山崎佐
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山崎佐(1930年) | |
| 人物情報 | |
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| 生誕 | 1888年7月5日 |
| 死没 | 1967年7月30日(79歳没) |
| 国籍 |
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| 出身校 | 東京帝国大学法科大学独逸法律科 |
| 学問 | |
| 研究分野 | 医史学、医事法制学(創始者) |
| 学位 | 医学博士、法学博士 |
| 主な業績 |
日本弁護士連合会会長 日本医史学会理事長 公安審査委員会委員長 |
山崎 佐(やまざき たすく、1888年〈明治21年〉7月5日 - 1967年〈昭和42年〉7月30日)は、日本の弁護士、法学博士、医学博士、医史学者、医事法制学創始者[1][2]。日本弁護士連合会会長[3]、日本医史学会理事長[4]、公安審査委員会委員長[5]などを歴任した。
経歴
[編集]1888年、千葉県君津郡木更津町の医家に生まれる。1909年に旧制第七高等学校造士館を卒業後、1913年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法兼修)を卒業した[6][7]。
1913年7月に医事法制の志を立て[8]、東京地方裁判所予審判事として法曹実務に携わる傍ら、翌1914年春から医学者及び医学史家の富士川游に師事して医史学や医事法制等の研究を開始し[8][9][10]、両分野にまたがる独特の地歩を築いた。日本医師会会長の武見太郎は、庶民生活の中に事実を求め、歴史家が見逃していた資料等を生かして医の歴史と医事法制学を統一・完成させた山崎の学問的営為について、「医の歴史を背景とした医事法制学が日本において完成されたことは、山崎先生の学者としての偉大な御功績である」と評している[1]。
1915年には東京帝国大学医科大学嘱託講師に着任し、日本初となる医事法制学の講義を担当。以降47年間にわたり、東京大学、東京帝国大学附属臨時医学専門部、九州帝国大学、慶應義塾大学の他、千葉、金沢、新潟、岡山、長崎、熊本のいわゆる旧六医大全てを含む全国各地の大学医学部において医事法制学講師を務めた[1][11]。1958年5月7日に東京大学大講堂(安田講堂)で挙行された「東京大学医学部創立百周年記念式典」においては、同学部の源流を紐解く『江戸お玉ヶ池種痘所創立の史的意義』と題した記念講演も行っている[12]。
1921年、予審判事として原敬暗殺事件を担当したのちに東京控訴院判事となるが[13][14]、1922年に官を辞して、弁護士に転身する[7]。占領下における公職追放の適否を争った平野事件では、第一審から一貫して弁護を担い、最高裁判所大法廷における検事側上告棄却の無罪確定へと導いた[15][16]。同事件は、一審での裁判長忌避申立や、平野の診断書を巡る連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の干渉に加え、日本の法律及び裁判所に対する信頼を根底に据えた二審での弁護、検察の上告や最高裁への移行における同総司令部の示唆・干渉の風説など、占領下の特殊な政治状況に翻弄された[15]。平野力三は後年、足掛け4年に及んだ全裁判を振り返り、第二審だけでも毎週火・木・土曜の3回[8]、合計75回開廷され、夜の8時を過ぎることも頻繁であった過酷な法廷の様子や、政治家や学者、内務警保局関係者、旧軍人、思想家、さらには地方農村人に至るまで約100名もの広範な証人が出廷した当時を語るとともに[15]、「その間、山崎先生は終始尽力下され、百回以上に及ぶ公判にもほとんど欠席さるることがなかったそのご熱誠に対し、私は今改めて、深甚の感謝を捧げるものであります[15]」との謝意を表している。

こうした実務と並行し、1931年に『日本疫史及防疫史[17]』で九州帝国大学医学博士、1951年には『江戸期前日本医事法制の研究[18][19]』で日本大学法学博士の学位をそれぞれ取得[20]。法学博士論文執筆においては、先述の平野裁判弁護の激務の中、自ら「毎日予定の紙数を書き終わらなければ就眠しない[8]」と決めて朝夜没頭し、「夥しい古文献を渉猟検索して、苟も医薬、医制に関する史料を丹念に抜粋抄録[8]」した上で、原稿用紙3000枚を超える著作を完成させた。大蔵大臣や外務大臣、法務大臣、内閣官房長官などを歴任した愛知揆一は、かねてより山崎に「敬慕の情[21]」を抱いていたといい、2つの博士号を取得した山崎に対し「今度は文学博士をとって下さい。これは先生にピッタリですよ!」とたたみかけた際の様子を、「山崎先生は破顔一笑、天真爛漫な一面を見せて下さった。嬉しかった[21]」と振り返っている。
その他、内務省衛生局事務取扱嘱託、日本医師協会理事、日本医師会法律顧問、日本児童学会理事、医薬制度調査会会員、全日本弁護士会理事長、日本弁護士連合会人権擁護委員会初代委員長、第一東京弁護士会検察行刑委員長、最高裁判所民事規則制定諮問委員、選挙制度調査会調査委員、第一東京弁護士会会長、法制審議会委員、最高裁判所刑事規則制定諮問委員、売春対策協議会会長、日本原子力産業会議法制委員、日本調停協会連合会特別委員、国会政府委員、東京簡易裁判所司法委員、明治神宮外苑運営委員、南方同胞援護会評議員会評議員、日本弁護士連合会顧問などを歴任した[11]。

日本弁護士連合会会長の大山菊治は、後進の教化に尽力した山崎の足跡に触れ、「その深き学識は勿論、挙措端正、言動を苟しくもせざる士、君子の風格を具えられ、名利を競はざる淡々たる境地にあられ、智を以て教え徳を以て導かれ、その慈父の如き抱擁力は言わず語らずの間に後進に対し偉大なる薫化を与えられ、弁護士が紳士たることを身を以て範をたれ、在野法曹の社会的地位の向上に資するところ多大なるものがあった[3]」と述べている。
最高裁判所長官を務めた横田喜三郎は、日本弁護士連合会会長としての山崎について、直言の人でありながら、非を素直に認めて無理に弁護したり隠したりしない「良心的で公正な姿勢」と、自ら解決に向けて真剣に努力する「実行の精神」を兼ね備えていたと回想している[22]。さらに「弁護士界を代表するとなると、とかくそれだけを視野に置き、その利益と主張だけを推進するということになりがちである。しかし山崎さんはそうしたことがなく、弁護士界のことと同時に司法制度全体のことを頭に置き、そのために努力された[22]」と評し、組織の枠に捉われることなく、司法制度全体の改善に尽力した山崎の貢献に言及した。
また、日弁連会長や国際法曹協会名誉会長を務めた吉川大二郎も、会長としての山崎の公的業績として、当時の法務大臣植木庚子郎と協力して推進した、内閣直属の「臨時司法制度調査会」の創設及び発足を挙げている。しかし同調査会の意見書を巡っては、簡易裁判所の裁判官任用資格などを契機に法曹三者の激しい意見対立が生じ、制度改善の実施が阻害される事態となった[23]。吉川は、山崎が創設直後の発病により療養を余儀なくされ、同委員会の運営に加われなかった不在を惜しみ、「山崎さんさえ健在で、この委員会の委員に加わっておられたならば、おそらく、その熱意と努力によって、かような事態の発生を阻止し得たのではないか[23]」と述べた上で、「山崎さんの突然の訃こそは、わが司法制度のためにも極めて遺憾であり、衷心よりおしまれてならない[23]」と結んでいる。
1962年5月より脳卒中のため療養中のところ、肺炎を併発し、1967年7月30日、鎌倉の自宅にて死去[7]。79歳没。同年8月2日に青山葬儀所で行われた葬儀では、元日本弁護士連合会会長の長野国助が葬儀委員長、日本弁護士連合会会長の大山菊治が副委員長、日本医師会会長の武見太郎が友人総代を務めた[24]。50年近くに及ぶ親交があった長野は、淡々として「直言居士」であった故人を語ったという。この時の様子について、後輩弁護士で後に最高裁判事となった大塚喜一郎は、長野の言葉の中に人間「山崎」が語り尽くされていたと回想し、「語る人も、語られる人も、ともに人生の達人。故人にとって何よりの花むけであり、聞き入る者の胸にジーンとくるものがあった。山崎先生は、告別式の時までも、我々後輩に、なにものかを与えた人であった[25]」と記している。
多年の功労により、療養中の1964年4月に勲二等瑞宝章に叙せられ、翌1965年11月には日本医師会最高優功賞を受賞。死没日をもって正四位が追贈された[11]。墓所は染井霊園。
旧蔵資料
[編集]1945年の城北大空襲により本郷区駒込曙町(現:東京都文京区本駒込)の自宅が全焼したため、散逸した貴重書も少なくないが[26][27]、戦禍を免れた山崎の旧蔵資料は、のちに順天堂大学医学部医史学研究室[28][29][30][31]、東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター[32]、明治大学ELM(法・医・倫理の資料館)[33]、日本大学図書館法学部分館[34]に分蔵された。

これら資料の収集経緯をめぐり、順天堂大学教授の山本幹夫は、「山崎先生が奥様から月極で何がしかのお金をもらわれて、くずやの整理場へ通われて、埃まみれになって探してこられたものも多かった[35]」と回想している。その希少性は、戦前に大英博物館から高額での譲渡を打診されたほど世界的にも高く評価されていたが[35]、山崎はこの申し出を辞退したという。山本は、主要な資料が海外に渡ることなく順天堂大学へと寄附されたことについて、「外国にも行かず、散逸もされなかったことは、先生ご自身のご希望でもあり、日本文化財の保存のためにもよかったと心から喜んでいる次第である[35]」と総括した。
また、山崎の資料収集の極意について、当時自身の研究資料集めに苦悩していた大塚喜一郎は、山崎から「資料を集めるためには、古本屋のいう本代を値切ってはだめだよ。少しチップをやるぐらいにすれば、いいものが集まる」との助言を受けたエピソードを伝えている[25]。早速その教えに従ったところ、関西の古書店からまとまった貴重書が集まった。大塚はこの時の様子を、「このアドバイスは、正に天の声であった。この時ほどうれしかったことはなかった。先生にお礼かたがたそのことを報告すると、よかった、よかったと心から喜んでくださった[25]」と振り返っている。
資料一式が順天堂大学へ寄附される運びとなった背景には、貴重書の取り扱いを巡る信頼関係があった。医学博士で同大学学長を務めた有山登によれば、その契機は1957年の大学創立10周年記念式典にあるという[36]。同式典に際し、有山は順天堂120年史の講演と所蔵資料貸与を願い出て快諾されたが、展観終了後、大学側の厳重な管理体制に深く感じ入った山崎は、「これまでたびたび資料を出品したが、このように丁寧に取り扱われたのは初めてである[36]」と賞賛した。打ち続く震災や戦災で所蔵資料の大半を失っていた順天堂大学は、かねてより山崎のコレクション譲受を熱望しており、1965年春に山崎本人から譲渡の申し出がなされたことで交渉が急速に進展。1966年10月に全資料の移管が完了した。有山は「長年ご苦心の結晶を、愛読家をもって知られた先生ご病臥の枕頭から運び去るに忍びなかった[36]」と当時の胸中を明かしつつも、『山崎文庫』と名づけ、日本医史学上の貴重文献として永く公開活用することを決定した。病床にあって資料の搬出を見届けた山崎は、「これで安心した[36]」と安堵の言葉を口にしている。
順天堂大学からの依頼を受け、3名の助手とともに鎌倉の山崎邸書庫に約半年間通い、総数1万2211点に及ぶ図書の仮目録作成にあたった図書館情報学者の今まど子は、旧蔵資料の多様性について、「現在出版されているような洋装本は半分ぐらいで、木版、石版、手書きの和装本、届け書、願書等1枚ものの文書類、錦絵、木版の薬品広告、巻き物、写真等々その種類も多い[37]」と語っている。解読が困難な明治期の翻訳書や、渡辺崋山の検使に関わる文書、首実検や切腹の作法、蟇目、鳴弦、歯固めの儀など今では失われてしまった儀式を描いた珍しい絵図などの解読及びカード作成に「杉田玄白先生の蘭学事始そこのけの苦労[37]」を重ねる中、今らは、山崎の凄まじい読書量と書籍への愛情に驚きと感動を覚えるに至ったという。
山崎は収集した膨大な資料のすべてに目を通しており、どんな本であっても「医」や「病」の文字には傍線が引かれ、小指の先ほどの赤い不審紙がぎっしりと貼られていたため、本の上部が2倍の厚さに膨らむほどであった[37]。また、1枚ものの文書類はデパートの包み紙や裏の白い広告の紙で裏打ちをし、特別製の状袋に納められていた。さらに、師である富士川游の書斎に散らばっていた紙を譲り受けた際には、自ら火熨斗をあててしわを伸ばし、裏打ちをして表紙をつけ、1冊の本へと仕立て直した上で、その末尾に筆で経緯を書き残していた。そうした自家製本や蔵書の裏表紙の内側には、思いがけない稀書を見つけた際の「喜悦この上なし」という歓喜の言葉、あるいは読了時の車中の様子など私的なメモも残されている。仮目録作成を担った今は、「山崎先生はご自分の集められた資料の1点1点に、細かく愛情を注いでいらっしゃったのだ[37]」と述べ、「先生の書物への愛情が、これからの利用者にも伝わり受け継がれていくことを念じてやまない[37]」との思いを寄せている。
こうして一大コレクションとなった順天堂大学図書館『山崎文庫』につき、解剖学者及び医史学者の小川鼎三は、「医史学の研究を志す者にとって、比類のない一大宝庫[11]」と評した上で、「今後この文庫のお世話になる研究者の数は莫大なものとおもうが、その人たちは単に文献を読んで知識を広めるだけでなく、至る所に貼られた付箋により山崎先生の物すごい読書力のあとを知り、おそらく霊感に近いものをうけるであろう。山崎佐という偉大な学者がそこに立っていて、われわれ後輩を叱咤激励するかのごとくである[11]」との言葉を残している。
明治前日本医学史の執筆
[編集]日本学士院による紀元二千六百年奉祝事業の一環として行われた「明治前日本科学史」の編纂において、医学部門のうち『明治前日本医学史 第5巻:明治前日本裁判医学史[38][39][40]』(1957年刊行)の執筆を担当した[41]。

1945(昭和20)年4月の空襲により本郷の自宅が全焼した際、脱稿直後の稿本を鞄に詰め、予てから耐震耐火で建造していた書庫へ投げ入れることで、一度は焼失を免れた。しかし、その後の盗難により鞄ごと紛失。泥棒が反故(紙屑)と見なして路上に投棄した断片を拾い集めたものの、「苦心惨澹して書き上げた原稿[8]」の大部分が失われることとなった。一度は失望落胆し、「最早や再び筆をとる気力さえ失ってしまった[8]」山崎であったが、この欠落を補うための再起稿に専念すべく、当時打診のあった最高裁判所判事候補等の公職への誘いを一切辞退。自らも激しい栄養失調に陥り、心身の疲労困憊が限界に達する中[8]、戦後の極端な資料欠乏に苦しみつつも執筆を継続した[26]。
本稿の完成に心血を注いだ山崎の学術的使命感を示す記録として、学士院へ寄せた以下の書翰が残されている(日本学士院ニュースレター No.30:2022年10月号掲載)。
担当の原稿は20年2月、第一稿全部脱稿・・・4月13日、本郷曙町住宅全焼仕候際、御委嘱の原稿だけは二ツのカバンに入れて書庫に投入れ辛じて避難候・・・その後二三月を経て盗人が鍵を破り書庫へ入り右カバン諸共他の衣類等全部盗み去り候、彼等にしては反故と思いしと見え途中に抛棄しありし原稿を拾い集め、昨年末三度目の整理に入り候処小生担当の四編の内江戸時代以降は全部他の三編は平安朝以後、鎌倉時代以後等の原稿は遂に見当たり不申候、その後鋭意日日執筆し四年間の努力を失いし欠陥を補充せんと精進致居候。そのため過般最高裁判所の判事の候補も他の安掛への就任も総べてこの稿を完成して責を果すまでは他を顧みる余裕なしとて辞退致しおる次第に御座候。しかし住宅全焼、参考書も大部分を失い辛じて立退先に仮居致居ること故、意に任せず実に難渋致し候。しかし何とかして一時も早く責を果し多年の鬱屈より開放され度と日日念願致居候。
再起稿された原稿は、1957年刊行の『明治前日本医学史 第5巻』として結実した。着手から30年以上を経た1973年に全28冊が完結した本編纂事業は、担当会員、委員、嘱託などを含め、合計105名が参加した大プロジェクトであった[26][41]。日本国内10か所の主要研究機関や70校以上の国公私立大学の他、大英図書館やオックスフォード大学ボドリアン図書館、ケンブリッジ大学図書館、スタンフォード大学図書館、ベルリン国立図書館といった国外の主要学術機関にも収蔵され[39][40]、刊行後半世紀以上を経た現在もなお、日本科学史の基本的文献として広く活用されている[26]。
原敬暗殺事件
[編集]東京地方裁判所予審判事として本件を担当した山崎は、1921年11月5日午前10時より、被告中岡艮一に対する第二回尋問を行った。後年、自身が執筆した裁判手記「原敬暗殺事件と判事[13][14]」には、被告の胸襟を開き、その真相を引き出すに至った経緯が克明に記されている。
当初の中岡は「憂国の志士」を気取り、犯行を正当化する大言壮語を繰り返していた。正面突破は困難と見た山崎は、被告の自尊心を逆手に取る戦術に出る。愛読する講談本を、敢えて「天下の志士を以て任じている君だから、もっと気の利いたものぐらい読んでいるかと思ったら、何だ、講談本か、つまらぬものを読んでいるのだなァ」「余りつまった本とは、言えないやネ」と挑発して激昂させると、自身の文才を証明しようとした中岡は「映画ドラマの懸賞に応募している」ことを自ら口走った。山崎はこの「文学への未練と金銭への執着」という私的な動機を見逃さず、追及の手を強めて被告を狼狽させた[14]。

尋問が核心に触れ、中岡の虚勢が崩れかけたその時、刑事が再三にわたって昼食(鰻飯)の催促に現れる。尋問の腰を折られた山崎は、刑事を部屋に招き入れて一喝した。
「鰻が冷える!それが何です!この男は命がけで総理を暗殺したのだ。今それを調べているのだ!被告が命がけならこっちも命がけでなければならない!鰻飯の冷えることなど問題ではない。昼飯の一度や二度くらい食わなくとも一向に差し支えない。僕は昼飯は食わないから、皆にそう言ってくれ給え、もう催促に来ないでくれ給え![14]」
こうした覚悟と気迫に打たれた中岡は、突然立ち上がると、それまでの国士気取りの自尊心を捨てたかのように山崎に抱きつき、「判事さん!すみません、私は隠していました!申し訳ありません!判事さんの心がよく分かりました。包み隠さず一切申し上げます……」と泣き崩れた。山崎は、自身の胸に顔を預けて泣く被告の肩をなでながら「マアよい。そう興奮するな」と諭して腰掛けさせ、「昼飯ぬきだア、お茶でも飲んで、ゆっくり聞こう……」と言葉をかけた。これにより張り詰めていた虚勢は解け、ただ一人の青年としてわだかまりなく静かに真相を話し出したという[13][14]。
当時被告が語った事件真相は、以下のとおりである。
被告は以前、神田の或る個人経営の印刷所に勤めていた時、その主人の娘を恋し、その歓心を得ようとして色々苦心しているうち、その娘は映画が好きなので、僅かな給料の内から1、2回見物に誘ってその批評をした際、自分には文学的才能があるように吹聴した。それで娘は非常に感心して自分に好意を持つようになったが、薄給の一職工ではそう度々誘うこともできず、若し映画のドラマに当選すれば、文才も認められるし、また金も入って一緒に見にもゆけるという考えから応募してそれを自慢気に話したところ、落選してしまった。
しかしその娘にはそれを内密にして、まだ当選は決まらないとごまかしていたが、娘は外にも男の友達ができたようなので、少しやけ気味となってその印刷所から暇を貰い大塚駅にかわった。
その後も時々訪問している中、娘が偉い人物だと感服するようなことをやれば、娘の心も必ず自分に向くだろうと考えて第2回目の応募をしたが、これも落選したので、最早世の中には望みがないような気持となった。自分は時事問題が好きであるので、日頃から新聞も社会面より政治面に興味を持って読んでいたが、毎日の新聞に原内閣の秕政が盛んに攻撃されているので、大いに同感し、いつも自分を可愛がってくれる助役が「口先ばかりで憤慨しても駄目だからやめろ」と言ったので、自分はそれに反抗する気持になって「口先ばかりではない、その中やっつけるつもりだ」と言った。すると助役に「本当にやるものはだまってやる。そんなことを言う奴に何ができるか」と冷笑されたので「よし本当にやってやるぞ」と暗殺を決心するようになった、と機微な心理の過程につき細々と語った。
山崎は、中岡の頑なな態度が「こうすらすらほぐれたのは、鰻飯一件のためで、かくて本件の真相が漸く分かった[14]」と述懐している。
本稿は、警視庁機関誌『自警』編集者による熱心な要請を受けて執筆された。当初、山崎は「老人の思い出話は自慢話になりがちだ」として固辞していたが、「自慢話大いに結構、殊に古い話を今聞いておかないと、誰も知らずに消えてしまう」との説得を受け、「若い者の折角のおだてに乗るのも老人の役目」と思い直して筆を執ったという[7]。同誌1953年1月号から連載され、後に『人物往来』(1957年10月号)にも転載された(全文は江尻進編纂『思い出に綴られる山崎佐の生涯』118-151頁に収録)。
座右の銘
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1913(大正2)年7月[11]
醫制を攻究するは志なり。
法曹に携るは業なり。
志のために業を怠らず、業のために志を廃せず。
志は達成すべく、業は勉励すべし。
1950(昭和25)年8月[7]
昨日の不可能は必ずしも今日の不可能にあらず。
一粒の麦は一人の空腹を満たすに足らずと雖も
他日を期して地下に播けば萬穀を収穫し得て萬人を養ふに足らん。
著書
[編集]- 『医事法律叢書 第1編:医師法医師会法釈義』奨進医会、1914年。[42]
- 『医事法律叢書 第2編:医事刑罰法釈義』奨進医会、1915年。
- 『医料権論鈔』国家医学会、1915年。
- 『条文対照医事判決例抄』山崎佐編、日本法医学会、1915年。
- 『袖珍医家法規摘要』山崎佐編、南江堂、1916年。
- 『註釈:伝染病法規綜覧』山崎佐監修、近世医学社編、近世医学社、1917年。
- 『医業と法律 第1輯』克誠堂書店、1917年。
- 『医業と法律 第2輯』克誠堂書店、1917年。
- 『医業と法律 第3輯』克誠堂書店、1918年。
- 『医業と法律 第4輯:開業医の法律問題』克誠堂書店、1921年。
- 『医業と法律 第5輯:続開業医の法律問題』克誠堂書店、1923年。
- 『医業と法律 第6輯:伝染病予防法規の話』克誠堂書店、1928年。
- 『医業と法律 第7輯:医業と社会との交渉』克誠堂書店、1934年。
- 『医業と法律 第8輯:医制問答』克誠堂書店、1938年。
- 『医業と法律 第9輯:医療制度の追憶と進化』克誠堂書店、1940年。
- 『医事法制学』克誠堂書店、1920年。
- 『実用医事法規』山崎佐監修、今井甚太郎編、克誠堂書店、1922年。
- 『日本疫史及防疫史』克誠堂書店、1931年。[43]
- 『医療規約研究』日本医師協会事務所、1931年。
- 『臨牀医学講座 第4輯:医事法制の誤り易き諸点』金原商店、1935年。
- 『医師・歯科医師診療所解説:衛生局囘答引照』克誠堂書店、1937年。
- 『法曹瑣談』文光堂、1937年。
- 『臨牀医学講座 第74輯:診療過誤』金原商店、1937年。
- 『日本の医学 第1部:日本医学史槪要(前期)古代より室町時代まで』太田正雄編著、民風社、1946年。[44]
- 『温故知新医事談叢』日本臨牀社東京支局、1948年。
- 『最新医事法規』山崎佐編、文光堂書店、1948年。
- 『江戸期前日本医事法制の研究』(佐々木隆興が題筌を染筆した錦装本)中外医学社、1953年。[8][45][46]
- 『各藩医学教育の展望』国土社、1955年。
- 『調停シリーズ 第1巻:日本調停制度の歴史』日本調停協会連合会、1957年。
- 『明治前日本医学史 第5巻:明治前日本裁判医学史』日本学士院編、日本学術振興会、1957年。[26][39][40]
- 『松香私志』長与専斎著、山崎佐校訂解説、日本医史学会編纂、医歯薬出版、1958年。
主な論文掲載誌等
[編集]- 「判決例より見たる医師の家庭」『刀圭新報』第5巻第12号、日本医師協会事務所、1914年8月。
- 「医師の雑話の法的交渉に就て」『医事新聞』第913巻、医事新聞社、1914年11月。
- 「診療簿に就て」『刀圭新報』第6巻第4号、日本医師協会事務所、1914年12月。
- 「医師の出張所に就て」『刀圭新報』第6巻第6号、日本医師協会事務所、1915年2月。
- 「医師不応招に就て」『刀圭新報』第6巻第8号、日本医師協会事務所、1915年4月。
- 「薬品保管に関する医師の責任の一例」『刀圭新報』第6巻第9号、日本医師協会事務所、1915年5月。
- 「薬局生と無免許薬剤師」『刀圭新報』第6巻第10号、日本医師協会事務所、1915年6月。
- 「診療の実質観と形式観」『刀圭新報』第7巻第2号、日本医師協会事務所、1915年10月。
- 「薬剤権硏究(1)」『刀圭新報』第7巻第7号、日本医師協会事務所、1916年3月。
- 「薬剤権硏究(2)」『刀圭新報』第7巻第8号、日本医師協会事務所、1916年4月。
- 「薬剤権硏究(3)」『刀圭新報』第7巻第9号、日本医師協会事務所、1916年5月。
- 「薬剤権硏究(4)」『刀圭新報』第7巻第10号、日本医師協会事務所、1916年6月。
- 「薬剤権硏究(5)」『刀圭新報』第7巻第11号、日本医師協会事務所、1916年7月。
- 「薬剤権硏究(6)」『刀圭新報』第7巻第12号、日本医師協会事務所、1916年8月。
- 「診療の伸縮性と不動性」『刀圭新報』第8巻第2号、日本医師協会事務所、1916年10月。
- 「専門医と専門科名(1)」『刀圭新報』第8巻第4号、日本医師協会事務所、1916年12月。
- 「専門医と専門科名(2)」『刀圭新報』第8巻第5号、日本医師協会事務所、1917年1月。
- 「専門医と専門科名(3)」『刀圭新報』第8巻第6号、日本医師協会事務所、1917年2月。
- 「専門医と専門科名(4)」『刀圭新報』第8巻第8号、日本医師協会事務所、1917年4月。
- 「無免許医の性質を論じてその使用薬品に及ぶ」『医事新聞』第966巻、医事新聞社、1917年1月。
- 「灸術の範囲」『医事新聞』第968巻、医事新聞社、1917年2月。
- 「薬剤師の調剤と無免許医業」『医事新聞』第970巻、医事新聞社、1917年3月。
- 「肺結核予防法案疑言(1)」『刀圭新報』第8巻第7号、日本医師協会事務所、1917年3月。
- 「肺結核予防法案疑言(2)」『刀圭新報』第8巻第9号、日本医師協会事務所、1917年5月。
- 「診療の不可分性と補助者の行為」『医事新聞』第971巻、医事新聞社、1917年4月。
- 「診断書の無診察交付と虚偽記載」『医事新聞』第972巻、医事新聞社、1917年4月。
- 「伝染病届出と診断書」『医事新聞』第973巻、医事新聞社、1917年5月。
- 「死体検案書とその記載方法」『医事新聞』第974巻、医事新聞社、1917年5月。
- 「医業の意義」『医事新聞』第975巻、医事新聞社、1917年6月。
- 「伝染病予防法違反に関する三例」『医事新聞』第976巻、医事新聞社、1917年6月。
- 「売薬営業の免許と脱税」『医事新聞』第978巻、医事新聞社、1917年7月。
- 「診療過誤に因る損害賠償論(1)」『中外医事新報』第896巻、日本医史学会、1917年7月。
- 「診療過誤に因る損害賠償論(2)」『中外医事新報』第897巻、日本医史学会、1917年8月。
- 「診療過誤に因る損害賠償論(3)」『中外医事新報』第898巻、日本医史学会、1917年8月。
- 「診療過誤に因る損害賠償論(4)」『中外医事新報』第899巻、日本医史学会、1917年9月。
- 「診療過誤に因る損害賠償論(5)」『中外医事新報』第900巻、日本医史学会、1917年9月。
- 「医師広告取締違反」『医事新聞』第979巻、医事新聞社、1917年8月。
- 「非医者と無免許医業」『医海時報』第1211巻、医海時報社、1917年9月。
- 「医学上の医と法律上の医」『大日本私立衛生会雑誌』第414巻、大日本私立衛生会、1917年10月。
- 「法的現象としての医業」『刀圭新報』第9巻第6号、日本医師協会事務所、1918年2月。
- 「学校医の資格とその選定」『日本学校衛生』第6巻第3号、大日本学校衛生協会、1918年3月。
- 「法律思想の変遷を述べて医制の趨勢に及ぶ」『刀圭新報』第9巻第9号、日本医師協会事務所、1918年5月。
- 「法律問題として現れたる結核」『医事新聞』第1000巻、医事新聞社、1918年6月。
- 「診断書」『医事新聞』第1004巻、医事新聞社、1918年8月。
- 「薬剤投与と治療」『医事新聞』第1005巻、医事新聞社、1918年9月。
- 「ジアテルミー科と専門科名」『医事新聞』第1006巻、医事新聞社、1918年9月。
- 「滋養血精と売薬類似品」『医事新聞』第1008巻、医事新聞社、1918年10月。
- 「診断書作成交付」『医事新聞』第1009巻、医事新聞社、1918年11月。
- 「死体に異常ありとの意義」『医事新聞』第1010巻、医事新聞社、1918年11月。
- 「群馬県学校医診断問題私見」『日本学校衛生』第7巻第1号、大日本学校衛生協会、1919年1月。
- 「薬剤師の調剤過失と過失傷害との関係」『刀圭新報』第10巻第6号、日本医師協会事務所、1919年2月。
- 「不良薬品の為め医師の迷惑」『刀圭新報』第10巻第7号、日本医師協会事務所、1919年3月。
- 「医師の名誉棄損」『医事新聞』第1021巻、医事新聞社、1919年5月。
- 「鑑定に付き注意すべき判決例」『医事新聞』第1022巻、医事新聞社、1919年5月。
- 「診療簿不記載に対する罰則の適用」『医事新聞』第1024巻、医事新聞社、1919年6月。
- 「改正阿片法に関し注意すべき事項」『医事新聞』第1026巻、医事新聞社、1919年7月。
- 「歯科医師の権利」『歯科学報』第24巻第8号、東京歯科大学学会、1919年8月。
- 「医師の薬品貯蔵能力」『医事新聞』第1051巻、医事新聞社、1920年8月。
- 「仮死産の性質」『医事新聞』第1052巻、医事新聞社、1920年8月。
- 「病院法制定の要」『医事新聞』第1053巻、医事新聞社、1920年9月。
- 「保険診査に関する判例の一二」『医事新聞』第1054巻、医事新聞社、1920年9月。
- 「秘密を侵す罪(1)」『医事新聞』第1055巻、医事新聞社、1920年10月。
- 「秘密を侵す罪(2)」『医事新聞』第1057巻、医事新聞社、1920年11月。
- 「会員の特約に対する医師会決議の効力」『医事新聞』第1065巻、医事新聞社、1921年3月。
- 「死亡診断書と死体検案書の境」『医事新聞』第1071巻、医事新聞社、1921年6月。
- 「代診の資格」『医事新聞』第1075巻、医事新聞社、1921年8月。
- 「医師会令第二十八条を論ず(1)」『医事新聞』第1077巻、医事新聞社、1921年9月。
- 「医師会令第二十八条を論ず(2)」『医事新聞』第1078巻、医事新聞社、1921年9月。
- 「医師会令第二十八条を論ず(3)」『医事新聞』第1079巻、医事新聞社、1921年10月。
- 「医師会令第二十八条を論ず(4)」『医事新聞』第1080巻、医事新聞社、1921年10月。
- 「医師会令第二十八条を論ず(5)」『医事新聞』第1081巻、医事新聞社、1921年11月。
- 「医事法制学実際論(1)」『実験医報』第8巻第85号、克誠堂書店、1921年10月。
- 「医事法制学実際論(2)」『実験医報』第8巻第86号、克誠堂書店、1921年11月。
- 「医事法制学実際論(3)」『実験医報』第8巻第87号、克誠堂書店、1921年12月。
- 「医事法制学実際論(4)」『実験医報』第8巻第88号、克誠堂書店、1922年1月。
- 「医事法制学実際論(5)」『実験医報』第8巻第89号、克誠堂書店、1922年2月。
- 「医事法制学実際論(6)」『実験医報』第8巻第90号、克誠堂書店、1922年3月。
- 「医事法制学実際論(7)」『実験医報』第8巻第91号、克誠堂書店、1922年4月。
- 「病死と変死」『医事新聞』第1092巻、医事新聞社、1922年4月。
- 「少年法の話(1)」『児童研究』第25巻第12号、日本児童学会、1922年8月。
- 「少年法の話(2)」『児童研究』第26巻第1号、日本児童学会、1922年9月。
- 「少年法の話(3)」『児童研究』第26巻第2号、日本児童学会、1922年10月。
- 「少年法の話(4)」『児童研究』第26巻第3号、日本児童学会、1922年11月。
- 「少年法の話(5)」『児童研究』第26巻第5号、日本児童学会、1923年1月。
- 「少年法の話(6)」『児童研究』第26巻第6号、日本児童学会、1923年2月。
- 「少年法の話(7)」『児童研究』第26巻第7号、日本児童学会、1923年3月。
- 「少年法の話(8)」『児童研究』第26巻第9号、日本児童学会、1923年5月。
- 「少年法の話(9)」『児童研究』第26巻第10号、日本児童学会、1923年6月。
- 「少年法の話(10)」『児童研究』第26巻第11号、日本児童学会、1923年7月。
- 「少年法の話(11)」『児童研究』第26巻第12号、日本児童学会、1923年8月。
- 「少年法の話(12)」『児童研究』第27巻第1号、日本児童学会、1923年9月。
- 「少年法の話(13)」『児童研究』第27巻第2号、日本児童学会、1923年11月。
- 「少年法の話(14)」『児童研究』第27巻第3号、日本児童学会、1923年12月。
- 「治療の自由と医業」『医海時報』第1480巻、医海時報社、1922年11月。
- 「不応招問題に就て(1)」『日本医事新報』第72巻、日本医事新報社、1923年1月。
- 「不応招問題に就て(2)」『日本医事新報』第73巻、日本医事新報社、1923年2月。
- 「移動薬局に就て」『芸備医事』第28巻第4号、芸備医学会、1923年4月。
- 「変死と死亡診断書の記載」『医事新聞』第1120巻、医事新聞社、1923年6月。
- 「近来の悪法薬剤師法案を論ず」『医事新聞』第1158巻、医事新聞社、1925年2月。
- 「診断書記載方に就て」『医事新聞』第1169巻、医事新聞社、1925年8月。
- 「健康保険の実施と将来の医業」『歯界時報』第9巻第6号、歯界時報社、1926年7月。
- 「健康保険法に就て(1)」『日本医事新報』第205巻、日本医事新報社、1926年7月。
- 「健康保険法に就て(2)」『日本医事新報』第206巻、日本医事新報社、1926年7月。
- 「健康保険法に就て(3)」『日本医事新報』第207巻、日本医事新報社、1926年7月。
- 「健康保険法に就て(4)」『日本医事新報』第208巻、日本医事新報社、1926年7月。
- 「西洋医術差許」『法律春秋』第1巻第2号、南郊社、1926年10月。
- 「診療過誤に対する医師の責任(1)」『中外医事新報』第1117巻、日本医史学会、1926年11月。
- 「診療過誤に対する医師の責任(2)」『中外医事新報』第1118巻、日本医史学会、1926年12月。
- 「診療過誤に対する医師の責任(3)」『中外医事新報』第1120巻、日本医史学会、1927年2月。
- 「診療過誤に対する医師の責任(4)」『中外医事新報』第1123巻、日本医史学会、1927年5月。
- 「診療過誤に対する医師の責任(5)」『中外医事新報』第1124巻、日本医史学会、1927年6月。
- 「教育と懲戒の範囲」『児童研究』第31巻第11号、日本児童学会、1928年2月。
- 「乳房を以て乳児を窒息死に致したる場合と罪責」『児童研究』第32巻第1号、日本児童学会、1928年4月。
- 「眼の法律(1)」『実験眼科雑誌』第12年第99号、実験眼科雑誌社、1929年10月。
- 「眼の法律(2)」『実験眼科雑誌』第12年第100号、実験眼科雑誌社、1929年11月。
- 「眼の法律(3)」『実験眼科雑誌』第12年第101号、実験眼科雑誌社、1929年12月。
- 「眼の法律(4)」『実験眼科雑誌』第13年第102号、実験眼科雑誌社、1930年1月。
- 「眼の法律(5)」『実験眼科雑誌』第13年第103号、実験眼科雑誌社、1930年2月。
- 「眼の法律(6)」『実験眼科雑誌』第13年第105号、実験眼科雑誌社、1930年4月。
- 「眼の法律(7)」『実験眼科雑誌』第13年第106号、実験眼科雑誌社、1930年5月。
- 「眼の法律(8)」『実験眼科雑誌』第13年第107号、実験眼科雑誌社、1930年6月。
- 「眼の法律(9)」『実験眼科雑誌』第13年第108号、実験眼科雑誌社、1930年7月。
- 「眼の法律(10)」『実験眼科雑誌』第13年第109号、実験眼科雑誌社、1930年8月。
- 「明治初年千葉県に於ける貧児救育資金制度(1)」『児童研究』第33巻第11号、日本児童学会、1930年2月。
- 「明治初年千葉県に於ける貧児救育資金制度(2)」『児童研究』第33巻第12号、日本児童学会、1930年3月。
- 「明治初年千葉県に於ける貧児救育資金制度(3)」『児童研究』第34巻第1号、日本児童学会、1930年4月。
- 「文久元年手術承諾書」『中外医事新報』第1159巻、日本医史学会、1930年5月。
- 「日本に於ける最初の検黴に就て」『中外医事新報』第1160巻、日本医史学会、1930年6月。
- 「医料規約の研究(1)」『日本医事新報』第431巻、日本医事新報社、1930年11月。
- 「医料規約の研究(2)」『日本医事新報』第432巻、日本医事新報社、1930年11月。
- 「医料規約の研究(3)」『日本医事新報』第433巻、日本医事新報社、1930年11月。
- 「医療規約の展望に就て(1)」『医海時報』第1904巻、医海時報社、1931年2月。
- 「医療規約の展望に就て(2)」『医海時報』第1905巻、医海時報社、1931年2月。
- 「鼻結事」『中外医事新報』第1171巻、日本医史学会、1931年5月。
- 「ジフテリア病原と三潴謙三先生」『中外医事新報』第1175巻、日本医史学会、1931年9月。
- 「精神衛生発達の大要」『日本医事新報』第484巻、日本医事新報社、1931年11月。
- 「精神病者処遇考(1)」『神経学雑誌』第33巻第9号、日本神経学会事務所、1931年11月。
- 「精神病者処遇考(2)」『神経学雑誌』第34巻第1号、日本神経学会事務所、1931年12月。
- 「精神病者処遇考(3)」『神経学雑誌』第34巻第2号、日本神経学会事務所、1932年1月。
- 「精神病者処遇考(4)」『神経学雑誌』第34巻第4号、日本神経学会事務所、1932年3月。
- 「精神病者処遇考(5)」『神経学雑誌』第34巻第5号、日本神経学会事務所、1932年4月。
- 「貧児教育制度史研究(1)」『児童研究』第35巻第10号、日本児童学会、1932年1月。
- 「貧児教育制度史研究(2)」『児童研究』第35巻第11号、日本児童学会、1932年2月。
- 「貧児教育制度史研究(3)」『児童研究』第35巻第12号、日本児童学会、1932年3月。
- 「医師会の懲戒権の性質(1)」『日本医事新報』第494巻、日本医事新報社、1932年1月。
- 「医師会の懲戒権の性質(2)」『日本医事新報』第495巻、日本医事新報社、1932年2月。
- 「医師会の懲戒権の性質(3)」『日本医事新報』第496巻、日本医事新報社、1932年2月。
- 「医師会の懲戒権の性質(4)」『日本医事新報』第497巻、日本医事新報社、1932年2月。
- 「医師会の懲戒権の性質(5)」『日本医事新報』第498巻、日本医事新報社、1932年2月。
- 「医師会の懲戒権の性質(6)」『日本医事新報』第499巻、日本医事新報社、1932年3月。
- 「徳川中期以後における乱心者の処罰」『中外医事新報』第1181巻、日本医史学会、1932年3月。
- 「医制史料(1)」『中外医事新報』第1183巻、日本医史学会、1932年5月。
- 「医制史料(2)」『中外医事新報』第1184巻、日本医史学会、1932年6月。
- 「医制史料(3)」『中外医事新報』第1185巻、日本医史学会、1932年7月。
- 「医制史料(4)」『中外医事新報』第1186巻、日本医史学会、1932年8月。
- 「医制史料(5)」『中外医事新報』第1187巻、日本医史学会、1932年9月。
- 「医制史料(6)」『中外医事新報』第1188巻、日本医史学会、1932年10月。
- 「医制史料(7)」『中外医事新報』第1189巻、日本医史学会、1932年11月。
- 「医制史料(8)」『中外医事新報』第1190巻、日本医史学会、1932年12月。
- 「医制史料(9)」『中外医事新報』第1191巻、日本医史学会、1933年1月。
- 「医制史料(10)」『中外医事新報』第1192巻、日本医史学会、1933年2月。
- 「医制史料(11)」『中外医事新報』第1193巻、日本医史学会、1933年3月。
- 「医制史料(12)」『中外医事新報』第1194巻、日本医史学会、1933年4月。
- 「医制史料(13)」『中外医事新報』第1195巻、日本医史学会、1933年5月。
- 「医制史料(14)」『中外医事新報』第1196巻、日本医史学会、1933年6月。
- 「医制史料(15)」『中外医事新報』第1197巻、日本医史学会、1933年7月。
- 「医制史料(16)」『中外医事新報』第1198巻、日本医史学会、1933年8月。
- 「医制史料(17)」『中外医事新報』第1199巻、日本医史学会、1933年9月。
- 「医制史料(18)」『中外医事新報』第1200巻、日本医史学会、1933年10月。
- 「医制史料(19)」『中外医事新報』第1201巻、日本医史学会、1933年11月。
- 「医制史料(20)」『中外医事新報』第1202巻、日本医史学会、1933年12月。
- 「医制史料(21)」『中外医事新報』第1203巻、日本医史学会、1934年1月。
- 「堕胎に関する二三の考察」『法律時報』第4巻第6号、日本評論社、1932年6月。
- 「医料規約の力(上)」『日本医事新報』第519巻、日本医事新報社、1932年7月。
- 「医料規約の力(下)」『日本医事新報』第520巻、日本医事新報社、1932年7月。
- 「医師会の統制(1)」『医海時報』第1977巻、医海時報社、1932年7月。
- 「医師会の統制(2)」『医海時報』第1978巻、医海時報社、1932年7月。
- 「医師会の統制(3)」『医海時報』第1979巻、医海時報社、1932年7月。
- 「医師会の統制(4)」『医海時報』第1980巻、医海時報社、1932年7月。
- 「医師会の統制(5)」『医海時報』第1981巻、医海時報社、1932年8月。
- 「医業と社会との交渉の趨勢(1)」『日本医事新報』第521巻、日本医事新報社、1932年8月。
- 「医業と社会との交渉の趨勢(2)」『日本医事新報』第522巻、日本医事新報社、1932年8月。
- 「医業と社会との交渉の趨勢(3)」『日本医事新報』第523巻、日本医事新報社、1932年8月。
- 「医業と社会との交渉の趨勢(4)」『日本医事新報』第524巻、日本医事新報社、1932年8月。
- 「医業と社会との交渉の趨勢(5)」『日本医事新報』第525巻、日本医事新報社、1932年9月。
- 「医業と社会との交渉の趨勢(6)」『日本医事新報』第526巻、日本医事新報社、1932年9月。
- 「医業と社会との交渉の趨勢(7)」『日本医事新報』第527巻、日本医事新報社、1932年9月。
- 「医業と社会との交渉の趨勢(8)」『日本医事新報』第528巻、日本医事新報社、1932年9月。
- 「医師会の統制問題」『新歯科医報』第185巻、新歯科医報社、1932年9月。
- 「医師法改正漫評(1)」『医海時報』第2004巻、医海時報社、1933年1月。
- 「医師法改正漫評(2)」『医海時報』第2005巻、医海時報社、1933年1月。
- 「年中行事養生食(1)」『糧友』第8巻第1号、食糧協会、1933年1月。
- 「年中行事養生食(2)」『糧友』第8巻第2号、食糧協会、1933年2月。
- 「医師総会無効の不安除去」『医海時報』第2006巻、医海時報社、1933年2月。
- 「診療録の査閲(1)」『日本医事新報』第546巻、日本医事新報社、1933年2月。
- 「診療録の査閲(2)」『日本医事新報』第547巻、日本医事新報社、1933年2月。
- 「診療録の査閲(3)」『日本医事新報』第548巻、日本医事新報社、1933年2月。
- 「診療録の査閲(4)」『日本医事新報』第549巻、日本医事新報社、1933年2月。
- 「診療録の査閲(5)」『日本医事新報』第550巻、日本医事新報社、1933年3月。
- 「診療録の査閲(6)」『日本医事新報』第551巻、日本医事新報社、1933年3月。
- 「診療録の査閲(7)」『日本医事新報』第552巻、日本医事新報社、1933年3月。
- 「診療録の査閲(8)」『日本医事新報』第553巻、日本医事新報社、1933年3月。
- 「診療録の査閲(9)」『日本医事新報』第554巻、日本医事新報社、1933年4月。
- 「診療録の査閲(10)」『日本医事新報』第555巻、日本医事新報社、1933年4月。
- 「診療録の査閲(11)」『日本医事新報』第556巻、日本医事新報社、1933年4月。
- 「診療所に関する政府案と修正条文」『医海時報』第2014巻、医海時報社、1933年4月。
- 「児童保護に関する判決例」『児童研究』第36巻第9号、日本児童学会、1933年9月。
- 「改正医師法令再吟味(1)」『医海時報』第2060巻、医海時報社、1934年2月。
- 「改正医師法令再吟味(2)」『医海時報』第2061巻、医海時報社、1934年2月。
- 「改正医師法令再吟味(3)」『医海時報』第2062巻、医海時報社、1934年3月。
- 「改正医師法令再吟味(4)」『医海時報』第2063巻、医海時報社、1934年3月。
- 「改正医師法令再吟味(5)」『医海時報』第2064巻、医海時報社、1934年3月。
- 「血液に対する我民族の思想の変遷(1)」『中外医事新報』第1209巻、日本医史学会、1934年7月。
- 「血液に対する我民族の思想の変遷(2)」『中外医事新報』第1210巻、日本医史学会、1934年8月。
- 「血液に対する我民族の思想の変遷(3)」『中外医事新報』第1211巻、日本医史学会、1934年9月。
- 「明治初年に於ける育児事業(1)」『社会事業』第18巻第7号、中央社会事業協会、1934年10月。
- 「明治初年に於ける育児事業(2)」『社会事業』第18巻第8号、中央社会事業協会、1934年11月。
- 「明治初年に於ける育児事業(3)」『社会事業』第18巻第9号、中央社会事業協会、1934年12月。
- 「明治初年に於ける育児事業(4)」『社会事業』第18巻第10号、中央社会事業協会、1935年1月。
- 「明治初年に於ける育児事業(5)」『社会事業』第18巻第11号、中央社会事業協会、1935年2月。
- 「明治初年に於ける育児事業(6)」『社会事業』第18巻第12号、中央社会事業協会、1935年3月。
- 「明治初年に於ける育児事業(7)」『社会事業』第19巻第1号、中央社会事業協会、1935年4月。
- 「明治初年に於ける育児事業(8)」『社会事業』第19巻第2号、中央社会事業協会、1935年5月。
- 「明治初年に於ける育児事業(9)」『社会事業』第19巻第3号、中央社会事業協会、1935年6月。
- 「医師の調剤能力(1)」『日本医師協会雑誌』第12巻第3号、日本医師協会、1935年5月。
- 「医師の調剤能力(2)」『日本医師協会雑誌』第12巻第4号、日本医師協会、1935年6月。
- 「医師の調剤能力(3)」『日本医師協会雑誌』第12巻第5号、日本医師協会、1935年7月。
- 「医師の調剤能力(4)」『日本医師協会雑誌』第12巻第6号、日本医師協会、1935年8月。
- 「医師の調剤能力(5)」『日本医師協会雑誌』第12巻第7号、日本医師協会、1935年9月。
- 「医師の調剤能力(6)」『日本医師協会雑誌』第12巻第8号、日本医師協会、1935年10月。
- 「医師の数の限度と統制」『日本医師協会雑誌』第12巻第9号、日本医師協会、1935年11月。
- 「医療制度に就て(1)」『日本医師協会雑誌』第12巻第10号、日本医師協会、1935年12月。
- 「医療制度に就て(2)」『日本医師協会雑誌』第12巻第11号、日本医師協会、1936年1月。
- 「医療制度に就て(3)」『日本医師協会雑誌』第12巻第12号、日本医師協会、1936年2月。
- 「医療制度に就て(4)」『日本医師協会雑誌』第13巻第1号、日本医師協会、1936年3月。
- 「医療制度に就て(5)」『日本医師協会雑誌』第13巻第2号、日本医師協会、1936年4月。
- 「医療制度に就て(6)」『日本医師協会雑誌』第13巻第3号、日本医師協会、1936年5月。
- 「双胎児の順位」『児童研究』第38巻第5号、日本児童学会、1936年7月。
- 「明治初期地方医事法制史大綱(1)」『医海時報』第2184巻、医海時報社、1936年7月。
- 「明治初期地方医事法制史大綱(2)」『医海時報』第2185巻、医海時報社、1936年7月。
- 「明治初期地方医事法制史大綱(3)」『医海時報』第2186巻、医海時報社、1936年7月。
- 「明治初期地方医事法制史大綱(4)」『医海時報』第2187巻、医海時報社、1936年7月。
- 「明治初期地方医事法制史大綱(5)」『医海時報』第2188巻、医海時報社、1936年8月。
- 「明治初期地方医事法制史大綱(6)」『医海時報』第2189巻、医海時報社、1936年8月。
- 「明治初期地方医事法制史大綱(7)」『医海時報』第2190巻、医海時報社、1936年8月。
- 「明治初期地方医事法制史大綱(8)」『医海時報』第2191巻、医海時報社、1936年8月。
- 「明治初期地方医事法制史大綱(9)」『医海時報』第2193巻、医海時報社、1936年9月。
- 「明治初期地方医事法制史大綱(10)」『医海時報』第2194巻、医海時報社、1936年9月。
- 「明治初期地方医事法制史大綱(11)」『医海時報』第2195巻、医海時報社、1936年9月。
- 「明治初期地方医事法制史大綱(12)」『医海時報』第2196巻、医海時報社、1936年9月。
- 「明治初期地方医事法制史大綱(13)」『医海時報』第2197巻、医海時報社、1936年10月。
- 「明治初期地方医事法制史大綱(14)」『医海時報』第2198巻、医海時報社、1936年10月。
- 「明治初期地方医事法制史大綱(15)」『医海時報』第2200巻、医海時報社、1936年10月。
- 「明治初期地方医事法制史大綱(16)」『医海時報』第2201巻、医海時報社、1936年10月。
- 「明治初期地方医事法制史大綱(17)」『医海時報』第2203巻、医海時報社、1936年11月。
- 「明治初期地方医事法制史大綱(18)」『医海時報』第2204巻、医海時報社、1936年11月。
- 「明治初期地方医事法制史大綱(19)」『医海時報』第2205巻、医海時報社、1936年11月。
- 「明治初期地方医事法制史大綱(20)」『医海時報』第2206巻、医海時報社、1936年12月。
- 「京都部会希望条項に就て」『日本医師協会雑誌』第13巻第6号、日本医師協会、1936年8月。
- 「学位に関する一考察(1)」『日本医師協会雑誌』第13巻第7号、日本医師協会、1936年9月。
- 「学位に関する一考察(2)」『日本医師協会雑誌』第13巻第8号、日本医師協会、1936年10月。
- 「学位に関する一考察(3)」『日本医師協会雑誌』第13巻第9号、日本医師協会、1936年11月。
- 「ベルツ先生と我邦公衆衛生(1)」『中外医事新報』第1236巻、日本医史学会、1936年10月。
- 「ベルツ先生と我邦公衆衛生(2)」『中外医事新報』第1237巻、日本医史学会、1936年11月。
- 「ベルツ先生と我邦公衆衛生(3)」『中外医事新報』第1238巻、日本医史学会、1936年12月。
- 「医事法制より見たる医術語の発達」『日本医事新報』第744巻、日本医事新報社、1936年12月。
- 「保護事業の根本思想」『保護時報』第21巻第1号、輔成会、1937年1月。
- 「はやる医者とはやらせる医者」『日本医師協会雑誌』第13巻第12号、日本医師協会、1937年2月。
- 「動態統計より見たる医師の趨勢」『日本医師協会雑誌』第14巻第1号、日本医師協会、1937年3月。
- 「医療の社会化(上)」『日本医師協会雑誌』第14巻第2号、日本医師協会、1937年4月。
- 「医療の社会化(下)」『日本医師協会雑誌』第14巻第3号、日本医師協会、1937年5月。
- 「神代に於ける身体知見(1)」『中外医事新報』第1242巻、日本医史学会、1937年4月。
- 「神代に於ける身体知見(2)」『中外医事新報』第1243巻、日本医史学会、1937年5月。
- 「神代に於ける身体知見(3)」『中外医事新報』第1244巻、日本医史学会、1937年6月。
- 「神代に於ける身体知見(4)」『中外医事新報』第1245巻、日本医史学会、1937年7月。
- 「神代に於ける身体知見(5)」『中外医事新報』第1246巻、日本医史学会、1937年8月。
- 「医街如是我聞」『日本医師協会雑誌』第14巻第6号、日本医師協会、1937年8月。
- 「日本古来の赤十字精神」『日本医師協会雑誌』第14巻第7号、日本医師協会、1937年9月。
- 「医療制度に就て」『医療制度論文集』、保険院簡易保険局、1938年2月。
- 「歯科医師の診療能力の範囲」『日本医師協会雑誌』第15巻第3号、日本医師協会、1938年5月。[47][48]
- 「高麗の需めたる医師派遣拒絶の真相(上)」『中外医事新報』第1255巻、日本医史学会、1938年5月。
- 「高麗の需めたる医師派遣拒絶の真相(下)」『中外医事新報』第1256巻、日本医史学会、1938年6月。
- 「木下逸雲と引痘日記」『日本医事新報』第827巻、日本医事新報社、1938年7月。
- 「学校医の権輿」『日本学校衛生』第26巻第7号、大日本学校衛生協会、1938年7月。
- 「医の司令と本質」『医海時報』第2305巻、医海時報社、1938年10月。
- 「堕胎罪(1)」『日本医師協会雑誌』第15巻第12号、日本医師協会、1939年2月。
- 「堕胎罪(2)」『日本医師協会雑誌』第16巻第1号、日本医師協会、1939年3月。
- 「堕胎罪(3)」『日本医師協会雑誌』第16巻第2号、日本医師協会、1939年4月。
- 「堕胎罪(4)」『日本医師協会雑誌』第16巻第3号、日本医師協会、1939年5月。
- 「堕胎罪(5)」『日本医師協会雑誌』第16巻第4号、日本医師協会、1939年6月。
- 「堕胎罪(6)」『日本医師協会雑誌』第16巻第5号、日本医師協会、1939年7月。
- 「堕胎罪(7)」『日本医師協会雑誌』第16巻第6号、日本医師協会、1939年8月。
- 「堕胎罪(8)」『日本医師協会雑誌』第16巻第7号、日本医師協会、1939年9月。
- 「堕胎罪(9)」『日本医師協会雑誌』第16巻第8号、日本医師協会、1939年10月。
- 「堕胎罪(10)」『日本医師協会雑誌』第16巻第9号、日本医師協会、1939年11月。
- 「堕胎罪(11)」『日本医師協会雑誌』第16巻第10号、日本医師協会、1939年12月。
- 「堕胎罪(12)」『日本医師協会雑誌』第16巻第11号、日本医師協会、1940年1月。
- 「堕胎罪(13)」『日本医師協会雑誌』第16巻第12号、日本医師協会、1940年2月。
- 「堕胎罪(14)」『日本医師協会雑誌』第17巻第1号、日本医師協会、1940年3月。
- 「堕胎罪(15)」『日本医師協会雑誌』第17巻第2号、日本医師協会、1940年4月。
- 「堕胎罪(16)」『日本医師協会雑誌』第17巻第3号、日本医師協会、1940年5月。
- 「堕胎罪(17)」『日本医師協会雑誌』第17巻第4号、日本医師協会、1940年6月。
- 「堕胎罪(18)」『日本医師協会雑誌』第17巻第5号、日本医師協会、1940年7月。
- 「堕胎罪(19)」『日本医師協会雑誌』第17巻第6号、日本医師協会、1940年8月。
- 「堕胎罪(20)」『日本医師協会雑誌』第17巻第7号、日本医師協会、1940年9月。
- 「堕胎罪(21)」『日本医師協会雑誌』第17巻第8号、日本医師協会、1940年10月。
- 「堕胎罪(22)」『日本医師協会雑誌』第17巻第9号、日本医師協会、1940年11月。
- 「堕胎罪(23)」『日本医師協会雑誌』第17巻第10号、日本医師協会、1940年12月。
- 「堕胎罪(24)」『日本医師協会雑誌』第17巻第11号、日本医師協会、1941年1月。
- 「堕胎罪(25)」『日本医師協会雑誌』第17巻第12号、日本医師協会、1941年2月。
- 「堕胎罪(26)」『日本医師協会雑誌』第18巻第1号、日本医師協会、1941年3月。
- 「堕胎罪(27)」『日本医師協会雑誌』第18巻第2号、日本医師協会、1941年4月。
- 「堕胎罪(28)」『日本医師協会雑誌』第18巻第3号、日本医師協会、1941年5月。
- 「堕胎罪(29)」『日本医師協会雑誌』第18巻第4号、日本医師協会、1941年6月。
- 「堕胎罪(30)」『日本医師協会雑誌』第18巻第5号、日本医師協会、1941年7月。
- 「堕胎罪(31)」『日本医師協会雑誌』第18巻第6号、日本医師協会、1941年8月。
- 「堕胎罪(32)」『日本医師協会雑誌』第18巻第7号、日本医師協会、1941年9月。
- 「堕胎罪(33)」『日本医師協会雑誌』第18巻第8号、日本医師協会、1941年10月。
- 「堕胎罪(34)」『日本医師協会雑誌』第18巻第9号、日本医師協会、1941年11月。
- 「堕胎罪(35)」『日本医師協会雑誌』第18巻第10号、日本医師協会、1941年12月。
- 「堕胎罪(36)」『日本医師協会雑誌』第18巻第11号、日本医師協会、1942年1月。
- 「堕胎罪(37)」『日本医師協会雑誌』第19巻第1号、日本医師協会、1942年3月。
- 「堕胎罪(38)」『日本医師協会雑誌』第19巻第3号、日本医師協会、1942年5月。
- 「堕胎罪(39)」『日本医師協会雑誌』第19巻第4号、日本医師協会、1942年6月。
- 「堕胎罪(40)」『日本医師協会雑誌』第19巻第7号、日本医師協会、1942年9月。
- 「堕胎罪(41)」『日本医師協会雑誌』第19巻第9号、日本医師協会、1942年11月。
- 「医療管理制私案」『日本医事新報』第874巻、日本医事新報社、1939年6月。
- 「旧藩時代の医師と人口の対照」『医譚』第4巻、日本医史学会関西支部、1939年7月。
- 「医療管理制私見(1)」『医海時報』第2341巻、医海時報社、1939年7月。
- 「医療管理制私見(2)」『医海時報』第2342巻、医海時報社、1939年7月。
- 「医療管理制私見(3)」『医海時報』第2343巻、医海時報社、1939年7月。
- 「佐倉藩医育制度考(1)」『中外医事新報』第1272巻、日本医史学会、1939年10月。
- 「佐倉藩医育制度考(2)」『中外医事新報』第1273巻、日本医史学会、1939年11月。
- 「佐倉藩医育制度考(3)」『中外医事新報』第1274巻、日本医史学会、1939年12月。
- 「新発田藩医育医制考(1)」『日本医事新報』第898巻、日本医事新報社、1939年11月。
- 「新発田藩医育医制考(2)」『日本医事新報』第899巻、日本医事新報社、1939年12月。
- 「新発田藩医育医制考(3)」『日本医事新報』第900巻、日本医事新報社、1939年12月。
- 「新発田藩医育医制考(4)」『日本医事新報』第901巻、日本医事新報社、1939年12月。
- 「新発田藩医育医制考(5)」『日本医事新報』第902巻、日本医事新報社、1939年12月。
- 「新発田藩医育医制考(6)」『日本医事新報』第905巻、日本医事新報社、1940年1月。
- 「新発田藩医育医制考(7)」『日本医事新報』第906巻、日本医事新報社、1940年1月。
- 「新発田藩医育医制考(8)」『日本医事新報』第907巻、日本医事新報社、1940年1月。
- 「新発田藩医育医制考(9)」『日本医事新報』第908巻、日本医事新報社、1940年2月。
- 「新発田藩医育医制考(10)」『日本医事新報』第910巻、日本医事新報社、1940年2月。
- 「医師の診療遅滞の責任(1)」『臨床内科』第6巻第5号、臨床内科学社、1940年5月。
- 「医師の診療遅滞の責任(2)」『臨床内科』第6巻第6号、臨床内科学社、1940年6月。
- 「手術承諾書補遺追加」『中外医事新報』第1281巻、日本医史学会、1940年7月。
- 「「訳解漫游雑記」を読みて」『中外医事新報』第1284巻、日本医史学会、1940年10月。
- 「医制拾遺」『臨床内科』第6巻第11号、臨床内科学社、1940年11月。
- 「(富士川游先生への)誄詞」『日本医師協会雑誌』第17巻第10号、日本医師協会、1940年12月。
- 「勝山藩の医育と秦魯齋先生(上)」『日本医史学雑誌』第1287巻、日本医史学会、1941年1月。
- 「勝山藩の医育と秦魯齋先生(下)」『日本医史学雑誌』第1288巻、日本医史学会、1941年2月。
- 「立法技術より見たる処方箋強制交付」『医療及保険』第6巻第2号、医療及保険評論社、1941年2月。
- 「先師の近著「訳解漫遊雑記」の思出」『日本医史学雑誌』第1291巻、日本医史学会、1941年5月。
- 「亮策と伯元」『医譚』第10巻、日本医史学会関西支部、1941年9月。
- 「富士川帥筆録「蘭東事始」に就て」『日本医史学雑誌』第1299巻、日本医史学会、1942年1月。
- 「国民医療法案と現行法規対照」『日本医師協会雑誌』第18巻第12号、日本医師協会、1942年2月。
- 「医制温故:明治前期編(1)」『日本医師会雑誌』第17巻第11号、日本医師会、1942年2月。
- 「医制温故:明治前期編(2)」『日本医師会雑誌』第17巻第12号、日本医師会、1942年3月。
- 「医制温故:明治前期編(3)」『日本医師会雑誌』第18巻第1号、日本医師会、1942年4月。
- 「医制温故:明治前期編(4)」『日本医師会雑誌』第18巻第2号、日本医師会、1942年5月。
- 「医制温故:明治前期編(5)」『日本医師会雑誌』第18巻第5号、日本医師会、1942年8月。
- 「医制温故:明治前期編(6)」『日本医師会雑誌』第18巻第6号、日本医師会、1942年9月。
- 「医制温故:明治前期編(7)」『日本医師会雑誌』第18巻第7号、日本医師会、1942年10月。
- 「医制温故:明治前期編(8)」『日本医師会雑誌』第18巻第9号、日本医師会、1942年12月。
- 「医制温故:明治前期編(9)」『日本医師会雑誌』第18巻第10号、日本医師会、1943年1月。
- 「国民医療法の制定とその根本思潮(1)」『日本医師協会雑誌』第19巻第4号、日本医師協会、1942年6月。
- 「国民医療法の制定とその根本思潮(2)」『日本医師協会雑誌』第19巻第5号、日本医師協会、1942年7月。
- 「国民医療法の制定とその根本思潮(3)」『日本医師協会雑誌』第19巻第6号、日本医師協会、1942年8月。
- 「福井藩解剖小史(上)」『日本医事新報』第1034巻、日本医事新報社、1942年7月。
- 「福井藩解剖小史(下)」『日本医事新報』第1035巻、日本医事新報社、1942年7月。
- 「緒方洪庵伝読了感」『日新医学』第31巻第11号、日新医学雜誌社、1942年11月。
- 「国民医療法正文対照略解(上)」『日本医師協会雑誌』第19巻第10号、日本医師協会、1942年12月。
- 「国民医療法正文対照略解(下)」『日本医師協会雑誌』第19巻第11号、日本医師協会、1943年1月。
- 「実践医道読本(1)」『日本医史学雑誌』第1311巻、日本医史学会、1943年1月。
- 「実践医道読本(2)」『日本医史学雑誌』第1312巻、日本医史学会、1943年2月。
- 「実践医道読本(3)」『日本医史学雑誌』第1313巻、日本医史学会、1943年3月。
- 「実践医道読本(4)」『日本医史学雑誌』第1314巻、日本医史学会、1943年4月。
- 「実践医道読本(5)」『日本医史学雑誌』第1315巻、日本医史学会、1943年5月。
- 「実践医道読本(6)」『日本医史学雑誌』第1316巻、日本医史学会、1943年6月。
- 「実践医道読本(7)」『日本医史学雑誌』第1317巻、日本医史学会、1943年7月。
- 「実践医道読本(8)」『日本医史学雑誌』第1318巻、日本医史学会、1943年8月。
- 「実践医道読本(9)」『日本医史学雑誌』第1319巻、日本医史学会、1943年9月。
- 「実践医道読本(10)」『日本医史学雑誌』第1320巻、日本医史学会、1943年10月。
- 「実践医道読本(11)」『日本医史学雑誌』第1321巻、日本医史学会、1943年11月。
- 「実践医道読本(12)」『日本医史学雑誌』第1322巻、日本医史学会、1943年12月。
- 「実践医道読本(13)」『日本医史学雑誌』第1323巻、日本医史学会、1944年1月。
- 「実践医道読本(14)」『日本医史学雑誌』第1324巻、日本医史学会、1944年2月。
- 「実践医道読本(15)」『日本医史学雑誌』第1325巻、日本医史学会、1944年3月。
- 「実践医道読本(16)」『日本医史学雑誌』第1326巻、日本医史学会、1944年4月。
- 「実践医道読本(17)」『日本医史学雑誌』第1327巻、日本医史学会、1944年5月。
- 「実践医道読本(18)」『日本医史学雑誌』第1328巻、日本医史学会、1944年6月。
- 「実践医道読本(19)」『日本医史学雑誌』第1329巻、日本医史学会、1944年7月。
- 「実践医道読本(20)」『日本医史学雑誌』第1330巻、日本医史学会、1944年8月。
- 「実践医道読本(21)」『日本医史学雑誌』第1331巻、日本医史学会、1944年9月。
- 「実践医道読本(22)」『日本医史学雑誌』第1332巻、日本医史学会、1944年10月。
- 「実践医道読本(23)」『日本医史学雑誌』第1333巻、日本医史学会、1944年11月。
- 「実践医道読本(24)」『日本医史学雑誌』第1334巻、日本医史学会、1944年12月。
- 「医史学研究の必要と医史学会の使命」『日本医史学雑誌』第1313巻、日本医史学会、1943年3月。
- 「日本解剖制度史(1)」『日本医史学雑誌』第1317巻、日本医史学会、1943年7月。
- 「日本解剖制度史(2)」『日本医史学雑誌』第1318巻、日本医史学会、1943年8月。
- 「日本解剖制度史(3)」『日本医史学雑誌』第1319巻、日本医史学会、1943年9月。
- 「日本解剖制度史(4)」『日本医史学雑誌』第1320巻、日本医史学会、1943年10月。
- 「日本解剖制度史(5)」『日本医史学雑誌』第1322巻、日本医史学会、1943年12月。
- 「日本解剖制度史(6)」『日本医史学雑誌』第1323巻、日本医史学会、1944年1月。
- 「日本解剖制度史(7)」『日本医史学雑誌』第1327巻、日本医史学会、1944年5月。
- 「日本解剖制度史(8)」『日本医史学雑誌』第1328巻、日本医史学会、1944年6月。
- 「お玉ヶ池種痘所(1)」『日本医史学雑誌』第1329巻、日本医史学会、1944年7月。[49][50]
- 「お玉ヶ池種痘所(2)」『日本医史学雑誌』第1330巻、日本医史学会、1944年8月。
- 「お玉ヶ池種痘所(3)」『日本医史学雑誌』第1331巻、日本医史学会、1944年9月。
- 「お玉ヶ池種痘所(4)」『日本医史学雑誌』第1332巻、日本医史学会、1944年10月。
- 「お玉ヶ池種痘所(5)」『日本医史学雑誌』第1333巻、日本医史学会、1944年11月。
- 「医道昂揚と民主主義」『日本歯科医師会雑誌』第2巻第8号、日本歯科医師会、1950年1月。
- 「日本裁判医学前史(1)」『犯罪と医学』第2巻第2号、日本医学雑誌、1950年4月。
- 「日本裁判医学前史(2)」『犯罪と医学』第2巻第3号、日本医学雑誌、1950年6月。
- 「裁判所機構改革」『自由と正義』第2巻第1号、日本弁護士連合会、1951年1月。
- 「外科手術後の解剖事件」『臨床外科』第7巻第2号、医学書院、1952年2月。
- 「投薬の際の注意義務」『日本医事新報』第1465巻、日本医事新報社、1952年5月。
- 「歯科医師法違反とその行為」『日本歯科医師会雑誌』第5巻第8号、日本歯科医師会、1952年12月。
- 「公職選挙と医師の証明書」『日本医事新報』第1512巻、日本医事新報社、1953年4月。
- 「諸検査を行わず発行された診断書」『日本医事新報』第1523巻、日本医事新報社、1953年7月。
- 「医業の借家法上の地位」『日本医事新報』第1527巻、日本医事新報社、1953年8月。
- 「抜歯・入歯・金冠嵌装の意義」『日本歯科医師会雑誌』第6巻第5号、日本歯科医師会、1953年8月。
- 「一節截考(1)」『日本医史学雑誌』第5巻第1号、日本医史学会、1954年3月。
- 「一節截考(2)」『日本医史学雑誌』第5巻第2号、日本医史学会、1954年7月。
- 「医制発布とドイツ医学の採用」『厚生』第9巻第9号、厚生問題研究会、1954年9月。
- 「手術後の検索と解剖」『臨床外科』第9巻第10号、医学書院、1954年10月。
- 「医事法制」『日本医師会雑誌』第34巻第5号、日本医師会、1955年9月。
- 「錦小路家文書(1)」『日本医史学雑誌』第6巻第2号、日本医史学会、1956年3月。
- 「錦小路家文書(2)」『日本医史学雑誌』第6巻第4号、日本医史学会、1956年8月。
- 「医家先哲祭の回顧」『日本医事新報』第1668巻、日本医事新報社、1956年4月。
- 「日本の病の歴史」『日本歯科医師会雑誌』第9巻第4号、日本歯科医師会、1956年7月。
- 「偶発症と医師の責任」『日本医師会雑誌』第36巻第4号、日本医師会、1956年8月。
- 「ペニシリン禍について」『日本歯科医師会雑誌』第9巻第6号、日本歯科医師会、1956年9月。
- 「実践医道の四、五」『日本医師会雑誌』第37巻第6号、日本医師会、1957年4月。
- 「外科診療上のトラブルについて」『臨床雑誌外科』第19巻第5号、南江堂、1957年5月。
- 「江戸幕府時代における朝廷の医療制度(前)」『日本医事新報』第1724巻、日本医事新報社、1957年5月。
- 「江戸幕府時代における朝廷の医療制度(中)」『日本医事新報』第1725巻、日本医事新報社、1957年5月。
- 「江戸幕府時代における朝廷の医療制度(後)」『日本医事新報』第1726巻、日本医事新報社、1957年5月。
- 「人権の意義」『日本歯科医師会雑誌』第10巻第3号、日本歯科医師会、1957年6月。
- 「診療過誤の歴史」『日本医師会雑誌』第37巻第11号、日本医師会、1957年6月。
- 「順天堂の由来」『順天堂医学雑誌』第3巻第3号、順天堂医学会、1957年8月。
- 「規律と規範」『日本歯科医師会雑誌』第11巻第3号、日本歯科医師会、1958年6月。
- 「会津藩洋学発達史」『医譚』第21巻、日本医史学会関西支部、1960年4月。
- 「福井藩種痘の由来(1)笠原白翁のこと」『日本医師会雑誌』第43巻第8号、日本医師会、1960年4月。[51]
- 「福井藩種痘の由来(2)笠原白翁のこと」『日本医師会雑誌』第43巻第9号、日本医師会、1960年5月。
- 「福井藩種痘の由来(3)笠原白翁のこと」『日本医師会雑誌』第43巻第10号、日本医師会、1960年5月。
- 「十一月十二日前後のポンペ」『長崎医学百年史』、長崎大学医学部編纂、長崎大学医学部、1961年3月。
CiNii
[編集]関連書籍
[編集]- 『富士川游先生』富士川游先生編纂委員会編纂、富士川先生刊行会、1954年。
- 『東京大学医学部百年史』東京大学医学部創立百年記念会編纂、東京大学出版会、1967年。
- 蒲原宏「山崎佐先生を偲んで」『日本医事新報』第2265巻、日本医事新報社、1967年9月。
- 「山崎佐先生追悼特集」『医譚』復刊36号(通巻53号)、日本医史学会関西支部、1967年12月。
- 宗田一「日本医史学史ノート Note A note on the History of Medical History in Japan(1)山崎佐の役割を中心として concerning to the role of T. YAMAZAKI」『医学史研究』第27巻、医学史研究会、1968年2月。
- 『思い出に綴られる山崎佐の生涯』江尻進編纂、1968年。
- 『山崎文庫目録』順天堂大学図書館編纂、1969年。
- 青柳精一「診療報酬物語――「医料権」と「医料規約」山崎佐の論文から」『CLINIC BAMBOO』第109巻、日本医療企画、1990年7月。
- 唄孝一「東大における「医事法制講義」事始を中心として:山崎佐先生との雅談など」『年報医事法学』第6巻、日本評論社、1991年7月。
- 『山崎佐関係文書目録・末延三次関係文書目録』東京大学法学部附属近代法政史料センター編纂、1992年。
- 『東京大学法学部附属明治新聞雑誌文庫所蔵雑誌目次総覧:第30巻(医学・衛生編)』大空社、1994年。
- 青柳精一『診療報酬の歴史 第20章 医療規約の法的拘束力:山崎佐の「医療規約論」』思文閣出版、1996年。
- 石野智大『明治大学ELM(法・医・倫理の資料館)山崎佐旧蔵資料目録』明治大学ELM、2018年。
・菊山嘉男「六十二年の交友に見る剛気の君」
・小野秀雄「黒主門答で控訴をしたエピソード」
・愛知揆一「ご遺徳を皆さまにお分け下さい」
(2)法曹人としての活躍
・長野国助「彼氏との最初の出会い」
・正木亮「司法官試補時代に始まる交友」
・成富信夫「思いやりと一徹さ」
・大塚喜一郎「叱ったり教えたりの大先輩」
・島田武夫「人間の力の限りを尽した人物」
・大山菊治「山崎先生と私」
・吉川大二郎「司法制度改革への貢献」
・色川幸太郎「凛然颯爽たる名会長ぶり」
・横田喜三郎 「司法制度全体に貢献」
・鈴木信雄「円満春のごとき日弁連の運営」
・尾崎行信「公判を通じて見た山崎先生の人柄」
・平野力三「占領下の『平野裁判』の弁護」
・柏村毅「快く弁護を引き受けられた思い出」
(3)研究者としての生活
・小川鼎三「医史学上の不朽の業績」
・緒方富雄「医史学者としての山崎博士」
・石井良助「法制史学会のためのご尽力」
・久保正幡「自由と法の守護者としての気魄」
・中野操「医事法制史開拓の巨星落つ」
・古畑種基「医事法制学を創始されたころの追想」
・三木栄「日本と朝鮮の裁判医学」
・東季彦「大学以来五十余年の交友」
・唄孝一「医事法制学と山崎先生」
・有山登「『山崎文庫』由来」
・今まど子(今圓子)「山崎先生と書物の世界」
・小池重(小池曼洞)「頌詩」
(4)さまざまな社会活動
・竹内薰兵「きみをおもえばただにさみしき」
・鹿島俊雄「歯科医師会の隆昌の基礎を作られた先生」
・中河幹子「教育父母会議と山崎佐先生」
・山高しげり「売春防止法制定へのご尽力」
・松岡清「剛毅細心の公安審査委員長」
(5)弔辞
・会長:大山菊治「日本弁護士連合会弔詞」
・会長:横地秋二「第一東京弁護士会弔詞」
・理事長:満尾叶「関東弁護士会連合会弔詞」
・会長:武見太郎「日本医師会弔辞」
・理事長:小川鼎三「日本医史学会弔辞」
・代表理事:石井良助「法制史学会弔辞」
関連番組
[編集]脚注
[編集]- 1 2 3 『日本医師会弔辞(武見太郎):「思い出に綴られる山崎佐の生涯」所収資料』1968年。
- ↑ 『医事法制学を創始されたころの追想(古畑種基):「思い出に綴られる山崎佐の生涯」所収資料』1968年。
- 1 2 『日本弁護士連合会弔詞(大山菊治):「思い出に綴られる山崎佐の生涯」所収資料』1968年。
- ↑ 『日本医史学会弔辞(小川鼎三):「思い出に綴られる山崎佐の生涯」所収資料』1968年。
- ↑ “閣議了解(人事)10月3日付発令予定”. 国立公文書館. 2026年5月15日閲覧。
- ↑ 『東京大学卒業生氏名録:法学部法律学科』東京大学、1950年。
- 1 2 3 4 5 6 『思い出に綴られる山崎佐の生涯』江尻進編纂、1968年。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 『江戸期前日本医事法制の研究』山崎佐著、中外医学社、1953年。
- ↑ 『富士川游先生』富士川游先生編纂委員会編纂、富士川先生刊行会、1954年。
- ↑ 『医史学者としての山崎博士(緒方富雄):「思い出に綴られる山崎佐の生涯」所収資料』1968年。
- 1 2 3 4 5 6 7 『山崎文庫目録』順天堂大学図書館、1969年。
- ↑ 『東京大学医学部百年史』東京大学医学部創立百年記念会編纂、東京大学出版会、1967年。
- 1 2 3 “裁判秘話:原敬暗殺事件と判事”. 2025年7月5日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 『原敬暗殺事件と判事(山崎佐):「思い出に綴られる山崎佐の生涯」所収資料』1968年。
- 1 2 3 4 『占領下の「平野裁判」の弁護(平野力三):「思い出に綴られる山崎佐の生涯」所収資料』1968年。
- ↑ 『占領政策への闘いと勝利:平野農相追放から無罪まで(大塚喜一郎)』中央大学出版部、1972年。
- ↑ “日本疫史及防疫史”. 国立国会図書館. 2025年7月5日閲覧。
- ↑ “江戸期前日本医事法制の研究”. 国立国会図書館. 2025年7月5日閲覧。
- ↑ 『法制史学会弔辞(石井良助):「思い出に綴られる山崎佐の生涯」所収資料』1968年。
- ↑ 『第一東京弁護士会弔詞(横地秋二):「思い出に綴られる山崎佐の生涯」所収資料』1968年。
- 1 2 『ご遺徳を皆さまにお分け下さい(愛知揆一):「思い出に綴られる山崎佐の生涯」所収資料』1968年。
- 1 2 『司法制度全体に貢献(横田喜三郎):「思い出に綴られる山崎佐の生涯」所収資料』1968年。
- 1 2 3 『司法制度改革への貢献(吉川大二郎):「思い出に綴られる山崎佐の生涯」所収資料』1968年。
- ↑ 『彼氏との最初の出会い(長野国助):「思い出に綴られる山崎佐の生涯」所収資料』1968年。
- 1 2 3 『叱ったり教えたりの大先輩(大塚喜一郎):「思い出に綴られる山崎佐の生涯」所収資料』1968年。
- 1 2 3 4 5 “学士院の歩み 第19回 『明治前日本科学史』の編纂”. 日本学士院ニュースレター. 2022年10月1日閲覧。
- ↑ “明治前医学書、資料の整理とその管理利用:鍋島直玄”. 日本医学図書館協会. 2026年6月8日閲覧。
- ↑ “順天堂の現代史:酒井シヅ”. 順天堂医学会. 2026年6月8日閲覧。
- ↑ “順天堂大学医学部山崎文庫:深瀬泰旦”. 日本医史学会. 2025年6月20日閲覧。
- ↑ “千葉医科大学沿革史:山崎文庫所蔵”. 千葉県立中央図書館(レファ協). 2017年3月19日閲覧。
- ↑ “歴史(医史)研究と社会との接点:尾﨑耕司(大手前大学)”. 医学史と社会の対話. 2017年10月12日閲覧。
- ↑ “山崎佐による「各藩医学教育の展望」抄録の原稿と調査ノート:澤井直”. 日本医史学会. 2019年12月20日閲覧。
- ↑ “山崎佐旧蔵資料:石野智大(明治大学)”. 医と法と倫理の研究センター. 2025年7月5日閲覧。
- ↑ “山崎佐旧蔵文書”. 日本大学法学部図書館. 2025年7月5日閲覧。
- 1 2 3 『隣り住まいの思い出の数々(山本幹夫):「思い出に綴られる山崎佐の生涯」所収資料』1968年。
- 1 2 3 4 『「山崎文庫」由来(有山登):「思い出に綴られる山崎佐の生涯」所収資料』1968年。
- 1 2 3 4 5 『山崎先生と書物の世界(今まど子):「思い出に綴られる山崎佐の生涯」所収資料』1968年。
- ↑ “明治前日本裁判医学史”. 国立国会図書館. 2026年3月14日閲覧。
- 1 2 3 “Meiji-zen Nihon igaku shi”. Stanford University Libraries. 2025年7月5日閲覧。
- 1 2 3 “明治前日本医学史:収録内容”. CiNii. 2025年7月5日閲覧。
- 1 2 “日本学士院八十年史:『明治前日本科学史』の編纂(日本学士院)”. 国立国会図書館. 2026年3月14日閲覧。
- ↑ “判決から考える医師法第21条:小田原良治”. 日本医事新報社. 2019年5月30日閲覧。
- ↑ “伝染病の歴史-疫病から感染症に:酒井シヅ”. 日本医史学会. 2026年6月8日閲覧。
- ↑ “山崎佐による第二次世界大戦期の日本医学史記述について:渡部幹夫”. 日本医史学会. 2023年6月20日閲覧。
- ↑ “(書評)山崎佐著「江戸期前日本医事法制の研究」:石井良助”. 法制史学会. 2026年6月8日閲覧。
- ↑ “江戸期前・日本救療施設小史:大熊房太郎”. 順天堂医学会. 2026年3月20日閲覧。
- ↑ “山崎佐「歯科医師の診療能力の範囲」(昭和13年)について:渋谷鉱”. CiNii. 2026年6月8日閲覧。
- ↑ “歴史に学ぶ歯科医療の打開(I-VI):吉澤信夫”. 東京歯科大学学会. 2026年6月8日閲覧。
- ↑ “赤門鉄門三十三年の思い出(3)東大医学部最初の名:中里竜瑛”. 日本医学図書館協会. 2026年6月8日閲覧。
- ↑ “お玉ヶ池種痘所の組織・人事等について”. 東京都立中央図書館(レファ協). 2026年6月8日閲覧。
- ↑ “福井藩における藩営除痘館の開設とその運営:柳沢芙美子”. 福井県文書館. 2019年3月16日閲覧。