「ポツダム」の版間の差分

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== 歴史 ==
== 歴史 ==
ポツダムは"Poztupimi"と呼ばれる[[スラ人]]の村として[[7世紀]]に設立された可能性が高い。名前の意味は「樫の木の下」と思われる。[[993年]]に最初に文書に記述され、[[1317年]]までは小さな町として記述されていた。[[1345年]]に都市特権を得た。[[1573年]]のポツダムは、人口2000人程度の小さな市場町であった。[[三十年戦争]]によって、ポツダムは人口の半分近くを失った。
ポツダムは"Poztupimi"と呼ばれる[[スラ人]]の村として[[7世紀]]に設立された可能性が高い。名前の意味は「樫の木の下」と思われる。[[993年]]に最初に文書に記述され、[[1317年]]までは小さな町として記述されていた。[[1345年]]に都市特権を得た。[[1573年]]のポツダムは、人口2000人程度の小さな市場町であった。[[三十年戦争]]によって、ポツダムは人口の半分近くを失った。


ポツダムの命運が劇的に変わったのは、[[1660年]]に[[:en:Brandenburg-Prussia|ブランデンブルク]]の[[選帝侯]][[フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ・ヴィルヘルム]]の狩猟館として選ばれてからである。その後、[[ホーエンツォレルン家]]の宮殿が置かれるなど[[プロシア公領|プロイセン公国]]の拠点の一つとして発展した。[[1685年]]、[[フランス]]で[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]が[[ナントの勅令]]([[1598年]]に定められていた宗教寛容令)を廃止して[[ユグノー]]の迫害を図ると、プロイセンは[[:en:Edict of Potsdam|ポツダム勅令]]を発表した。これにより、ポツダムはヨーロッパ移民の中心地となった。フランスのユグノーの亡命者のほか、[[ロシア]]、[[オランダ]]、[[ボヘミア]]などから、移民がやってきた。移民をひきつけたのは、勅令によるその宗教的な自由度である。
ポツダムの命運が劇的に変わったのは、[[1660年]]に[[:en:Brandenburg-Prussia|ブランデンブルク]]の[[選帝侯]][[フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ・ヴィルヘルム]]の狩猟館として選ばれてからである。その後、[[ホーエンツォレルン家]]の宮殿が置かれるなど[[プロシア公領|プロイセン公国]]の拠点の一つとして発展した。[[1685年]]、[[フランス]]で[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]が[[ナントの勅令]]([[1598年]]に定められていた宗教寛容令)を廃止して[[ユグノー]]の迫害を図ると、プロイセンは[[:en:Edict of Potsdam|ポツダム勅令]]を発表した。これにより、ポツダムはヨーロッパ移民の中心地となった。フランスのユグノーの亡命者のほか、[[ロシア]]、[[オランダ]]、[[ボヘミア]]などから、移民がやってきた。移民をひきつけたのは、勅令によるその宗教的な自由度である。
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その後、街は[[ホーエンツォレルン家|プロシア王家]]の居住地となった。王家の壮大な建造物は、[[18世紀]]半ば、主に[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]の治世の間に建てられた。そのうちの一つが、[[庭園]]と[[ロココ様式]]の内装で有名な[[サンスーシー宮殿]]である。他には、[[:en:New Palace (Potsdam)|新宮殿]]や[[:en:Orangery Palace|オランジェリー宮殿]]がある。
その後、街は[[ホーエンツォレルン家|プロシア王家]]の居住地となった。王家の壮大な建造物は、[[18世紀]]半ば、主に[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]の治世の間に建てられた。そのうちの一つが、[[庭園]]と[[ロココ様式]]の内装で有名な[[サンスーシー宮殿]]である。他には、[[:en:New Palace (Potsdam)|新宮殿]]や[[:en:Orangery Palace|オランジェリー宮殿]]がある。
戦前には、ドイツ映画人の別荘が多く建てられた。
戦前には、ドイツ映画人の別荘が多く建てられた。
[[1945年]]、[[第二次世界大戦]]においてドイツが降伏した後、この都市の[[ツェツィーリエンホーフ宮殿]]で[[アメリカ合衆国|米]]、[[ソビエト連邦|ソ]]、[[イギリス|英]]の3首脳が集まり、ドイツの戦後処理および[[日本]]の全面降伏を要求する[[ポツダム会談]]が行われた。
[[1945年]]、[[第二次世界大戦]]においてドイツが降伏した後、この都市の[[ツェツィーリエンホーフ宮殿]]で[[アメリカ合衆国|米]]、[[ソビエト連邦|ソ]]、[[イギリス|英]]の3首脳が集まり、ドイツの戦後処理および[[大日本帝国|日本]]の全面降伏を要求する[[ポツダム会談]]が行われた。


[[ポツダム大学]]はこの町にあります
[[1991年]]に[[ポツダム大学]]が創立された


== 政治 ==
== 政治 ==

2011年12月16日 (金) 12:27時点における版

紋章 地図
基本情報
連邦州: ブランデンブルク州
郡: 郡独立市
緯度経度: 北緯52度23分45秒 東経13度03分41秒 / 北緯52.39583度 東経13.06139度 / 52.39583; 13.06139
標高: 海抜 35 m
面積: 187.27 km²
人口:

183,154人(2021年12月31日現在) [1]

人口密度: 978 人/km²
郵便番号: 14401–14482
市外局番: 0331
ナンバープレート: P
自治体コード: 12 0 54 000
行政庁舎の住所: Friedrich-Ebert-Str. 79/81
14469 Potsdam
ウェブサイト: potsdam.de
首長: ヤン・ヤーコプス (Jann Jakobs)
州内の位置
サン・スーシ宮殿

ポツダムPotsdam)はドイツ連邦共和国東北部に位置する郡独立市。ブランデンブルク州の州都である。人口は約15万人。旧東ドイツ領。東ドイツ時代は、ポツダムを県都とするポツダム県が置かれていた。

地勢・交通

ベルリンの西南近郊に位置し、ベルリンの中心街から約26kmである。ベルリンからSバーン(S-Bahn、近郊列車)で行くことができる。ハフェル川が流れ、いくつかの互いにつながった湖がある。

歴史

ポツダムは"Poztupimi"と呼ばれるスラヴ人の村として7世紀に設立された可能性が高い。名前の意味は「樫の木の下」と思われる。993年に最初に文書に記述され、1317年までは小さな町として記述されていた。1345年に都市特権を得た。1573年のポツダムは、人口2000人程度の小さな市場町であった。三十年戦争によって、ポツダムは人口の半分近くを失った。

ポツダムの命運が劇的に変わったのは、1660年ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの狩猟館として選ばれてからである。その後、ホーエンツォレルン家の宮殿が置かれるなどプロイセン公国の拠点の一つとして発展した。1685年フランスルイ14世ナントの勅令1598年に定められていた宗教寛容令)を廃止してユグノーの迫害を図ると、プロイセンはポツダム勅令を発表した。これにより、ポツダムはヨーロッパ移民の中心地となった。フランスのユグノーの亡命者のほか、ロシアオランダボヘミアなどから、移民がやってきた。移民をひきつけたのは、勅令によるその宗教的な自由度である。

その後、街はプロシア王家の居住地となった。王家の壮大な建造物は、18世紀半ば、主にフリードリヒ2世の治世の間に建てられた。そのうちの一つが、庭園ロココ様式の内装で有名なサンスーシー宮殿である。他には、新宮殿オランジェリー宮殿がある。 戦前には、ドイツ映画人の別荘が多く建てられた。 1945年第二次世界大戦においてドイツが降伏した後、この都市のツェツィーリエンホーフ宮殿の3首脳が集まり、ドイツの戦後処理および日本の全面降伏を要求するポツダム会談が行われた。

1991年ポツダム大学が創立された。

政治

姉妹都市

観光

ハーヘル川に繋がる湖

1745年プロイセン王国のフリードリヒ大王が造営した夏の離宮サンスーシ宮殿や、第二次世界大戦末期の1945年にポツダム会談が行われたツェツィーリエンホーフ宮殿などが、1990年に「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」としてユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録された。

関連

引用

  1. ^ Bevölkerungsentwicklung und Flächen der kreisfreien Städte, Landkreise und Gemeinden im Land Brandenburg 2021 (Fortgeschriebene amtliche Einwohnerzahlen, bezogen auf den aktuellen Gebietsstand)

外部リンク

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