コヘレトの言葉
| ヘブライ聖書 または 旧約聖書 |
|---|
| 詳細は聖書正典を参照 |
| ユダヤ教, プロテスタント, カトリック教会, 東方教会 |
| ユダヤ教とプロテスタントが除外 |
| 東方正教会が含む |
| ロシア正教会とエチオピア正教会が含む |
| エチオピア正教会が含む |
| ペシッタ訳聖書が含む |
『コヘレトの言葉』(コヘレトのことば、ヘブライ語:קֹהֶלֶת)、あるいは『コヘレトの巻物』(מְגִילָת קֹהֶלֶת)または『コーヘレト書』は旧約聖書の一文献で、ハメシュ・メギロット(五つの巻物)の範疇に含まれている。ハメシュ・メギロットとは旧約聖書の諸書に属する五つの書物、『コヘレトの言葉』、『雅歌』、『哀歌』、『ルツ記』、『エステル記』を指すユダヤ教の概念である。コヘレトとは「伝道者」を意味するので、『伝道の書』とも呼ばれる。
アシュケナジーの社会では仮庵祭の期間、シナゴーグの中で朗誦される習慣があるが、これは11章2節の記述に基づいている。
七人と、八人とすら、分かち合っておけ
— 『新共同訳聖書』による訳出。(以下、引用はすべて新共同訳)
この章句は、ハザルの注釈によれば、仮庵祭の七日間と八日目の集会についての暗示とされている。
目次 |
著者[編集]
『コヘレトの言葉』は冒頭の一文により、その著者が古代イスラエル王国第三代王ソロモンであることを仄めかしている。
— 1:1
ソロモンを著者とする説は保守的な注釈家たちの間では広く受け入れられており、彼らはこの記述をもって、ソロモンが「コヘレト」という異名でも呼ばれていたと主張し、その由来を、コヘレト(קהלת)が多くの共同体(קהילות)をエルサレムに集めた(הקהיל)からであると説明している。もちろん、会衆を集めて律法を教えるなど、神の命に適った施政を実践したとする彼の業績は『列王記上』などに記録されている。これらの説が正しいのならば、『コヘレトの言葉』は、紀元前10世紀代にソロモンが残したとされる一連の著作の一つということになる。
伝統的に旧約聖書の書物の中の三つがソロモンの手に帰されている。『雅歌』、『箴言』、そして『コヘレトの言葉』である。もっとも、これらの書物には思想、様式、文体などの点で相応の相違が認められる。これに関しては、それぞれの書物はソロモンの生涯における異なる三つの時代に書かれたと説明されている。つまり、青年時代に愛の歌を歌い(『雅歌』)、壮年期に知恵の言葉をまとめ(『箴言』)、経験を重ねた晩年に至って、この世のすべてを「虚しい」と断じた(『コヘレトの言葉』)というのである(『ミドラシュ・シール・ハ=シリーム・ラッバー』 1.1)。
近代における研究では、『コヘレトの言葉』はソロモンから数百年も後代の紀元前4世紀から同3世紀にかけての第二神殿時代に書かれたと推定されている。同書の著者、あるいは編纂者は当初よりソロモンの著作として偽装することを目論んでいたと見られている。また、研究者の多くが同書の成立年代を第二神殿時代のより後期に見積もっているのだが、それはפרדס(果樹園)、פתגם(格言)といったペルシア語由来の単語が記されているからである。
彼らは『コヘレトの言葉』の著者が複数であることも指摘している。ただし、その説にもいくつかの解釈がある。
- 1章から10章までを一人の著者、11章と12章を別の著者に帰する解釈。
- 12章の最後の七節(8節から14節)のみを別の著者に帰する解釈。
解説[編集]
『コヘレトの言葉』は旧約聖書の全文書の中においても、取り分け名言の宝庫とされている。同書からの引用や同書由来の慣用句は、ユダヤ教文化、及び復興ヘブライ語文化の評価を高め、かけがえのないものにしている。
『コヘレトの言葉』は知恵文学に属しており、コヘレトを介して、宗教、民族を超えた普遍的な疑問(人生の空しさ、諸行無常、「国破れて山河有り」といった社会や国家について)の哲学的考察が試みられている。同書において提示される世界観は、明らかに旧約聖書の他文書のそれと矛盾している。また、奇跡など非科学的記述も無い。そのため、キリスト教やユダヤ教を信仰していない異教徒や無宗教者などでも違和感を抱くことなく、比較的、馴染みやすい。
旧約聖書における一般的な思想からは、概ね次のような世界観が読み取れる。
- 人間には選択の自由があり、人間が自由意志を通じて正義の道を選択することを常に神は望んでいる。
- 神は人間が選択した行為の良し悪しに応じて、その人間を祝福するのか、あるいは罰するのかを判断する。
それに対して、『コヘレトの言葉』では決定論に基づいた世界観が述べられている。この世のすべてはあらかじめ運命によって定められており、決して変えることはできないと論ずる。もし、すべてが決定されているのならば、いかなる行為をもってしても神の要求を満たせなくなってしまう。なぜなら、この世はそれ自体では何も変えることができず、人間の選択によって運命が左右されることもないからである。すべてが決定されているとする説からは、人間には選択の自由がなく、普遍的な正義、あるいは神の正義にさえも価値がないという結論が導き出される。
『コヘレトの言葉』には厭世主義に基づいた思想が多分に含まれており、それだけでも十分、同書を異教的な書物と見なすことができよう。その反面、人間から無用な理想やそれがために背負う苦痛を廃することで、人間をありのままの姿へと解放するといった思想も見出され、この点はむしろ楽天的と評することも可能である。
『コヘレトの言葉』にはこういった思想が散見しているにもかかわらず、一方では律法を厳格に実践する必要性が説かれており、その箇所は決して少なくはない。
命令に従っていれば、不快な目に遭うことはない。
— (8:5)
神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり
悪人は神を畏れないから、長生きできず
影のようなもので、決して幸福にはなれない。— (8:12~8:13)
すべてに耳を傾けて得た結論。
「神を畏れ、その戒めを守れ。」
これこそ、人間のすべて。— (12:13)
このように、『コヘレトの言葉』が主張する根本的な哲学は、必ずしも聖書全体を網羅する世界観を乱すものではないといえる。
ソロモン[編集]
伝統的な解釈に従えば、賢者と讃えられたソロモンは、人生の意義と全生涯にわたって幸福を得るために必要な行いについて、論理的かつ哲学的な探求を実践していたとされている。その結果、一般的に幸福をもたらすとされる知恵、正義、女性、家族、財産、信仰といったものはむしろ相応しくなく、これらのものは絶対的な満足感をもたらすどころか、逆に欲望を増長させるに過ぎないと結論する。
ソロモンは人生の意義に有益な格言を見つけてはそれを自賛していたのだが、いつも次の瞬間には不満になり、なぜそれが格言として不適格なのかを解き明かす。いわく、格言とは人間に、痛み、苦しみ、虚しさをも覚えさせるというのであった。人生のあらゆる出来事を心に刻み込んだ晩年のこと、ソロモンは人生に秘められた真の意義と人間を幸福に導く生き方について熟考しているとき、ついに極意を得るに至る。それを言葉にしたのが、すでに引用した12章13節の一文である。