高天彦神社
高天彦神社 | |
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所在地 | 奈良県御所市北窪158 |
位置 | 北緯34度25分5秒 東経135度41分45.4秒 / 北緯34.41806度 東経135.695944度座標: 北緯34度25分5秒 東経135度41分45.4秒 / 北緯34.41806度 東経135.695944度 |
主祭神 |
高皇産霊神 市杵嶋姫命 菅原道真公 |
神体 | 白雲岳(神体山) |
社格等 |
式内社(名神大) 旧村社 |
創建 | 不詳 |
本殿の様式 | 流造 |
別名 | 彦沢権現 |
例祭 | 10月5日[1] |
高天彦神社(たかまひこじんじゃ)は、奈良県御所市北窪にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は村社。
祭神
[編集]祭神は次の3柱[1]。
『延喜式』神名帳での祭神は1座。元々は当地の地主神の「高天彦」を祀ったものと推測される[2]。
社名・神名の「高天(たかま)」は一帯の地名でもあり、神話に見える高天原の伝承地とする説が古くからあるほか、高皇産霊神の神名の転訛が由来とする説、高皇産霊神の別名が「高天彦神」とする説、「高間」すなわち金剛山中腹の平地を意味するとする説がある[1]。『万葉集』では、「葛城の高間」と詠まれた歌が知られる(巻7 1337番)[2]。『延喜式』神名帳では宇智郡に高天岸野神社・高天山佐太雄神社が見え、いずれも五條市の金剛山中腹の神社に比定されることから、「高天彦神」を金剛山の神霊そのものとする説もある[2]。
歴史
[編集]概史
[編集]創建は不詳。金剛山東麓に鎮座し、元々は社殿後背の白雲岳(白雲峰、標高985メートル)を神体山に祀った神社とされる[3][4]。
『新抄格勅符抄』大同元年(806年)牒には「高天彦神 四戸大和国 宝亀十年奉充」として、宝亀10年(779年)に大和国内から充てられた神戸の存在が記されている[1]。
国史では、大同元年(806年)に正四位上の神階にある「高天彦神」が吉野大后(井上内親王)の願いで四時幣帛に預かったと見えるが、内親王と当社の関係は明らかでない[2]。その後承和6年(839年)には従三位の「高天彦神」が名神に列したこと、また天安3年(859年)には従二位勲二等に昇叙された旨が記されている[1]。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では大和国葛上郡に「高天彦神社 名神大 月次相嘗新嘗」として、名神大社に列するとともに朝廷の月次祭・相嘗祭・新嘗祭に際しては幣帛に預かった旨が記載されている[1]。
その後の変遷は不詳。高天の地は金剛山への登山口であるため、葛城修験道の発展とともに文人・俳人が高天を訪れたと伝えるほか、当社は「彦沢権現」とも称されたという[1]。また神社東側には、神宮寺の高天寺があった[2]。
明治維新後、近代社格制度では村社に列している[4]。現在の本殿は明治10年(1877年)に竣工したものである。竣工当時は茅葺き屋根だったが、昭和52年(1977年)に石州瓦の屋根に葺き替えられ、更に令和元年(2019年)にはガルバリウム鋼板の屋根に葺き替えられた。
神階
[編集]- 大同元年(806年)4月26日、正四位上 (『日本後紀』) - 表記は「高天彦神」。
- 承和6年(839年)5月26日、従三位、名神に列す (『続日本後紀』) - 表記は「高天彦神」。
- 天安3年(859年)1月27日、正三位勲二等から従二位勲二等 (『日本三代実録』) - 表記は「高天彦神」。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 境内説明板
- 地方自治体史
- 『奈良県史 5 神社』名著出版、1989年。ISBN 462601335X。
- 百科事典
- 「高天彦神社」『日本歴史地名大系 30 奈良県の地名』平凡社、1981年。ISBN 978-4582490305。
- 「高天彦神社」『角川日本地名大辞典 29 奈良県』角川書店、1990年。ISBN 978-4040012902。
- その他書籍
- 池田末則 著「高天彦神社」、式内社研究会編 編『式内社調査報告 第2巻』皇學館大学出版部、1982年。
- 木村芳一 著「高天彦神社」、谷川健一編 編『日本の神々 -神社と聖地- 4 大和』白水社、1985年。ISBN 4560022143。