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ヤーニス・チャクステ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヤーニス・チャクステ
Jānis Čakste


任期 1922年11月14日 – 1927年3月14日

出生 1859年9月14日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国・リエルセサヴァ
死去 (1927-03-14) 1927年3月14日(67歳没)
ラトビアの旗 ラトビア共和国リガ
政党 立憲民主党(1906年)
ラトビア農民連合(1917-1919年)
民主中央(1922-1927年)
出身校 モスクワ大学
配偶者 ユスティーネ・チャクステ
子女 5男4女
署名

ヤーニス・クリスタプス・チャクステラトビア語: Jānis Kristaps Čakste1859年9月14日 - 1927年3月14日)はラトビア政治家法曹。 1918年から1940年までのラトビア第一共和政における初代大統領を務めた[1][2][3][4][5][6]ラトビア人民評議会ラトビア語版議長(1918-1920年)、ラトビア憲法制定会議ラトビア語版議長(1920-1922年)を経て1922年に大統領となり、5年後の1927年に現職のまま死去した[1][2][3][4][5][6][7]

姓の「チャクステ」は当時、ドイツ語式に"Tschakste"と綴られていた[8][9]。また、ロシア語ではイヴァン・フリストフォロヴィチ・チャクステ(ロシア語: Иван Христофорович Чаксте)とも呼ばれ[10][11]、このころ大正時代だった日本の文献には「イワン、チヤクステ」とも記載された[12]

生涯

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若年期

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1859年9月14日(ユリウス暦9月1日)、ロシア帝国クールラント(現ラトビア西部クルゼメ)のイェルガヴァ郡[注 1]リエルセサヴァ教区に農家の子として誕生する[1][2][5][6]。アンナ小学校とイェルガヴァ・ギムナジウム[注 2]を出た後、1882年に23歳でモスクワ大学法学部に入学し、1886年に卒業した[1][2][3][5][6]。大学ではクールラント・ゼムガレン公国について研究する傍ら、クリシュヤーニス・ヴァルデマールスらと交流し[1][3]、1883年10月31日にラトビア学生協会(現在の学術団体「アウストルムス」)を設立[1][2][3]。1885年に文芸雑誌「アウストルムス」の創刊に携わった[1][3]

大学卒業後は1886年にクールラント検察庁の秘書官となったが、官僚的な体制を嫌ってすぐに退職し、イェルガヴァで弁護士として生活する[1][2][4][5]。1887年にイェルガヴァ・ラトビア協会の会長となり、イェルガヴァ農業アカデミー委員会、クルゼメ養蜂家協会やラトビア赤十字社において活動した[1][2][6]。1889年より、クルゼメで最も普及した新聞「テーヴィヤ」(祖国)の編集者をしていた[1][2][4][6]。 1891年、ユスティーネ・ヴェセレと結婚し、のちに9人の子が誕生する[6]。 1895年にはイェルガヴァで開催された第4回ラトビア歌謡音楽祭の主催者の一人となり、1905年にラトビア自治計画に参加した[1][2][5]

国政進出

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1906年のチャクステ

1906年、チャクステはロシア帝国議会下院(ドゥーマ)の立憲民主党議員に選出されたが、皇帝ニコライ2世により議会が解散させられると他の166人の議員とともにヴィボルグ宣言に署名し、議会の招集まで税金を納めず、徴兵を拒否することを市民に訴えた[1][2][3][4][5][6]。 チャクステはこれにより政治犯として逮捕され、1908年夏に3か月間の獄中生活を送ることとなった[1][2][3][5][6]

1914年、第一次世界大戦が勃発するとドイツ軍の侵攻から逃れるため、チャクステは妻子と共に1915年にエストニアタルトゥ(ドルパト)に移る[1][2][3]。 戦争により40万人以上の難民が生じたため[6]ラトビア難民支援中央委員会の設立に参加し、副委員長となる[1][2][3][4][6]。 1917年3月、ヴィリス・オラウス委員長の死後、後継の委員長となった[1][2][3][5][6]。 チャクステはラトビア独立運動の一環としてアメリカ合衆国へ向かうことになったが、その途中スウェーデンストックホルムに滞在している際、ロシア2月革命が起こったことにより、渡米を中止しストックホルムに留まることになる[1][2][3]。 チャクステはそこで、„Die Letten und ihre Latwija: Eine lettische Stimme“[注 3]ラトビア人と彼らのラトビア ― ラトビアの声)というドイツ語パンフレットを著した[1][2][3][4][5]。同年4月にクールラント県知事に選出され、10月にロシアのカザンに移住した。同月、ペトログラードにおいて設立されたラトビア暫定国民評議会(LPNP)では外交部門を担当した[15]

1918年11月18日、チャクステはラトビア人民評議会ラトビア語版の議長に選出された[1][2][3][4][5][6]。1919年のパリ講和会議ではラトビア代表団を率いた[1][2][3][4][5][6][9][15][16]。また、1920年から1921年までラトビア大学国際法教授を務めた[1][2]。1924年9月28日には、大学から名誉博士号を授与されている[8]

初代大統領

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チャクステとフィンランドのレランデル大統領。 後方右側にフィンランドのエーミル・ネストル・セタラ外相

ラトビア共和国憲法が発効した1922年11月7日に、 第1回ラトビア議会サエイマ)が開かれ、一週間後の11月14日に大統領選挙が実施されることとなった[1][2][3]。 定数100人の議会において実施された投票において、チャクステは賛成92、棄権6で当選した[1][2][3][4][5][6]。 3年後の1925年11月6日に実施された大統領選挙では第2回投票にて初代首相カールリス・ウルマニスを60対31で下し再選された[1][2][3][4][5][6][注 4]

ラトビア大統領としての1922年11月14日から1927年3月14日までの4年4か月の任期中、内政においては議会が提出した402の法案を承認し、3つの法案については再審議を求めた[1][2][3][5]。 また、549人の囚人に対して恩赦を与えた[1][2][5]。外交においては、1925年2月23日から25日までエストニアタリンを訪問し国老ユリ・ヤークソンと会談した[1][2][3]。1926年5月15日から16日まではフィンランドヘルシンキを訪問し、ラウリ・クリスティアン・レランデル大統領と会談した[1][2][3]

1927年3月14日、67歳で死去[1][2]。 遺体はリガ森林墓地に埋葬された[1][2]。3月27日にサエイマ議長のパウルス・カルニンシュが大統領代行となり[18]、4月8日に議会において元人民評議会副議長でリガ市長のグスタウス・ゼムガルスが賛成73票、反対23票で新大統領に選出された[19]

1998年11月7日、スイスユングフラウヨッホに創設された「Hall of Freedom」(自由の殿堂)において、ウィンストン・チャーチルウッドロウ・ウィルソンなど100人の政治家・人権活動家の中にチャクステの名も記されている[3][13][17][20][21][注 5]

2022年9月14日、ラトビア共和国憲法制定100周年を記念し、チャクステの誕生日に「大統領広場」がイェルガヴァに設置された[22]

家系

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ヤーニス・チャクステ記念博物館「アウチ」(チャクステ一族が暮らした家)

ヤーニス・チャクステの父はクリシュヤーニス・チャクステ(1827年4月14日 - 1908年3月15日[23])、母はカロリーネ・マティルデ・チャクステ(旧姓ナルノフスカ、1835年2月1日 - 1902年3月19日[24])といった[3]。祖父の世代はジルニス[注 7]という姓を名乗っていた[3]

妻のユスティーネ・チャクステ(旧姓ヴェセレ、1870年11月28日 - 1954年4月28日)はリガの商人の娘でヤーニスとは1890年に出会い、翌年6月に結婚し、夫妻には5人の息子(ヴィスヴァルディス、ミンタウツ、ヤーニス・ゲディミンス、リンゴルツ、コンスタンティーンス)と4人の娘(ヤニーナ、アルドナ、マイガ、ダイラ)が誕生した[25][26]

5人の息子のうち、次男ミンタウツ・フリードリフス・アンドレイスラトビア最高裁判所判事[27] 、五男コンスタンティーンス・イェーカプス・マルギェルス第二次世界大戦期にラトビア中央評議会議長を務めた[28]。 四男のリンゴルツ・パウルス・ミケリスは医師となり、イェルガヴァ市立病院の感染症科長を務めた[29]

コンスタンティーンスの娘で、ヤーニスの孫であるアンナ・ユスティーネ・チャクステ=ロリンズはラトビア大学財団において教育に関する慈善活動に携わる[30][31]。曾孫のクリスティーネ・チャクステも、曾祖父の功績を現代へ伝える活動をおこなっている[32][33]

脚注

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注釈

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  1. ^ 都市のイェルガヴァとは異なる。
  2. ^ ラトビア大統領府の英語版の資料ではグラマースクールとされているが[2]、ラトビア語版ではギムナジウムとなっている[1]。生徒の多くはドイツ貴族の息子(バルト・ドイツ人)で[6]、校内ではラトビア語の使用が禁じられていた[13]。チャクステはここでロシア語ラテン語フランス語ヴァイオリンを習得した[6][13]。また、クルゼメの作家・ジャーナリストであるマーテル・ユリス(ユリス・マーテルス)からの影響を受けた[1]
  3. ^ 題名をカタカナ表記するならば「ディー・レテン・ウント・イーレ・ラトヴィヤ ― アイネ・レティシェ・シュティメ」となる。国名のラトヴィヤ(ラトビア)の綴りは Latwija[3][4] の他、Latvija[5](ラトビア語表記)や Latvia[1][2](英語表記)となっている資料もある。なお、ドイツ語ではラトビアのことを通常は Latwija ではなく Lettland(レトラント)と言う。同書はラトビア語では"Latvieši un viņu Latvija: kāda latvieša balss"という題で出版されている[14]
  4. ^ この選挙では民主中央のチャクステ、ラトビア農民連合(LZS)のウルマニスの他に、 ラトビア社会民主労働者党(LSDSP)の議員で詩人のライニス(ヤーニス・プリエクシャーンス)が立候補していた[1][2]。 第1回投票ではライニス33票、ウルマニス32票に続き、チャクステは29票で第3位だったが、その後LSDSPはライニスの立候補を取り下げたため、第2回投票でチャクステの逆転勝利となった[1][2]。 チャクステは1919年までLZSに所属していたが、ウルマニスの独裁制に従えず離脱した[1]。 ライニスは1920年の憲法制定会議議長選挙にも立候補していたが、48票対83票でチャクステに敗れている[17]。 1927年にチャクステが死去した際にはライニスは教育大臣を務めていた[6]
  5. ^ チャクステはラトビア人の中でただ一人「Hall of Freedom」に選ばれた人物である。バルト三国の中では他にエストニア元首相のヤーン・トニッソンが選出されている。日本人からは濱口雄幸市川房枝が選ばれており、前者は"Juko Hamaguchi"(ユーコー・ハマグチ)という名で紹介されている。
  6. ^ 左から順にヤーニス・ヴツァーンス(ラトビア国会議員)、ヴィクトラス・プランツキエティスリトアニア国会議長)、トマシュ・グロツキポーランド上院議長)、イナーラ・ムールニエツェラトビア国会議長)、ヘン・プッルアースエストニア国会議長)、アードゥ・ムスト(エストニア国会議員)、ヴァレリウス・シムリク(リトアニア国会議員)。
  7. ^ ラトビア語でジルニス(zirnis)はエンドウを表す。チャクステ(čakste)とは、モズ属の鳥類を表す語でもある。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj Jānis Čakste(2021年3月12日更新) - ラトビア大統領府 (ラトビア語)
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af Jānis Čakste(2021年3月16日更新) - ラトビア大統領府 (英語)
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y Jānis Čakste(2022年10月3日更新) - ラトビア国家百科事典 (ラトビア語)
  4. ^ a b c d e f g h i j k l Jānis Čakste - ブリタニカ百科事典 (英語)
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q Jānis Čakste - サエイマ (ラトビア語)
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s Prezidents Jānis Čakste - Barikadopēdija (ラトビア語)
  7. ^ Jānis Čakste — pirmais Latvijas Republikas prezidents(1999年9月14日) - Latvijas Vēstnesis (ラトビア語)
  8. ^ a b Pirmā latvijas republikas prezidenta Jāņa Čakstes dāvinājums - ラトビア大学 (ラトビア語)
  9. ^ a b Papers related to the Foreign Relations, 1919, Russia - アメリカ合衆国国務省Office of the Historian (英語)
  10. ^ Чаксте Иван Христофорович - ロシア国立歴史博物館 (ロシア語)
  11. ^ Умер Янис ЧАКСТЕ Рижский Краеведческий Сайт(2009年3月11日) - Riga CV (ロシア語)
  12. ^ 日露協会報告 第14号 (ラトビアの現状)10頁日露協会編、1923年) - 国立国会図書館デジタルコレクション
  13. ^ a b c Jānis Čakste - Latvijas valsts simbolsサエイマ公開のアニメーション動画) - Youtube (ラトビア語)
  14. ^ Latvieši un viņu Latvija: kāda latvieša balss - Jānis Roze (ラトビア語)
  15. ^ a b 志摩園子「〔研究ノート〕ラトヴィヤという国家の成立 ─ラトヴィヤ最初の外相メイローヴィッツ(Z. A. Meierovics)の活動から─」『学苑』第940号、昭和女子大学近代文化研究所、2019年2月、62-70頁、CRID 1050282677909206656ISSN 1348-0103NAID 120006602347 
  16. ^ 志摩園子「ソ連崩壊後の歴史の見直し : ラトヴィヤ共和国成立史を例にして」『ロシア・東欧学会年報』第1999巻第28号、ロシア・東欧学会、1999年、212-219頁、CRID 1390001205383021568doi:10.5823/jarees1993.1999.212ISSN 2185-4645 
  17. ^ a b Jānis Čakste - Latvijas pirmais prezidents(2017年9月14日) - Latvijas Radio 2 (ラトビア語)
  18. ^ Pauls Kalniņš as the Acting President of Latvia (1944–1945)(2021年3月19日) - ラトビア大統領府 (英語)
  19. ^ Gustavs Zemgals(2021年3月16日) - ラトビア大統領府 (英語)
  20. ^ Hall of Freedom - 自由主義インターナショナル (英語)
  21. ^ #Switzerland`s Jungfraujoch, known as the Top of Europe, is home to the Hall of Freedom. This…エギルス・レヴィッツ大統領のツイート、2019年9月15日) (英語)
  22. ^ 'Presidential oaks' planted in Jelgava(2022年9月15日) - ラトビア公共放送 (英語)
  23. ^ Krišjānis Čakste - Timenote (ラトビア語)
  24. ^ Karolīne Matilde Čakste - Timenote (ラトビア語)
  25. ^ Justīne Čakste - Timenote (ラトビア語)
  26. ^ Latvijas pirmā lēdija — prezidenta Jāņa Čakstes sieva Justīne(2019年8月6日) - Santa.lv (ラトビア語)
  27. ^ Mintauts Čakste - ラトビア共和国最高裁判所 (英語)
  28. ^ Par Konstantīnu Čaksti mūsu piemiņā(2002年10月15日) - Latvijas Vēstnesis (ラトビア語)
  29. ^ Ringolds Čakste - Timenote (ラトビア語)
  30. ^ The gene of kindness: Anna J. Čakste-Rollins(2020年5月11日) - ラトビア大学財団 (英語)
  31. ^ Anna J. Čakste-Rollins and Kāvusis Foundation of Education and Culture - ラトビア大学財団 (英語)
  32. ^ Latvija izvēlas demokrātiju! Stāsta Kristīne Čaksteサエイマ公開の実写動画) - YouTube (ラトビア語)
  33. ^ Ināra Mūrniece: democracy was the method Jānis Čakste chose for the development of Latvia (2019年9月19日) - サエイマ (英語)

参考文献

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関連項目

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