野本喜一郎

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野本 喜一郎
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 埼玉県加須市
生年月日 (1922-05-08) 1922年5月8日
没年月日 (1986-08-08) 1986年8月8日(64歳没)
身長
体重
168[1] cm
66[1] kg
選手情報
投球・打席[1]投右[1]
ポジション 投手
プロ入り 1950年
初出場 1950年
最終出場 1953年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
指導者歴

野本 喜一郎(のもと きいちろう、1922年5月8日 - 1986年8月8日)は、埼玉県加須市出身のプロ野球選手、学生野球指導者。

来歴[編集]

旧制の不動岡中学校(現在の埼玉県立不動岡高等学校)卒業。第二次世界大戦が勃発すると日本軍に徴兵され、中国戦線へ送られた[2]

不動岡中時代から野球部の投手を務めており[3]、戦後、社会人野球のコロムビアを経て、1950年西日本パイレーツへ入団した[2]1951年、西日本パイレーツと西鉄クリッパースが合併し、西鉄ライオンズと改称したが3シーズンに渡って同チームに在籍し、1953年近鉄パールスへ移籍し、アンダースローの投手としてプロ通算18勝をあげた[4][5]。同年限りで現役を引退し、その後は郷里の埼玉県に戻り上尾町(後の上尾市)で銭湯を営んでいた[2]

1958年4月、共立上尾商業高等学校(現在の埼玉県立上尾高等学校)野球部の監督に就任[6]。5年後の1963年春、第35回選抜高等学校野球大会に初出場を果たした[5]。この後、東洋大学硬式野球部の監督を務めるも、1972年春に上尾高校監督に復帰[5]1984年3月まで22年間にわたって同校の監督を務め[6]、1975年夏の第57回全国高等学校野球選手権大会では高知県の土佐高校や神奈川県の東海大相模高校などを下してベスト4進出に導くなど、春夏通じて6度の甲子園出場に導いた[4][7]

1984年4月、浦和学院高等学校の野球部監督に就任[4]。3か年計画でチーム強化に乗り出すと、1986年夏の埼玉大会で初優勝し、第68回全国高等学校野球選手権大会への出場を決めたが、自身は健康状態の悪化のためベンチ入りは叶わなかった[4]。その後、大会直前に監督を辞任し療養を続けていたが、開会式当日の同年8月8日膵臓出血で亡くなった[4]。享年64[4]

逸話[編集]

プロ野球選手の指導者という肩書だが、教えすぎることはなく、スパルタ指導が全盛の時代にあってめずらしい、自主性を尊重する指導者だったという[5]。高校野球の指導者になるにあたり、桐生高校で実績を残していた稲川東一郎に「全て教えてもらった」と語っている[8]

西日本パイレーツ時代、1950年4月21日の対中日ドラゴンズ戦(佐賀県鹿島市祐徳国際グラウンド)にて中日投手の杉下茂にプロ初本塁打となる満塁本塁打を打たれているが、これはセントラル・リーグ初の“投手が打った満塁本塁打”の第1号でもあった[9]

主な教え子としてプロ野球選手では山崎裕之会田照夫仁村徹鈴木健[3]、社会人野球選手では黒須隆などがおり、アマチュア野球指導者では谷口英規上武大)、福田治男森士、新井浩、斉藤秀夫、高野和樹(上尾高)などがいる[2][5]

甲子園での監督成績[編集]

  • :出場3回・2勝3敗
  • :出場3回・4勝3敗
  • 通算:出場6回・6勝6敗

詳細情報[編集]

出典[1][10]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1950 西日本 48 28 14 1 3 11 19 -- -- .367 1149 262.1 294 29 72 -- 6 84 0 3 159 128 4.38 1.40
1951 西鉄 20 10 2 1 0 4 3 -- -- .571 350 88.2 75 5 15 -- 2 28 0 1 26 19 1.92 1.02
1952 29 5 0 0 0 2 3 -- -- .400 289 67.0 72 4 21 -- 1 19 0 1 43 31 4.16 1.39
1953 近鉄 25 4 0 0 0 1 2 -- -- .333 316 76.2 73 7 18 -- 1 19 0 0 35 21 2.45 1.19
通算:4年 122 47 16 2 3 18 27 -- -- .400 2104 494.2 514 45 126 -- 10 150 0 5 263 199 3.62 1.29
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録[編集]

  • 1試合14失点(1950年10月21日、セ・リーグ記録)[1]

背番号[編集]

  • 18 (1950年)
  • 14 (1951年 - 1952年)
  • 13 (1953年)

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f 日本野球機構 2004、1957頁
  2. ^ a b c d 〈夢をつなぐボール1〉「無心に」野本イズム継承”. 朝日新聞 (2006年7月5日). 2017年7月14日閲覧。
  3. ^ a b 埼玉県教育委員会編『埼玉人物事典』埼玉県、1998年、628-629頁。 
  4. ^ a b c d e f 「野本喜一郎氏死去」『埼玉新聞』 1986年8月10日 1面。 
  5. ^ a b c d e 市瀬英俊「上尾の時代と「野本学校」」『シリーズにっぽんの高校野球 : 地域限定エディション』 Vol.9(関東編2)栃木・群馬・埼玉・山梨、ベースボール・マガジン社、2009年、12-15頁。ISBN 978-4-583-61585-1 
  6. ^ a b 「名将野本氏 野球人生一筋に」『埼玉新聞』 1986年8月10日 8面。 
  7. ^ 森岡浩『高校野球甲子園全出場校大事典』東京堂出版、2000年、80-81頁。ISBN 4-490-10541-X 
  8. ^ 桐生第一V 稲川東一郎でつながる球都の糸 / 群馬1”. 日刊スポーツ (2018年6月13日). 2018年9月16日閲覧。
  9. ^ 山本勉(セントラル・リーグ公式記録員) (2019年1月18日). “【球跡巡り・第11回】フォークボールの神様・杉下茂 神様の前でセ初の投手満塁弾 祐徳国際グラウンド”. NPBニュース. 日本野球機構. 2021年5月4日閲覧。
  10. ^ 日本野球機構 2004、1185頁

参考文献[編集]

関連項目[編集]