「藤原宇合」の版間の差分
官歴セクションの追加、経歴セクション推敲、出典補記 |
|||
1行目: | 1行目: | ||
[[File:Fujiwara no Umakai.jpg|thumb|220px|藤原宇合 『前賢故実』より]] |
[[File:Fujiwara no Umakai.jpg|thumb|220px|藤原宇合 『前賢故実』より]] |
||
'''藤原 宇合'''(ふじわら の うまかい、[[持統天皇]]8年([[694年]]) - [[天平]]9年[[8月5日 (旧暦)|8月5日]]([[737年]][[9月3日]]))は、[[奈良時代]]の[[公卿]]。初名は'''馬養'''。[[右大臣]]・[[藤原不比等]]の三男。[[藤原式家]]の祖。[[官位]]は[[正三位]]・[[参議]]。[[勲等 |
'''藤原 宇合'''(ふじわら の うまかい、[[持統天皇]]8年([[694年]]) - [[天平]]9年[[8月5日 (旧暦)|8月5日]]([[737年]][[9月3日]]))は、[[奈良時代]]の[[公卿]]。初名は'''馬養'''。[[右大臣]]・[[藤原不比等]]の三男。[[藤原式家]]の祖。[[官位]]は[[正三位]]・[[参議]]。[[勲等]]は勲二等。 |
||
== |
== 経歴 == |
||
[[霊亀]]2年([[716年]])8月[[遣唐使 |
[[霊亀]]2年([[716年]])8月に第9次[[遣唐使]]の使節が任命されるが、馬養は遣唐副使に任ぜられ(遣唐押使は[[多治比県守]])、まもなく[[正六位|正六位下]]から二階昇進して[[従五位|従五位下]]に[[叙爵]]する。霊亀3年([[717年]])6月~7月ごろ入唐し、10月に[[長安]]に到着する。[[養老]]2年([[718年]])10月に遣唐使節一行は[[九州]]に帰着し、翌養老3年([[719年]])正月に復命を果たす。宇合は遣唐副使の功により[[正五位|正五位下]]から正五位上に昇叙された。なお、遣唐使節としての入唐を通じて、'''馬養'''から'''宇合'''に[[改名]]している。 |
||
同年7月の[[按察使]]設置時に、[[常陸国司|常陸守]]として[[安房国|安房]]・[[上総国|上総]]・[[下総国|下総]]3国の[[按察使]]に任ぜられる。養老4年([[720年]])8月に父の[[右大臣]]・[[藤原不比等]]が薨じると、翌養老5年([[721年]])正月にその子息である[[藤原四兄弟]]はそれぞれ大幅な加叙を受けるが、宇合は四階進んで[[正四位|正四位上]]に叙せられる。 |
|||
[[神亀]]元年([[724年]])4月[[式部省|式部卿]]の官職にあったが、[[持節大将軍]]に任命され出兵、[[蝦夷]]の反乱を平定し11月帰還。この功により翌年[[位階]][[勲等]]を進められ[[従三位]][[勲等|勲二等]]となる。神亀3年([[726年]])[[式部省|式部卿]]のまま知造難波宮事に任ぜられ後期[[難波宮]]造営の責任者となる。この後[[天平]]元年([[729年]])の[[長屋王]]の変の時も[[式部省|式部卿]]として対応。天平4年([[732年]])には、[[参議]]・式部卿として[[西海道]][[節度使]]となる。この時の詩が『[[懐風藻]]』にあり、[[高橋虫麻呂]]の見送る歌が『[[万葉集]]』に残る。なお[[宝亀]]11年([[780年]])に宇合の時の警固式を用いるようにとの命令が出ている。天平6年([[734年]])[[正三位]]。 |
|||
[[神亀]]元年([[724年]])4月に[[式部省|式部卿]]の[[官職]]にあったが、持節大将軍に任命され海道の蝦夷を征討するために遠征し、11月に帰還<ref>『続日本紀』神亀元年11月29日条</ref>。この功により翌神亀2年([[725年]])正月に[[従三位]]・[[勲等|勲二等]]の[[叙位]]・[[叙勲]]を受け、[[公卿]]に列する。 |
|||
⚫ | |||
その後も長く式部卿を務める一方で、神亀3年([[726年]])[[造宮省|知造難波宮事]]に任ぜられ、後期[[難波宮]]造営の責任者を兼ねる。神亀6年([[729年]])の[[長屋王の変]]に際しては、[[長屋王]]の[[謀反]]に関して[[密告]]が行われると、直ちに宇合は[[六衛府]]の兵士を率いて長屋王邸を包囲するなど、軍事面で主要な役割を果たした<ref>『続日本紀』天平元年2月10日条</ref>。なお、変での活躍にも拘わらず、既に[[藤原氏]]から2名([[藤原武智麻呂|武智麻呂]]・[[藤原房前|房前]])の議政官を出していたこともあり、この時点での宇合の[[参議]]昇進は見送られている。 |
|||
[[天平]]3年([[732年]])8月に諸[[官人]]の推薦により、6名もの大量の参議抜擢が行われ、宇合は弟の[[藤原麻呂|麻呂]]とともに参議に昇進。[[藤原四兄弟]]が全員議政官となり、藤原四子政権が確立された。同年11月に[[畿内]]に惣管、[[五畿七道|諸道]]に[[鎮撫使]]が設置されると、畿内副惣管に任ぜられる(畿内大惣管は[[新田部親王]])。天平4年([[732年]])[[西海道]][[節度使]]に任ぜられ、九州に赴任する。この時に宇合が作成した[[漢詩]]が『[[懐風藻]]』にあり、[[高橋虫麻呂]]の見送る和歌が『[[万葉集]]』に残る。天平6年([[734年]])[[正三位]]に至る。 |
|||
⚫ | |||
== 官歴 == |
|||
『[[続日本紀]]』による。 |
|||
*時期不詳:[[正六位|正六位下]] |
|||
*[[霊亀]]2年([[716年]]) 8月20日:[[遣唐使|遣唐副使]]。8月26日:[[従五位|従五位下]](越階) |
|||
*時期不詳:[[正五位|正五位下]] |
|||
*[[養老]]3年([[719年]]) 正月13日:正五位上。日付不詳:[[常陸国司|常陸国守]]。7月13日:[[安房国|安房]][[上総国|上総]][[下総国|下総]][[按察使]] |
|||
*養老5年([[721年]]) 正月5日:[[正四位|正四位上]](越階) |
|||
*[[神亀]]元年([[724年]]) 4月7日:持節大将軍 |
|||
*神亀2年([[725年]]) 閏正月22日:[[従三位]]、[[勲等|勲二等]] |
|||
*時期不詳:[[式部省|式部卿]] |
|||
*神亀3年([[726年]]) 10月26日:[[造宮省|知造難波宮事]] |
|||
*[[天平]]3年([[730年]]) 8月11日:[[参議]]。11月22日:畿内副惣管 |
|||
*天平4年([[732年]]) 8月17日:[[西海道]][[節度使]] |
|||
*天平6年([[734年]]) 正月17日:[[正三位]] |
|||
*時期不詳:[[大宰帥]] |
|||
== 系譜 == |
== 系譜 == |
||
30行目: | 52行目: | ||
** 女子:[[藤原掃子]] - [[藤原綱継]]母? |
** 女子:[[藤原掃子]] - [[藤原綱継]]母? |
||
== |
== 脚注 == |
||
⚫ | |||
* [[藤原氏]] |
|||
* [[藤原四兄弟]] |
|||
* [[藤原氏の人物一覧]] |
|||
⚫ | |||
== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
||
*[[宇治谷孟]]『続日本紀 (上)』[[講談社]]〈[[講談社学術文庫]]〉、1992年 |
|||
*『尊卑分脈 第二篇』[[吉川弘文館]]、1987年 |
|||
* 金井清一「高橋虫麻呂と藤原宇合」(『国文学』23巻5号、[[1978年]])。 |
* 金井清一「高橋虫麻呂と藤原宇合」(『国文学』23巻5号、[[1978年]])。 |
||
* 金井清一「藤原宇合年齢考」(『万葉詩史の論』、[[笠間書院]]、[[1984年]])。 |
* 金井清一「藤原宇合年齢考」(『万葉詩史の論』、[[笠間書院]]、[[1984年]])。 |
||
43行目: | 64行目: | ||
* 木本好信『藤原四子』([[ミネルヴァ書房]]、[[2013年]])。 |
* 木本好信『藤原四子』([[ミネルヴァ書房]]、[[2013年]])。 |
||
== |
==関連項目== |
||
⚫ | |||
⚫ | |||
{{Japanese-history-stub}} |
|||
{{デフォルトソート:ふしわら の うまかい}} |
{{デフォルトソート:ふしわら の うまかい}} |
||
[[Category:藤原式家|*うまかい]] |
[[Category:藤原式家|*うまかい]] |
2017年2月5日 (日) 02:17時点における版
藤原 宇合(ふじわら の うまかい、持統天皇8年(694年) - 天平9年8月5日(737年9月3日))は、奈良時代の公卿。初名は馬養。右大臣・藤原不比等の三男。藤原式家の祖。官位は正三位・参議。勲等は勲二等。
経歴
霊亀2年(716年)8月に第9次遣唐使の使節が任命されるが、馬養は遣唐副使に任ぜられ(遣唐押使は多治比県守)、まもなく正六位下から二階昇進して従五位下に叙爵する。霊亀3年(717年)6月~7月ごろ入唐し、10月に長安に到着する。養老2年(718年)10月に遣唐使節一行は九州に帰着し、翌養老3年(719年)正月に復命を果たす。宇合は遣唐副使の功により正五位下から正五位上に昇叙された。なお、遣唐使節としての入唐を通じて、馬養から宇合に改名している。
同年7月の按察使設置時に、常陸守として安房・上総・下総3国の按察使に任ぜられる。養老4年(720年)8月に父の右大臣・藤原不比等が薨じると、翌養老5年(721年)正月にその子息である藤原四兄弟はそれぞれ大幅な加叙を受けるが、宇合は四階進んで正四位上に叙せられる。
神亀元年(724年)4月に式部卿の官職にあったが、持節大将軍に任命され海道の蝦夷を征討するために遠征し、11月に帰還[1]。この功により翌神亀2年(725年)正月に従三位・勲二等の叙位・叙勲を受け、公卿に列する。
その後も長く式部卿を務める一方で、神亀3年(726年)知造難波宮事に任ぜられ、後期難波宮造営の責任者を兼ねる。神亀6年(729年)の長屋王の変に際しては、長屋王の謀反に関して密告が行われると、直ちに宇合は六衛府の兵士を率いて長屋王邸を包囲するなど、軍事面で主要な役割を果たした[2]。なお、変での活躍にも拘わらず、既に藤原氏から2名(武智麻呂・房前)の議政官を出していたこともあり、この時点での宇合の参議昇進は見送られている。
天平3年(732年)8月に諸官人の推薦により、6名もの大量の参議抜擢が行われ、宇合は弟の麻呂とともに参議に昇進。藤原四兄弟が全員議政官となり、藤原四子政権が確立された。同年11月に畿内に惣管、諸道に鎮撫使が設置されると、畿内副惣管に任ぜられる(畿内大惣管は新田部親王)。天平4年(732年)西海道節度使に任ぜられ、九州に赴任する。この時に宇合が作成した漢詩が『懐風藻』にあり、高橋虫麻呂の見送る和歌が『万葉集』に残る。天平6年(734年)正三位に至る。
天平9年(737年)平城京中を疫病が猖獗を極める中、8月5日に藤原四兄弟の最後に薨去した。享年44。最終官位は参議式部卿兼大宰帥正三位。
官歴
『続日本紀』による。
- 時期不詳:正六位下
- 霊亀2年(716年) 8月20日:遣唐副使。8月26日:従五位下(越階)
- 時期不詳:正五位下
- 養老3年(719年) 正月13日:正五位上。日付不詳:常陸国守。7月13日:安房上総下総按察使
- 養老5年(721年) 正月5日:正四位上(越階)
- 神亀元年(724年) 4月7日:持節大将軍
- 神亀2年(725年) 閏正月22日:従三位、勲二等
- 時期不詳:式部卿
- 神亀3年(726年) 10月26日:知造難波宮事
- 天平3年(730年) 8月11日:参議。11月22日:畿内副惣管
- 天平4年(732年) 8月17日:西海道節度使
- 天平6年(734年) 正月17日:正三位
- 時期不詳:大宰帥
系譜
注記のないものは『尊卑分脈』による。
- 父:藤原不比等
- 母:蘇我娼子(蘇我連子の娘)?[3]
- 妻:石上国盛[4](石上麻呂の娘)
- 妻:高橋阿禰娘(高橋笠朝臣の娘)
- 三男:藤原清成
- 妻:小治田功麿男牛養女
- 五男:藤原田麻呂(722-783)
- 妻:久米若女(久米奈保麻呂の娘?)
- 八男:藤原百川(732-779)
- 妻:佐伯家主娘(佐伯徳麻呂の娘)
- 九男:藤原蔵下麻呂(733-775)
- 生母不明
脚注
参考文献
- 宇治谷孟『続日本紀 (上)』講談社〈講談社学術文庫〉、1992年
- 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年
- 金井清一「高橋虫麻呂と藤原宇合」(『国文学』23巻5号、1978年)。
- 金井清一「藤原宇合年齢考」(『万葉詩史の論』、笠間書院、1984年)。
- 木本好信「藤原宇合」(『藤原式家官人の考察』、高科書店、1998年)。
- 利光三津夫「藤原宇合と大和長岡」(『法学研究』40巻4号、1967年)。
- 木本好信『藤原四子』(ミネルヴァ書房、2013年)。