司馬氏

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司馬氏(しばし)は、中国ののひとつ。著名な者に西晋東晋)の国姓となった河内郡温県孝敬里のものがある。

司馬は元々軍事をつかさどる官職のことである。この司馬の職にあった者の子孫が司馬の氏を使うことが多い。

司馬錯の一族[編集]

また、の将軍司馬錯の家系からは、白起に属して長平の戦いで活躍した司馬靳や『史記』の著者である司馬遷が出ている[1]

司馬卭の一族[編集]

楚漢戦争を打ち破った項羽により王に封じられるが、項羽に反旗を翻して陳平に鎮圧され、その後劉邦に破られた司馬卭の家系が有名であり、以後に名を上げる司馬氏は殷王・司馬卭の子孫を称している[2]

晋の国姓[編集]

後漢代に至り、司馬卭の末裔と称して、河内郡温県孝敬里の名門として家名を存続した司馬氏では、司馬防の男子8人の評判が高く、全員が字に「達」の字を持っていたため「司馬の八達」と呼ばれた。中でも次子の司馬懿が聡明さを以って知られ、曹操より腹心として迎えたいという要請を受けている。司馬懿は最初、曹氏に勝る名門としての誇りから仕官を断ったものの、後に求めに応じてその配下となった。曹操の嫡子曹丕と親しかった司馬懿は220年に曹丕が魏の初代皇帝となると重用され、その地位を固めた。226年、2代皇帝曹叡の代になると、諸葛亮による北伐が開始され、司馬懿と諸葛亮の知恵比べとも言われる戦いが始まる。魏は武将の張郃が討たれるなど苦戦するが、諸葛亮が234年の五丈原の戦いで病死し、戦いは終わった。3代皇帝曹芳の代になると、曹爽によって司馬懿は一時、名誉職に追いやられるが、息子の司馬師司馬昭とクーデターを起こし、政敵を誅殺した上で全権を握った。蜀漢滅亡後の264年に司馬昭は晋王の爵位を授かる。司馬昭の死後、265年には司馬昭の息子司馬炎は魏の曹奐より禅譲を受けてを興す。

しかし、晋は皇族らの起こした八王の乱を契機として短期間のうちに衰退する。これに乗じた匈奴の大首長劉淵が晋より自立して匈奴大単于を称し、漢(前趙)を建国する。匈奴の軍勢は、311年に劉淵の跡を継いだ劉聡洛陽を陥落させ、懐帝を捕らえた(永嘉の乱)。懐帝は劉聡により、酒宴で酒を注ぐ役をさせられるという屈辱を与えられた後、313年に処刑される。懐帝が処刑されたことを聞いて、長安にいた司馬鄴(愍帝)は即位して漢(前趙)に抵抗するが、316年、長安が陥落して晋は滅亡した。愍帝は懐帝同様の扱いを受けた後に殺される。

皇族のうちただ一人逃げ延びた琅邪王・司馬睿(元帝)は江南に逃れ、愍帝が殺された事を受けて即位し、建康に都して晋を再興した。江南に建国された晋を東晋、それ以前の晋を西晋と呼ぶ。

しかし、東晋も廷臣の劉裕の力が強くなり、420年に恭帝がその地位を簒奪され滅んだ。これにより、晋の皇族としての司馬氏は滅亡した。この前後で、司馬叔璠司馬文思などの一部の皇族は華北へ亡命した。

黄巾[編集]

夏侯淵伝によると、黄巾賊に司馬倶という名がある。

その他[編集]

司馬遷は、日本の作家司馬遼太郎のペンネームの由来ともなった。故に、司馬遼太郎を指して司馬氏という場合がある。ちなみに、意味は「司馬遷には遼(はる)かに及ばず」とのこと。

脚註[編集]

  1. ^ 史記』太史公自序
  2. ^ 晋書』宣帝紀