新羅丸
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新羅丸 | |
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基本情報 | |
船種 | 貨客船 |
クラス | 高麗丸型貨客船 |
船籍 | 大日本帝国 |
所有者 |
鉄道省 運輸通信省 運輸省鉄道総局 |
運用者 |
鉄道省 運輸通信省 運輸省鉄道総局 |
建造所 | 川崎造船所 |
母港 | 東京港/東京都 |
姉妹船 | 高麗丸 |
信号符字 | MFTV→JSKD[1] |
IMO番号 | 15997(※船舶番号) |
経歴 | |
起工 | 1912年8月[1] |
進水 | 1912年11月27日[1] |
竣工 | 1913年3月14日[1] |
就航 | 1913年4月 |
最後 | 1945年5月25日触雷沈没 |
要目 | |
総トン数 | 3,107トン |
全長 | 97.5m |
幅 | 13.1m |
深さ | 9.1m[1] |
高さ |
21.64m(水面からマスト最上端まで) 16.15m(水面から煙突最上端まで) |
ボイラー | 石炭専燃缶 |
主機関 | 三連成レシプロ機関 2基[1] |
推進器 | 2軸 |
出力 | 4,676HP |
最大速力 | 16.04ノット[1] |
航海速力 | 12.5ノット |
航続距離 | 12.5ノットで2,500海里 |
旅客定員 |
一等:43名 二等:120名 三等:440名[1] |
高さは米海軍識別表[2]より(フィート表記)。 |
新羅丸(しらぎまる Shiragi maru)は鉄道省の関釜航路・青函航路の鉄道連絡船。高麗丸型の第2船である。姉妹船には高麗丸がある。
航跡
[編集]就航
[編集]関釜連絡船には、開設以来、壱岐丸と対馬丸が就航していたが、1912年に新橋 - 下関の1・2等特別急行列車、及び釜山 - 奉天の直通列車が運行開始すると、新橋から関釜航路経由で奉天へ向かうルートが完成し、利用者増加に伴う関釜航路の大型船が必要となった。
2隻の新造船(高麗型)は1912年に川崎造船所で建造が開始され、第1船の高麗丸が1913年1月、第2船の新羅丸は1913年3月に就航する。
機関が故障しても帆走できるようにマストが設置されていた。内装では壱岐丸と対馬丸で不評であった多段ベッドを廃止し、客室を畳敷きの広間にするなど、改良が行われている。
連絡船
[編集]新羅丸は1913年4月から関釜航路で運行され、1925年には無線電話が設置される。1932年3月から7月までは第一次上海事変のとき陸軍の病院船として宇品 - 上海間で使用される。
1937年に貨物専用船に改造され、1941年7月には青函航路の輸送力増強の臨時航路(本輪 - 塩釜)で就航し、1942年6月10日に正式に青函航路に転属となる。1944年3月から4月には海軍に貸与されている。それ以降は青函航路以外にも新潟 - 大泊や大湊 - 択捉島の臨時航路でも使用される。
1945年5月25日、修理を終え下関に向かう途中、関門海峡・部埼灯台沖で触雷により沈没する。
船長
[編集]- 松原善之助 鉄道院技師:1913年3月14日 -
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『官報』
外部リンク
[編集]- 「鉄道院関釜連絡船高麗丸及新羅丸客室配置図」『鉄道旅行案内』1914年(国立国会図書館デジタルコレクション)