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'''海野 普吉'''{{Refnest|group="注"|本来の名は「'''晋吉'''」と書いて「しんきち」と読ませるものだったが、届を受理した役所の人間が[[戸籍]]に「普吉」と誤記し、不精な性格の父親もあえて役所に訂正を求めなかった<ref>入江 (2011) 24頁</ref>。}}(うんの しんきち、[[1885年]][[8月29日]] - [[1968年]][[7月6日]]<ref>[http://kotobank.jp/word/%E6%B5%B7%E9%87%8E%E6%99%AE%E5%90%89 海野普吉 - コトバンク]</ref>)は昭和戦前・戦後の社会派、自由人権派の弁護士。多くの[[思想裁判]]・[[政治裁判]]の弁護をする{{Refnest|group="注"|自身は[[マルクス主義]]とは一線を画する[[自由主義者]]であったが、マルクス主義者を弁護する事件も相当こなした。常に被告のことを配慮する「やさしさ」は参考文献の各書が指摘するところである。}}。戦後は[[社会運動]]も行う。戦後初の[[最高裁判事]]も受けず、親友の[[片山哲内閣]]の[[法務大臣]]も受けず、一貫して在野の[[弁護士]]であることを貫く{{Refnest|group="注"|法務大臣就任をオーケーしなかったのは、弁護士登録がいったん途切れることへの懸念から、とも言われる。}}。 |
'''海野 普吉'''{{Refnest|group="注"|本来の名は「'''晋吉'''」と書いて「しんきち」と読ませるものだったが、届を受理した役所の人間が[[戸籍]]に「普吉」と誤記し、不精な性格の父親もあえて役所に訂正を求めなかった<ref>入江 (2011) 24頁</ref>。}}(うんの しんきち、[[1885年]][[8月29日]] - [[1968年]][[7月6日]]<ref>[http://kotobank.jp/word/%E6%B5%B7%E9%87%8E%E6%99%AE%E5%90%89 海野普吉 - コトバンク]</ref>)は、昭和戦前・戦後の社会派、自由人権派の[[弁護士]]。 |
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多くの[[思想裁判]]・[[政治裁判]]の弁護をする{{Refnest|group="注"|自身は[[マルクス主義]]とは一線を画する[[自由主義者]]であったが、マルクス主義者を弁護する事件も相当こなした。常に被告のことを配慮する「やさしさ」は参考文献の各書が指摘するところである。}}。戦後は[[社会運動]]も行う。戦後初の[[最高裁判事]]も受けず、親友の[[片山哲内閣]]の[[法務大臣]]も受けず、一貫して在野の[[弁護士]]であることを貫く{{Refnest|group="注"|法務大臣就任をオーケーしなかったのは、弁護士登録がいったん途切れることへの懸念から、とも言われる。}}。 |
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*1885年:静岡県有渡郡曲金村(現在の[[静岡市]][[駿河区]])で生まれる |
*1885年:静岡県有渡郡曲金村(現在の[[静岡市]][[駿河区]])で生まれる。親類には、[[俳人]]・[[歌人]]・[[作詞家]]の[[海野厚]]、[[シスター海野]]がいる。 |
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*1908年:[[第六高等学校 (旧制)|第六高等学校]]卒業 |
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*1914年:[[東京帝国大学]]法学部卒業 |
*1914年:[[東京帝国大学]]法学部卒業 |
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==参考文献== |
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*海野普吉(潮見俊隆編)『ある弁護士の歩み』日本評論社、1968年 |
*海野普吉([[潮見俊隆]]編)『ある弁護士の歩み』[[日本評論社]]、1968年 |
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*「弁護士海野普吉」刊行委員会編『弁護士海野普吉』非売品、1972年 |
*「弁護士海野普吉」刊行委員会編『弁護士海野普吉』非売品、1972年 |
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*潮見俊隆編著『日本の弁護士』日本評論社、1972年 |
*[[潮見俊隆]]編著『日本の弁護士』日本評論社、1972年 |
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*松岡英夫『人権擁護六十年――弁護士海野普吉』中公新書、1975年 |
*[[松岡英夫]]『人権擁護六十年――弁護士海野普吉』[[中公新書]]、1975年 |
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*森長英三郎『日本弁護士列伝』社会思想社、1984年 |
*[[森長英三郎]]『日本弁護士列伝』社会思想社、1984年 |
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*竹下甫『ある弁護士の置土産――海野普吉先生に学ぶ刑事弁護の精神』白順社、1996年 |
*[[竹下甫]]『ある弁護士の置土産――海野普吉先生に学ぶ刑事弁護の精神』[[白順社]]、1996年 |
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*入江耀子『思想は裁けるか――弁護士・海野普吉伝』筑摩選書、2011年 |
*[[入江耀子]]『思想は裁けるか――弁護士・海野普吉伝』[[筑摩選書]]、2011年 |
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==関連項目== |
==関連項目== |
2020年10月17日 (土) 13:11時点における版
海野 普吉[注 1](うんの しんきち、1885年8月29日 - 1968年7月6日[2])は、昭和戦前・戦後の社会派、自由人権派の弁護士。
多くの思想裁判・政治裁判の弁護をする[注 2]。戦後は社会運動も行う。戦後初の最高裁判事も受けず、親友の片山哲内閣の法務大臣も受けず、一貫して在野の弁護士であることを貫く[注 3]。
経歴
- 1885年:静岡県有渡郡曲金村(現在の静岡市駿河区)で生まれる。親類には、俳人・歌人・作詞家の海野厚、シスター海野がいる。
- 1908年:第六高等学校卒業
- 1914年:東京帝国大学法学部卒業
- 1914年:弁護士活動に入る
- 1925年:海野普吉法律事務所を創設
- 1945年:日本社会党顧問となる
- 1947年:第二東京弁護士会会長に就任
- 1947年:自由人権協会創立、初代理事長に就任
- 1948年:日本弁護士会連合会会長に就任
- 1957年:総評弁護団を結成、初代会長に就任
- 1961年:日本民主法律家協会設立、代表理事に就任
手がけた事件
手がけた社会運動
脚注
注釈
出典
- ^ 入江 (2011) 24頁
- ^ 海野普吉 - コトバンク
参考文献
- 海野普吉(潮見俊隆編)『ある弁護士の歩み』日本評論社、1968年
- 「弁護士海野普吉」刊行委員会編『弁護士海野普吉』非売品、1972年
- 潮見俊隆編著『日本の弁護士』日本評論社、1972年
- 松岡英夫『人権擁護六十年――弁護士海野普吉』中公新書、1975年
- 森長英三郎『日本弁護士列伝』社会思想社、1984年
- 竹下甫『ある弁護士の置土産――海野普吉先生に学ぶ刑事弁護の精神』白順社、1996年
- 入江耀子『思想は裁けるか――弁護士・海野普吉伝』筑摩選書、2011年