藤原作弥
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ふじわら さくや 藤原 作弥 | |
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生誕 |
1937年1月14日(87歳) 宮城県仙台市 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京外国語大学外国語学部 |
職業 | ジャーナリスト、エッセイスト、ノンフィクション作家 |
栄誉 | 日本エッセイスト・クラブ賞 |
藤原 作弥(ふじわら さくや、1937年(昭和12年)1月14日[1][2] - )は、日本のジャーナリスト、エッセイスト、ノンフィクション作家。時事通信社解説委員長、日本銀行副総裁、日立総合計画研究所社長などを務めた。
来歴・人物
[編集]宮城県仙台市生まれ[2]。1942年、言語学者の父に従って朝鮮の清津へ移住する[3]。1944年、満洲の興安街に転居する[3]が、1945年ソ連軍による侵攻の9時間前に脱出[4]。安東で生活した後、1946年11月に帰国[3]。
宮城県仙台第一高等学校を経て、1962年[要出典]東京外国語大学フランス語科[要出典]卒、時事通信社に入社[4]。経済部記者として大蔵省[4]担当。1967年よりオタワ[要出典]、ワシントン特派員[2]。以後、日本銀行[4]、経団連、外務省などの担当を経て、編集委員[要出典]、解説委員[4]、解説委員長[2]を歴任。
1998年、日銀副総裁に就任( - 2003年)[4]。2003年、日立総合計画研究所社長( - 2007年)[4]、同年東北電力監査役。2006年、毎日新聞社監査役( - 2011年)[5]。
2009年、富士通ラーニングメディア取締役[1]。2011年、毎日新聞グループホールディングス監査役( - 2022年)[6]。
大宅壮一ノンフィクション賞選考委員。日本ファッション協会「シネマ夢倶楽部」推薦委員[7]。
1982年『聖母病院の友人たち』で日本エッセイスト・クラブ賞受賞[4]。
著書
[編集]- 『聖母病院の友人たち 肝炎患者の学んだこと』新潮社、1982年5月。
- 『聖母病院の友人たち 肝炎患者の学んだこと』新潮文庫、1986年5月。
- 『満州、少国民の戦記』新潮社、1984年8月。
- 『満州、少国民の戦記』現代教養文庫、1995年12月。
- 『死を看取るこころ』講談社、1987年7月。
- 『死を看取るこころ』講談社文庫、1990年9月。
- 『人間のいる風景』講談社、1988年10月。
- 『ビジネス書を肴にして』NTT出版、1989年7月。
- 『ビジネス読書学』現代教養文庫、1993年5月。
- 『素顔の日銀総裁たち―カラムコラム』日本経済新聞社、1991年3月。
- 『本にからむコラム』新潮社、1993年6月。
- 『満洲の風』集英社、1996年7月。
- 『風評私評』文藝春秋、1998年12月。
- 『攻守ところを変えて 日銀副総裁になった経済記者』時事通信社、1999年6月。
- 『わが放浪 満洲から本石町まで』時事通信社、2001年10月。
- 『素顔の日銀副総裁日記』集英社、2003年3月。
共著・編著
[編集]- 山口淑子共著 『李香蘭 私の半生』新潮社、1987年7月。
- 山口淑子共著『李香蘭 私の半生』新潮文庫、1990年12月。
- 編著『わたしの「生活大国」 総理大臣から中学生まで1300人の声』時事通信社、1993年1月。
翻訳
[編集]- ジェイソン・コーゾル著 公文俊平共訳『ハードランディング作戦』講談社、1988年3月。
- ジェイソン・コーゾル著 公文俊平共訳『ドル大暴落の日 ハードランディング作戦』講談社文庫、1992年2月。
脚注
[編集]- ^ a b “役員人事について”. 富士通ラーニングメディア (2009年6月30日). 2023年10月14日閲覧。
- ^ a b c d “再生委員に聞く(3)元日銀副総裁・藤原作弥氏/経営支援の強化が急務”. 河北新報. (2012年1月5日). オリジナルの2019年4月11日時点におけるアーカイブ。 2015年9月2日閲覧。
- ^ a b c “ぐるっと流山 藤原作弥さんによる講演会「8月15日、満州少年の日々」”. 流山市 (2015年5月1日). 2019年4月21日閲覧。
- ^ “人事、毎日新聞社”. 日本経済新聞 (2011年5月11日). 2023年10月14日閲覧。
- ^ “人事、毎日新聞グループホールディングス”. 日本経済新聞 (2022年5月17日). 2023年10月14日閲覧。
- ^ シネマ夢倶楽部 JFA 一般財団法人 日本ファッション協会(2015年4月1日現在)
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 講演・記者会見 藤原作弥 - 日本銀行 Bank of Japan