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'''大河内 信威'''(おおこうち のぶたけ、[[1902年]][[7月24日]] - [[1990年]][[7月12日]])は、日本の[[美術史家]]、[[評論家]]、[[実業家]]、[[社団法人]]日本陶磁協会第5代理事長。元[[共産党]]員<ref name=sannohe/>。別名・小川信一。号は風船子。一時、磯野姓を名のる<ref name=tobun>[https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10501.html 大河内信威]独立行政法人 国立文化財機構 東京文化財研究所、2019年06月06日</ref>。 |
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== 来歴・人物 == |
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後に[[河原崎長十郎 (4代目)|河原崎長十郎]]と結婚する[[河原崎しづ江]]と結婚していた時期がある<ref>[http://bunbun.boo.jp/okera/v_araki/sei_ka/seika_bunken1.htm 「関 鑑子」伝 (青地 晨)]</ref>。しづ江との間に一児(信具)を儲けるも、信威が豊島刑務所に収監中に離婚。 |
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== 経歴 == |
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*戦後は、理研コンツェルンの解体の過程のなかで、[[理研科学映画|理研映画株式会社]]([[1946年]]設立)の専務や[[東邦物産]](1958年設立)嘱託を歴任。陶芸、茶道史については、本名の'''磯野信威'''または、'''磯野風船子'''、'''大河内風船子'''で著作がある。 |
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*[[1982年]]には、「労働者の状態及び労働者運動史」の復刻版の発刊を許可した。 |
*[[1982年]]には、「労働者の状態及び労働者運動史」の復刻版の発刊を許可した。 |
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大河内 信威(おおこうち のぶたけ、1902年7月24日 - 1990年7月12日)は、日本の美術史家、評論家、実業家、社団法人日本陶磁協会第5代理事長。元共産党員[1]。別名・小川信一。号は風船子。一時、磯野姓を名のる[2]。
来歴・人物
理化学研究所第3代所長・理研産業団創始者で貴族院議員を務めた子爵大河内正敏の長男。旧制浦和高校卒。十代後半から左翼運動に興味を持ち、高校在学中から東京帝国大学を中心とする学生運動組織「新人会」に参加。小川信一のペンネームで、左翼文化団体の指導者となり、『日本資本主義発達史講座 第2部 資本主義発達史』の「労働者の状態及び労働者運動史」などの著作を発表。
昭和初期に共産党再建事件で逮捕され、獄中で転向宣言して減刑されるも、華族社会に大きな衝撃を与え、大河内家から正式に相続廃除される[3]。父親の正敏は貴族院議員など公職から退いた[4]。
釈放後、戦前は大多喜天然瓦斯を経て、理研グループ各社の役員を務め、戦後は理研科学映画専務ののち、東邦物産嘱託となった[2]。この間、陶磁史、茶道史の研究を深め、なかでも楽茶碗に関しては父子代々のコレクターでもあり、執筆のほか、自ら作陶もした[2]。
後に河原崎長十郎と結婚する河原崎しづ江と結婚していた時期がある[5]。しづ江との間に一児(信具)を儲けるも、信威が豊島刑務所に収監中に離婚。
経歴
- 1921年、東京高等師範学校附属中学在学中、山川均の水曜会に入る[4]。
- 1923年、浦和高等学校 (旧制)に入学。学生連合会を組織してリーダーとなり、同盟休校して一年後れて卒業、東京帝大経済科を志望するも左傾学生として入学を許されなかった[4]。
- 1925年、小川信一の名でプロレタリヤ文芸家同盟に参加、活動資金として支援者から約1000円を集金し、自身も約200円を同盟に寄付した[4]。
- 1927年、小川信一のペンネームで、関鑑子、村山知義、久板栄二郎、柳瀬正夢、青野季吉、林房雄、前田河広一郎、葉山嘉樹、佐野碩、千田是也、佐々木孝丸らの「前衛劇場」に参加。前進座のスター女優山岸静江との間に長男・信具生まれる[4]。
- 1928年、国際文化研究所の設立に参加。左翼国際文化情報誌「国際文化」[6]を発行。全日本無産者芸術連盟(通称ナップ)の書記となる[3]。
- 1929年には三木清らとともにプロレタリア科学研究所(のちに日本プロレタリア科学同盟)を結成。書記長。続いて、日本プロレタリア文化連盟(通称コップ)の書記長となる。
- 1932年3月にコップの取締があり、他のメンバーらとともに検挙される。信威は第一審では懲役3年を言い渡されたが、不服で控訴する[3]。
- 1934年、獄中にて転向声明を出したところ、11月21日の東京控訴院で、「犯罪事実を率直に認め、転向を誓った」として、原審の懲役3年より軽い懲役2年を求刑される[3]。
- 1935年3月26日、理化学研究所の工学博士辻二郎の仲介で、銀座山野楽器の娘・文子と結婚する[3]。
- 1936年10月、証券の運用、土地建物の賃貸事業を行う富国工業が設立され、その役員となる。理研内に就職してくる左翼前歴者を庇ったといわれる[1]
- 戦後は、理研コンツェルンの解体の過程のなかで、理研映画株式会社(1946年設立)の専務や東邦物産(1958年設立)嘱託を歴任。陶芸、茶道史については、本名の磯野信威または、磯野風船子、大河内風船子で著作がある。
- 1982年には、「労働者の状態及び労働者運動史」の復刻版の発刊を許可した。
著作
- 『労働者の状態及び労働者運動史』小川信一 岩波書店 日本資本主義発達史講座 1932年
- 『陶器全集 第6巻 長次郎・光悦』(磯野信威、平凡社、1958年)
- 『楽茶碗』(磯野風船子、河原書店、1961年)
- 『茶の湯古今春秋』(磯野風船子、雄山閣出版、1973年)
- 『陶磁大系 17 長次郎』(磯野信威、平凡社、1972年)
- 『茶碗百選』(大河内風船子、平凡社、1984年)
- 『日本陶磁大系 第17巻 長次郎・楽代々』(大河内風船子、平凡社、1990年)