後宮淳
後宮淳(写真は中将の頃) | |
生誕 |
1884年9月28日[1][2] 日本 京都府 |
死没 | 1973年11月24日(89歳没)[1][2] |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1905年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍大将 |
除隊後 | 日本郷友連盟会長 |
墓所 | 多磨霊園 |
後宮 淳(うしろく じゅん)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。
経歴
[編集]京都府北桑田郡神吉村(南丹市八木町神吉)出身[3]。1884年(明治17年)、農業・後宮力の四男として生まれる[1]。大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1905年3月、陸軍士官学校(17期)[2]を卒業(同期に東条英機、前田利為)、翌月、歩兵少尉任官[1][4]。歩兵第38連隊付、陸士生徒隊付などを経て、1917年11月、陸軍大学校(29期)を卒業した[1][2][4]。
関東都督府付、第3師団参謀、第5師団参謀、参謀本部員(鉄道班)、欧州出張、関東軍司令部付(南満州鉄道嘱託)、第4師団参謀長などを歴任[1][4]。
1934年3月、陸軍少将に進級[1]。参謀本部第三部長を経て1935年8月に陸軍省人事局長に就任[1][2][4]。翌1936年の二・二六事件勃発を受けて、寺内寿一陸相のもと、その後の粛軍人事に当たる[要出典]。1937年3月には同軍務局長に転ずる[1][2][4]。同年7月の支那事変に当たってはいわゆる不拡大派に属したが、省内を纏めることは出来ず紛糾を招いた[要出典]。同年8月、陸軍中将に進む[1][4]。
その後は第26師団長、第4軍司令官、南支那方面軍司令官、支那派遣軍総参謀長を歴任[1][2][4]している。太平洋戦争の開戦前には悪化する一方の日米関係を憂い、日米戦争を回避しようとしアメリカが要求する日本軍の中国からの撤兵の条件について、「この際、撤兵の条件を呑むことも、大した問題ではないと考える」との意見を披歴[5]しているが、陸軍中央からは無視された。
1942年8月、陸軍大将に進む[1][2][4]。中部軍司令官を経て、1944年2月、軍事参議官兼参謀次長に就任[1][2][4]。後述のように東條英機首相兼陸相が国務と統帥の一元化を図り、参謀総長を兼任した際に、陸士同期で幼年学校以来の友である後宮を第一次長(作戦担当)に起用したものである。東條の信頼を受け参謀本部の日常業務を切り回した[要出典]。参謀次長就任時にはすでに陸軍大将であったが、この事例は陸海軍を通じてきわめて異例である[要出典]。東條首相兼陸相が新たに参謀総長を兼任した、これまた異例の時期に実現した次長二人制の中での大将次長であった(兵站担当の第二次長秦彦三郎は中将)[要出典]。
1944年7月、サイパン失陥によって倒閣運動が勢いを増すと、東條は重臣らの求めに応じ参謀総長兼任を中止して内閣の延命を図った[6]。そこで自身の替わりとして後宮に参謀総長を譲ろうとし、14日に内奏まで進むが昭和天皇に危惧され、富永恭次、服部卓四郎ら省部側近からも異論が出て、結局は梅津美治郎が参謀総長となった[7]。また東條が退陣して小磯内閣が発足する際に新陸相の候補に名前が挙がったが、小磯国昭と共に大命を受けた海相候補の米内光政が「そんな東條の身代わりみたいなのが新陸相なら僕は辞める」と言ったため幻に終わった[8]。同年3月には航空総監・航空本部長を兼ねる[1][2][4]。同年7月の東條退陣後は第3方面軍司令官となり[4]、在任中に終戦を奉天で迎えた[1][2]。ソ連軍の進攻にあたって、防衛線を朝鮮国境近くの山岳丘陵地帯まで後退するという関東軍司令部の方針に反対、自方面軍だけでも戦うことを主張していたが、十分な戦力が集まらず、司令部から説得に来た高杉参謀に、涙を呑んで総軍の方針に従うと言って、抗戦を断念した[9]。この件で、現地の居留邦人らからは、言ったことがあてにならないと見られたともいう。
1945年12月2日、連合国軍最高司令官総司令部は日本政府に対し秦と共に後宮を逮捕するよう命令(第三次逮捕者59名中の1人)[10]したが、シベリア抑留中であったため不起訴となった。1956年12月26日に復員した[1][2][4]。国内では1948年1月に公職追放の仮指定を受けた[11]。
1963年から1968年まで日本郷友連盟会長の職に在った[1]。1971年からは日本軍装研究会の初代会長を務め、在任中の1973年(昭和48年)に死去した。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章
家族
[編集]- 父:後宮力 神吉村の地主で農家[3]
- 長兄:後宮信太郎(1873-1959) 台湾で建材営造業を経営し、東邦人造繊維、台湾レンガ、高砂ビール、北投窯業、台湾製紙など多数の企業の創業社長であり、台北州協議会員、台湾総督府評議会員等の要職に選抜されるなど、日本統治時代の在台湾日系資本の要人[15]。買い取った台湾の鉱山で金を掘り当てたことから「金山王」の異名を持つ[3]。実子はなく養子に水産会社などを営んだ後宮末男と、ブラジルに渡りコーヒー地主となった後宮武雄[16]。
- 長男:後宮虎郎(外交官 駐大韓民国特命全権大使として、文世光事件の事態収拾にあたった)
- 二男:後宮二郎(陸軍少尉・48期[1] 式典での軍人勅諭奉読中に読み間違いをし、1936年12月[1]に歩兵第61聯隊内で拳銃自殺したとして、さすがに行きすぎという事で問題になり、大々的に報道された。しかし、同聯隊の先輩、大岸頼好大尉の逮捕に抗議しての自決という説もあり、現在も真相は不明である)
- 三男:後宮三郎[要出典]
親族
[編集]君の名は
[編集]終戦後に大ヒットしたNHKの連続ラジオ番組『君の名は』の主人公の姓「あとみや」は、原作者の菊田一夫が後宮家の前を通りかかった際に表札を見て、その姓の利用を思いつき、許可を得て使用したという[17]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 秦郁彦編 2005, p. 27.
- ^ a b c d e f g h i j k l 福川秀樹 2001, pp. 124–125.
- ^ a b c 歴史が眠る多磨霊園
- ^ a b c d e f g h i j k l 外山操編 1981, p. 216.
- ^ 『日本人はなぜ戦争へと向かったのか メディアと民衆・指導者編』p135
- ^ 藤井非三四 『帝国陸海軍 人事の闇』 光人社NF文庫 ISBN 978-4769832492、p239
- ^ 藤井非三四 『帝国陸海軍 人事の闇』 光人社NF文庫 ISBN 978-4769832492、p240
- ^ 阿川弘之『米内光政』新潮社〈新潮文庫〉、1982年。ISBN 4-10-111006-9。[要ページ番号]
- ^ 富田武 2020, pp. 207–208.
- ^ 梨本宮・平沼・平田ら五十九人に逮捕命令(昭和20年12月4日 毎日新聞(東京))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p341-p342 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、210頁。NDLJP:1276156。
- ^ 『官報』第3208号「叙任及辞令」1937年9月10日。
- ^ 『官報』第3912号「叙任及辞令」1940年1月24日。
- ^ 『官報』第4183号「叙任及辞令」1940年12月14日。
- ^ 日本統治時期における台湾工業化と造船業の発展-基隆ドック会社から台湾ドック会社への転換と経営の考察蕭明禮、立命館大学『社会システム研究』15号、2007年9月
- ^ 台湾実業界社編 1934, p. 51, 「9 彼の養子と子分の行状」.
- ^ 『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(37) ニッケイ新聞 2015年9月18日
参考文献
[編集]- 台湾実業界社編『金山王後宮信太郎』蓬莱書院、1934年 。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧:陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』(第2版)東京大学出版会、2005年。
- 富田武『日ソ戦争 1945年8月:棄てられた兵士と居留民』みすず書房、2020年7月17日。ISBN 978-4-622-08928-5。
- NHKスペシャル取材班編 『日本人はなぜ戦争へと向かったのか メディアと民衆・指導者編』、新潮社、2015年
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