博愛丸

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博愛丸
基本情報
船種 貨客船
蟹工船
クラス 博愛丸級貨客船
船籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
所有者 日本赤十字社
日本郵船
林兼商店
昭和工船漁業
日本合同工船
共同漁業
日本水産
日本海洋漁業統制
運用者 日本赤十字社
日本郵船
林兼商店
昭和工船漁業
日本合同工船
共同漁業
日本水産
日本海洋漁業統制
建造所 ロブニッツ造船所 (Lobnitz & Company)
母港 東京港/東京都
長崎港/長崎県
姉妹船 弘済丸
信号符字 HWDV→JOFA
IMO番号 3863(※船舶番号)
経歴
進水 1898年10月1日
竣工 1898年12月
最後 1945年6月18日被雷沈没
要目
総トン数 2,629トン
載貨重量 2,480トン
垂線間長 94.79m
型幅 11.88m
型深さ 9.02m
高さ 24.38m(水面からマスト最上端まで)
13.10m(水面から煙突最上端まで)
喫水 7.9m
ボイラー 石炭専燃缶
主機関 三連成レシプロ機関 1基
推進器 1軸
最大出力 3,078馬力
定格出力 2,100馬力(計画)
最大速力 15.42ノット
航海速力 12.7ノット
航続距離 11ノットで2,400海里
出典は基本的に『なつかしい日本の汽船』より[1]
高さは米海軍識別表[2]より(フィート表記)。
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博愛丸(はくあいまる)とは、19世紀末から20世紀半ばにかけて運航された日本の船舶である。

歴史[編集]

1898年(明治31年)12月にイギリスのロブニッツ造船所 (Lobnitz & Company) で竣工。なお同型船の弘済丸1899年に竣工した。当初から日本赤十字社が管理する病院船として建造され、平時は2隻とも日本郵船上海航路貨客船として使われた。

1900-1901年(明治33-34年)の義和団の乱では患者輸送船として使用され、1901年4月2日に海軍大臣より患者輸送船の指定が解除された[3]1904-1905年(明治37-38年)の日露戦争のときには病院船として使用され、負傷兵を朝鮮の仁川赤十字病院に運んだ[4]1914年(大正3年)には、日本赤十字が行った日本初の国際救護活動に参加している[5]

1926年(大正15年)に林兼商店(後のマルハを経て現在はマルハニチロ)に売却され、北洋漁業の蟹工船に改造され、使用された。漁業の作業中に起きたリンチや過酷な労働により死者が出ており(博愛丸事件)、このことが小林多喜二プロレタリア文学、『蟹工船』の元になっている。

その後の太平洋戦争で軍需品などを輸送中、1945年(昭和20年)6月18日、オホーツク海で米軍の潜水艦アポゴン (SS-308) の雷撃を受け沈没。39名が死亡した。

脚注[編集]

  1. ^ なつかしい日本の汽船 博愛丸”. 長澤文雄. 2023年4月19日閲覧。
  2. ^ Hakuai_Maru
  3. ^ 『官報』第5328号、明治34年4月11日。
  4. ^ 時事画報社『日露戦争時事画報』1904年。国立国会図書館デジタルコレクション。
  5. ^ 下川耿史 家庭総合研究会 編『明治・大正家庭史年表:1868-1925』河出書房新社、2000年、396頁。ISBN 4-309-22361-3 

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 船舶技術協会『船の科学』1983年8月号 第36巻第8号
  • 海人社『世界の艦船』1995年11月号 No.503
  • 海人社『世界の艦船 別冊 日本郵船船舶100年史』1984年 ISBN 4-905551-20-X
  • 日本郵船株式会社『七つの海で一世紀 日本郵船創業100周年記念船舶写真集』1985年

外部リンク[編集]