サロモン・モレル

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サロモン・モレルSalomon Morel 1919年11月15日 - 2007年2月14日)は1945年2月から同年11月までポーランド共産政権の保安局(Urząd Bezpieczeństwa)の吏員だったユダヤ人で、ポーランドのシフィエントフウォヴィツェにあったズゴダ強制収容所におけるスターリン時代の指揮官。別名ソロモン・モレルシュロモ・モレルとも。政治犯やドイツ民族主義者など、女性や子供を含む囚人たちを意図的に飢えさせ、拷問し、劣悪な衛生環境に置き、それによって腸チフスの蔓延を招き、収容者6000人のうち1695人までを死に至らしめ、戦争犯罪ならびに人道に対する罪ポーランド検察庁から追及を受けていたが、1992年イスラエルへ逃亡。ポーランドはイスラエル政府に対し、2005年7月まで度々モレルの身柄引き渡しを要請していたが、イスラエル政府はこれを拒否。モレルはポーランドへの帰国を拒み続けたままテルアヴィヴで死んだ。

戦時中[編集]

モレルはパン屋の息子としてガルブフに生まれた。家業が失敗したためウッチのおばの家に身を寄せ、セールスマンとして生計を立てた。その後第二次世界大戦が始まると両親のもとへ戻り、ゲットー送りを免れるため家族と共に身を隠した。戦時中、モレル一家を匿ったのはユゼフ・トカチクだった。(そのため、1983年にトカチクはヤド・ヴァシェムによって諸国民の中の正義の人に叙された。)

当時のモレルがとった行動については諸説ある。モレルの刑事訴追を担当して身柄引き渡し交渉を始めたポーランドの国家記銘院によると、1942年初頭、モレル兄弟は愚連隊を組織し、地元で強盗を働いていたという。しかし、モレル兄弟はやがてソ連指揮下のパルチザンである「ポーランド人民軍」(Armia Ludowa)の隊員に捕えられた。同じく国家記銘院によると、モレルは刑罰を逃れようとして全ての罪を兄弟になすりつけ、人民軍に加わって管理人兼森林ガイドとして働いた([1])。

身柄引き渡しを拒否した際のイスラエル政府の書簡によると、モレルは1942年にソ連軍のパルチザンとなった。そして、両親や義理の姉妹や兄弟がポーランドの青色警察に殺害された時は森の中にいたという。翌1943年には別の兄弟がポーランドの「ファシスト」に殺されている。また、モントリオール・ガゼットを含む複数のソースによると、モレルは一時期アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に収容されていたことがあり、30人以上の親類をホロコーストで失ったとのことだが、国家記銘院の報告によるとモレルが強制収容所にいたというのは事実ではないとのことである。

ズゴダ強制収容所[編集]

ズゴダ強制収容所は、ソ連軍による南ポーランド侵略の後、KGBの前身であるソ連内務人民委員部(NKVD)によって設立され、後にポーランド共産政権の秘密警察(公安省)へと移譲された。1945年3月15日、モレルはこの収容所の所長に就任した。モレルの伝記を書いたジョン・サックによると、以下の通りである。

ドイツ人の捕虜たちがズゴダ強制収容所に到着した最初の晩、夜10時頃、バラックの中にモレルが足を踏み入れてこう言った。「俺の名はモレル。ユダヤ人だ。俺のおふくろも、おやじも、家族はみんな死んじまっただろう。俺は、生き延びたら絶対お前らナチスに仕返ししてやろうと誓ったんだ。これから、お前らに報いを受けさせてやる」

すでに1945年、モレルは強制収容所における伝染病の蔓延の責任を問われ、上司から自宅謹慎3日間を命ぜられている。

現在の調査によると、この収容所では1695名の囚人が飢餓や劣悪な衛生環境に起因する赤痢やチフスや腸チフスのために亡くなったが、モレルは病気の蔓延を防ぐ手立てを講じなかったのみならず、実際には蔓延を助長していたことが判明している。国家記銘院から問題とされたのは、拷問や心身両面への虐待行為など、「生物として絶滅の危機に瀕するほど劣悪な環境を作り出した」行為だった。

身柄引き渡しをめぐる争い[編集]

1998年、ポーランドはイスラエル政府にモレルの身柄引き渡しを要求したが拒絶された。ポーランドの法務大臣に対する返答は、戦争犯罪に関する時効を申し立てた内容だった。

しかしポーランドの国内法では、民族を動機とする犯罪には時効がない。

2004年4月、ポーランドは「人道に対する罪」について新たな証拠を添えて再度モレルの身柄引き渡しを要求した。2005年7月、イスラエルはこの要求をも拒絶。モレルへの容疑を事実無根として否定すると共に、前回同様に時効の成立を主張し、併せてモレルの健康状態が悪化していることを申し立てた内容だった。しかしポーランド国立国家記銘院の検察官であるエヴァ・コイは、「人道に対する罪に時効が成立するとはどういうことでしょう。戦争犯罪者を裁く場合、被告人がドイツ人であろうとイスラエル人であろうと、他のいかなる国民であろうと、物差しは一つであるべきです」とイスラエルの対応を批判している。

コイはまた、このモレル事件を「水に流してしまう」ことはできないと言明した上で、「イスラエル人はナチの戦犯追及にあれほど熱心でありながら、他の国民が同じこと(戦犯追及)をするのは認めないなんてどういうことなんですか」と付け加えた。モレル自身は、自分は無実であり、捕虜への虐待容疑は反ユダヤ主義者のでっち上げであると主張していた。

参考文献[編集]

  • John Sack, An Eye for an Eye: The Story of Jews Who Sought Revenge for the Holocaust, John Sack, 4th rev. edition, April 2000, ISBN 0-9675691-0-9

関連項目[編集]

外部リンク[編集]