足利義氏 (古河公方)
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 天文10年1月15日(1541年2月10日)もしくは天文12年3月26日(1543年4月29日)[1] |
死没 | 三島暦:天正10年閏12月20日/京暦:天正11年1月21日(グレゴリオ暦:1583年2月13日)[2] |
改名 | 梅千代王丸(幼名)→義氏 |
戒名 | 長山善公香雲院 |
墓所 | 徳源院跡(茨城県古河市) |
官位 | 従五位下左馬頭、従四位下右兵衛佐 |
幕府 | 室町幕府 第5代古河公方 |
氏族 | 足利氏 |
父母 | 父:足利晴氏、母:芳春院殿(北条氏綱女) |
兄弟 | 藤氏、義氏、藤政、輝氏、家国 |
妻 | 正室:浄光院殿(北条氏康女) |
子 | 氏姫、梅千代王丸、娘 |
特記 事項 | 死没日が2つあることについては後述。 |
足利 義氏(あしかが よしうじ)は、戦国時代の人物で、第5代古河公方(在職:1552年 - 1583年)。同名の足利義氏から数えて14代目の子孫に当たる。父は第4代古河公方の足利晴氏、母は北条氏綱の娘の芳春院殿。正室は北条氏康の娘の浄光院。異母兄弟に足利藤氏や足利藤政がいる。
生涯
[編集]天文10年(1541年)1月15日、足利晴氏の次男(一説には五男)として小田原城で生まれる(『下野足利家譜』)[3][注釈 1][注釈 2]。ただし、天文12年(1543年)生まれとする同時代史料もあり(『鎌倉公方御社参次第』)[7]、建長寺で編纂された『建長寺年中諷経並前住記』[注釈 3]には義氏を癸卯(=天文12年)3月26日生まれとする記述が行われている[8][9]。その後存在が確認された義氏の仏事香語には、義氏が四十年の生涯を送ったことが記されており、逆算すると天文12年生まれが正しいことになる[10][11]。幼名は梅千代王丸。
父・晴氏が北条氏康との河越城の戦いで戦って敗北したのち、天文17年(1548年)に晴氏は長男である足利藤氏を後継者とした[12]。だが、これに危機感を抱いた氏康は、梅千代王丸と母親の芳春院を北条領に連れ出そうと画策している[13][注釈 4]。
天文20年(1551年)12月、晴氏と氏康の和睦が成立したが、氏康はそれまで正式な妻を持つ慣例がなかった古河公方家において、晴氏に芳春院を正式な妻として遇するように要求して認めさせた。その結果、妾(しょう)の1人であった芳春院が晴氏の正妻として遇されるようになり、その所生であった梅千代王丸が嫡男として扱われることになった[12]。また、晴氏は公方府を芳春院と梅千代王丸が滞在していた北条氏の一支城であった葛西城(現在の東京都葛飾区青戸)に移すことにも同意した[13]。
だが、晴氏は後継者の変更には難色を示し、最終的にこれを認めたのは天文21年(1552年)12月のことであった。しかし、氏康が梅千代王丸に付けた禅僧の季龍周興らは、12歳(もしくは10歳)の梅千代王丸に古河公方が行う安堵状と宛行状の決裁を行わせ、実際には古河公方の交替になってしまった[14]。
天文23年(1554年)7月、事態を悟った晴氏は葛西城を脱出して古河御所に籠もったが、重臣の簗田晴助や一色直朝らがこれに反対し、11月には氏康自らが古河を攻めて晴氏を降伏に追い込み、晴氏は相模国に幽閉された[15]。
天文24年(1554年)11月、梅千代王丸は元服したが、その元服式は古河御所ではなく葛西城で行われた[16][17]。このとき、室町幕府の将軍である足利義輝から、足利将軍家の通字である「義」の字を偏諱として受け、義氏と名乗り、加冠役は外伯父にあたる氏康が務めた[18]。廃嫡された異母兄の藤氏は、義藤と名乗っていた頃の義輝から下の字である「藤」の字を与えられており、藤氏に権威的に対抗するためにも下の字である「輝」ではなく、それよりも権威があるとされた上の字である「義」の字を求めたと考えられる[19]。また、藤氏の存在は北条氏側からすれば潜在的な脅威であり、義氏の元服時に義輝から「輝」ではなくそれより格上とされる「義」の偏諱を得たのも、藤氏の正統性の否定の意図があったともいわれている[19]。
永禄元年(1558年)2月、義氏は朝廷より従四位上右兵衛佐に任じられた。右兵衛佐は古河公方家に叛旗を翻した小弓公方足利義明(義氏の大叔父)の名乗った官職であるものの、同時にかつて源頼朝が任じられた官職でもあった。北条氏得宗家と同じ左京大夫を名乗っていた氏康は、義氏が鎌倉幕府の将軍とゆかりのある官職を受けることで、鎌倉幕府の先例を継承して東国支配の正当性を強化しようとしたと考えられる[19]。4月には義氏は葛西城を出て、古河公方としては唯一になる鎌倉の鶴岡八幡宮に参詣し、8月には公方領国入りを果たすものの、その居城も代々の古河城でなく関宿城とされた[20]。これらの身上は全て、北条氏の政略上のものとして動かされた。
また、のちに関東管領となった上杉謙信も晴氏の長男である足利藤氏が正統な古河公方であるとし、異母弟であった義氏の継承を認めなかった。関東における北条氏と、上杉氏はじめとする反北条氏との攻防の中にあって、義氏は小田原など古河と関係ない地を転々とすることになった。なお、『小田原衆所領役帳』では「御家門方 葛西様」と記載されている。
元亀元年(1570年)ごろ、越相同盟の締結条件として、上杉謙信からも正統性と継承を認められた。ようやく古河公方として古河に戻ることになったが、それは氏康の子・北条氏照を後見人にするという条件のもとであり、傀儡であることに代わりはなかった。このころ、浄光院と婚姻したと推測されている[21]。
天正2年(1574年)、閏11月に上杉方として北条氏及び義氏と対立状態にあった簗田晴助・持助父子が降伏し(関宿合戦の終結)、同じ頃足利藤政が死去(一説には関宿城陥落時に自害)したことで、長年の古河公方家の内紛は事実上終結することになる。義氏は永禄3年以来の簗田氏の行動に対して処断を求めていたが、北条氏康の後を継いでいた北条氏政は弟の氏照を介して説得し、12月に赦免を認めた[22]。天正年間の義氏は古河城と栗橋城の両方を居城としており、特に天正5年(1577年)から同9年(1581年)にかけては栗橋城を居住としていることが判明している[23]。
天正10年(1582年)、武田勝頼の滅亡によって上野国が織田信長の勢力下に入って滝川一益に与えられた。関東の諸勢力は信長との誼を通じようとして使者を派遣したが、一益は義氏と簗田氏からの使者に対してはこれを黙殺した。義氏はこれを不安がって簗田父子に相談をしている(天正10年4月24日付簗田中務太輔(持助)・同洗心斎(晴助)宛足利義氏朱印覚書「簗田文書」所収/戦国遺文後北条氏編1029号)。一方で、一益は小弓公方の継承者と称していた足利頼淳(義明の子)に対して連絡を取った形跡があり、織田政権が東国平定後に北条氏に近い古河公方を廃して小弓公方を擁立する構想を立てていた可能性を指摘する研究者もいる[24]。しかし、同年に発生した本能寺の変で信長が討たれ、滝川一益も北条氏によって追放されたために危機は回避された[25]。
天正10年(1582年)閏12月20日に死去。ただし、この日付は北条氏の勢力圏下で用いられていた三島暦の日付であり、京都で用いられていた京暦や同じ関東地方でも大宮暦ではこの日は年が明けた天正11年(1583年)1月20日とされている(詳細は改暦#天正10年の例参照のこと)[26]。法号は長山善公香雲院。
嫡男の梅千代王丸が早世していたため、古河公方の家臣団は梅千代王丸の姉である氏姫を古河城主として擁立した。
その後、名族の血筋が断絶することを惜しんだ豊臣秀吉の計らいで、氏姫は小弓公方であった足利義明の孫・足利国朝と結婚し、喜連川氏を興すこととなった。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『快元僧都記』では足利晴氏と芳春院殿の婚姻を天文9年(1540年)11月と記しており、『下野足利家譜』の記述を採用すると、芳春院殿が婚姻から2か月余りで義氏を生んだことになってしまう(この矛盾が義氏の天文12年生まれ説の根拠の1つになっている)[4]。
- ^ 黒田は末子としている[5]。その後、黒田は藤政・輝氏・家国は晴氏の実子ではない可能性を指摘している(末子という結論には変わりが無いが、五男ではなく次男ということになる)[6]。
- ^ 正式な題名は『巨福山建長興国禅寺年中諷経並前住記』:文明2年(1470年)作成・延宝6年(1678年)追補(尾﨑論文より)。
- ^ 黒田基樹は晴氏と芳春院が婚姻した時期には北条氏との関係も良好であったために芳春院が産んだ子を跡継ぎにする約束があったのをその後の関係悪化によって晴氏が白紙に戻そうとしたのではないかとしている[6]。
出典
[編集]- ^ 『建長寺年中諷経並前住記』「(三月) 廿六 大檀那関東道都元帥源朝臣〈義氏、癸卯〉誕生」
- ^ 市村高男『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年。
- ^ 下山治久『戦国時代年表 後北条氏編』東京堂出版、2010年、58頁。
- ^ 黒田 2021, p. 33, 浅倉直美「北条家の繁栄をもたらした氏康の家族」.
- ^ 黒田 2017, pp. 111.
- ^ a b 黒田基樹「総論 古河公方・足利義氏の研究」『古河公方・足利義氏』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第三七巻〉、2024年5月、11頁。ISBN 978-4-86403-527-9。
- ^ 黒田 2018, pp. 42.
- ^ 黒田 2021, p. 247, 長塚孝「氏康と古河公方の政治関係」.
- ^ 尾﨑正善「月中・年中行事清規三本の紹介--『南禅諸回向』・『建長寺年中諷経並前住記』・『瑞鹿山圓覺興聖禅寺月中行事・年中行事』」『鶴見大学仏教文化研究所紀要』第9号、鶴見大学、2004年4月、99-128頁、doi:10.24791/00000462、ISSN 13419013、NAID 110004777687。
- ^ 黒田基樹「総論 古河公方・足利義氏の研究」『古河公方・足利義氏』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第三七巻〉、2024年5月、10-11頁。ISBN 978-4-86403-527-9。
- ^ 黒田基樹「史料翻刻 足利義氏仏事香語」『古河公方・足利義氏』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第三七巻〉、2024年5月、378-385頁。ISBN 978-4-86403-527-9。
- ^ a b 黒田 2021, p. 34, 浅倉直美「北条家の繁栄をもたらした氏康の家族」.
- ^ a b 黒田 2021, p. 249, 長塚孝「氏康と古河公方の政治関係」.
- ^ 黒田 2021, p. 250, 長塚孝「氏康と古河公方の政治関係」.
- ^ 黒田 2021, pp. 250–251, 長塚孝「氏康と古河公方の政治関係」.
- ^ 佐藤博信「古河公方足利義氏論ノート」『日本歴史』646号、2002年。/改題所収:佐藤博信「古河公方足利義氏についての考察」『中世東国政治史論』塙書房、2006年。ISBN 4827312079。 NCID BA78948371。全国書誌番号:21232033 。NDLJP:11199471
- ^ 千葉県史料研究財団 編『千葉県の歴史 通史編 中世』千葉県、2007年。
- ^ 黒田 2011, pp. 74.
- ^ a b c 黒田 2021, p. 252, 長塚孝「氏康と古河公方の政治関係」.
- ^ 黒田 2011, pp. 75–76.
- ^ 黒田 2017, pp. 112.
- ^ 黒田基樹「総論 古河公方・足利義氏の研究」『古河公方・足利義氏』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第三七巻〉、2024年5月、17・23頁。ISBN 978-4-86403-527-9。
- ^ 黒田基樹「総論 古河公方・足利義氏の研究」『古河公方・足利義氏』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第三七巻〉、2024年5月、22-28頁。ISBN 978-4-86403-527-9。
- ^ 田中宏志「関東足利氏と織田政権」『戦国史研究』54号、2007年。/所収:黒田基樹 編『古河公方・足利義氏』戎光祥出版〈中世関東武士の研究 第三七巻〉、2024年5月、97-100頁。ISBN 978-4-86403-527-9。
- ^ 黒田基樹「総論 古河公方・足利義氏の研究」『古河公方・足利義氏』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第三七巻〉、2024年5月、28-29頁。ISBN 978-4-86403-527-9。
- ^ 黒田基樹「総論 古河公方・足利義氏の研究」『古河公方・足利義氏』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第三七巻〉、2024年5月、29頁。ISBN 978-4-86403-527-9。
参考文献
[編集]- 黒田基樹『戦国関東の覇権戦争 北条氏VS関東管領・上杉氏55年の戦い』洋泉社、2011年6月。ISBN 978-4-86248-764-3。
- 黒田基樹『北条氏康の妻 瑞渓院 政略結婚から見る戦国大名』平凡社〈中世から近世へ〉、2017年12月。ISBN 978-4-582-47736-8。
- 黒田基樹『戦国北条家一族事典』戎光祥出版、2018年6月。ISBN 978-4-86403-289-6。
- 黒田基樹 編『北条氏康とその時代』戒光祥出版〈シリーズ・戦国大名の新研究 2〉、2021年7月。ISBN 978-4-86403-391-6。
- 黒田基樹 編『古河公方・足利義氏』戎光祥出版〈中世関東武士の研究 第三七巻〉、2024年5月。ISBN 978-4-86403-527-9。
外部リンク
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