「エドワード1世 (イングランド王)」の版間の差分
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2012年3月24日 (土) 03:33時点における版
エドワード1世 Edward Ⅰ | |
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イングランド王 | |
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在位 | 1272年11月17日 - 1307年7月7日 |
戴冠式 | 1274年8月19日 |
出生 |
1239年6月17日 ロンドン ウェストミンスター宮殿 |
死去 |
1307年7月7日 68歳 カンブリア ブラフ・オブ・サンズ村 |
埋葬 |
ウェストミンスター寺院 |
配偶者 |
エリナー・オブ・カスティル マーガレット・オブ・フランス |
子女 |
エリナー・オブ・イングランド ジョーン・オブ・アッコ チェスター伯アルフォンソ マーガレット・プランタジネット メアリー・プランタジネット エリザベス・オブ・ラドラン エドワード2世 ノーフォーク伯トーマス・オブ・ブラザートン ケント伯エドマンド・オブ・ウッドストック |
家名 | プランタジネット家 |
王朝 | プランタジネット朝 |
父親 | ヘンリー3世 |
母親 | エリナー・オブ・プロヴァンス |
エドワード1世(Edward I, 1239年6月17日 - 1307年7月7日)は、プランタジネット朝第5代イングランド王(在位1272年 - 1307年)。ヘンリー3世の長男。渾名は "Longshanks"(「ロングシャンクス」、「長い足」、「長脛王」、背は190cmあったから)と "Hammer of the Scots"(「ハンマー・オブ・ザ・スコッツ」、「スコットランド人への鉄槌」)であった。
生涯
1265年、父を助けて改革派の諸侯をイーブシャムの戦いで破り、国政の実権を掌握した。1272年に父王が死去した時、エドワードは第8回十字軍に遠征中でイングランドを不在にしていたが、諸侯によって国王に推戴された。
1273年に帰国して、土地保有制度改革や教会裁判権の抑制などの諸政策を次々と打ち出し、保守派と改革派の融和を図って国内を安定させた。1277年、イングランド王への忠誠を拒否したグウィネズ(ウェールズの王国)の支配者ルウェリン・アプ・グリフィズを攻撃し、1301年に長男エドワード(エドワード2世)をプリンス・オブ・ウェールズと称させた。ルウェリン・アプ・グリフィズは討ち死に、跡継ぎのダフィズ・オブ・ウェールズは首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑で処刑された。
1290年にスコットランド女王マーガレットが死去すると王位継承権者たちの争いに介入し、1292年にジョン・ベイリャルをスコットランド王位につけイングランド王に臣従させた。1296年、ジョン・ベイリャルがフランスと同盟して反旗を翻すと、ジョン・ベイリャルを逮捕。スコットランドには総督を置き、スコットランドを統治下においた。翌年にウィリアム・ウォレスを指導者とする反乱が起きた。1298年にエドワードはフォルカークの戦いでこれを破ったが、その後もウォレスはゲリラ戦により抵抗した。
さらに1294年、ガスコーニュ地方をめぐってフランスとの戦争を開始すると、以後10年間に渡ってフランスやその同盟国であったスコットランドとの抗争に明け暮れた。翌1295年、対フランス戦費調達に召集した議会は、聖職者・貴族・州および都市の代表が実状にあって構成されていたため模範議会と呼ばれる。
1303年フランスと講和するとスコットランドに再度遠征し、1305年、ウォレスを捕らえて処刑することに成功したが、最終的に反イングランド派に推されたロバート・ド・ブルースがスコットランド王に即位した。1307年に3度目のスコットランド遠征の途上病死した。
人物
エドワード1世は隣国との争いに明け暮れる生涯を送ったが、結婚生活は平和だった。
意思の強固な野心家であり、武勇に優れ、政策に妙をきわめ、計略と搾取が巧みであった。 賢王と賛えられ、イングランド史上屈指の名君とされている。またトランプのキングのモデルとも言われている。
映画『ブレイブハート』にも残虐非道な王として登場する。
妻子
- 第1王妃:エリナー・オブ・カスティル(Eleanor of Castile, 1241年 - 1290年)
- 政略結婚にもかかわらず、16人の子供(成人したのはエドワード2世ら6人)を産むほど睦ましい夫妻だった。
- 第2王妃:マーガレット・オブ・フランス(Marguerite of France, 1282年 - 1317年)
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