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野上哲男

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

野上 哲男(のがみ てつお、昭和4年(1929年5月2日[1] - 平成22年(2010年9月6日[2])は、日本ヤクザ

指定暴力団・六代目山口組最高顧問(五代目山口組副本部長、四代目山口組舎弟、三代目山口組若中[3])、二代目吉川組組長。

来歴

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昭和4年(1929年)5月2日に生まれる。

昭和52年(1977年)5月、三代目山口組(組長は田岡一雄)二代目吉川組を継承した[1]

同月、田岡一雄から盃をもらい、山口組直参になった[1]

昭和56年(1981年)7月、山口組二代目吉川組・野上哲男組長と二代目旭琉会多和田真山は、五分の兄弟分となった。これにより、第4次沖縄抗争は終結した。

昭和63年(1988年)6月ごろ、山口組五代目跡目問題が浮上した。

平成元年(1989年)渡辺芳則の五代目山口組組長就任が決定した。野上哲男は、五代目山口組総本部副本部長となった。

平成9年(1997年)8月28日午後3時20分ごろ、宅見若頭射殺事件が発生した。

平成19年(2007年)6月5日、山口組定例会で、野上哲男の六代目山口組(組長は司忍)最高顧問への就任が発表された[1]

平成22年(2010年)9月6日、死去。満81歳没。

関連項目

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脚注

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  1. ^ a b c d 出典は、『六代目山口組 完全データBOOK』メディアックス、2008年、ISBN 978-4-86201-328-6 のP.40
  2. ^ 山口組最高顧問・野上組長が死去「山一抗争」で手腕発揮 夕刊フジ 2010年9月6日
  3. ^ 出典は、『六代目山口組 完全データBOOK』メディアックス、2008年、ISBN 978-4-86201-328-6 のP.4

参考文献

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その他の役職
先代
吉川勇次
吉川組組長
2代目:1977 - 2010
次代
南匡樹
先代
岸本才三
六代目山口組最高顧問
2007 - 2010
次代
(未定)