羽仁未央
羽仁 未央(はに みお、1964年2月29日 - 2014年11月18日)は、日本のエッセイスト、メディアプロデューサー。東京都出身。映画監督の羽仁進と女優の左幸子を両親に持ち、叔母は女優の左時枝。祖父は歴史学者の羽仁五郎で、祖母は婦人運動家の羽仁説子。曾祖父は第四十銀行創立者の森宗作とジャーナリストで自由学園創設者の羽仁吉一で、曾祖母は吉一と同じく自由学園創設者でジャーナリストの羽仁もと子。
来歴・人物
[編集]幼い頃から海外生活が長く、5歳から7歳をパリで、9歳から11歳を父親の製作したテレビドキュメンタリー番組動物家族の撮影に同行しケニアで過ごす。小学4年生の時に学校教育を否定し、話題になる。それ以後は学校に通わず、学校教育も受けず、家で教育を受ける。ホームスクーラーの先駆けとも言える存在。
10代の頃からコラムや映画の批評、短編小説、エッセイ等を執筆し1987年から香港在住[1][2]。
1982年、ナンセンスSFコメディ「ヘリウッド[3]」で映画に出演。1991年、香港映画「妖獣大戦[4]」で監督と脚本を手掛けた。
1998年、香港が中国返還される頃にわたり、返還期の香港についてテレビ朝日系列のニュース番組『ニュースステーション』にてシリーズでレポート。しばらく、香港、シンガポール、日本を行き来しつつ活動していた。
このほかにも、アジア中心のドキュメンタリー番組などを制作。晩年はインターネットを主軸にして活躍しており、アジアチャンネル、MonjaKids.comなどのコミュニティーサイトを手掛け、香港に会社を持ち、日本と香港で主な活動を行っていた。
1999年、NPOのオルタナティブ大学であるシューレ大学のアドバイザーとなる。
2001年、実母の左幸子が死去したが、両親の離婚後は彼女と交流が無かったことを理由に、父親の羽仁進と継母で幸子の妹の喜美子と共に葬儀を欠席した。
2006年、荒戸映画事務所が製作した『ゲルマニウムの夜』(原作:花村萬月、監督:大森立嗣)にて、スーパーバイザーを務める。
2014年11月18日、肝不全のため東京都文京区の病院で死去[5][6]。50歳没。墓所は雑司ヶ谷霊園。
著書
[編集]- MIOと11ぴきのネコ(羽仁みお 名義 新書館(For ladies) 1973年)
- 未央のびっくり箱(文化出版局 1977年8月)
- ネコの父へ人間のミオより(羽仁進共著 潮出版社 1978年2月)
- 親が知らない娘の本 言いにくい話しにくいことだらけ(青春出版社(プレイブックス) 1983年6月)
- 未央と合せて八百歳 羽仁未央のおしゃべりキャッチボール(第三文明社 1985年6月)
- 陽気な憂鬱症(朝日出版社(角本head's) 1986年2月)
- 香港は路の上(徳間書店(徳間文庫) 1989年3月)
- 夢見る場所は場所も夢見る(フレーベル館(クリエイティブウーマンシリーズ) 1992年7月)
映画
[編集]- 妖精の詩(うた)(1971年):出演
- ヘリウッド(1982年):出演
- プリティ・ボディ フランケンシュタインの恋(1988年)<OV>:脚本
- 妖獣大戦(1991年)<OV>:脚本/監督
- ゲルマニウムの夜(2005年):スーパーバイザー
- 人間失格(2009年):企画協力
テレビ
[編集]- ルポルタージュにっぽん 翔んでる100歳 物集高量(NHK総合、1979年9月15日放送):リポーター
脚注
[編集]- ^ megajob インタビュー
- ^ 羽仁未央(インタビュー)「理屈では起こり得ないことが起こる香港は、街そのものが記録映画です。」『megajob』、文化放送ブレーン 、2000年。オリジナルの2001年6月18日時点におけるアーカイブ 。2024年6月21日閲覧。
- ^ 監督:長嶺高文、主演:遠藤賢司(ロックシンガー)
- ^ 主演:赤井英和、グロリア・イップ
- ^ “エッセイストの羽仁未央さんが死去”. 産経ニュース. (2014年11月20日) 2020年3月9日閲覧。
- ^ “エッセイスト羽仁未央さん死去 父は映画監督の羽仁進氏”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2014年11月20日). オリジナルの2014年11月20日時点におけるアーカイブ。 2024年6月21日閲覧。