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[[11月13日]]、パーペンはヒトラーとの面会を行い選挙後の「情勢について語り」あった。しかし、ヒトラーはここで多くの条件を掲げたため、合意することはなかった。さらにシュライヒャーもパーペンを無用と判断、辞職を迫った<ref name="第三帝国の興亡1 346">[[#シャイラー(第三帝国の興亡1)| シャイラー (2008)‎、p.346]].</ref>。
[[11月13日]]、パーペンはヒトラーとの面会を行い選挙後の「情勢について語り」あった。しかし、ヒトラーはここで多くの条件を掲げたため、合意することはなかった。さらにシュライヒャーもパーペンを無用と判断、辞職を迫った<ref name="第三帝国の興亡1 346">[[#シャイラー(第三帝国の興亡1)| シャイラー (2008)‎、p.346]].</ref>。


結局、[[11月17日]]にナチ党・社民党・共産党のいずれからも支持を得られないフランツ・フォン・パーペン首相は辞職した。しかし後任の首相がすぐに決まらず、[[12月3日]]までパーペンが首相代行を続けた<ref name="ヒトラー全記録205"/>。ヒンデンブルクは国会の第1党を占めるナチ党の[[アドルフ・ヒトラー]]にパーペンとの和解(=パーペン内閣の副首相就任)を求めたが、ヒトラーは首相職以外受ける気はないと拒否した。結局この後、ヒンデンブルクはシュライヒャーを首相に任命して「大統領内閣」を続けたが、ナチ党も社民党も共産党もシュライヒャーを支持せず、すぐに進退きわまった。シュライヒャーは、国会を解散して選挙日を定めずにそのまま国会を事実上停止して軍部独裁政治へ移行することを、[[1933年]][[1月23日]]に企図したが、ヒンデンブルクの反対で失敗した<ref name="ヒトラー全記録212">[[#阿部(ヒトラー全記録)| 阿部 (2001)‎、p.212]].</ref>。そしてヒンデンブルクは[[1933年]][[1月30日]]にアドルフ・ヒトラーを首相に任命することとなるのである<ref name="ヒトラー全記録213">[[#阿部(ヒトラー全記録)| 阿部 (2001)‎、p.213]].</ref>。
結局、[[11月17日]]にナチ党・社民党・共産党のいずれからも支持を得られないフランツ・フォン・パーペン首相は辞職した。しかし後任の首相がすぐに決まらず、[[12月3日]]までパーペンが首相代行を続けた<ref name="ヒトラー全記録205"/>。ヒンデンブルクは国会の第1党を占めるナチ党の[[アドルフ・ヒトラー]]にパーペンとの和解(=パーペン内閣の副首相就任)を求めたが、ヒトラーは首相職以外受ける気はないと拒否した。結局この後、ヒンデンブルクはシュライヒャーを首相に任命して「大統領内閣」を続けたが、ナチ党も社民党も共産党もシュライヒャーを支持せず、すぐに進退きわまった。シュライヒャーは、国会を解散して選挙日を定めずにそのまま国会を事実上停止して軍部独裁政治へ移行することを、[[1933年]][[1月23日]]に企図したが、ヒンデンブルクの反対で失敗した<ref name="ヒトラー全記録212">[[#阿部(ヒトラー全記録)| 阿部 (2001)‎、p.212]].</ref>。そしてヒンデンブルクは[[1933年]][[1月30日]]にアドルフ・ヒトラーを首相に任命することとなるのである<ref name="ヒトラー全記録213">[[#阿部(ヒトラー全記録)| 阿部 (2001)‎、p.213]].</ref>。首相に就任したヒトラーは、ナチ党が過半数の議席を獲得していなかったため、わずか2日後の[[2月1日]]にヒンデンブルク大統領に要請して国会を解散させた(→[[1933年3月ドイツ国会選挙]])





2015年1月28日 (水) 15:17時点における版

1932年11月6日のドイツ国会選挙 の投票用紙

1932年11月6日のドイツ国会選挙:Reichstagswahl vom 6. November 1932)は、1932年11月6日に行われたドイツ国会(Reichstag、ライヒスターク)の選挙である。

背景

1932年9月12日、ドイツ国会において本会議が開かれたが、ドイツ共産党によりパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領の「大統領内閣」の首班であるフランツ・フォン・パーペン首相の不信任案が提出されたために議事が進まなかった[# 1]。このため中央党は国家社会主義ドイツ労働者党(以下ナチ党)へ不信任案の否決に協力するよう求めたが、ナチ党はこれを拒否、ヒトラーは本来、共産党とは手を組む気はなかったがパーペン内閣を追い落とすためには已むを得ないと判断、共産党へ同調するよう指導した[# 2][2][3]

首相パーペン(左側で立っている人物)の抗議を余所見して聞き流す議長ゲーリング(右側で立っている人物)、1932年9月12日

このため、パーペンは不信任案の審議に入るならばヒンデンブルク大統領の許可を得ていた大統領命令による国会解散命令を使用して不信任案を拒否、国会解散へ持ち込むつもりであった。しかし、パーペンが発言を求めると議長ヘルマン・ゲーリングはこれに気づかぬふりをして不信任案の審議を進めた。そこでパーペンは怒りで顔を青白くして命令書を掲げて叫んだが結局、不信任案は賛成512票、反対42票で可決された[4][5][6][7]

パーペンは可決された後に議長席へ解散命令の書類を置いたが、ゲーリングは当初これを無視した上に不信任案が可決された内閣の構成員の署名入り書類は無効であるから受理できないとして嘲笑した[# 3]。結局、大統領主導による内閣が国民の支持を失っていることが明らかになった[8]

9月14日、パーペンはヒンデンブルクより許可を得ていた国会抜きの政権運営について閣僚らに説明を行なうためにノイデックで閣議を開いた。しかし、司法相フランツ・ギュルトナー、外相コンスタンティン・フォン・ノイラート、蔵相ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク、労働相ヒューゴ・シェッファーらがこれを拒否、農相のマグナス・フォン・ブラウン、経済相ヘルマン・ヴァルムボルトは曖昧な態度を取った[6]

さらにナチ党と中央党がヒンデンブルクを憲法違反の疑いで告訴する計画を立てていたため、パーペンは国会抜きの政権運営を断念、選挙は11月6日と決定された[9]

ヒトラーはこの解散に我れを忘れるほど有頂天であったが、ナチ党が共産党と組んだ事が選挙に良くない影響を与えるとグレゴール・シュトラッサーフリックらは考えていた[10]

選挙

選挙が公示された後、これまでの選挙などでナチ党にはと職員の疲労と財政的問題が存在した[# 4]。さらに大企業や金融資本らはパーペンが譲歩したことにより、パーペン支持の態度を表しはじめていた。そのため、フンクは以前より警告していた活動の過激化、ヒンデンブルクへの協力の拒否などにより選挙には警戒感を強めていた[11]

さらにナチ党は投票日の少し前には労働組合社会主義者が支持していないベルリン交通公社のストライキ[# 5]を共産党とともに支援したが、これにより資本家らが警戒感を強め、ナチ党への資金援助を取りやめた。そのため、投票前日までナチ党は死に物狂いの募金活動を行なわなければならなかった[# 6][13]

さらにパーペンはこの違法ストライキについて「国民全体に対する犯罪」行為であるとして激しく非難、今後、国家の治安を乱すものには断固たる態度で対処することをラジオ演説した。この混乱は選挙前日の11月5日まで収まる事はなかった[12]

1932年11月6日に投票が行われた[14]。これまで目覚ましい大躍進を続けてきたナチ党の躍進が初めて止まった。ナチ党にとっては唯一議席を後退させた選挙となった[# 7]。原因は選挙直前に起こったベルリンのゼネストにナチ党が参加して財界に危機感を持たれたせいではないかといわれるが、一方でナチ党と共同してゼネストを組織していたドイツ共産党の方は更に議席を増加させている。停滞気味の中道や穏健左派政党は更に微減したが、保守右派ドイツ国家人民党は議席を伸ばした。ナチ党も議席を減らしたとはいえ第1党を確保したことには変わりはなく、国民の極右(ナチ党)と極左(共産党)への二極分化をますます進めたに過ぎず、それまで存在した中産階級諸政党が消滅した事により、増え続ける失業者や共産党員を目の当たりにした資本家たちが支持した結果となった[# 8][16]

諸党の見解

この結果を受けた社会民主党党首ヴェルス11月10日の党委員会において「今年行なわれた選挙を通じて我々は『ヒトラーを倒せ!』を合言葉に戦った。そして5回目においてヒトラーを打ち倒す事に成功したのだ」と語った。しかし、社会民主党左派であるケムニッツ地区委員長カール・ベッヒェルは「わが党が12席失うだけで共産党はわが党を上回る議席を得る事になった。これは共産党が宣伝活動するのに有利な状況だ。もしそうなったらわが党に忠節を守ってきた同志らは国民の意思が共産党に向いているとしてわが党から去ることになるだろう」と語り、警告していた[17]

さらに共産党も同じ結論に達しており、共産党中央委員会は「革命的飛躍」が成し遂げられ、選挙において勝利したと結論付けていた。この点についてはソビエト共産党中央機関紙「プラウダ」でも同様の見解が示された[17]

しかし、「フォス新聞」の論説委員ユリウス・エルバウは異なる見解を示しており、共産党の躍進はヒトラーへの贈り物であり、共産主義の躍進におびえる人々がナチ党を支持することになるだろうと評した[18]

11月8日、パーペンは外国通信社協会において選挙結果について「選挙の結果、政府活動に対する理解が深まり、真の国民的結集が実現する事を期待する。そしてそれが実現した時には私がこれまで強調してきているように人事問題は全て解決するだろう」と述べたが、内相ガイルはこれを弱腰であるとしてパーペンを強く非難、「独裁的政治を行なうに当たり、諸政党が許容するかどうか」協議することをパーペンに求めた[18]

しかし、閣僚は一人たりともガイルを支持しなかった。さらにキング・メーカーであった国防相クルト・フォン・シュライヒャー将軍は憲法修正作業を延期して各党と協議することを提案、これが認められた[18]

選挙後

11月13日、パーペンはヒトラーとの面会を行い選挙後の「情勢について語り」あった。しかし、ヒトラーはここで多くの条件を掲げたため、合意することはなかった。さらにシュライヒャーもパーペンを無用と判断、辞職を迫った[19]

結局、11月17日にナチ党・社民党・共産党のいずれからも支持を得られないフランツ・フォン・パーペン首相は辞職した。しかし後任の首相がすぐに決まらず、12月3日までパーペンが首相代行を続けた[14]。ヒンデンブルクは国会の第1党を占めるナチ党のアドルフ・ヒトラーにパーペンとの和解(=パーペン内閣の副首相就任)を求めたが、ヒトラーは首相職以外受ける気はないと拒否した。結局この後、ヒンデンブルクはシュライヒャーを首相に任命して「大統領内閣」を続けたが、ナチ党も社民党も共産党もシュライヒャーを支持せず、すぐに進退きわまった。シュライヒャーは、国会を解散して選挙日を定めずにそのまま国会を事実上停止して軍部独裁政治へ移行することを、1933年1月23日に企図したが、ヒンデンブルクの反対で失敗した[20]。そしてヒンデンブルクは1933年1月30日にアドルフ・ヒトラーを首相に任命することとなるのである[21]。首相に就任したヒトラーは、ナチ党が過半数の議席を獲得していなかったため、わずか2日後の2月1日にヒンデンブルク大統領に要請して国会を解散させた(→1933年3月ドイツ国会選挙)。


党名 得票率 (前回比) 議席 (前回比)
国民社会主義ドイツ労働者党 (NSDAP) 33.1% -4.2% 196 -34
ドイツ社会民主党 (SPD) 20.4% -1.2% 121 -12
ドイツ共産党 (KPD) 16.9% +2.6% 100 +11
中央党 (Zentrum) 11.9% -0.5% 70 -5
ドイツ国家人民党 (DNVP) 8.5% +2.6% 52 +15
バイエルン人民党 (BVP) 3.1% -0.1% 20 -2
ドイツ人民党 (DVP) 1.9% -0.1% 11 +4
キリスト教社会運動ドイツ語版 (CSVD) 1.1% +0.1% 5 +2
ドイツ農民党 (DBP) 0.4% +/-0 3 +1
ドイツ民主党 (DDP)[# 9] 1.0% +/-0 2 -2
農業連盟 0.3% +/-0 2 +/-0
ドイツ中間層全国党 (WP) 0.3% -0.1% 1 -1
ドイツ・ハノーファー党 (DHP) 0.2% +0.1% 1 +1
諸派 0.9% +0.3% 0 -2
合計 100.0%   584 -24

注釈

  1. ^ 内閣不信任案は最優先で審議することが議会運営規則となっていた。
  2. ^ ヨゼフ・ゲッベルスは6月5日の日記で「このブルジョワ内閣は暫定的なものであり、早く手を切らなければならない。」と記しており、6月9日にパーペンと会見したヒトラーは「私は貴方を暫定的首相としてみている。私はわが党をドイツ最強の党にする努力を続ける。そうすることによって首相の座が私のものになるだろう」と語った[1]
  3. ^ ただし、これは不信任案が可決されたために無効としたことは法律上無理があり、また解散を望んでいたヒトラーの意向と対立することになるため、ゲーリングは大慌てで発言を取り消した[6]
  4. ^ ゲッベルスは日記に「何度も行なわれる選挙のために皆、神経質になり疲労し切っていた。」と記している[10]
  5. ^ 11月3日に開始され、4日には大規模な衝突が発生、死者3人、重傷者8名を出した。ゲッベルスはこのことを「労働者内におけるわが党の評判は著しく高まった」と記している[12]
  6. ^ ゲッベルスは11月1日の日記で「資金不足が慢性的で大キャンペーンを繰り広げる事ができない。我々がストライキを支援したために、ブルジョア社会の連中たちが警戒感を抱いている。さらに党の同志らも疑問を抱き始めた。」と記し、さらに11月5日の日記には「敗北を避けるために最後の攻撃、党を挙げての必死の募金活動。最後に1万ライヒスマルクを集める事ができた。これで土曜日午後に最後のキャンペーンが行なえるようになった。やれることはやりつくした。後は天命を待とう。」と記している[13]
  7. ^ さらに同じ年に行なわれザクセン州の郡議会総選挙では20%、ブレーメン市議会選挙では17%、テュービンゲン郡議会選挙では40%もの票を減らす事となった[15]
  8. ^ ある新聞はこの状況を「ドイツの有権者の大多数であるマルクス主義を受け入れることのできない人々やカトリック教徒でない人々はナチ党のみが受け入れ可能な政党であった。」と評している[16]
  9. ^ 青年ドイツ騎士団と合併して正式には「ドイツ国家党 (DStP)」と党名変更していた

参考文献

  • 林健太郎著『ワイマル共和国 ヒトラーを出現させたもの』中公新書、1963年。ISBN 4121000277 
  • 阿部良男著『ヒトラー全記録 20645日の軌跡』柏書房、2001年。ISBN 4760120580 
  • ハインツ・ヘーネ著・五十嵐智友訳『ヒトラー独裁への道 ワイマール共和国崩壊まで』朝日選書、1992年。ISBN 4022595604 
  • ロバート・ジェラテリー著・根岸隆夫訳『ヒトラーを支持したドイツ国民』みすず書房、2008年。ISBN 978-4-622-07343-7 
  • ウィリアム・L・シャイラー著・松浦伶訳『第三帝国の興亡1アドルフ・ヒトラーの台頭』東京創元社、2008年。ISBN 978-4-488-00376-0 
  • H・A・ヴィンクラー著・後藤俊明、奥田隆男、中谷毅、野田昌吾訳『自由と統一への長い道Iドイツ近現代史1789-1933年』昭和堂、2008年。ISBN 978-4-8122-0833-5 

出典

  1. ^ シャイラー (2008)、p.333.
  2. ^ ヘーネ (1992)‎、p.293.
  3. ^ シャイラー (2008)‎、pp.342-3.
  4. ^ 林 (1963)‎、p.294.
  5. ^ 阿部 (2001)‎、p.203.
  6. ^ a b c ヘーネ (1992)‎、p.294.
  7. ^ シャイラー (2008)‎、p.343.
  8. ^ シャイラー (2008)‎、pp.343-4.
  9. ^ ヘーネ (1992)‎、p.295.
  10. ^ a b シャイラー (2008)‎、p.344.
  11. ^ シャイラー (2008)‎、pp.344-5.
  12. ^ a b ヴィンクラー (2008)‎、p.518.
  13. ^ a b シャイラー (2008)‎、p.345.
  14. ^ a b 阿部 (2001)‎、p.205.
  15. ^ ヘーネ (1992)‎、p.296.
  16. ^ a b ジェラテリー (2008)、p.14.
  17. ^ a b ヴィンクラー (2008)‎、p.519.
  18. ^ a b c ヴィンクラー (2008)‎、p.520.
  19. ^ シャイラー (2008)‎、p.346.
  20. ^ 阿部 (2001)‎、p.212.
  21. ^ 阿部 (2001)‎、p.213.