる
  • 1891年(明治24年):松本町、長野町、新潟県高田町で禁酒運動廃娼運動に取り組む
  • 1891年(明治24年):『信府日報』主筆石川安次郎と松本公友会を開催
  • 1893年(明治26年)1月28日代言人試験に合格し、2月に松本の大名町に木下法律事務所を開設
  • 1893年(明治26年)4月:『信府日報』主筆を兼ねる(のちに『信濃日報』と改題)
  • 1893年(明治26年)5月1日弁護士登録(3月4日に代言人規則廃止、弁護士法公布のため)
  • 1893年(明治26年)10月22日洗礼を受ける
  • 1897年(明治30年)7月:中村太八郎らと松本普通選挙期成同盟会を結成
  • 1897年(明治30年)8月10日:県議選関係の恐喝詐偽取財容疑で入獄
  • 1898年(明治31年)1月24日:重禁錮8か月の判決を受けて控訴
  • 1898年(明治31年)2月9日:東京へ護送され鍛冶橋監獄署に収容
  • 1898年(明治31年)12月7日:無罪判決で出獄し、降旗元太郎邸へ
  • 1899年(明治32年)2月13日:東京で『毎日新聞』記者となる
  • 1899年(明治32年)10月2日:東京で普通選挙期成同盟会の結成に参加
  • 1900年(明治33年)1月21日 大宮で安部磯雄らと廃娼演説
  • 1900年(明治33年)2月15日〜22日:渡良瀬川足尾鉱毒視察
  • 1900年(明治33年)3月2日吉原妓楼の少女津田きみを保護
  • 1900年(明治33年)3月 毎日新聞社で田中正造と初対面
  • 1900年(明治33年)3月24日社会主義協会に加入
  • 1900年(明治33年)6月18日:『足尾鉱毒問題』発刊
  • 1900年(明治33年)10月12日:『廃娼之急務』発刊
  • 1900年(明治33年)12月20日:和賀操子(旧盛岡藩士族・和賀義信の娘)と結婚
  • 1901年(明治34年)3月2日:社会主義協会演説会で「社会主義の実行」を演説
  • 1901年(明治34年)4月21日:足利で内村鑑三らと鉱毒演説会を開く
  • 1901年(明治34年)5月18日:社会民主党結成し、幹事になる。20日禁止を受ける
  • 1901年(明治34年)9月28日:横浜で幸徳秋水、片山潜と普通選挙演説会
  • 1901年(明治34年)12月27日:学生の大挙鉱毒視察を引率
  • 1902年(明治35年)8月10日:この日投票の衆院選で前橋から立候補したが落選
  • 1903年(明治36年)3月2日〜7日:社会主義大阪大会に参加
  • 1903年(明治36年)9月23日ころ 社会主義協会で非戦論の発表を提唱
  • 1904年(明治37年)1月1日:「火の柱」の毎日新聞連載始まる(~3月20日
  • 1904年(明治37年)5月10日:『火の柱』発刊
  • 1905年(明治38年)9月26日平民社解散が決定。石川三四郎と雑誌発刊を計画
  • 1905年(明治38年)11月10日:雑誌『新紀元』を創刊し、13号まで発刊
  • 1906年(明治39年)5月6日:母くみ永眠、8日葬儀
  • 1906年(明治39年)6月25日ころ:日本社会党に入党
  • 1906年(明治39年)7月6日:田中正造拘引で栃木町谷中村を石川三四郎と訪問
  • 1906年(明治39年)7月31日:『東京毎日新聞』を退社
  • 1906年(昭和39年)9月11日:幸徳秋水、堺利彦と会談、社会主義運動から離れる
  • 1907年(明治40年)6月22日:谷中村破壊の前夜の会合で演説
  • 1907年(明治40年)6月27日7月8日ころ:谷中村強制破壊に立ち会う
  • 1910年(明治43年)9月3日:『火の柱』『良人の自白』など発売禁止処分を受ける
  • 1913年大正2年)8月11日9月8日:田中正造を看病するため佐野に滞在(9月4日田中正造永眠)
  • 1922年(大正12年)8月10日:『田中正造翁』発刊
  • 1922年(大正12年)11月30日:『岡田虎二郎先生写真帖』発刊 
  • 1929年(昭和4年)3月10日:『木下尚江集』第2巻を発刊(8月までに全4巻を発刊)
  • 1933年(昭和8年)12月10日:明治文学談話会に出席。以後21回出席
  • 1934年(昭和9年)9月3日:『神 人間 自由』発刊
  • 1934年(昭和9年)10月10日:7日に永眠した深沢利重の葬儀で弔辞を読む
  • 1936年(昭和11年)8月1日:妻操子永眠
  • 1937年(昭和12年)3月29日:「島田三郎伝」の執筆を開始
  • 1937年(昭和12年)9月13日:発病
  • 1937年(昭和12年)11月5日:永眠[1]

分県騒動とのかかわり[編集]

1876年(明治9年)に松本を県庁所在地とする筑摩県が廃止されると、以後、松本町民(当時)はことあるごとに「県庁が北に偏りすぎている」として松本への移転を叫ぶようになった。木下の帰郷後の1890年(明治23年)、「移庁建議書」が県議会に上程され、否決されると、町の世論は「移庁論」から、筑摩県の再設置を求める「県分割論」へと変わった。

木下は当初、移庁論を積極的に推進したが、斯様な世論のすり替わりに対しては痛烈な批判をした。旧筑摩県全体ではなく、松本のみの都合を考えた「我田引水」とみたからである。

彼の言論は反発を呼び、松本の民衆から石を持って故郷から追い出された。この事件は地元住民の視野や価値観の狭隘さが如実に現れたもので、石川安次郎宛の手紙でも「松本の人が木を見て森を見なかったのは、山河に隔てられて狭いところでしか物事を考えられなかったから」としている。しかしこのことは、木下を一地方都市に留まらせずに中央の言論界で活躍させるきっかけを作ったといえる。

作家としての作品[編集]

  • 『良人の自白』
  • 『火の柱』
  • 『懺悔』
  • 『墓場』
  • 『国家主義以前』

脚注[編集]

  1. ^ *木下尚江研究 Webページ(清水靖久・九州大学教授のページ) から抜粋

関連項目[編集]

外部リンク[編集]