アラン・ガルシア

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アラン・ガルシア
アラン・ガルシア

アラン・ガブリエル・ルドウィグ・ガルシア・ペレスAlan Gabriel Ludwig García Pérez1949年5月23日-)は、ペルーの政治家、大統領(1985-1990、2006-)である。

目次

[編集] 来歴

リマの中流家庭の出身。父親はアメリカ革命人民同盟(APRA)の書記で、ガルシアも幼い頃からAPRA支持者の子供向けの学校「カサ・デル・プエブロ(人民の村)」に出入りしていた。APRAの創設者、ビクトル・ラウル・アヤ・デ・ラ・トーレから教えを受けたこともある。

その後APRAが非合法化され、父が投獄される。ガルシアはカトリック司教大学を経てサン・マルコス大学で法学を、マドリード大学パリ大学に留学して社会学を修めると、1978年に帰国、政治家としての活動を始める。ちなみにガルシアが活動を始めた当時、所属政党であるAPRAは右傾化が進んでいたが、ガルシア自身は党内で左派に位置していた。

[編集] 大統領1期目~亡命

1985年、ガルシアはAPRAから大統領選挙に立候補し、1回目の投票で45%の得票を得て決選投票に進んだ。そして決選投票でアルフォンソ・バランテスを破り、初当選を果たした。ガルシアは当時36歳、ペルーの政治史上最年少の大統領の誕生となった。またAPRAは1924年の創設以来、初めて政権を獲得した。

ガルシアは若々しい風貌から「ペルーのケネディ」と呼ばれ、就任当初は国内で高い人気を誇った。しかし彼が就任した当時のラテンアメリカは深刻な経済危機に見舞われ、ガルシアも例外ではなく経済対策に追われることになる。ガルシアは「銀行の国有化」と「対外債務の返済凍結(返済額をGNPの1割に制限すると宣言)」という政策を断行するが、特に後者はIMFの激怒を買い、結果としてペルーは投資不適格国の烙印を押され、外国からの投資が途絶えて苦境に立たされる。

政権末期には年率7000%以上の激しいインフレーションが起こって経済は破滅的な状況となり、追い討ちをかけるようにガルシア自身の汚職疑惑も加わった。大統領の任期が満了した後、アルベルト・フジモリ政権から訴追を受け、フランスコロンビアに亡命する。

[編集] ペルー帰国~大統領2期目

その後も亡命生活を強いられていたガルシアだったが、2000年にフジモリが大統領職を罷免されたことを受け、翌年には罪を許されて帰国する。そして大統領選挙に立候補、1回目の投票で25%の得票を得て決選投票に進むもアレハンドロ・トレドの前に敗れた。

2006年、再び大統領選挙に立候補する。1回目の投票では24%の得票を得て、僅差でルルデス・フローレスをかわして決選投票に進んだ。決選投票では1回目の投票で首位だったオジャンタ・ウマラを逆転し、2度目の大統領就任を果たす。大統領1期目ではAPRA党員を内閣に多数起用して反発を招いたため、2期目ではその反省にたち、16人の閣僚のうちAPRA党員を6人に止める配慮を見せた。

ペルーは死刑廃止国であるが、ガルシアは、7歳未満の子供に性的暴行を加え殺害した犯罪者に対して死刑適用を認めることを選挙公約に掲げた。2006年9月21日に議会へ法案を提出しており、現在は議会で審議が行なわれている。この背景には、広島小1女児殺害事件の容疑者として逮捕された日系ペルー人が、母国において同様の性犯罪を繰り返していたにも関わらず収監を逃れていたことに対する批判など、年少者に対する性犯罪の厳罰化を求める世論が同国で高まっていることが挙げられる(世論調査では、死刑適用に8割が賛成する結果も出ている)。

2008年3月16日に来日した。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ
先代:
フェルナンド・ベラウンデ・テリー
ペルー共和国大統領
1985 - 1990
次代:
アルベルト・フジモリ
先代:
アレハンドロ・トレド
ペルー共和国大統領
2006 -
次代: