エミリー・デュ・シャトレ

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Émilie du Châtelet
Émilie du Châtelet

デュ・シャトレ公爵夫人ガブリエル・エミリー・ル・トノリエ・ド・ブルトゥイユ(仏: Gabrielle Émilie Le Tonnelier de Breteuil, marquise du Châtelet1706年12月7日1749年9月10日)はフランス数学者物理学者著述家。女性科学者のさきがけとして知られている。

目次

[編集] 自然科学分野での研究と著作

1737年に、彼女は Dissertation sur la nature et la propagation du feu (自然および火の伝播に関する論考)と題する論文を出版した。これは火に関する彼女の科学的研究に基づいており、現在赤外線として知られているものを予言し、光の本質を議論している。彼女の著書 Institutions de Physique物理学講義)は1740年に著された。これは彼女の当時13歳の息子が学ぶべき科学および哲学の新概念を概説したものだが、当時最先端の知識人達による複雑な概念をも内容に含んでいた。

この中で彼女はゴットフリート・ライプニッツの理論とヴィレム・スフラーフェサンデ (en:Willem 's Gravesande) の実践的な観察を組み合わせ、運動する物体の持つエネルギー質量速度自乗比例する (E \propto mv^2) ことを正しく示した(それまでアイザック・ニュートンヴォルテール達は、速度そのものに直接比例すると信じていた)。なお現在では正確な表式は Ek = (1 / 2)mv2 だと知られている。ここで Ek は物体の持つ運動エネルギー、m は質量、v は速度を表す。

彼女は1749年に亡くなるが、この年になって代表的な業績を完成させた。すなわちニュートンのPhilosophiae Naturalis Principia Mathematicaプリンキピア・マテマティカ自然哲学の数学的諸原理)を、注釈を付けつつラテン語からフランス語へ全訳したことである。これには力学の原理を元に彼女が導いたエネルギー保存則の概念が含まれている。

プリンキピア・マテマティカ仏語訳の扉絵。彼女はヴォルテールの女神として描かれており、ニュートンの発する天界の閃きを反射してヴォルテールに投げかけている。
プリンキピア・マテマティカ仏語訳の扉絵。彼女はヴォルテールの女神として描かれており、ニュートンの発する天界の閃きを反射してヴォルテールに投げかけている。

[編集] 幼少時代

彼女の父ルイス・ニコラス・ル・トノリエ・ド・ブルトゥイユ (Louis Nicolas le Tonnelier de Breteuil) は書記長とルイ14世への大使の紹介役を務めた。この職は王宮の社交活動の中心となるもので、一家は大変な良家とみなされた。交友関係にはフランス科学アカデミーの終身書記であった著述家ベルナール・フォントネルも含まれる。彼女の母ガブリエル・アンネ・ド・フロレー (Gabrielle Anne de Froulay) は聖職者の家に育った。

エミリー・ド・ブルトゥイユは美しく育ちそうもない困った少女と思われており、情操教育のためとしてフェンシング、乗馬や体育のレッスンを受けていた。当時最高水準の教育を受け、12歳の頃にはラテン語イタリア語ギリシア語ドイツ語に堪能だった(後に彼女はギリシア語やラテン語の戯曲や哲学書をフランス語に翻訳することになる)。他に彼女は数学、文学や自然科学の教育を受けた。またダンスを好み、ハープシコードの腕前はかなりのもので、オペラも歌い、アマチュアの女優でもあった。賭け事にも相当入れ込み、数学的に戦略を練っていた。フォンテーヌブロー城でのある一晩で、彼女は84,000フラン(現在の数億円に相当)をすったことがある。これはカードのイカサマによる被害かもしれない [1][2]

[編集] 結婚と交友関係

1725年6月20日、彼女はフローレント=クロード・デュ・シャトレ公爵 (Marquis Florent-Claude du Chastellet) と結婚し、シャトレ公爵夫人となった(なお Châtelet という綴りはヴォルテールによるものだが、現在では普通こちらで呼ばれる)。これは貴族社会でよくある政略結婚で、夫婦の共通点はほとんどなかった。しかしそれが当時の貴族社会のしきたりだったのだ。3人の子供を儲けた後、彼女は夫に対する責任を果たしたと考え、夫婦関係を維持したまま別居することを夫に承諾させた。公爵は軍人でブルゴーニュ地方スミュール=アン=ノーソワ (en:Semur-en-Auxois) の村長だったが、彼女の方は絢爛たる貴族社会に身を置き続けた。当時のフランス上流階級において、既婚者が愛人を持つことは夫婦関係の問題とされなかった。

[編集] ニュートンの思想への入門

24歳になった彼女はド・リシュリュー公爵と恋愛関係を持ち、この関係は1年半程続いた。ド・リシュリュー公爵は文学と哲学に関心があり、彼女は同じ水準で会話の通じる数少ない女性の一人だった。彼女は関連文献を読み漁り、劇場にも頻繁に通い、知的な会話を楽しんだ。このとき彼女が語ったニュートンの業績に関する興味に対し、ド・リシュリュー公爵は高等数学の講義を受けてニュートンの理論をより深く理解するよう勧めた。こうして科学アカデミー会員のピエール・ルイ・モーペルテュイが彼女に幾何学を教えることになった。モーペルテュイは数学者、天文学者、物理学者であり、アカデミーにおける関心の的となっていたニュートンの理論を支持していた。

ヴォルテールは彼女にとって結婚後にできた4番目の愛人であり、ヴォルテールがロンドンへの旅行から戻った後に二人は出会った[2]。彼女はヴォルテールをフランス北東部オート=マルヌ県シレ=シュール=ブーレーズ村 (en:Cirey-sur-Blaise) の別荘で暮らすよう誘い、二人の交際はこの後長く続いた(夫は寛大にもこれを許していた)。そこで彼女は物理学と数学の研究を行い、科学論文や翻訳記事を出版した。ヴォルテールが友人に宛てた手紙や二人がお互いの仕事に関して付けたコメントから判断するに、二人は愛と尊敬を大いに育んでいたようである。

彼女の最後の恋は彼女にとって命取りとなった。40代に入った頃、彼女は若い詩人ジャン・フランソワ・ド・サン=ランベール (Jean François de Saint-Lambert) と恋に落ち、子を身篭った。彼女は友人に宛てた手紙の中で、高齢のために出産に耐えられないかもしれないという恐れを告白している。彼女は子を出産したが、3年後に42歳で塞栓により亡くなった。

ヴォルテールは、友人であるフリードリヒ2世に宛てた手紙で、彼女のことを 「偉大な男だった。唯一の欠点は女だったことだ」と評している[2][3]

[編集] 現代における評価

質量とエネルギーの等価性を表す有名なアルベルト・アインシュタインの公式E=mc²(ここで c光速を表す)に対して、彼女が150年前に見出した関係式 E˜mv2 を関連付ける議論も見られる [4][5]。 確かに彼女の式は古典力学における運動エネルギーの正しい見積もりだが(係数1/2は除く)、物理学的にはアインシュタインによる質量とエネルギーの等価性の概念とは全く別のものである [6]

現在でもプリンキピア・マテマティカの仏語訳と言えば彼女のものが代表的である。金星のクレーターの一つが彼女にちなんで名付けられている。

[編集] 参考文献

  1. ^ Hamel, Frank (1910). An Eighteenth Century Marquise: A Study of Émilie Du Châtelet and Her Times. London: Stanley Paul and Company, p 286. 
  2. ^ a b c Bodanis, David (2006年10月10日). Passionate Minds: The Great Love Affair of the Enlightenment. New York: Crown. ISBN 0-307-23720-0. 
  3. ^ Hamel (1910) p 370
  4. ^ Zinsser, Judith (2006). La Dame d'Esprit: A Biography of Marquise Du Chatelet. New York: Viking, p177. ISBN 0670038008. 
  5. ^ Ancestors of E=mc² オンライン・エッセイ、Public Broadcast Service, Arlington, VA
  6. ^ McLellan, James E; Dorn, Harold (2006). Science and Technology in World History: An Introduction. Baltimore, MD: Johns Hopkins University Press, p368. ISBN 0801883598. 

[編集] 外部リンク