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'''アンドレス・エスコバル・サルダリアガ'''(Andrés Escobar Saldarriaga, [[1967年]][[3月13日]] - [[1994年]][[7月2日]])は、[[コロンビア]]・[[メデジン]]出身の[[サッカー選手]]。ポジションは[[ディフェンダー (サッカー)|ディフェンダー]]。[[サッカーコロンビア代表|コロンビア代表]]のキャプテンを務めた。
'''アンドレス・エスコバル・サルダリアガ'''(Andrés Escobar Saldarriaga, [[1967年]][[3月13日]] - [[1994年]][[7月2日]])は、[[コロンビア]]・[[メデジン]]出身の[[サッカー選手]]。ポジションは[[ディフェンダー (サッカー)|ディフェンダー]]。[[サッカーコロンビア代表|コロンビア代表]]のキャプテンを務めた。空中戦で威力を発揮するだけでなく、攻撃参加も得意で、左足でも強烈なシュートを放った<ref name=toyota> [[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|トヨタカップ]] 1989年 大会公式プログラム p.42-43 </ref>


== 経歴 ==
== 経歴 ==
コロンビア代表のセンターバックとして数々の国際大会に出場。[[1989年]]には麻薬王[[パブロ・エスコバル]]がオーナーである[[アトレティコ・ナシオナル]]の一員として[[コパ・リベルタドーレス]]優勝に貢献し、[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|インターコンチネンタルカップ]]で[[ACミラン]]とも対戦ことがある。代表では主将も任されるなど、南米屈指のディフェンダーとして知られた。
コロンビア代表のセンターバックとして数々の国際大会に出場。[[1989年]]には麻薬王[[パブロ・エスコバル]]がオーナーである[[アトレティコ・ナシオナル]]の一員として[[コパ・リベルタドーレス]]優勝に貢献し、この活躍から当時[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]が獲得に興味を示していた<ref name=toyota/>。[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|インターコンチネンタルカップ]]で[[ACミラン]]とも対戦、0-1と敗れた。代表では主将も任されるなど、南米屈指のディフェンダーとして知られた。


[[1990 FIFAワールドカップ|ワールドカップイタリア大会]]に出場し堅実な守備で同国初のグループリーグ突破に貢献したが、決勝トーナメント1回戦で[[サッカーカメルーン代表|カメルーン]]に1-2で敗れベスト16に終わった。
1987年の南米選手権で代表入り、1988年の[[サッカーイングランド代表|イングランド]]戦ではコロンビア代表として、イングランドから初めてゴールを奪った選手となった<ref name=toyota/>。[[1990 FIFAワールドカップ|ワールドカップイタリア大会]]に出場し堅実な守備で同国初のグループリーグ突破に貢献したが、決勝トーナメント1回戦で[[サッカーカメルーン代表|カメルーン]]に1-2で敗れベスト16に終わった。 [[1994 FIFAワールドカップ・南米予選]]にて、コパアメリカで連覇を成し遂げたアルゼンチン代表を5-0で破るなどして首位で本大会に進出。[[1994 FIFAワールドカップ]]本大会に臨む代表メンバーにも名を連ね、攻撃陣には[[カルロス・バルデラマ]]、[[ファウスティーノ・アスプリージャ]]、[[フレディ・リンコン]]、[[アドルフォ・バレンシア]]らを擁したコロンビアは同大会の優勝候補の一角と目されていた。

[[1994 FIFAワールドカップ・南米予選]]にて、コパアメリカで連覇を成し遂げたアルゼンチン代表を5-0で破るなどして首位で本大会に進出。

[[1994 FIFAワールドカップ]]本大会に臨む代表メンバーにも名を連ね、攻撃陣には[[カルロス・バルデラマ]]、[[ファウスティーノ・アスプリージャ]]、[[フレディ・リンコン]]、イバン・バレンシアーノ、[[レネ・イギータ]]、レオネル・アルバレス、ルイス・カルロス・ペレア、[[アドルフォ・バレンシア]]らを擁したコロンビアは同大会の優勝候補の一角と目されていた。


しかし初戦の1次ラウンド第1試合・[[サッカールーマニア代表|ルーマニア]]戦を1-3で落とし、第2試合の開催国[[サッカーアメリカ合衆国代表|アメリカ]]戦は、決勝トーナメント進出のためには負けられない状況となった。コロンビアの守備の要として先発出場したエスコバルだったが、前半35分に痛恨の[[オウンゴール]]をアメリカに献上してしまった。その後、追加点を許したコロンビアは、終了間際に1点を返すも届かず1-2で敗戦。この時点でコロンビアの1次ラウンド敗退が決定した。
しかし初戦の1次ラウンド第1試合・[[サッカールーマニア代表|ルーマニア]]戦を1-3で落とし、第2試合の開催国[[サッカーアメリカ合衆国代表|アメリカ]]戦は、決勝トーナメント進出のためには負けられない状況となった。コロンビアの守備の要として先発出場したエスコバルだったが、前半35分に痛恨の[[オウンゴール]]をアメリカに献上してしまった。その後、追加点を許したコロンビアは、終了間際に1点を返すも届かず1-2で敗戦。この時点でコロンビアの1次ラウンド敗退が決定した。


== 射殺事件 ==
== 射殺事件 ==
1次ラウンド終了後、代表チームはアメリカで解散となり、選手の多くは国民の非難や報復などの後難を恐れて帰国を拒否してアメリカに留まった。そんな中でエスコバルだけは「自分はあのオウンゴールについてファンやマスコミに説明する義務がある」と帰国を決意。仲間たちの制止に耳を貸さず、唯一人母国コロンビアへ帰国する。
1次ラウンド終了後、代表チームはアメリカで解散となり、選手の多くは国民の非難や報復などの後難を恐れて帰国を拒否してアメリカに留まった。 {{要出典範囲|そんな中でエスコバルだけは「自分はあのオウンゴールについてファンやマスコミに説明する義務がある」と帰国を決意。仲間たちの制止に耳を貸さず、唯一人母国コロンビアへ帰国する。|date=2021-04}}


1994年7月2日の深夜3時半頃、エスコバルは母国コロンビアの[[メデジン]]郊外のバーで友人と歓談した後、店から出たところを暴漢に銃撃され死亡した。まだ27歳という若さであった。エスコバルと一緒にいた友人によると、犯人のウンベルト・ムニョス・カストロは銃撃の際に「Gracias por el auto gol(オウンゴールをありがとう)」「Gol!(実況者がゴールシーンの時に絶叫する言葉)」と口にしながら、12発もの銃弾をエスコバルに向かって撃ち込んだ<ref>[https://www.huffingtonpost.jp/2014/06/10/andres-escobar_n_5476929.html?utm_hp_ref=yahoo 【エスコバルの悲劇】コロンビア代表を襲ったワールドカップ史上最悪の事件とは]</ref>。まだ大会の期間中に起こったこの衝撃的なニュースは世界中に報道され、直後に行われた決勝トーナメント1回戦のドイツ-ベルギー戦とスペイン-スイス戦では彼の死を悼みキックオフ前に黙祷が捧げられた。なお、エスコバル射殺されなければ[[ACミラン]]へ移籍する予った。この一連の事件は後に「エスコバルの悲劇」と呼ばれ、今もなお語られている。
1994年7月2日の深夜3時半頃、エスコバルは母国コロンビアの[[メデジン]]郊外のバーで友人と歓談した後、店から出たところを暴漢に銃撃され死亡した。まだ27歳という若さであった。エスコバルと一緒にいた友人によると、犯人のウンベルト・ムニョス・カストロは銃撃の際に「Gracias por el auto gol(オウンゴールをありがとう)」「Gol!(実況者がゴールシーンの時に絶叫する言葉)」と口にしながら、12発もの銃弾をエスコバルに向かって撃ち込んだ<ref>[https://www.huffingtonpost.jp/2014/06/10/andres-escobar_n_5476929.html?utm_hp_ref=yahoo 【エスコバルの悲劇】コロンビア代表を襲ったワールドカップ史上最悪の事件とは]</ref>。まだ大会の期間中に起こったこの衝撃的なニュースは世界中に報道され、直後に行われた決勝トーナメント1回戦のドイツ-ベルギー戦とスペイン-スイス戦では彼の死を悼みキックオフ前に黙祷が捧げられた。当時彼は[[ACミラン]]へ移籍が決的となてい<ref>{{cite news | url=https://www.kodromagazine.com/andres-escobar-ac-milan | publisher =kodoromagazine | title =Andrés Escobar, el caballero del fútbol y su sueño truncado en el AC Milan | accessdate =1 April 2021}}</ref>。この一連の事件は後に「エスコバルの悲劇」と呼ばれ、今もなお語られている。


この事件はコロンビア代表がまさかの1次リーグで敗退したことへの報復行為であったと広く信じられているが、果たしてこの犯人が単独で及んだ犯行だったのか、またワールドカップを賭けの対象としていた不法賭博シンジケートが関与していたかどうかについては未だ明らかにされていない。[[シンジケート]]の用心棒だった犯人カストロは1995年6月にエスコバル殺害の罪で逮捕され、懲役43年の判決を受け服役したが、模範囚であるとして刑を短縮され11年後に出所した。
この事件はコロンビア代表がまさかの1次リーグで敗退したことへの報復行為であったと広く信じられているが、果たしてこの犯人が単独で及んだ犯行だったのか、またワールドカップを賭けの対象としていた不法賭博シンジケートが関与していたかどうかについては未だ明らかにされていない。[[シンジケート]]の用心棒だった犯人カストロは1995年6月にエスコバル殺害の罪で逮捕され、懲役43年の判決を受け服役したが、模範囚であるとして刑を短縮され11年後に出所した。
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* コロンビア代表チームでは背番号2をつけていた。彼の死後4年間、コロンビア代表は2番を欠番にしていた。
* コロンビア代表チームでは背番号2をつけていた。彼の死後4年間、コロンビア代表は2番を欠番にしていた。
* 2006年、初の[[国際サッカー連盟|FIFA]]公認となるストリートサッカー大会「street football world festival 2006」が、エスコバルの[[命日]]である7月2日を開幕日として[[ドイツ]]で開催された。同大会の優勝トロフィーは、FIFAの理念であるフェアプレー精神、そして非暴力のシンボルとして「アンドレス・エスコバル杯 (Copa Andrés Escobar)」 と命名された。
* 2006年、初の[[国際サッカー連盟|FIFA]]公認となるストリートサッカー大会「street football world festival 2006」が、エスコバルの[[命日]]である7月2日を開幕日として[[ドイツ]]で開催された。同大会の優勝トロフィーは、FIFAの理念であるフェアプレー精神、そして非暴力のシンボルとして「アンドレス・エスコバル杯 (Copa Andrés Escobar)」 と命名された。
* 日本では1994年までオウンゴールのことを「自殺点」と呼んでいたが、エスコバルが殺害された前述の事件をきっかけに、縁起の悪い「自殺点」の呼び名を廃止し、「オウンゴール」に改めることになった。
* {{要出典範囲|日本では1994年までオウンゴールのことを「自殺点」と呼んでいたが、エスコバルが殺害された前述の事件をきっかけに、縁起の悪い「自殺点」の呼び名を廃止し、「オウンゴール」に改めることになった。|date=2021-04}}


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2021年4月1日 (木) 02:13時点における版

アンドレス・エスコバル
名前
本名 アンドレス・エスコバル・サルダリアガ
Andrés Escobar Saldarriaga
愛称 El Caballero del Fútbol
ラテン文字 Andrés ESCOBAR
基本情報
国籍  コロンビア
生年月日 1967年3月13日
出身地 メデジン
没年月日 (1994-07-02) 1994年7月2日(27歳没)
身長 184cm
体重 76kg
選手情報
ポジション DF
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1987-1989 コロンビアの旗 アトレティコ・ナシオナル 78 (0)
1989-1990 スイスの旗 BSCヤングボーイズ
1990-1994 コロンビアの旗 アトレティコ・ナシオナル 144 (0)
代表歴
1988-1994 コロンビアの旗 コロンビア 51 (1)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

アンドレス・エスコバル・サルダリアガ(Andrés Escobar Saldarriaga, 1967年3月13日 - 1994年7月2日)は、コロンビアメデジン出身のサッカー選手。ポジションはディフェンダーコロンビア代表のキャプテンを務めた。空中戦で威力を発揮するだけでなく、攻撃参加も得意で、左足でも強烈なシュートを放った[1]

経歴

コロンビア代表のセンターバックとして数々の国際大会に出場。1989年には麻薬王パブロ・エスコバルがオーナーであるアトレティコ・ナシオナルの一員としてコパ・リベルタドーレス優勝に貢献し、この活躍から当時インテルが獲得に興味を示していた[1]インターコンチネンタルカップではACミランとも対戦、0-1と敗れた。代表では主将も任されるなど、南米屈指のディフェンダーとして知られた。

1987年の南米選手権で代表入り、1988年のイングランド戦ではコロンビア代表として、イングランドから初めてゴールを奪った選手となった[1]ワールドカップイタリア大会に出場し堅実な守備で同国初のグループリーグ突破に貢献したが、決勝トーナメント1回戦でカメルーンに1-2で敗れベスト16に終わった。 1994 FIFAワールドカップ・南米予選にて、コパアメリカで連覇を成し遂げたアルゼンチン代表を5-0で破るなどして首位で本大会に進出。1994 FIFAワールドカップ本大会に臨む代表メンバーにも名を連ね、攻撃陣にはカルロス・バルデラマファウスティーノ・アスプリージャフレディ・リンコンアドルフォ・バレンシアらを擁したコロンビアは同大会の優勝候補の一角と目されていた。

しかし初戦の1次ラウンド第1試合・ルーマニア戦を1-3で落とし、第2試合の開催国アメリカ戦は、決勝トーナメント進出のためには負けられない状況となった。コロンビアの守備の要として先発出場したエスコバルだったが、前半35分に痛恨のオウンゴールをアメリカに献上してしまった。その後、追加点を許したコロンビアは、終了間際に1点を返すも届かず1-2で敗戦。この時点でコロンビアの1次ラウンド敗退が決定した。

射殺事件

1次ラウンド終了後、代表チームはアメリカで解散となり、選手の多くは国民の非難や報復などの後難を恐れて帰国を拒否してアメリカに留まった。 そんな中でエスコバルだけは「自分はあのオウンゴールについてファンやマスコミに説明する義務がある」と帰国を決意。仲間たちの制止に耳を貸さず、唯一人母国コロンビアへ帰国する。[要出典]

1994年7月2日の深夜3時半頃、エスコバルは母国コロンビアのメデジン郊外のバーで友人と歓談した後、店から出たところを暴漢に銃撃され死亡した。まだ27歳という若さであった。エスコバルと一緒にいた友人によると、犯人のウンベルト・ムニョス・カストロは銃撃の際に「Gracias por el auto gol(オウンゴールをありがとう)」「Gol!(実況者がゴールシーンの時に絶叫する言葉)」と口にしながら、12発もの銃弾をエスコバルに向かって撃ち込んだ[2]。まだ大会の期間中に起こったこの衝撃的なニュースは世界中に報道され、直後に行われた決勝トーナメント1回戦のドイツ-ベルギー戦とスペイン-スイス戦では彼の死を悼みキックオフ前に黙祷が捧げられた。当時彼はACミランへの移籍が決定的となっていた[3]。この一連の事件は後に「エスコバルの悲劇」と呼ばれ、今もなお語られている。

この事件はコロンビア代表がまさかの1次リーグで敗退したことへの報復行為であったと広く信じられているが、果たしてこの犯人が単独で及んだ犯行だったのか、またワールドカップを賭けの対象としていた不法賭博シンジケートが関与していたかどうかについては未だ明らかにされていない。シンジケートの用心棒だった犯人カストロは1995年6月にエスコバル殺害の罪で逮捕され、懲役43年の判決を受け服役したが、模範囚であるとして刑を短縮され11年後に出所した。

備考

  • コロンビア代表チームでは背番号2をつけていた。彼の死後4年間、コロンビア代表は2番を欠番にしていた。
  • 2006年、初のFIFA公認となるストリートサッカー大会「street football world festival 2006」が、エスコバルの命日である7月2日を開幕日としてドイツで開催された。同大会の優勝トロフィーは、FIFAの理念であるフェアプレー精神、そして非暴力のシンボルとして「アンドレス・エスコバル杯 (Copa Andrés Escobar)」 と命名された。
  • 日本では1994年までオウンゴールのことを「自殺点」と呼んでいたが、エスコバルが殺害された前述の事件をきっかけに、縁起の悪い「自殺点」の呼び名を廃止し、「オウンゴール」に改めることになった。[要出典]

脚注

外部リンク