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== 船歴 ==
== 船歴 ==
丸は、[[横浜市]][[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]]の[[浅野造船所]]で建造され、1918年(大正7年)に[[進水式|進水]]した。武丸の同型船として勢洲丸、相洲丸、対洲丸の3隻が同所で建造されており<ref name="T9senmei100" />、武洲丸型と称されることもある<ref name="iwashige45">[[#岩重|岩重(2011年)]]、45頁。</ref>。竣工時の[[トン数]]は1,219総トン<ref name="T8senmei104">[[逓信省]]管船局(編) 『大正八年 日本船名録』 帝国海事協会、1919年、104頁。</ref>。[[船尾]]に機関室、船体中央に[[船橋 (船)|船橋]]を置いた形式の小型貨物船である<ref name="meibo" />。小型船に珍しく吊上げ能力が大きなヘビー[[デリック]]を装備しているのが特色で、設備の不十分な港湾での荷役や重量物運搬に適した設計だった。本船の設計は、後に、[[東海道本線]][[丹那トンネル]]用の25m[[軌条]]運搬を目的として浅野造船所が建造した長尺物運搬船八幡丸(日之出汽船、1,851総トン)型10隻の原型に流用されて好評を博し、小型化された豊国丸型4隻、拡大型の五十鈴丸型2隻、第二靑山丸型(D型平時標準船)47隻、1D型[[戦時標準船]]22隻、その他数隻に派生した。これら貨物船はまとめて[[日之出型貨物船]]と称された<ref name="iwashige45" />。
丸は、[[横浜市]][[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]]の[[浅野造船所]]で建造され、1918年(大正7年)に[[進水式|進水]]した。武丸の同型船として勢洲丸、相洲丸、対洲丸の3隻が同所で建造されており<ref name="T9senmei100" />、武洲丸型と称されることもある<ref name="iwashige45">[[#岩重|岩重(2011年)]]、45頁。</ref>。竣工時の[[トン数]]は1,219総トン<ref name="T8senmei104">[[逓信省]]管船局(編) 『大正八年 日本船名録』 帝国海事協会、1919年、104頁。</ref>。[[船尾]]に機関室、船体中央に[[船橋 (船)|船橋]]を置いた形式の小型貨物船である<ref name="meibo" />。小型船に珍しく吊上げ能力が大きなヘビー[[デリック]]を装備しているのが特色で、設備の不十分な港湾での荷役や重量物運搬に適した設計だった。本船の設計は、後に、[[東海道本線]][[丹那トンネル]]用の25m[[軌条]]運搬を目的として浅野造船所が建造した長尺物運搬船八幡丸(日之出汽船、1,851総トン)型10隻の原型に流用されて好評を博し、小型化された豊国丸型4隻、拡大型の五十鈴丸型2隻、第二靑山丸型(D型平時標準船)47隻、1D型[[戦時標準船]]22隻、その他数隻に派生した。これら貨物船はまとめて[[日之出型貨物船]]と称された<ref name="iwashige45" />。


丸は[[浦賀]]の株式会社佐藤商店<!--佐藤商会とするウェブサイトがあるが船名録では「商店」-->が船主となり、初めは若葉丸と命名された<ref name="T8senmei104" />。同型船3隻が浅野造船所の[[在庫|ストックボート]]となり<ref name="T9senmei100" />、後に同じ[[浅野財閥]]系の日之出汽船へ引き取られたのと経緯が異なっている。その後、[[1926年]](大正15年・昭和1年)に若葉丸も日之出汽船に取得され<ref>逓信省管船局(編) 『昭和二年 日本船名録』 帝国海事協会、1927年、103頁。</ref>、翌年までに武洲丸と改名した<ref>逓信省管船局(編) 『昭和三年 日本船名録』 帝国海事協会、1928年、84頁。</ref>。
丸は[[浦賀]]の株式会社佐藤商店<!--佐藤商会とするウェブサイトがあるが船名録では「商店」-->が船主となり、初めは若葉丸と命名された<ref name="T8senmei104" />。同型船3隻が浅野造船所の[[在庫|ストックボート]]となり<ref name="T9senmei100" />、後に同じ[[浅野財閥]]系の日之出汽船へ引き取られたのと経緯が異なっている。その後、[[1926年]](大正15年・昭和1年)に若葉丸も日之出汽船に取得され<ref>逓信省管船局(編) 『昭和二年 日本船名録』 帝国海事協会、1927年、103頁。</ref>、翌年までに武洲丸と改名した<ref>逓信省管船局(編) 『昭和三年 日本船名録』 帝国海事協会、1928年、84頁。</ref>。


[[太平洋戦争]]中も武洲丸は軍の[[徴用]]を受けず民需用の商船として運航されたが、開戦半年前の[[1941年]](昭和16年)5月11日付で、民間商船のまま乗員は海軍[[軍属]]として扱われる海軍指定船に指定されている<ref name="sitei">[[第二復員省|第二復員局]]残務処理部 『海軍指定船名簿』 1952年4月作成、JACAR Ref.C08050091700、画像7枚目。</ref>。開戦後に[[船舶運営会]]が創設されると、武洲丸も他の全て民需船と同様に国家徴用され、船舶運営会が運航実務者に選定した[[山下汽船]]を通じて管理されることになった<ref name="sitei" />。
[[太平洋戦争]]中も武洲丸は軍の[[徴用]]を受けず民需用の商船として運航されたが、開戦半年前の[[1941年]](昭和16年)5月11日付で、民間商船のまま乗員は海軍[[軍属]]として扱われる海軍指定船に指定されている<ref name="sitei">[[第二復員省|第二復員局]]残務処理部 『海軍指定船名簿』 1952年4月作成、JACAR Ref.C08050091700、画像7枚目。</ref>。開戦後に[[船舶運営会]]が創設されると、武洲丸も他の全て民需船と同様に国家徴用され、船舶運営会が運航実務者に選定した[[山下汽船]]を通じて管理されることになった<ref name="sitei" />。
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武洲丸に最期が訪れたのは、太平洋戦争後期の[[1944年]](昭和19年)9月である。9月8日に[[台湾]]の[[基隆港]]を[[那覇港]]に向け出港したタカ808船団に加入し、途中でアメリカの潜水艦[[スペードフィッシュ (潜水艦)|スペードフィッシュ]]の襲撃で僚船4隻が沈没しながらも<ref>[http://www.ibiblio.org/hyperwar/USN/USN-Chron/USN-Chron-1944.html Cressman (1999) , pp. 535-536.]</ref>、武州丸は無事に那覇へ到着した{{#tag:ref|タカ808船団は[[マニラ]]方面から来た鉱石運搬船主体の船団を基隆で改編したもの。参加した船舶は、駒宮(1987年)によれば輸送船8隻と水雷艇「[[真鶴 (千鳥型水雷艇)|真鶴]]」以下の護衛艦5隻だが<ref>[[#駒宮|駒宮(1987年)]]、251頁。</ref>、[[海上護衛隊#第四海上護衛隊|第四海上護衛隊]]・[[海軍根拠地隊|沖縄方面根拠地隊]]の戦時日誌によれば、輸送船29隻および「真鶴」以下護衛艦7隻となっている<ref>[[#海護|『第四海上護衛隊 沖縄方面根拠地隊戦時日誌』]]、画像4枚目。</ref>。沈没したのは日安丸(日産汽船:6197総トン)、日満丸(東亜海運:1922総トン)、神天丸([[商船三井|大阪商船]]:1254総トン)および昭慶丸(東和汽船:2557総トン)の輸送船4隻。|group="注"}}。そして、[[徳之島]]から九州本土へ疎開する民間人を運ぶため、船団とは別れて[[奄美大島]]へ向かった。当時、アメリカ軍の上陸に備えるため、南西諸島各地で女性・子供・高齢者の本土および[[台湾疎開]]が勧告されていた{{#tag:ref|南西諸島からの疎開は、[[サイパンの戦い]]での日本軍敗北をきっかけに1944年7月7日に緊急閣議決定され、奄美大島・徳之島・[[沖縄本島]]・[[宮古島]]・[[石垣島]]が対象地域だった。沖縄からの疎開だけで1945年3月上旬までに陸海軍船のべ187隻が投入され、対馬丸を失いながらも、8万人以上を無事に移送している<ref>[[防衛研究所|防衛庁防衛研修所]]戦史室 『沖縄方面陸軍作戦』 朝雲新聞社〈[[戦史叢書]]〉、1968年、614-616頁。</ref>。|group="注"}}。
武洲丸に最期が訪れたのは、太平洋戦争後期の[[1944年]](昭和19年)9月である。9月8日に[[台湾]]の[[基隆港]]を[[那覇港]]に向け出港したタカ808船団に加入し、途中でアメリカの潜水艦[[スペードフィッシュ (潜水艦)|スペードフィッシュ]]の襲撃で僚船4隻が沈没しながらも<ref>[http://www.ibiblio.org/hyperwar/USN/USN-Chron/USN-Chron-1944.html Cressman (1999) , pp. 535-536.]</ref>、武州丸は無事に那覇へ到着した{{#tag:ref|タカ808船団は[[マニラ]]方面から来た鉱石運搬船主体の船団を基隆で改編したもの。参加した船舶は、駒宮(1987年)によれば輸送船8隻と水雷艇「[[真鶴 (千鳥型水雷艇)|真鶴]]」以下の護衛艦5隻だが<ref>[[#駒宮|駒宮(1987年)]]、251頁。</ref>、[[海上護衛隊#第四海上護衛隊|第四海上護衛隊]]・[[海軍根拠地隊|沖縄方面根拠地隊]]の戦時日誌によれば、輸送船29隻および「真鶴」以下護衛艦7隻となっている<ref>[[#海護|『第四海上護衛隊 沖縄方面根拠地隊戦時日誌』]]、画像4枚目。</ref>。沈没したのは日安丸(日産汽船:6197総トン)、日満丸(東亜海運:1922総トン)、神天丸([[商船三井|大阪商船]]:1254総トン)および昭慶丸(東和汽船:2557総トン)の輸送船4隻。|group="注"}}。そして、[[徳之島]]から九州本土へ疎開する民間人を運ぶため、船団とは別れて[[奄美大島]]へ向かった。当時、アメリカ軍の上陸に備えるため、南西諸島各地で女性・子供・高齢者の本土および[[台湾疎開]]が勧告されていた{{#tag:ref|南西諸島からの疎開は、[[サイパンの戦い]]での日本軍敗北をきっかけに1944年7月7日に緊急閣議決定され、奄美大島・徳之島・[[沖縄本島]]・[[宮古島]]・[[石垣島]]が対象地域だった。沖縄からの疎開だけで1945年3月上旬までに陸海軍船のべ187隻が投入され、対馬丸を失いながらも、8万人以上を無事に移送している<ref>[[防衛研究所|防衛庁防衛研修所]]戦史室 『沖縄方面陸軍作戦』 朝雲新聞社〈[[戦史叢書]]〉、1968年、614-616頁。</ref>。|group="注"}}。


奄美大島の[[古仁屋]]に到着した武洲丸は、[[鹿児島港]]から奄美大島[[名瀬港]]経由で来た姉妹船相洲丸と合流、小船徳之島から集合していた疎開者の搭乗を開始した。15歳未満の子供77人を含む民間人154人が乗り込んだほか、陸海軍関係者24人が便乗した。乗員側は、軍属船員36人と自衛火器を操作する[[船舶警戒部|海軍警戒隊]](人数不明)である<ref name="syugiin" />。船倉を居住区画として使用したほか、船倉内は暑いため上甲板にも3番[[デリック]]を中心に日除け[[テント]]を張って寝泊まりした。なお、相洲丸は先に名瀬港で杭木500トンを積んでおり、疎開者の家財類を担当した<ref name="oshima52">大島[[防備隊]] 『自昭和十九年九月一日至昭和十九年九月三十日 大島防備隊戦時日誌』 JACAR Ref.C08030438800、画像52枚目。</ref><ref>安藤(1992年)、「[http://www7.ocn.ne.jp/~fukuji71/syukkou.htm 第4章 出港]」</ref>。
奄美大島の[[古仁屋]]に到着した武洲丸は、[[鹿児島港]]から奄美大島[[名瀬港]]経由で来た姉妹船相洲丸と合流。古仁屋で、小船によって徳之島から集合していた疎開者の搭乗を開始した。15歳未満の子供77人を含む民間人154人が乗り込んだほか、陸海軍関係者24人が便乗した。乗員側は、軍属船員36人と自衛火器を操作する[[船舶警戒部|海軍警戒隊]](人数不明)である<ref name="syugiin" />。船倉を居住区画として使用したほか、船倉内は暑いため上甲板にも3番[[デリック]]を中心に日除け[[テント]]を張って寝泊まりした。なお、相洲丸は先に名瀬港で杭木500トンを積んでおり、疎開者の家財類を担当した<ref name="oshima52">大島[[防備隊]] 『自昭和十九年九月一日至昭和十九年九月三十日 大島防備隊戦時日誌』 JACAR Ref.C08030438800、画像52枚目。</ref><ref>安藤(1992年)、「[http://www7.ocn.ne.jp/~fukuji71/syukkou.htm 第4章 出港]」</ref>。


9月24日朝、武洲丸相洲丸の2隻で編成された臨時ナカ502船団は、[[第一号型駆潜特務艇|第89号駆潜特務艇]]と[[第一号型駆潜特務艇|第200号駆潜特務艇]]の護衛で奄美大島から出航した。7.5[[ノット]]のゆっくりした速度で、26日午前に鹿児島到着予定であった<ref name="oshima52" />。2晩目に入った25日午後9時2分頃、[[諏訪之瀬島]]北西13km付近の洋上を雷雨をついて航行していた武洲丸は<ref name="maehasi8384">[[#前橋|前橋(2004年)]]、83-84頁。</ref>、アメリカの潜水艦[[バーベル (SS-316)|バーベル]]から雷撃された。バーベルの魚雷が命中した武洲丸は急速に浸水し、{{coor dm|29|46|N|129|40|E|}}の地点で沈没した<ref name="cressman545">[http://www.ibiblio.org/hyperwar/USN/USN-Chron/USN-Chron-1944.html Cressman (1999) , p. 545.]</ref>。相洲丸は[[爆雷]]で反撃しつつ離脱し<ref>安藤(1992年)、「[http://www7.ocn.ne.jp/~fukuji71/busyumaruyarareru.htm 第6章 武州丸やられる]」</ref>、護衛艦が救助活動を行ったが収容されたのはわずかで、疎開者148人・便乗軍関係者18人・軍属船員11人・海軍警戒隊員5人の計182人が死亡した<ref name="syugiin" />。なお、日本海軍は[[宿毛海軍航空隊|第453海軍航空隊]]と[[佐世保海軍航空隊#第九五一海軍航空隊の発足|沖縄海軍航空隊]]古仁屋派遣隊の[[水上機]]を出動させて27日まで対潜掃討を行ったが、成果は無かった<ref>[[#海護|『第四海上護衛隊 沖縄方面根拠地隊戦時日誌』]]、画像7、13-17枚目。</ref>。
9月24日朝、武洲丸相洲丸の2隻で編成された臨時ナカ502船団は、[[第一号型駆潜特務艇|第89号駆潜特務艇]]と[[第一号型駆潜特務艇|第200号駆潜特務艇]]の護衛で奄美大島から出航した。7.5[[ノット]]のゆっくりした速度で、26日午前に鹿児島到着予定であった<ref name="oshima52" />。2晩目に入った25日午後9時2分頃、[[諏訪之瀬島]]北西13km付近の洋上を雷雨をついて航行していた武洲丸は<ref name="maehasi8384">[[#前橋|前橋(2004年)]]、83-84頁。</ref>、アメリカの潜水艦[[バーベル (SS-316)|バーベル]]から雷撃された。バーベルの魚雷が命中した武洲丸は急速に浸水し、{{coor dm|29|46|N|129|40|E|}}の地点で沈没した<ref name="cressman545">[http://www.ibiblio.org/hyperwar/USN/USN-Chron/USN-Chron-1944.html Cressman (1999) , p. 545.]</ref>。相洲丸は[[爆雷]]で反撃しつつ離脱し<ref>安藤(1992年)、「[http://www7.ocn.ne.jp/~fukuji71/busyumaruyarareru.htm 第6章 武州丸やられる]」</ref>、護衛艦が救助活動を行ったが収容されたのはわずかで、疎開者148人・便乗軍関係者18人・軍属船員11人・海軍警戒隊員5人の計182人が死亡した<ref name="syugiin" />。なお、日本海軍は[[宿毛海軍航空隊|第453海軍航空隊]]と[[佐世保海軍航空隊#第九五一海軍航空隊の発足|沖縄海軍航空隊]]古仁屋派遣隊の[[水上機]]を出動させて27日まで対潜掃討を行ったが、成果は無かった<ref>[[#海護|『第四海上護衛隊 沖縄方面根拠地隊戦時日誌』]]、画像7、13-17枚目。</ref>。


== 慰霊等 ==
== 慰霊等 ==

2019年10月12日 (土) 15:20時点における版

船歴
建造所 浅野造船所
起工
進水 1918年4月
竣工
喪失 1944年9月25日
性能諸元
総トン数 1,222トン
純トン数 671トン
載貨重量 1,550トン
排水量 1,780トン
登録長 66.14m
型幅 10.36m
登録深 5.64m
喫水 4.85m(満載時平均)
機関 三連成レシプロ機関1基1軸
出力 910馬力(最大)
速力 11ノット(最高)
9ノット(航海)
乗員 31人
乗客 三等:4人
同型船 勢洲丸、相洲丸、対洲丸[1]
出典 『昭和十八年版 日本汽船名簿』[2]

武洲丸(ぶしゅうまる)は、日之出汽船(現:NYKバルク・プロジェクト貨物輸送)が保有した貨物船である。1918年に進水し、初期は若葉丸の船名で佐藤商店が船主だった。太平洋戦争中の1944年9月25日徳之島から本土に疎開する民間人ら200人以上を乗せて航行中、アメリカ海軍潜水艦により撃沈されて乗船者の8割以上が死亡した。南西諸島からの疎開船のうち、対馬丸以外で潜水艦に撃沈された唯一の船でもある[3][注 1]

船歴

武洲丸は、横浜市鶴見区浅野造船所で建造され、1918年(大正7年)に進水した。武洲丸の同型船として勢洲丸、相洲丸、対洲丸の3隻が同所で建造されており[1]、武洲丸型と総称されることもある[4]。竣工時のトン数は1,219総トン[5]船尾に機関室、船体中央に船橋を置いた形式の小型貨物船である[2]。小型船に珍しく吊上げ能力が大きなヘビーデリックを装備しているのが特色で、設備の不十分な港湾での荷役や重量物運搬に適した設計だった。本船の設計は、後に、東海道本線丹那トンネル用の25m軌条運搬を目的として浅野造船所が建造した長尺物運搬船八幡丸(日之出汽船、1,851総トン)型10隻の原型に流用されて好評を博し、小型化された豊国丸型4隻、拡大型の五十鈴丸型2隻、第二靑山丸型(D型平時標準船)47隻、1D型戦時標準船22隻、その他数隻に派生した。これら貨物船はまとめて日之出型貨物船と称された[4]

武洲丸は浦賀の株式会社佐藤商店が船主となり、初めは若葉丸と命名された[5]。同型船3隻が浅野造船所のストックボートとなり[1]、後に同じ浅野財閥系の日之出汽船へ引き取られたのと経緯が異なっている。その後、1926年(大正15年・昭和1年)に若葉丸も日之出汽船に取得され[6]、翌年までに武洲丸と改名した[7]

太平洋戦争中も武洲丸は軍の徴用を受けず民需用の商船として運航されたが、開戦半年前の1941年(昭和16年)5月11日付で、民間商船のまま乗員は海軍軍属として扱われる海軍指定船に指定されている[8]。開戦後に船舶運営会が創設されると、武洲丸も他の全て民需船と同様に国家徴用され、船舶運営会が運航実務者に選定した山下汽船を通じて管理されることになった[8]

撃沈

武洲丸に最期が訪れたのは、太平洋戦争後期の1944年(昭和19年)9月である。9月8日に台湾基隆港那覇港に向け出港したタカ808船団に加入し、途中でアメリカの潜水艦スペードフィッシュの襲撃で僚船4隻が沈没しながらも[9]、武州丸は無事に那覇へ到着した[注 2]。そして、徳之島から九州本土へ疎開する民間人を運ぶため、船団とは別れて奄美大島へ向かった。当時、アメリカ軍の上陸に備えるため、南西諸島各地で女性・子供・高齢者の本土および台湾疎開が勧告されていた[注 3]

奄美大島の古仁屋に到着した武洲丸は、鹿児島港から奄美大島名瀬港経由で来た姉妹船相洲丸と合流。古仁屋で、小船によって徳之島から集合していた疎開者の搭乗を開始した。15歳未満の子供77人を含む民間人154人が乗り込んだほか、陸海軍関係者24人が便乗した。乗員側は、軍属船員36人と自衛火器を操作する海軍警戒隊(人数不明)である[3]。船倉を居住区画として使用したほか、船倉内は暑いため上甲板にも3番デリックを中心に日除けテントを張って寝泊まりした。なお、相洲丸は先に名瀬港で杭木500トンを積んでおり、疎開者の家財類を担当した[13][14]

9月24日朝、武洲丸と相洲丸の2隻で編成された臨時ナカ502船団は、第89号駆潜特務艇第200号駆潜特務艇の護衛で奄美大島から出航した。7.5ノットのゆっくりした速度で、26日午前に鹿児島到着予定であった[13]。2晩目に入った25日午後9時2分頃、諏訪之瀬島北西13km付近の洋上を雷雨をついて航行していた武洲丸は[15]、アメリカの潜水艦バーベルから雷撃された。バーベルの魚雷が命中した武洲丸は急速に浸水し、北緯29度46分 東経129度40分 / 北緯29.767度 東経129.667度 / 29.767; 129.667の地点で沈没した[16]。相洲丸は爆雷で反撃しつつ離脱し[17]、護衛艦が救助活動を行ったが収容されたのはわずかで、疎開者148人・便乗軍関係者18人・軍属船員11人・海軍警戒隊員5人の計182人が死亡した[3]。なお、日本海軍は第453海軍航空隊沖縄海軍航空隊古仁屋派遣隊の水上機を出動させて27日まで対潜掃討を行ったが、成果は無かった[18]

慰霊等

他の戦没船の多くと同様、武洲丸の沈没は戦時中に公表されず、生存者に対しても秘密保持が求められた[19]。遺族ですらも、密かに病院を抜け出した生存者が発した電報からの口コミで遭難を知ったという[20]。戦後も対馬丸に比べて知名度は低く、前橋松造の調査によると郷土史文献に船名が登場したのは1978年(昭和53年)発行の『天城町史』が初めてである[21]

33回忌の年忌供養にあたる1976年(昭和51年)に徳之島住民らの寄付によって徳之島町亀徳へ慰霊碑が建立され、遺族らによる慰霊祭が毎年行われている。慰霊碑周辺は「なごみの岬公園」となっており、軍隊輸送船富山丸の慰霊碑も立っている[22]2006年(平成18年)には日本政府主催の洋上慰霊祭が初めて行われた[23]。対馬丸遭難学童特別支出金のような民間人遺族への補償を求める意見もあるが、実現していない[3][23]

脚注

注釈

  1. ^ 航空機による被害としては、一心丸が撃沈されて50人以上が死亡した尖閣諸島戦時遭難事件がある。
  2. ^ タカ808船団はマニラ方面から来た鉱石運搬船主体の船団を基隆で改編したもの。参加した船舶は、駒宮(1987年)によれば輸送船8隻と水雷艇「真鶴」以下の護衛艦5隻だが[10]第四海上護衛隊沖縄方面根拠地隊の戦時日誌によれば、輸送船29隻および「真鶴」以下護衛艦7隻となっている[11]。沈没したのは日安丸(日産汽船:6197総トン)、日満丸(東亜海運:1922総トン)、神天丸(大阪商船:1254総トン)および昭慶丸(東和汽船:2557総トン)の輸送船4隻。
  3. ^ 南西諸島からの疎開は、サイパンの戦いでの日本軍敗北をきっかけに1944年7月7日に緊急閣議決定され、奄美大島・徳之島・沖縄本島宮古島石垣島が対象地域だった。沖縄からの疎開だけで1945年3月上旬までに陸海軍船のべ187隻が投入され、対馬丸を失いながらも、8万人以上を無事に移送している[12]

出典

  1. ^ a b c 逓信省管船局(編) 『大正九年 日本船名録』 帝国海事協会、1920年、100、114、119頁。
  2. ^ a b 運輸通信省海運総局(編) 『昭和十八年版 日本汽船名簿(内地・朝鮮・台湾・関東州)』 運輸通信省海運総局、1943年、内地在籍船の部1164頁、アジア歴史資料センター(JACAR) Ref.C08050085600、画像35枚目。
  3. ^ a b c d 第162国会 衆議院予算委員会第五分科会 2005年2月25日川内博史衆議院議員および大槻勝啓政府参考人(厚生労働省大臣官房審議官)の発言。
  4. ^ a b 岩重(2011年)、45頁。
  5. ^ a b 逓信省管船局(編) 『大正八年 日本船名録』 帝国海事協会、1919年、104頁。
  6. ^ 逓信省管船局(編) 『昭和二年 日本船名録』 帝国海事協会、1927年、103頁。
  7. ^ 逓信省管船局(編) 『昭和三年 日本船名録』 帝国海事協会、1928年、84頁。
  8. ^ a b 第二復員局残務処理部 『海軍指定船名簿』 1952年4月作成、JACAR Ref.C08050091700、画像7枚目。
  9. ^ Cressman (1999) , pp. 535-536.
  10. ^ 駒宮(1987年)、251頁。
  11. ^ 『第四海上護衛隊 沖縄方面根拠地隊戦時日誌』、画像4枚目。
  12. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室 『沖縄方面陸軍作戦』 朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1968年、614-616頁。
  13. ^ a b 大島防備隊 『自昭和十九年九月一日至昭和十九年九月三十日 大島防備隊戦時日誌』 JACAR Ref.C08030438800、画像52枚目。
  14. ^ 安藤(1992年)、「第4章 出港
  15. ^ 前橋(2004年)、83-84頁。
  16. ^ Cressman (1999) , p. 545.
  17. ^ 安藤(1992年)、「第6章 武州丸やられる
  18. ^ 『第四海上護衛隊 沖縄方面根拠地隊戦時日誌』、画像7、13-17枚目。
  19. ^ 前橋(2004年)、124-125頁。
  20. ^ 前橋(2004年)、109頁。
  21. ^ 前橋(2004年)、107頁。
  22. ^ 鹿児島県障害福祉課 「なごみの岬公園」『やさしい鹿児島スイスイなび』(2012年5月7日閲覧)
  23. ^ a b 「遺族ら平和へ誓い―徳之島町亀徳で“武州丸”慰霊祭」南海日日新聞』 2010年9月26日。

参考文献

  • 安藤福治「海軍輸送船“相州丸”乗組 わが十四歳の戦記」『』、潮書房、1992年11月。 
    • 初出:安藤福治『十四歳私の戦争―海軍輸送船相州丸』安藤福治、1991年。 
  • 岩重多四郎『戦時輸送船ビジュアルガイド2―日の丸船隊ギャラリー』大日本絵画、2011年。 
  • 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年。 
  • 前橋松造『金十丸、奄美の英雄伝説―戦火をくぐった疎開船の数奇な運命』南方新社、2004年。 
  • 第四海上護衛隊、沖縄方面根拠地隊司令部『自昭和十九年九月一日至昭和十九年九月三十日 第四海上護衛隊 沖縄方面根拠地隊戦時日誌』アジア歴史資料センター(JACAR) Ref.C08030144100。 
  • Cressman, Robert J. The Official Chronology of the US Navy in World War II, Annapolis: MD, Naval Institute Press, 1999.