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遠藤三郎 (陸軍軍人)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
遠藤 三郎
渾名 赤い将軍
平和主義の将軍
生誕 1893年1月2日
日本の旗 日本山形県
死没 (1984-10-11) 1984年10月11日(91歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1914 - 1945
最終階級 陸軍中将
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遠藤 三郎(えんどう さぶろう、1893年1月2日 - 1984年10月11日)は、日本陸軍軍人陸士26期恩賜陸大34期恩賜。最終階級は陸軍中将

経歴

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山形県小松町出身[1]。呉服商・遠藤金吾の三男として生まれた[2]高等小学校[2]仙台陸軍地方幼年学校(優等[3])、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を優等[3]で卒業、同年12月、砲兵少尉に任官し横須賀重砲兵連隊付となった。陸軍砲工学校高等科を優等[3]で卒業し、陸軍重砲兵射撃学校教官などを経て、1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を優等[3]で卒業した。

第三旅団野戦重砲兵第1連隊中隊長から参謀本部付大尉になった時、関東大震災があって、朝鮮人と中国人の保護拘置を警察に依頼するなど救済に尽力するが、結果としては逆効果になり、別の部隊が亀戸事件を起こし、遠藤の所属する連隊の垣内八洲夫中尉が王希天殺害事件を起こすことになった。外国籍である王殺害が国際問題になりかねないと判断した陸軍は隠ぺい工作を命令し、遠藤はそれに携わった後、フランス陸軍大学校に留学することになった。1929年(昭和4年)5月に同校を卒業。

帰国後、参謀本部作戦参謀、関東軍作戦主任参謀となり、満州事変では熱河作戦塘沽協定に参加した。

陸大教官、野戦重砲兵第5連隊長、参謀本部課長兼陸大教官などを歴任し、1937年(昭和12年)12月、兵科航空兵科に転じ航空兵大佐となった。兼大本営研究班長、浜松陸軍飛行学校付などを経て、1939年(昭和14年)8月、陸軍少将に進級。直後にノモンハン事件直後の関東軍参謀副長として派遣された。彼はその被害から現在の関東軍ではソ連軍に対抗できないと悟って北進論よりも満州防衛を優先するように主張して、陸軍首脳と意見を衝突させて更迭された。

その後、第3飛行団長・陸軍航空士官学校幹事などを歴任。第3飛行団長在任時には絨毯爆撃が非人道的で国際法に触れる恐れありとして、木下敏陸軍中将に『重慶爆撃無用論』を提出して採用され、1941年(昭和16年)に海軍との共同作戦であった重慶爆撃百二号作戦は打ち切られた[4]

1942年(昭和17年)12月、陸軍中将となり航空士官学校長に就任した。さらに、陸軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局長官などを歴任し、兵器産業の国営化と航空機の規格統一に尽力した。1945年(昭和20年)8月の終戦の際には、米英への不信からポツダム宣言受諾に断固反対し、梅津美治郎参謀総長に対して「日本軍軍人ニハ降伏ナキ」と徹底抗戦を主張していた。同年12月、予備役に編入された。

1947年(昭和22年)2月から約一年間、戦犯容疑により巣鴨プリズンに入所した。その後、旧知の企業からの誘いを断り、埼玉県入間郡入間川町(現在の狭山市)の陸軍航空士官学校跡地に入植、農業に従事した[1]

戦後の1947年(昭和22年)11月、公職追放の仮指定を受ける[5]。追放中の1948年(昭和23年)10月、兵器処理問題に関し、衆議院不当財産取引調査特別委員会に東久邇稔彦津島寿一渋沢敬三らとともに証人喚問された[6]。その後は護憲運動と反戦運動に参加し、1953年(昭和28年)には片山哲首相とともに憲法擁護国民連合結成に参加した。1959年(昭和34年)の第5回参議院議員通常選挙全国区から無所属で立候補したが落選した。

1955年(昭和30年)11月に片山を団長とする憲法擁護国民連合訪中団に参加し、中華人民共和国を訪問した際の「左派より右派人士やあなたのような元軍人と会いたい」という毛沢東の要請を受け[7]1961年(昭和36年)8月に日中友好元軍人の会を結成。代表を務める。元軍人ながら親中派だったため、「国賊」「赤の将軍」などと誹りを受け[1]1974年(昭和49年)に『日中十五年戦争と私 - 国賊・赤の将軍と人はいう』と題した回顧録を著した。

毛沢東との会話 

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遠藤三郎との1956年の会談で毛沢東は「あなたたち日本軍はわれわれの教師だ。我々はあなたたちに感謝しなければならない。あなたたちがこの戦争で、中国国民を教育してくれて、撒かれた砂のような中国国民を団結させることができた。だから、われわれはあなたたちに感謝しなければならない」と話している。 中国共産党指導者であった毛沢東や周恩来は日本が中国を占領してくれたことで国内の民族意識を高めたこと、中国国民党によって壊滅寸前まで追い込まれていた1930年代から矛先が日本へ向かったことで戦前に時間稼ぎと共産主義思想の拡散に成功した。それがあったからこそ、戦後に腐敗によって支持を失っていた中国国民党よりも中国共産党が支持され、日本がいなければ戦力差から国共合作以前では不可能だった国共内戦での勝利と中国共産革命成功へ貢献したことに感謝していたことが判明している[8]

遠藤日誌

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遠藤三郎は生涯にわたり膨大な「日誌」を書き残した。これは1904(明治37)年8月1日から、最後の日付1984(昭和59)年9月9日まで一日も欠かさず93冊に及び、「極秘」のスタンプが押された軍事機密書類も数十点含まれる、日本近現代史の貴重な一次資料である。「遠藤日誌」の原本は現在埼玉県狭山市の遠藤家の遺族から狭山市立博物館に一括して寄託され、研究者の閲覧は可能である[9]

著書

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  • 『日中十五年戦争と私 - 国賊・赤の将軍と人はいう』日中書林、1974年。

脚注

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  1. ^ a b c 「新人国記82 山形県5 そんぴんの風土」『朝日新聞』夕刊 1982年10月27日
  2. ^ a b 秦 2005, p. 29, 第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-遠藤三郎
  3. ^ a b c d 収蔵品展:遠藤三郎が遺した品々”. 狭山市立博物館. 2021年10月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年10月5日閲覧。
  4. ^ 張鴻鵬遠藤三郎と重慶爆撃 : 「北進」から「南進」への国策転換」『愛知大学国際問題研究所紀要』第146号、2015年11月、280-283頁、ISSN 0515-7781NAID 120005994680 PDF 14-17頁
  5. ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、11頁。NDLJP:1276156 
  6. ^ 第3回国会 衆議院 不当財産取引調査特別委員会 第7号 昭和23年10月20日
  7. ^ 呉学文,王俊彦『廖承志与日本』,北京:中共党史出版社、 2007年,222頁.
  8. ^ 『大外交家周恩来(上)』P210,王俊彦,経済日報出版社出版、1998年
  9. ^ 遠藤三郎” (pdf). 狭山市役所. 2022年1月21日閲覧。

参考文献

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外部リンク

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