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山崎佐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山崎 佐
山崎佐(1930年)
人物情報
生誕 (1888-07-05) 1888年7月5日
死没 (1967-07-30) 1967年7月30日(79歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京帝国大学法科大学独逸法律科
学問
研究分野 医史学、医事法制学(創始者)
学位 医学博士法学博士
主な業績 日本弁護士連合会会長
日本医史学会理事長
公安審査委員会委員長
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山崎 佐(やまざき たすく、1888年明治21年〉7月5日 - 1967年昭和42年〉7月30日)は、日本弁護士法学博士医学博士医史学者、医事法制学創始者[1][2]日本弁護士連合会会長[3]日本医史学会理事長[4]公安審査委員会委員長[5]などを歴任した。

経歴

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1888年、千葉県君津郡木更津町の医家に生まれる。1909年に旧制第七高等学校造士館を卒業後、1913年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法兼修)を卒業した[6][7]

1913年7月に医事法制の志を立て[8]東京地方裁判所予審判事として法曹実務に携わる傍ら、翌1914年春から医学者及び医学史家の富士川游に師事して医史学や医事法制等の研究を開始し[8][9][10]、両分野にまたがる独特の地歩を築いた。日本医師会会長の武見太郎は、庶民生活の中に事実を求め、歴史家が見逃していた資料等を生かして医の歴史と医事法制学を統一・完成させた山崎の学問的営為について、「医の歴史を背景とした医事法制学が日本において完成されたことは、山崎先生の学者としての偉大な御功績である」と評している[1]

1915年には東京帝国大学医科大学嘱託講師に着任し、日本初となる医事法制学の講義を担当。以降47年間にわたり、東京大学、東京帝国大学附属臨時医学専門部、九州帝国大学慶應義塾大学の他、千葉金沢新潟岡山長崎熊本のいわゆる旧六医大全てを含む全国各地の大学医学部において医事法制学講師を務めた[1][11]。1958年5月7日に東京大学大講堂(安田講堂)で挙行された「東京大学医学部創立百周年記念式典」においては、同学部の源流を紐解く『江戸お玉ヶ池種痘所創立の史的意義』と題した記念講演も行っている[12]

1921年、予審判事として原敬暗殺事件を担当したのちに東京控訴院判事となるが[13][14]、1922年に官を辞して、弁護士に転身する[7]。占領下における公職追放の適否を争った平野事件では、第一審から一貫して弁護を担い、最高裁判所大法廷における検事上告棄却の無罪確定へと導いた[15][16]。同事件は、一審での裁判長忌避申立や、平野の診断書を巡る連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の干渉に加え、日本の法律及び裁判所に対する信頼を根底に据えた二審での弁護、検察の上告や最高裁への移行における同総司令部の示唆・干渉の風説など、占領下の特殊な政治状況に翻弄された[15]平野力三は後年、足掛け4年に及んだ全裁判を振り返り、第二審だけでも毎週火・木・土曜の3回[8]、合計75回開廷され、夜の8時を過ぎることも頻繁であった過酷な法廷の様子や、政治家学者内務警保局関係者、旧軍人思想家、さらには地方農村人に至るまで約100名もの広範な証人が出廷した当時を語るとともに[15]、「その間、山崎先生は終始尽力下され、百回以上に及ぶ公判にもほとんど欠席さるることがなかったそのご熱誠に対し、私は今改めて、深甚の感謝を捧げるものであります[15]」との謝意を表している。

第七高等学校造士館時代

こうした実務と並行し、1931年に『日本疫史及防疫史[17]』で九州帝国大学医学博士、1951年には『江戸期前日本医事法制の研究[18][19]』で日本大学法学博士の学位をそれぞれ取得[20]。法学博士論文執筆においては、先述の平野裁判弁護の激務の中、自ら「毎日予定の紙数を書き終わらなければ就眠しない[8]」と決めて朝夜没頭し、「夥しい古文献を渉猟検索して、苟も医薬、医制に関する史料を丹念に抜粋抄録[8]」した上で、原稿用紙3000枚を超える著作を完成させた。大蔵大臣外務大臣法務大臣内閣官房長官などを歴任した愛知揆一は、かねてより山崎に「敬慕の情[21]」を抱いていたといい、2つの博士号を取得した山崎に対し「今度は文学博士をとって下さい。これは先生にピッタリですよ!」とたたみかけた際の様子を、「山崎先生は破顔一笑、天真爛漫な一面を見せて下さった。嬉しかった[21]」と振り返っている。

その他、内務省衛生局事務取扱嘱託、日本医師協会理事、日本医師会法律顧問、日本児童学会理事、医薬制度調査会会員、全日本弁護士会理事長、日本弁護士連合会人権擁護委員会初代委員長、第一東京弁護士会検察行刑委員長、最高裁判所民事規則制定諮問委員、選挙制度調査会調査委員、第一東京弁護士会会長、法制審議会委員、最高裁判所刑事規則制定諮問委員、売春対策協議会会長、日本原子力産業会議法制委員、日本調停協会連合会特別委員、国会政府委員、東京簡易裁判所司法委員、明治神宮外苑運営委員、南方同胞援護会評議員会評議員、日本弁護士連合会顧問などを歴任した[11]

鎌倉の自宅書斎にて

日本弁護士連合会会長の大山菊治は、後進の教化に尽力した山崎の足跡に触れ、「その深き学識は勿論、挙措端正、言動を苟しくもせざる士、君子の風格を具えられ、名利を競はざる淡々たる境地にあられ、智を以て教え徳を以て導かれ、その慈父の如き抱擁力は言わず語らずの間に後進に対し偉大なる薫化を与えられ、弁護士が紳士たることを身を以て範をたれ、在野法曹社会的地位の向上に資するところ多大なるものがあった[3]」と述べている。

最高裁判所長官を務めた横田喜三郎は、日本弁護士連合会会長としての山崎について、直言の人でありながら、非を素直に認めて無理に弁護したり隠したりしない「良心的で公正な姿勢」と、自ら解決に向けて真剣に努力する「実行の精神」を兼ね備えていたと回想している[22]。さらに「弁護士界を代表するとなると、とかくそれだけを視野に置き、その利益と主張だけを推進するということになりがちである。しかし山崎さんはそうしたことがなく、弁護士界のことと同時に司法制度全体のことを頭に置き、そのために努力された[22]」と評し、組織の枠に捉われることなく、司法制度全体の改善に尽力した山崎の貢献に言及した。

また、日弁連会長や国際法曹協会名誉会長を務めた吉川大二郎も、会長としての山崎の公的業績として、当時の法務大臣植木庚子郎と協力して推進した、内閣直属の「臨時司法制度調査会」の創設及び発足を挙げている。しかし同調査会の意見書を巡っては、簡易裁判所の裁判官任用資格などを契機に法曹三者の激しい意見対立が生じ、制度改善の実施が阻害される事態となった[23]。吉川は、山崎が創設直後の発病により療養を余儀なくされ、同委員会の運営に加われなかった不在を惜しみ、「山崎さんさえ健在で、この委員会の委員に加わっておられたならば、おそらく、その熱意と努力によって、かような事態の発生を阻止し得たのではないか[23]」と述べた上で、「山崎さんの突然の訃こそは、わが司法制度のためにも極めて遺憾であり、衷心よりおしまれてならない[23]」と結んでいる。

1962年5月より脳卒中のため療養中のところ、肺炎を併発し、1967年7月30日、鎌倉の自宅にて死去[7]。79歳没。同年8月2日に青山葬儀所で行われた葬儀では、元日本弁護士連合会会長の長野国助が葬儀委員長、日本弁護士連合会会長の大山菊治が副委員長、日本医師会会長の武見太郎が友人総代を務めた[24]。50年近くに及ぶ親交があった長野は、淡々として「直言居士」であった故人を語ったという。この時の様子について、後輩弁護士で後に最高裁判事となった大塚喜一郎は、長野の言葉の中に人間「山崎」が語り尽くされていたと回想し、「語る人も、語られる人も、ともに人生の達人。故人にとって何よりの花むけであり、聞き入る者の胸にジーンとくるものがあった。山崎先生は、告別式の時までも、我々後輩に、なにものかを与えた人であった[25]」と記している。

多年の功労により、療養中の1964年4月に勲二等瑞宝章に叙せられ、翌1965年11月には日本医師会最高優功賞を受賞。死没日をもって正四位が追贈された[11]。墓所は染井霊園

旧蔵資料

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1945年の城北大空襲により本郷区駒込曙町(現:東京都文京区本駒込)の自宅が全焼したため、散逸した貴重書も少なくないが[26][27]、戦禍を免れた山崎の旧蔵資料は、のちに順天堂大学医学部医史学研究室[28][29][30][31]東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター[32]明治大学ELM(法・医・倫理の資料館)[33]日本大学図書館法学部分館[34]に分蔵された。

鎌倉の自宅書庫にて

これら資料の収集経緯をめぐり、順天堂大学教授の山本幹夫は、「山崎先生が奥様から月極で何がしかのお金をもらわれて、くずやの整理場へ通われて、埃まみれになって探してこられたものも多かった[35]」と回想している。その希少性は、戦前に大英博物館から高額での譲渡を打診されたほど世界的にも高く評価されていたが[35]、山崎はこの申し出を辞退したという。山本は、主要な資料が海外に渡ることなく順天堂大学へと寄附されたことについて、「外国にも行かず、散逸もされなかったことは、先生ご自身のご希望でもあり、日本文化財の保存のためにもよかったと心から喜んでいる次第である[35]」と総括した。

また、山崎の資料収集の極意について、当時自身の研究資料集めに苦悩していた大塚喜一郎は、山崎から「資料を集めるためには、古本屋のいう本代を値切ってはだめだよ。少しチップをやるぐらいにすれば、いいものが集まる」との助言を受けたエピソードを伝えている[25]。早速その教えに従ったところ、関西の古書店からまとまった貴重書が集まった。大塚はこの時の様子を、「このアドバイスは、正に天の声であった。この時ほどうれしかったことはなかった。先生にお礼かたがたそのことを報告すると、よかった、よかったと心から喜んでくださった[25]」と振り返っている。

資料一式が順天堂大学へ寄附される運びとなった背景には、貴重書の取り扱いを巡る信頼関係があった。医学博士で同大学学長を務めた有山登によれば、その契機は1957年の大学創立10周年記念式典にあるという[36]。同式典に際し、有山は順天堂120年史の講演と所蔵資料貸与を願い出て快諾されたが、展観終了後、大学側の厳重な管理体制に深く感じ入った山崎は、「これまでたびたび資料を出品したが、このように丁寧に取り扱われたのは初めてである[36]」と賞賛した。打ち続く震災や戦災で所蔵資料の大半を失っていた順天堂大学は、かねてより山崎のコレクション譲受を熱望しており、1965年春に山崎本人から譲渡の申し出がなされたことで交渉が急速に進展。1966年10月に全資料の移管が完了した。有山は「長年ご苦心の結晶を、愛読家をもって知られた先生ご病臥の枕頭から運び去るに忍びなかった[36]」と当時の胸中を明かしつつも、『山崎文庫』と名づけ、日本医史学上の貴重文献として永く公開活用することを決定した。病床にあって資料の搬出を見届けた山崎は、「これで安心した[36]」と安堵の言葉を口にしている。

順天堂大学からの依頼を受け、3名の助手とともに鎌倉の山崎邸書庫に約半年間通い、総数1万2211点に及ぶ図書の仮目録作成にあたった図書館情報学者の今まど子は、旧蔵資料の多様性について、「現在出版されているような洋装本は半分ぐらいで、木版石版、手書きの和装本、届け書、願書等1枚ものの文書類、錦絵、木版の薬品広告巻き物写真等々その種類も多い[37]」と語っている。解読が困難な明治期の翻訳書や、渡辺崋山の検使に関わる文書、首実検切腹の作法、蟇目鳴弦歯固めの儀など今では失われてしまった儀式を描いた珍しい絵図などの解読及びカード作成に「杉田玄白先生の蘭学事始そこのけの苦労[37]」を重ねる中、今らは、山崎の凄まじい読書量と書籍への愛情に驚きと感動を覚えるに至ったという。

山崎は収集した膨大な資料のすべてに目を通しており、どんな本であっても「医」や「病」の文字には傍線が引かれ、小指の先ほどの赤い不審紙がぎっしりと貼られていたため、本の上部が2倍の厚さに膨らむほどであった[37]。また、1枚ものの文書類はデパートの包み紙や裏の白い広告の紙で裏打ちをし、特別製の状袋に納められていた。さらに、師である富士川游の書斎に散らばっていた紙を譲り受けた際には、自ら火熨斗をあててしわを伸ばし、裏打ちをして表紙をつけ、1冊の本へと仕立て直した上で、その末尾に筆で経緯を書き残していた。そうした自家製本や蔵書の裏表紙の内側には、思いがけない稀書を見つけた際の「喜悦この上なし」という歓喜の言葉、あるいは読了時の車中の様子など私的なメモも残されている。仮目録作成を担った今は、「山崎先生はご自分の集められた資料の1点1点に、細かく愛情を注いでいらっしゃったのだ[37]」と述べ、「先生の書物への愛情が、これからの利用者にも伝わり受け継がれていくことを念じてやまない[37]」との思いを寄せている。

こうして一大コレクションとなった順天堂大学図書館『山崎文庫』につき、解剖学者及び医史学者の小川鼎三は、「医史学の研究を志す者にとって、比類のない一大宝庫[11]」と評した上で、「今後この文庫のお世話になる研究者の数は莫大なものとおもうが、その人たちは単に文献を読んで知識を広めるだけでなく、至る所に貼られた付箋により山崎先生の物すごい読書力のあとを知り、おそらく霊感に近いものをうけるであろう。山崎佐という偉大な学者がそこに立っていて、われわれ後輩を叱咤激励するかのごとくである[11]」との言葉を残している。

明治前日本医学史の執筆

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日本学士院による紀元二千六百年奉祝事業の一環として行われた「明治前日本科学史」の編纂において、医学部門のうち『明治前日本医学史 第5巻:明治前日本裁判医学史[38][39][40]』(1957年刊行)の執筆を担当した[41]

城北大空襲により全焼した東京府東京市本郷区駒込曙町の自宅

1945(昭和20)年4月の空襲により本郷の自宅が全焼した際、脱稿直後の稿本を鞄に詰め、予てから耐震耐火で建造していた書庫へ投げ入れることで、一度は焼失を免れた。しかし、その後の盗難により鞄ごと紛失。泥棒が反故(紙屑)と見なして路上に投棄した断片を拾い集めたものの、「苦心惨澹して書き上げた原稿[8]」の大部分が失われることとなった。一度は失望落胆し、「最早や再び筆をとる気力さえ失ってしまった[8]」山崎であったが、この欠落を補うための再起稿に専念すべく、当時打診のあった最高裁判所判事候補等の公職への誘いを一切辞退。自らも激しい栄養失調に陥り、心身の疲労困憊が限界に達する中[8]、戦後の極端な資料欠乏に苦しみつつも執筆を継続した[26]

本稿の完成に心血を注いだ山崎の学術的使命感を示す記録として、学士院へ寄せた以下の書翰が残されている(日本学士院ニュースレター No.30:2022年10月号掲載)。

担当の原稿は20年2月、第一稿全部脱稿・・・4月13日、本郷曙町住宅全焼仕候際、御委嘱の原稿だけは二ツのカバンに入れて書庫に投入れ辛じて避難候・・・その後二三月を経て盗人が鍵を破り書庫へ入り右カバン諸共他の衣類等全部盗み去り候、彼等にしては反故と思いしと見え途中に抛棄しありし原稿を拾い集め、昨年末三度目の整理に入り候処小生担当の四編の内江戸時代以降は全部他の三編は平安朝以後、鎌倉時代以後等の原稿は遂に見当たり不申候、その後鋭意日日執筆し四年間の努力を失いし欠陥を補充せんと精進致居候。そのため過般最高裁判所の判事の候補も他の安掛への就任も総べてこの稿を完成して責を果すまでは他を顧みる余裕なしとて辞退致しおる次第に御座候。しかし住宅全焼、参考書も大部分を失い辛じて立退先に仮居致居ること故、意に任せず実に難渋致し候。しかし何とかして一時も早く責を果し多年の鬱屈より開放され度と日日念願致居候。

再起稿された原稿は、1957年刊行の『明治前日本医学史 第5巻』として結実した。着手から30年以上を経た1973年に全28冊が完結した本編纂事業は、担当会員、委員、嘱託などを含め、合計105名が参加した大プロジェクトであった[26][41]。日本国内10か所の主要研究機関や70校以上の国公私立大学の他、大英図書館オックスフォード大学ボドリアン図書館ケンブリッジ大学図書館、スタンフォード大学図書館、ベルリン国立図書館といった国外の主要学術機関にも収蔵され[39][40]、刊行後半世紀以上を経た現在もなお、日本科学史の基本的文献として広く活用されている[26]

原敬暗殺事件

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東京地方裁判所予審判事として本件を担当した山崎は、1921年11月5日午前10時より、被告中岡艮一に対する第二回尋問を行った。後年、自身が執筆した裁判手記「原敬暗殺事件と判事[13][14]」には、被告の胸襟を開き、その真相を引き出すに至った経緯が克明に記されている。

当初の中岡は「憂国の志士」を気取り、犯行を正当化する大言壮語を繰り返していた。正面突破は困難と見た山崎は、被告の自尊心を逆手に取る戦術に出る。愛読する講談本を、敢えて「天下の志士を以て任じている君だから、もっと気の利いたものぐらい読んでいるかと思ったら、何だ、講談本か、つまらぬものを読んでいるのだなァ」「余りつまった本とは、言えないやネ」と挑発して激昂させると、自身の文才を証明しようとした中岡は「映画ドラマの懸賞に応募している」ことを自ら口走った。山崎はこの「文学への未練と金銭への執着」という私的な動機を見逃さず、追及の手を強めて被告を狼狽させた[14]

丸ノ内ビルヂングの山崎佐法律事務所にて

尋問が核心に触れ、中岡の虚勢が崩れかけたその時、刑事が再三にわたって昼食(鰻飯)の催促に現れる。尋問の腰を折られた山崎は、刑事を部屋に招き入れて一喝した。

「鰻が冷える!それが何です!この男は命がけで総理を暗殺したのだ。今それを調べているのだ!被告が命がけならこっちも命がけでなければならない!鰻飯の冷えることなど問題ではない。昼飯の一度や二度くらい食わなくとも一向に差し支えない。僕は昼飯は食わないから、皆にそう言ってくれ給え、もう催促に来ないでくれ給え![14]

こうした覚悟と気迫に打たれた中岡は、突然立ち上がると、それまでの国士気取りの自尊心を捨てたかのように山崎に抱きつき、「判事さん!すみません、私は隠していました!申し訳ありません!判事さんの心がよく分かりました。包み隠さず一切申し上げます……」と泣き崩れた。山崎は、自身の胸に顔を預けて泣く被告の肩をなでながら「マアよい。そう興奮するな」と諭して腰掛けさせ、「昼飯ぬきだア、お茶でも飲んで、ゆっくり聞こう……」と言葉をかけた。これにより張り詰めていた虚勢は解け、ただ一人の青年としてわだかまりなく静かに真相を話し出したという[13][14]

当時被告が語った事件真相は、以下のとおりである。


被告は以前、神田の或る個人経営の印刷所に勤めていた時、その主人の娘を恋し、その歓心を得ようとして色々苦心しているうち、その娘は映画が好きなので、僅かな給料の内から1、2回見物に誘ってその批評をした際、自分には文学的才能があるように吹聴した。それで娘は非常に感心して自分に好意を持つようになったが、薄給の一職工ではそう度々誘うこともできず、若し映画のドラマに当選すれば、文才も認められるし、また金も入って一緒に見にもゆけるという考えから応募してそれを自慢気に話したところ、落選してしまった。

しかしその娘にはそれを内密にして、まだ当選は決まらないとごまかしていたが、娘は外にも男の友達ができたようなので、少しやけ気味となってその印刷所から暇を貰い大塚駅にかわった。

その後も時々訪問している中、娘が偉い人物だと感服するようなことをやれば、娘の心も必ず自分に向くだろうと考えて第2回目の応募をしたが、これも落選したので、最早世の中には望みがないような気持となった。自分は時事問題が好きであるので、日頃から新聞も社会面より政治面に興味を持って読んでいたが、毎日の新聞に原内閣の秕政が盛んに攻撃されているので、大いに同感し、いつも自分を可愛がってくれる助役が「口先ばかりで憤慨しても駄目だからやめろ」と言ったので、自分はそれに反抗する気持になって「口先ばかりではない、その中やっつけるつもりだ」と言った。すると助役に「本当にやるものはだまってやる。そんなことを言う奴に何ができるか」と冷笑されたので「よし本当にやってやるぞ」と暗殺を決心するようになった、と機微な心理の過程につき細々と語った。

山崎は、中岡の頑なな態度が「こうすらすらほぐれたのは、鰻飯一件のためで、かくて本件の真相が漸く分かった[14]」と述懐している。

本稿は、警視庁機関誌『自警』編集者による熱心な要請を受けて執筆された。当初、山崎は「老人の思い出話は自慢話になりがちだ」として固辞していたが、「自慢話大いに結構、殊に古い話を今聞いておかないと、誰も知らずに消えてしまう」との説得を受け、「若い者の折角のおだてに乗るのも老人の役目」と思い直して筆を執ったという[7]。同誌1953年1月号から連載され、後に『人物往来』(1957年10月号)にも転載された(全文は江尻進編纂『思い出に綴られる山崎佐の生涯』118-151頁に収録)。

座右の銘

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彫刻家吉田三郎とともに陶芸家板谷波山邸に遊び波山の窯で山崎が製作した十二支の壺(1923年頃)

1913(大正2)年7月[11]

醫制を攻究するは志なり。
法曹に携るは業なり。
志のために業を怠らず、業のために志を廃せず。
志は達成すべく、業は勉励すべし。

1950(昭和25)年8月[7]

昨日の不可能は必ずしも今日の不可能にあらず。
一粒の麦は一人の空腹を満たすに足らずと雖も
他日を期して地下に播けば萬穀を収穫し得て萬人を養ふに足らん。

著書

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主な論文掲載誌等

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CiNii

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関連書籍

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主な追悼文等[7]

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(1)生い立ちと人となり
菊山嘉男「六十二年の交友に見る剛気の君」
小野秀雄「黒主門答で控訴をしたエピソード」
愛知揆一「ご遺徳を皆さまにお分け下さい」

(2)法曹人としての活躍
長野国助「彼氏との最初の出会い」
正木亮「司法官試補時代に始まる交友」
成富信夫「思いやりと一徹さ」
大塚喜一郎「叱ったり教えたりの大先輩」
島田武夫「人間の力の限りを尽した人物」
大山菊治「山崎先生と私」
吉川大二郎「司法制度改革への貢献」
色川幸太郎「凛然颯爽たる名会長ぶり」
横田喜三郎 「司法制度全体に貢献」
鈴木信雄「円満春のごとき日弁連の運営」
尾崎行信「公判を通じて見た山崎先生の人柄」
平野力三「占領下の『平野裁判』の弁護」
柏村毅「快く弁護を引き受けられた思い出」

(3)研究者としての生活
小川鼎三「医史学上の不朽の業績」
緒方富雄「医史学者としての山崎博士」
石井良助「法制史学会のためのご尽力」
久保正幡「自由と法の守護者としての気魄」
中野操「医事法制史開拓の巨星落つ」
古畑種基「医事法制学を創始されたころの追想」
三木栄「日本と朝鮮の裁判医学」
東季彦「大学以来五十余年の交友」
唄孝一「医事法制学と山崎先生」
有山登「『山崎文庫』由来」
今まど子今圓子)「山崎先生と書物の世界」
小池重小池曼洞)「頌詩」

(4)さまざまな社会活動
竹内薰兵「きみをおもえばただにさみしき」
鹿島俊雄「歯科医師会の隆昌の基礎を作られた先生」
中河幹子「教育父母会議と山崎佐先生」
山高しげり「売春防止法制定へのご尽力」
松岡清「剛毅細心の公安審査委員長」

(5)弔辞
・会長:大山菊治「日本弁護士連合会弔詞」
・会長:横地秋二第一東京弁護士会弔詞」
・理事長:満尾叶関東弁護士会連合会弔詞」
・会長:武見太郎日本医師会弔辞」
・理事長:小川鼎三「日本医史学会弔辞」
・代表理事:石井良助「法制史学会弔辞」

関連番組

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脚注

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  1. 1 2 3 日本医師会弔辞(武見太郎):「思い出に綴られる山崎佐の生涯」所収資料』1968年
  2. 医事法制学を創始されたころの追想(古畑種基):「思い出に綴られる山崎佐の生涯」所収資料』1968年
  3. 1 2 日本弁護士連合会弔詞(大山菊治):「思い出に綴られる山崎佐の生涯」所収資料』1968年
  4. 日本医史学会弔辞(小川鼎三):「思い出に綴られる山崎佐の生涯」所収資料』1968年
  5. 閣議了解(人事)10月3日付発令予定”. 国立公文書館. 2026年5月15日閲覧。
  6. 東京大学卒業生氏名録:法学部法律学科』東京大学、1950年
  7. 1 2 3 4 5 6 思い出に綴られる山崎佐の生涯』江尻進編纂、1968年
  8. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 江戸期前日本医事法制の研究』山崎佐著、中外医学社、1953年
  9. 富士川游先生』富士川游先生編纂委員会編纂、富士川先生刊行会、1954年
  10. 医史学者としての山崎博士(緒方富雄):「思い出に綴られる山崎佐の生涯」所収資料』1968年
  11. 1 2 3 4 5 6 7 山崎文庫目録』順天堂大学図書館、1969年
  12. 東京大学医学部百年史』東京大学医学部創立百年記念会編纂、東京大学出版会、1967年
  13. 1 2 3 裁判秘話:原敬暗殺事件と判事”. 2025年7月5日閲覧。
  14. 1 2 3 4 5 6 原敬暗殺事件と判事(山崎佐):「思い出に綴られる山崎佐の生涯」所収資料』1968年
  15. 1 2 3 4 占領下の「平野裁判」の弁護(平野力三):「思い出に綴られる山崎佐の生涯」所収資料』1968年
  16. 占領政策への闘いと勝利:平野農相追放から無罪まで(大塚喜一郎)』中央大学出版部、1972年
  17. 日本疫史及防疫史”. 国立国会図書館. 2025年7月5日閲覧。
  18. 江戸期前日本医事法制の研究”. 国立国会図書館. 2025年7月5日閲覧。
  19. 法制史学会弔辞(石井良助):「思い出に綴られる山崎佐の生涯」所収資料』1968年
  20. 第一東京弁護士会弔詞(横地秋二):「思い出に綴られる山崎佐の生涯」所収資料』1968年
  21. 1 2 ご遺徳を皆さまにお分け下さい(愛知揆一):「思い出に綴られる山崎佐の生涯」所収資料』1968年
  22. 1 2 司法制度全体に貢献(横田喜三郎):「思い出に綴られる山崎佐の生涯」所収資料』1968年
  23. 1 2 3 司法制度改革への貢献(吉川大二郎):「思い出に綴られる山崎佐の生涯」所収資料』1968年
  24. 彼氏との最初の出会い(長野国助):「思い出に綴られる山崎佐の生涯」所収資料』1968年
  25. 1 2 3 叱ったり教えたりの大先輩(大塚喜一郎):「思い出に綴られる山崎佐の生涯」所収資料』1968年
  26. 1 2 3 4 5 学士院の歩み 第19回 『明治前日本科学史』の編纂”. 日本学士院ニュースレター. 2022年10月1日閲覧。
  27. 明治前医学書、資料の整理とその管理利用:鍋島直玄”. 日本医学図書館協会. 2026年6月8日閲覧。
  28. 順天堂の現代史:酒井シヅ”. 順天堂医学会. 2026年6月8日閲覧。
  29. 順天堂大学医学部山崎文庫:深瀬泰旦”. 日本医史学会. 2025年6月20日閲覧。
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