ウノチヒコ

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宇乃治比古命

全名 宇乃治比古命(ウノチヒコノミコト)
別名 宇能治比古命、宇能遅比古命、宇能遲比古命
神格 海神水神
須義祢命
神社 宇能遲神社
海潮神社
記紀等 出雲国風土記
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ウノチヒコ(宇乃治比古、宇能治比古、宇能遅比古、宇能遲比古)は、日本神話に登場するウノジヒコ歴史的仮名遣ウノヂヒコ)ともする[1]

概要[編集]

『出雲国風土記』楯縫郡の沼田郷条、大原郡の海潮郷条に登場する。親神としてスガネが伝わる[1][2]

記述[編集]

出雲国風土記[編集]

楯縫郡[編集]

沼田郷。郡家の正西八六十にある。宇乃治比古命が、「湿地の水を使って乾飯を柔らかくして(=にたに)召しあがろう」と発言なさって、その地に尓多(にた)の名をお与えになった。こういうわけなので本来は尓多の郷となるべきだが、現在の人は努多(ぬた)と言っているだけである。神亀三年に字を沼田とした。[1]

大原郡[編集]

海潮郷。郡家の正東十六里三十三歩にある。古老の伝えるところによると、宇能治比古命が御祖である須義祢命を恨んで、北方の出雲の海水を押し上げてきて、御祖の神を漂わせたところ、海水がここまで来た。ゆえに得塩(うしお)となった。神亀三年に字を海潮とした。[1]

考証[編集]

神名のウは「海」、チは「神霊」の意で海や水の神であり[3][4]、「海(う)の霊(ち)」[3][5]と解釈されている。海水が押し上げられたとする記述は伝説の域を出ないと見る説[3]がある一方、出雲大社近くの日本海の水が高潮などによって海潮川(現:刈畑川)を逆流してくる現象への畏怖を反映させているとする説[6]や、海潮郷にある赤川の氾濫による被害が伝承となった、あるいは同郡記事に載る船岡山の記述[注 1]から、かつて発生した津波によって押されてきた赤川の水や打ち上げられた船の様子をもとにして教訓のように伝えられていたと考える説[2]もある。

祀る神社[編集]

式内社の宇能遲神社に比定される。大正時代まで斐伊川の下流を行き来した高瀬舟の寄港地に位置しており、舟運を守護する神として斐伊川下流にある出雲郡の海の神が祀られたのではないかとの推測がある[5]。『出雲国風土記』大原郡の神祇官社である宇乃遅社に比定される[1]

  • 海潮神社(島根県雲南市大東町南村) - 主祭神

式内社の海潮神社に比定される。中世以降、鎮座地の字名を冠して「大森明神」もしくは「大森大明神」と呼ばれていたが、明治5年に『延喜式』に載る社名へ改称した[7]。『出雲国風土記』大原郡の神祇官社である得塩社に比定される[1]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 阿波枳閇委奈佐比古命の神話を載せる。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f 中村 2015, pp. 171, 216–218, 262, 293.
  2. ^ a b 島根県古代文化センター 2014, pp. 222–223, 225–228.
  3. ^ a b c 高藤 1970, pp. 275–276.
  4. ^ 植垣 1997, p. 263.
  5. ^ a b 加藤 1983a, p. 729.
  6. ^ 中川 2010, p. 70.
  7. ^ 加藤 1983b, p. 779.

参考文献[編集]

  • 植垣節也 校注・訳『新編日本古典文学全集 5 風土記』小学館、1997年10月20日。ISBN 4-09-658005-8 
  • 加藤義成 著「174 宇能遲神社」、式内社研究会 編『式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4』皇學館大学出版部、1983年2月。ISBN 978-4-87644-037-5 
  • 加藤義成 著「186 海潮神社」、式内社研究会 編『式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4』皇學館大学出版部、1983年2月。ISBN 978-4-87644-037-5 
  • 島根県古代文化センター 編『解説 出雲国風土記』今井出版、2014年3月31日。ISBN 978-4-906794-51-5 
  • 高藤昇 著「出雲国風土記の神々」、日本文学研究資料刊行会 編『日本神話Ⅰ』有精堂出版〈日本文学研究資料叢書〉、1970年4月、初出1962年4月。ISBN 4-640-32501-0 
  • 中川ゆかり「ミナトと「潮」─河口の景観から─」『風土記研究』第34号、風土記研究会、2010年12月、ISSN 0911-8578 
  • 中村啓信 監修・訳注『風土記 上 現代語訳付き』KADOKAWA角川ソフィア文庫〉、2015年6月25日。ISBN 978-4-04-400119-3 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]