山口組五代目跡目問題

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山口組五代目跡目問題(やまぐちぐみごだいめあとめもんだい)とは、昭和63年(1988年)6月ごろから平成元年(1989年)4月20日まで続いた、「五代目山口組組長を誰にするのか」という問題。山口組内部で、四代目山口組若頭渡辺芳則を支持するグループと、四代目山口組組長代行・中西一男を支持するグループが対立した。

山口組五代目跡目問題の経緯[編集]

昭和63年(1988年)6月ごろ、山口組若頭補佐・宅見勝宅見組組長)、山口組本部長・岸本才三岸本組組長)、二代目吉川組野上哲男組長らが、山口組五代目に、山口組若頭渡辺芳則(二代目山健組組長)擁立に動き始めた。さらに、徳島市心腹会尾崎彰春会長、名古屋市の益田(啓)組・益田啓助組長、横浜市益田組益田佳於組長、尼崎市大平組中村憲人組長、尼崎市の古川組古川雅章組長、伊丹市松野組松野順一組長、長野市近松組近松博好組長、名古屋市の弘道会司忍会長が、山口組五代目に、渡辺芳則を推した。竹中組竹中武組長(四代目山口組・竹中正久組長の実弟)は、山口組執行部に「誰が山口組五代目になっても、組内の調整には協力するが、五代目と盃をするかどうかは、別物である」と宣言していた。

同年暮れ、野上哲男は、渡辺芳則から「渡辺芳則が五代目山口組組長となった場合、組長としての発言をしない」という言質を引き出した。

同年12月29日、渡辺芳則は、兵庫県姫路市御着の竹中正久の実家を訪ね、竹中武と会談した。渡辺芳則は、竹中武に、山口組執行部の増員を相談し、了解を得た。また、渡辺芳則は、竹中武に、中西一男が一和会山本広会長と接触して山本広引退工作を進めていることを話し、中西一男の山本広引退工作を止めてもらうように依頼した。竹中武は、中西一男説得を引き受けた。竹中武は、渡辺芳則に、「竹中正久の五回忌(平成元年(1989年)1月27日)に、山口組幹部一同が、竹中正久の実家で落ち合い、親睦を深める」ことを提案した。渡辺芳則は、提案に賛成した。その後、竹中武は、中西一男にも「竹中正久の五回忌に、竹中正久の実家で、山口組幹部一同が落ち合い、親睦を深める」ことを提案し、了解を得た。

このころ、宅見組宅見勝組長らは、益田(佳)組益田佳於組長、小西一家小西音松総長、伊豆組伊豆健児組長らを説得し、渡辺芳則の五代目山口組組長就任を了承してもらった。

平成元年(1989年)1月27日、山口組本家で、直系組長会が開かれた。宅見勝らは五代目山口組組長決定の緊急動議を出そうとしたが、中西一男を五代目山口組組長に推す人らに、山一抗争が完全終結していないことを理由に反対されて、緊急動議を出せなかった。

同日、姫路市御着の竹中正久の実家に、中西一男、岸本才三ら山口組幹部が集まり、法要が営まれた。しかし、渡辺芳則や宅見勝らは、法要に欠席した。

同年2月11日、神戸市の料亭「いけす」で、近松博好の呼びかけにより、渡辺芳則と竹中武の会談が行なわれた。近松博好と岸本才三が同席した。近松博好と岸本才三は、五代目山口組組長に渡辺芳則、山口組若頭に竹中武を望んでいた。

その後、渡辺芳則は、山口組組長代行補佐グループから、「自分が五代目山口組組長になった場合、顧問とする。自分との盃はなしとする」という条件で、渡辺芳則支持を取り付けた。その後、山口組舎弟グループからも、渡辺芳則支持を取り付けた。

このころ、山口組各直系組長宛に、「任侠道新聞」1号、2号が送られた。1号では、「渡辺芳則の五代目山口組取りは失敗する」「宅見勝が嘘をつき、渡辺芳則の五代目山口組組長就任を画策している」と書かれていた。2号では「山口組に謀反を企む者に、渡辺芳則、宅見勝、岸本才三の他、野上哲男がいた」と書き、「現山口組執行部の解体と山口組五代目問題の棚上げ」を要求していた。

同年2月27日、山口組定例総会で、竹中武の山口組若頭補佐就任が発表された。

同年3月27日午前、古参組長数人が、山口組執行部会への出席を申し入れた[1]

同日、山口組執行部会で、中西一男と渡辺芳則の五代目山口組組長への立候補が決められた[2]

同年4月6日、渡辺芳則と中西一男が、山口組五代目決定に向けての話し合いを始めた。

同年4月16日、山口組舎弟会で、渡辺芳則を五代目山口組組長に推すことが決まった。山口組舎弟会には、山口組二代目森川組矢嶋長次組長も出席していた。

同年4月20日、山口組緊急幹部会が開かれ、山口組五代目の人選が議論された。竹中武は、態度を保留した。渡辺芳則と中西一男が話し合い、中西一男が五代目山口組組長立候補を取り下げた。渡辺芳則の山口組五代目擁立が決まった。

同年4月27日、山口組直系組長会で、中西一男が、五代目山口組組長立候補取り下げの経緯を説明した。渡辺芳則の五代目山口組組長就任が決定した。

脚注[編集]

出典[編集]

  1. ^ 普段は組長代行補佐でも、山口組執行部会には出席しない。
  2. ^ 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6 のP.148

参考文献[編集]