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しかしその後は制球難もあり低迷、[[1982年]]には再び先発陣に喰い込み3勝を挙げるが、翌年以降は登板機会がなく、[[1984年]]に一度は[[打撃投手]]となる。しかし左投手が不足していたというチーム事情もあり、[[1985年]]に現役復帰し8試合に中継ぎとして登板、同年限りで引退した。[[2003年]]より[[大阪市|大阪]]・[[十三 (大阪府)|十三]]で焼き鳥屋「本陣」を経営している。


== 詳細情報 ==
== 詳細情報 ==

2016年8月4日 (木) 03:54時点における版

益山 性旭
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府
生年月日 (1954-08-26) 1954年8月26日(69歳)
身長
体重
182 cm
73 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1976年 ドラフト1位
初出場 1977年6月8日
最終出場 1985年10月24日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

益山 性旭(ますやま せいきょく、1954年8月26日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手投手)。

来歴・人物

大阪福島商在学中、1972年のドラフト会議大洋ホエールズから4位指名されるものの、これを拒否して帝京大学に進学。ドラフト会議では司会の伊東一雄が益山の漢字を「『性』はセックスの性」と説明し、会場が爆笑の渦に包まれた。首都大学リーグでは優勝に届かず、1974年春季リーグの2位が最高成績。リーグ通算78試合登板、29勝31敗、防御率1.65、450奪三振。

1976年のドラフト会議阪神タイガースに1位指名され入団。「首都大学リーグ屈指の左腕」というふれこみで、1977年オープン戦では王貞治を三振にとるなど期待される。8月12日には中日ドラゴンズとの対戦で初先発、同年は3勝を記録した。1978年も16試合に先発し、7月2日広島東洋カープ戦では、9回1死まであわやノーヒットノーランの投球を見せた。高橋慶彦にヒットを打たれたものの、プロ初完投勝利を果たす。しかしその後は制球難もあり低迷、1982年には再び先発陣に喰い込み3勝を挙げるが、翌年以降は登板機会がなく、1984年に一度は打撃投手となる。しかし左投手が不足していたというチーム事情もあり、1985年に現役復帰し8試合に中継ぎとして登板、同年限りで引退した。その後はより大阪十三でスナック「パウゼ堀口」を経営した後、2003年からは焼き鳥屋「本陣」を経営。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1977 阪神 28 6 0 0 0 3 3 0 -- .500 320 77.2 63 13 36 0 0 65 0 0 37 35 4.04 1.27
1978 45 16 1 0 0 1 10 0 -- .091 488 109.2 110 19 54 6 2 67 1 1 68 66 5.40 1.50
1979 34 9 0 0 0 1 5 1 -- .167 333 78.0 75 18 38 3 0 51 0 0 51 41 4.73 1.45
1980 4 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 16 3.0 5 0 1 0 0 2 0 0 4 3 9.00 2.00
1981 19 7 1 0 0 3 3 0 -- .500 213 52.0 44 4 18 1 1 30 1 0 20 17 2.94 1.19
1982 29 16 1 0 0 3 6 0 -- .333 373 85.1 90 11 35 2 2 45 3 2 47 45 4.76 1.46
1985 8 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 39 8.1 12 3 2 0 0 2 0 0 6 6 6.48 1.68
通算:7年 167 54 3 0 0 11 27 1 -- .289 1782 414.0 399 68 184 12 5 262 5 3 233 213 4.63 1.41
  • 各年度の太字はリーグ最高

背番号

  • 21 (1977年 - 1983年)
  • 95 (1984年)
  • 39 (1985年)

脚注

関連項目