「チャイナエアライン611便空中分解事故」の版間の差分

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[[飛航安全調査委員会]]と[[国家運輸安全委員会|NTSB]]は[[2002年]][[12月25日]]、機体後部の残骸から金属疲労の痕跡を発見したと発表した。事故機となったB-18255は以前起きた事故の修理が不完全であったため、最終的に機体後部の金属疲労によって巡航飛行中に空中分解したものと判明した。
[[飛航安全調査委員会]]と[[国家運輸安全委員会|NTSB]]は[[2002年]][[12月25日]]、機体後部の残骸から金属疲労の痕跡を発見したと発表した。事故機となったB-18255は以前起きた事故の修理が不完全であったため、最終的に機体後部の金属疲労によって巡航飛行中に空中分解したものと判明した。


事故機は[[1980年]][[2月7日]]に台北発香港[[啓徳空港]]行き009便(Dynasty 009)として、香港[[啓徳空港]]に着陸する際、機体後部を地上に接触する[[尻もち事故]]を起こしていた。事故機は当日中に与圧システムを作動させないまま台北へ[[回送]]して応急修理を施した後、5月に本格修理が行われた。その際に、ボーイング社の構造修理マニュアルに従わない不完全な方法で修理が行われ、整備記録には構造修理マニュアルに従った修理が行われたと記されていた。
事故機は[[1980年]][[2月7日]]に台北発香港[[啓徳空港]]行き009便(Dynasty 009)として、香港[[啓徳空港]]に着陸する際、機体後部を地上に接触する[[尻もち事故]]を起こしていた。事故機は当日中に与圧システムを作動させないまま台北へ[[回送]]して修理を施した後、翌2月8日から一旦運航に復帰し、5月23日から5月28日かけて恒久的修理が行われた。その際に、ボーイング社の構造修理マニュアルに従わない不完全な方法で修理が行われ、整備記録ではなく航空記録において「胴体外板の修理、ボーイング構造修理マニュアルの53-30-09の図1に従って実施しだけ記されていた。


本来であれば大きく損場合箇所の交換が必要ったが、整備士は表面を磨いた後、「ダブラープレート」と呼ばれる[[絆創膏]]の役割を持たせたアルミ合金製の継ぎ板を損傷部分被せただけであ機体はそのまま使われ与圧によってゆっくりと亀裂が広がっていった。
事故機の破片を分析した結果、本来であれば傷のある外板をすべ交換すか、または傷を完全に除去して補強材を当てる必要があったが、整備士は表面を磨いた後、損傷部分にアルミ合金製の継ぎ板(ダブラープレート)前後2枚、リベットで張り付けた補強しただけであり、補強材は傷部分を完全にはカバーしておらず、まリベットも打ち過ぎで、機体はそのまま使われ続け繰り返される与圧によって疲労亀裂が広がっていった。


通常の疲労亀裂はリベット穴から前後方向に徐々に広がって行くが、この事故のケースでは残された傷でも特にリベット穴間の傷を起点に外板表面側から外板内側へ向けて疲労亀裂が穴を繋ぐように進み、比較的早期に外板が長く(15.1インチ)疲労亀裂が成長して、最終的には構造全体が降伏した事で大きく破断(93インチ)に至った。
また、機体後部は喫煙席だったためタバコのヤニなどが付着し、亀裂が広がると同時に金属が腐食されていった{{要出典|date=2018年9月}}。しかしプレートをかぶせていたことにより外部の目視点検では亀裂が広がっていることがわからなかった。

補強材が当該部の大半を覆っていた事で外部の目視点検では亀裂の存在が分からなかった。また、外板を貫通した亀裂のみが内部から見えるので、内部からの目視点検でも発見は困難だった<nowiki><ref>『航空技術』2018年6月号、54-58頁</ref></nowiki>。


機体は何度かの飛行には耐えたが、611便として飛行中に限界に達し、亀裂が機体後部を一周して脱落し、爆発的な減圧が発生したために主翼や機首が分裂してばらばらになり、海面に激突した。
機体は何度かの飛行には耐えたが、611便として飛行中に限界に達し、亀裂が機体後部を一周して脱落し、爆発的な減圧が発生したために主翼や機首が分裂してばらばらになり、海面に激突した。

2018年9月27日 (木) 12:48時点における版

チャイナエアライン 611便
中華航空の塗装が施された同型機(B747-209B)
なおこの機体は2008年にボゴタで墜落した。
出来事の概要
日付 2002年5月25日
概要 胴体後部の修理ミスによる空中分解
現場 中華民国の旗 中華民国台湾澎湖諸島の北東約18Kmの海上
乗客数 206
乗員数 19
負傷者数 0
死者数 225(全員)
生存者数 0
機種 ボーイング747-200B
運用者 中華民国の旗 チャイナエアライン
機体記号 B-18255
テンプレートを表示
B-18255の座席表。1-空席、2-犠牲者座席(遺体は回収されず)、3-犠牲者座席(遺体回収)、4-調理室、5-床面、6-洗面所、7-階段

チャイナエアライン611便空中分解事故(チャイナエアライン611びんくうちゅうぶんかいじこ)とは、2002年5月25日中正国際空港(現台湾桃園国際空港)から香港国際空港へ向かっていたチャイナエアラインボーイング747-200B(機体記号B-18255)が台湾海峡上空を巡航中に空中分解し海上に墜落した航空事故である。

事故原因は機体スキン(外皮)の不完全な修理のために起きた金属疲労により破壊が生じたというものであった。

事故当日のチャイナエアライン611便

同型機のボーイング747-209B(画像は貨物機なので正確にはボーイング747-209BSF)

事故の経過

当日、611便は台湾の中正国際空港のターミナルビルを午後2時50分に出発し、午後3時7分(以下現地時間;香港も同一)に離陸した。目的地の香港への到着予定時刻は午後4時28分であった。午後3時16分、611便は航空管制から高度35,000フィート (11,000 m)へ上昇するよう指示をうけ、同機は35,000フィートを維持する旨の応答をした。これが611便からの最後の通信となった。

611便はそれまで順調に飛行しており、異常の兆候はなかった。後に解析されたコックピットボイスレコーダーには、コックピット・クルーが鼻歌を歌うのが記録されていたほどだった。しかし午後3時28分、レーダーに映っていた611便の機影は大きく4つに分かれ、突然消失した。この時機体が空中分解したものと見られる。午後3時31分頃、611便は台湾の西方約50kmにある澎湖諸島北東約18Km付近[要出典]の台湾海峡の海域に墜落した。

午後6時10分、捜索隊によって機体の残骸の主要部分が澎湖県馬公市の北方の海域で発見された。また事故機の飛行ルート下にあり、墜落現場から約100km離れた台湾島中部の彰化県秀水郷下崙村では、乗客の持ち物とみられる名刺や航空券、そして機内誌などの物品が次々と落下してきており、住民によって回収されていた。機体の残骸は広範囲に落下していた。

この事故で乗員19名、乗客206名のあわせて225名全員が死亡した。

チャイナエアラインは当事故以降何度かトラブルを起こしているが、乗客乗員が死亡した事故は発生していない[いつまで?]

事故調査

捜索隊は犠牲者のうち162名の遺体と機体の85パーセントに相当する残骸を回収したが、いずれにも爆発の痕跡も焼けた跡もなかったため、空中分解したものと断定された。そこで調査を担当する飛航安全調査委員会(最高責任者:Kay Yong)は、協力機関であるNTSB(アメリカ国家運輸安全委員会・主任調査官:John Delisi)に、類似案件の一つであるトランスワールド航空800便墜落事故の調査資料の提供を依頼した。当初はTWA800便と類似点(暑い日に、老朽化した747型機が、上昇中に空中分解した)が多かった事から、同じ原因が疑われた。原因箇所特定の際にもTWA800便と同じ手法を採用した。

事故機について

事故機のB-18255は、1979年8月2日にチャイナエアラインで新造機として就航(当初の機体記号はB-1866)してから22年8ヶ月が経過しており、総飛行時間は64,000時間を超えた経年機(老朽機)であった。翌月にタイの航空会社オリエント・タイ航空に145万USドルで売却することが決定しており、すでにチャイナエアラインの運行から外れていた。しかし、当日は同便に使用予定だった機材が急遽別の路線に転用されたため、売却整備中の事故機を臨時で使用することになった。事故機はこの611便の後、折り返しの台北行きがチャイナエアラインでの最後のフライトとなる予定だった。なお事故後にオリエント・タイ航空はチャイナエアラインと締結していた一切の機体売買契約をキャンセルしている。

事故原因

回収されたダブラープレートと付着したヤニ

飛航安全調査委員会NTSB2002年12月25日、機体後部の残骸から金属疲労の痕跡を発見したと発表した。事故機となったB-18255は以前起きた事故の修理が不完全であったため、最終的に機体後部の金属疲労によって巡航飛行中に空中分解したものと判明した。

事故機は1980年2月7日に台北発香港啓徳空港行き009便(Dynasty 009)として、香港啓徳空港に着陸する際、機体後部を地上に接触する尻もち事故を起こしていた。事故機は当日中に与圧システムを作動させないまま台北へ回送して仮修理を施した後、翌2月8日から一旦運航に復帰し、5月23日から5月28日にかけて恒久的修理が行われた。その際に、ボーイング社の構造修理マニュアルに従わない不完全な方法で修理が行われ、整備記録ではなく航空記録において「胴体外板の修理は、ボーイング構造修理マニュアルの53-30-09の図1に従って実施した」とだけ記されていた。

事故機の破片を分析した結果、本来であれば傷のある外板をすべて交換するか、または傷を完全に除去して補強材を当てる必要があったが、整備士は表面を磨いた後、損傷部分にアルミ合金製の継ぎ板(ダブラープレート)を前後に2枚、リベットで張り付けた補強しただけであり、補強材は傷部分を完全にはカバーしておらず、またリベットも打ち過ぎで、機体はそのまま使われ続け繰り返される与圧によって疲労亀裂が広がっていった。

通常の疲労亀裂はリベット穴から前後方向に徐々に広がって行くが、この事故のケースでは残された傷でも特にリベット穴間の傷を起点に外板表面側から外板内側へ向けて疲労亀裂が穴を繋ぐように進み、比較的早期に外板が長く(15.1インチ)疲労亀裂が成長して、最終的には構造全体が降伏した事で大きく破断(93インチ)に至った。

補強材が当該部の大半を覆っていた事で外部の目視点検では亀裂の存在が分からなかった。また、外板を貫通した亀裂のみが内部から見えるので、内部からの目視点検でも発見は困難だった<ref>『航空技術』2018年6月号、54-58頁</ref>。

機体は何度かの飛行には耐えたが、611便として飛行中に限界に達し、亀裂が機体後部を一周して脱落し、爆発的な減圧が発生したために主翼や機首が分裂してばらばらになり、海面に激突した。

類似事故

チャイナエアラインでは、事故の約31年前の1971年に825便(シュド・カラベル)が同じ地域で空中分解を起こしている。同事件について航空当局は機上に仕掛けられた爆発物による航空テロの疑いが強いとしたが、犠牲者の遺体が発見されず遺留品もほとんど回収されなかったため、この事故とは違って事件の背景は不明である(詳細は中華航空825便爆破事件を参照)。

映像化

関連項目

外部リンク