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ジンギスカン (グループ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジンギスカン
Dschinghis Khan
別名 Genghis Khan (別表記)
出身地 西ドイツの旗 西ドイツミュンヘン
ジャンル ディスコポップ・ミュージック
活動期間 1979年 - 1985年2005年2007年 -
レーベル Jupiter Records
公式サイト https://siegelring.eu/dschinghis-khan/
メンバー #ザ・レガシー・オブ・ジンギスカン節を参照
旧メンバー スティーヴ・ベンダー
ルイス・ヘンドリック・ポトギター
レスリー・マンドキ
ヴォルフガング・ハイヒェル
エディナ・ポップ
ヘンリエッテ・シュトローベル

ジンギスカンドイツ語: Dschinghis Khan)は、1979年から1985年にかけて世界的に活躍した西ドイツ音楽グループ。メンバーはルイス、エディナ、ヘンリエッテ、スティーヴ、ヴォルフガング、レスリーの男女6人組で発足したが、1981年にスティーヴが脱退したため以降は5人で活動した。1985年に解散されたが、一部メンバーを入れ替えて2005年に再結成。

グループ名はモンゴル建国の英雄チンギス・カン」のドイツ語表記『Dschinghis Khan(ジンギス・カン)』に由来している。英語圏でもドイツ語表記のグループ名のまま受け入れられているが、日本では契約の関係から英語表記に由来する『Genghis Khan』が用いられている。

歴史[編集]

1979-1985年[編集]

ジンギスカンは西ドイツの音楽プロデューサー作曲家ラルフ・ジーゲルドイツ語版Ralph Siegel)と、作詞家ベルント・マイヌンガーBernd Meinunger)によって企画された[1]。2人は1978年ボニーMがリリースしてヒットしたグリゴリー・ラスプーチンモチーフとした楽曲『怪僧ラスプーチンドイツ語版Rasputin)』にインスパイアを受け、ジンギスカンをモチーフとした楽曲『ジンギスカン』を制作[1]。この楽曲をヨーロッパポップ・ミュージック登竜門でもある「ユーロビジョン・ソング・コンテスト」にエントリーし、予選の6週間前にこの楽曲を歌うグループのメンバー集めを始めた[1]。発足時のメンバーは、立ち位置の右から順に

  • スティーヴ・ベンダー(西ドイツ出身、当時37歳)
  • エディナ・ポップ(ハンガリー出身、当時38歳)
  • レスリー・マンドキ(ハンガリー出身、当時26歳)
  • ルイス・ヘンドリック・ポトギター(南アフリカ共和国出身、当時28歳)
  • ヘンリエッテ・ハイヒェル(オランダ出身、当時25歳)
  • ヴォルフガング・ハイヒェル(東ドイツ出身、当時28歳)

メンバーはオーディションで選ばれたが、唯一プロダンサーとして活躍していたルイスはスカウトによって事前に決まっており、ルイスが歌わないことも最初から織り込み済みであった[1]。まずルイス、スティーヴ、エディナ、レスリーの4人が決まったが、ジーゲルはコンセプトに合う追加の男女1人ずつを欲しており、当時ジーゲルのギタリストであったビリー・ラングから友人のヴォルフガングを紹介され、ヴォルフガングは妻のヘンリエッテの加入を提案した。

振り付けはハンネス・ヴィンクラーHannes Winkler)によって行われたが、ルイスとヘンリエッテはダンスの素養があったが、他のメンバー4人、とりわけスティーヴは腰痛の持病があったことから振付の練習には大苦戦していた。[要出典]なお、当時夫婦であったヴォルフガングとヘンリエッテ以外は全くの初対面であったため、お互いのことをよく知るため練習の合間を縫っては全員で買い物や散歩に出掛けていた。[要出典]特にスティーヴ、エディナ、レスリーの3人は出身地や年齢という共通点から気が合っていたともされ、よく行動をともにしていた[1]

1979年のユーロビジョン・ソング・コンテストでは、2月の西ドイツ予選でグランプリを獲得する[1]。3月にイスラエルで行われた本選では4位に終わるが、コンテストの様子は欧州18ヵ国に生中継されており、クセになる楽曲や風変わりなビジュアルのインパクトで話題となり、正式にレコードデビューすると西ドイツで50万枚を売り上げ、4週間連続でチャート1位を記録する大ヒットとなる[1]。当時は世界的にディスコブームが到来していたこともあり、『ジンギスカン』は世界的なヒットとなる[1]。また、同年のドイツ映画『サニーボーイ・アンド・シュガーベイビードイツ語版Sunnyboy und Sugarbaby)』にジンキスカンとして出演しパフォーマンスもしている。同年のバンビ賞では最優秀音楽グループ部門を受賞。日本では1979年8月6日付から5週連続1位を獲得し、オーストラリア・スウェーデンなど20か国以上でも賞を受賞した。

『ジンギスカン』に続く第2弾シングルとして、1980年モスクワオリンピックに向けて『めざせモスクワMoskau)』をリリース[2]。その後も『ハッチ大作戦Hadschi Halef Omar)』『栄光のローマRom)』『哀愁のピストレーロPistolero)』『ローレライLoreley)』とヒットは続いたが、1982年以後はヒット曲に恵まれず、1982年の『アルプスのドゥーデルモーザーDer Dudelmoser)』では曲調がフォーク調になるなど試行錯誤もされた。1985年の『めざせメキシコMexico)』を最後に解散するが、1981年にスティーヴは脱退しており、『哀愁のピストレーロ』以降は5人組として活動していた。

1986-2004年[編集]

1986年にはレスリーの呼びかけに応じて短期間「ジンギスカンファミリー」として活動した。メンバーはオリジナルメンバーのレスリー(ドラム)、ヘンリエッテ(ボーカル)、ルイス(キーボード)の3人に、ユルゲン、クリスティン、マイクの3人が加わった。ジンギスカンファミリーはジーゲルとマイヌンガーにより楽曲『Wir gehör'n zusammen』でユーロビジョン・ソング・コンテストの国内予選に出場し2位となった。同年にはレスリーらによる楽曲『Can't Stop Now』もリリースされた。

解散後は、先に脱退していたスティーヴは音楽プロデューサー、エディナはソロのポップ歌手、レスリーは音楽プロデューサー兼ロックミュージシャンとして活動するなど別々の道を歩み、ヘンリエッテはヴォルフガングと離婚しシュトローベル姓へと戻った。ルイスは南アフリカに帰国していたが、後天性免疫不全症候群(エイズ)を患い合併症により1994年11月12日に死去。ルイスの死をメンバーが知るのは、後述する2005年の再結成のためにスティーヴがメンバー探しを進めていた時であった。

1995年にはスティーヴ、エディナ、レスリーの3人が来日して『なるほど!ザ・ワールド』に出演し、『ジンギスカン』『めざせモスクワ』を歌唱した。なお、日本公演を行っていなかったため、この時が初来日であった。

2005-2022年[編集]

2005年頃、日本では『めざせモスクワ』が空耳ソングとして注目され、「もすかう」のタイトルで当時を知らない世代にも広く知られることとなった[2]

本家[編集]

2005年再結成時
左からヴォルフガング、ヘンリエッテ、シュテファン、エディナ、スティーヴ、ダニエル、エプル
2009年のライヴ
左がヘンリエッテ、右がエディナ、背後はザ・レガシーのメンバー
2018年5月31日モスクワにて
ヘンリエッテとエディナの左がジーゲル、右がハインツ、後列はザ・レガシー

2005年、スティーヴの尽力によって20年ぶりにジンキスカンが再結成されるが、当時レスリーはジンギスカンでの活動に興味を失っていたともされ不参加であった。オリジナルメンバーのスティーヴ、エディナ、ヘンリエッテ、ヴォルフガングのほか

の3人が加わり、シュテファンは故人となっていたルイスの代役を務めた。

復活コンサートが12月17日モスクワオリンピックアリーナで行われるが、1度きりの予定であった復活が成功したことを受けてコンサートを企画したハインツ・グロスドイツ語版がグループのマネージャーとなって活動を続けることとなった。2006年7月15日からダンスグループ「ザ・レガシー・オブ・ジンギスカン(The Legacy of Dschinghis Khan)」(以下「ザ・レガシー」)とともに活動することが宣伝され、ウェブサイト「dschinghis-khan.de」がグループによって管理されることとなる。

なお、復活コンサート時にはスティーヴは既に末期肺がんに侵されており、メンバーも周知の上での再結成であった。闘病の末、スティーヴは2006年5月7日に死去した。2007年に発売されたアルバムに収録された『Wie Feuer im Wind』はルイスとスティーヴに捧げられた楽曲である。

2006年7月15日にはオリジナルメンバーの3人(エディナ、ヘンリエッテ、ヴォルフガング)はモンゴルウランバートルでコンサートを開催した。その際に初公開となったザ・レガシーは「プリンス・イゲイ・カン(Prince Igei KHan)」「エルトゥヤ・カン(Eltuya Khan)」といった芸名のみで紹介されたが、イゲイを演じるクラウス・クプライトはショーの振付師兼監督も務めている。2007年春にはカザフスタンロシアでコンサートを行い、5月のアルバム『7 Leben』の発売とともにドイツへと戻った。この際の作曲家はジーゲルではなかったが、作詞家は引き続きマイヌンガーが務めた。

2014年12月にヴォルフガングは芸術性の違いを理由に本家を脱退して、一時は後述するシュテファンの「ジンギスカン」へと合流することとなる。

2016年には新たなウェブサイト「dschinghiskhan.world」が作成され、エディナ、ヘンリエッテともにザ・レガシーのメンバーが掲載される。

2018年3月25日にはジーゲルと再度長期契約を締結[3]。これ以降エディナ、ヘンリエッテとともに、ザ・レガシーのクラウス、ヨハネス、アンジェリカ、レンの4人が「ジンギスカン」として登場するようになる。同年のFIFAワールドカップロシア大会に向けて新たな『Moskau』がリリースされ、ドイツ語版『Moskau Moskau』の制作はジーゲルのプロデュースによりエディナ、ヘンリエッテもボーカルを提供した。この際、ヴォルフガングがリリースを阻止しようとしたとされており、これに対してジーゲルはロゴやバンド名の使用に関する訴訟を起こし、2021年7月にミュンヘン地方裁判所はジーゲル側に有利な判決を下してジーゲル側に商標権を認めた。

シュテファンの「ジンギスカン」[編集]

シュテファンの「ジンギスカン」(2019年)
左から2人目がシュテファン、中央がヴォルフガング

2005年の復活コンサートの直後、2006年1月にシュテファンはマネジメントとの意見の相違を理由として契約破棄となり脱退する。シュテファンはエプルとともにジンギスカンのカバーバンド「a'con」を開始し、2007年にはバンド名を「Khaan」や「Rocking Son」(あるいはRocking Son of Dschinghis Khan)と名乗るようになり、3月にアルバム『The Hits Of Dschinghis Khan』をリリースした。このバンドには後にダニエルも加入している。なお、このバンドはロシア語圏ではコサックダンスを意味する「カザチョーク(Kazachock)」と名乗った。

シュテファンは2010年に会社「Rocking Son Ltd」を設立したが、2016年3月に「Dschinghis Khan Music Ltd」へと変更しており、2021年6月には「Dschinghis Khan Music SL」も登録していた。2016年3月からはウェブサイト「dschinghiskhan.com」をシュテファンの会社が管理しており、2017年から2024年まではこのURLが公式サイトとみなされていた。

本家を脱退したヴォルフガングは、2018年4月6日に楽曲『We Love Football』をリリースした後にシュテファンと合流し、本家と別の「ジンギスカン」を名乗って活動を開始した。そのため、FIFAワールドカップロシア大会の際のプログラムには「ジンギスカン」の名前で2つのグループが記載されていた。シュテファン・ヴォルフガングの「ジンギスカン」は2019年・2020年に新曲をリリースするが、2020年には重大な意見の相違が生じていたとしており、前述のジーゲルとの裁判で敗訴すると関係を解消している。

その後、シュテファンは別のジンギスカンのコピーバンドを結成して活動を続けており、ヴォルフガングはまた別の「ジンギスカン(Chinggis Khan)」名義のバンドで活動している。

2023年-[編集]

2023年時点のザ・レガシー
後列中央がクラウス、左がアンジェリカ、右がセリーナ、前列左からレン、ミッシェル、マルコ

新型コロナウイルス感染症パンデミックにより一時的に活動を停止していたが、ジーゲルが率いる「ジンキスカン」は2023年から活動を再開する。エディナとヘンリエッテはともに一線を退いており、ザ・レガシーが主体となって公演を行っている。メンバーは以下の通り。

  • クラウス・クプライト(プリンス・イゲイ・カン)
  • アンジェリカ・エルラッヒャー(エルトゥヤ・カン)
  • レン・ヴィラット・フェトノイ(ヤッサ・カン)
  • マルコ・マティアス(バトウ・カン)
  • セリーナ・コール(ズリ・カン)
  • ミッシェル・ターナー(ミヒャエル・T・カン)

メンバー[編集]

オリジナルメンバー[編集]

スティーヴ・ベンダー / Steve Bender1942年11月2日 - 2006年5月7日(63歳没))
旧西ドイツマインツ出身。身長171cm。本名は「カール=ハインツ・ベンダー(Karl-Heinz Bender)」。生年は1946年としているものもあるが1942年が正しい[要出典]
ジンギスカン結成以前に数々のバンド経験があり、ジャケット撮影でスキンヘッドかつらをふざけてかぶり、その姿を見たジーゲルが気に入ってジンギスカン加入が決定した[1]。そのためジンギスカン在籍中はスキンヘッドを求められ、当時は1日に2回髪を剃っていたとも伝えられるが、最初にスキンヘッドの自分の姿を鏡で見たときは恐怖から4週間家に引きこもったというエピソードもある[1]
ジンギスカンを1981年に脱退した後は音楽プロデューサーとなるが、ソロアーティストとしても19枚のシングルを発表した。2004年夏に[要出典]がんが発覚し余命宣告を受けるが、それを隠してジンギスカン再結成に奔走し、成し遂げたあと2006年5月7日に死去した。晩年はミュンヘンに移り住んでおり、妻との間には娘(メラニー・ベンダードイツ語版)が1人いた。
ルイス・ヘンドリック・ポトギター / Louis Hendrik Potgieter1951年4月4日 - 1994年11月12日(43歳没))
南アフリカプレトリア出身のドイツ系ブール人[要出典]。「パトリック・ベイリー(Patrick Bailey)」の別名でも知られる。名前はドイツ語読みに近い「ルイ」と読まれることも多い。
ルイスはヨハネスブルグでグラフィックアートを学んだあと、1970年代の初めにソロダンサーとしてウルム劇場ドイツ語版にやってきた。1975年にミュンヘンのゲルトナープラッツ劇場ドイツ語版に移り、1978年にドラマ『デリックドイツ語版』の51話にディスコダンサー兼殺人被害者として出演。1979年にジーゲルによってジンギスカンのメンバーとしてスカウトされた。
ジンギスカン解散後は短期間「ジンギスカンファミリー」として活動した後、南アフリカへと戻ってヨハネスブルグでホテルの支配人として働いた。1994年11月12日、ポートエリザベスにて後天性免疫不全症候群(エイズ)による合併症で死去。
ヴォルフガング・ハイヒェル / Wolfgang Heichel1950年11月4日 - )
旧東ドイツ出身。身長188cm。
マイセンの生まれだが、ヴォルフガングが3歳の時に西ベルリン、16歳の時にメルズンゲンへと家族で移り住んだ。8歳から13歳までピアノのレッスンを受け、独学でギターも学んでおり、学生時代からバンドを組んでいた。高校を卒業すると美術教師になるためにカッセル芸術大学ドイツ語版で学ぶが、グループに所属するために中退してスイスへと移り美容師を志す。スイスで歯科助手をしていたヘンリエッテと出会い、1976年4月9日に結婚し1977年にミュンヘンに移った。ミュンヘンでは音楽活動を続けながら歯科学を学ぶが、物理の単位を落としてしまい中退した。1979年に友人のビリー・ラング経由でジーゲルと出会いジンギスカンに加入、追加の女性メンバーを求めていたジーゲルにヘンリエッテの加入を提案する。
ジンギスカン解散後はジーゲルがプロデュースする「That's Life」で活動するが、1986年のユーロビジョン・ソング・コンテスト予選で最下位となり解散。その後は作曲家、プロデューサーといった裏方に転身しピーター・プライスなどをプロデュースした。2005年の再結成後はしばらくジンギスカンのメンバーとして活動するが2014年に脱退、前述の通り一時はシュテファンとともに本家と別の「ジンギスカン」を名乗った。
レスリー・マンドキ / Leslie Mandoki1953年1月7日 - )
ハンガリーのブダペスト出身。身長174cm。ハンガリー名は「ラースロー・マーンドキ(László Mándoki)」。
リスト・フェレンツ音楽大学で学んでいたが、1975年に[共産主義]]政権の学生運動弾圧から逃れるためにガーボル・チュポーハンガリー語版らとともにカラヴァンケントンネルドイツ語版を徒歩で抜け、オーストリアを経由してドイツのミュンヘンへと渡る。ミュンヘンのスタジオミュージシャンとしてドラムを演奏していたが、ジンギスカンに加入するまで目立った活動はしていなかった。印象的な容姿と歌唱力の高さからジンギスカンへの加入が決定し、加入後は「ワイルドハンガリアン」として親しまれた。[要出典]ジンギスカン在籍中の1982年にソロデビューし、解散後は音楽プロデューサー兼ロックミュージシャンとして活動した。
2005年の再結成には、当時議員を志していたために広報活動と見なされる危険性を考え[要出典]、存命しているメンバーでは唯一参加を見合わせた。
エディナ・ポップ / Edina Pop1941年2月4日 - )
ハンガリーブダペスト出身(のちハンガリー系ドイツ人)。身長170cm。本名は「マリカ・ケーシュマールキ(Marika Késmárky)」。名前は「イダイナ」と読まれることもある。
ブダペストの高校を卒業してホテル・コンサート・テレビなどで演奏した後、1969年にドイツに渡ってプロの歌手として活動するようになった。1971年にギュンター・ストールドイツ語版と結婚するが、1977年に死別。1972年に楽曲「Meine Liebe will ich dir geben」でユーロビジョン・ソング・コンテストに出場して国内予選で6位であった。
ジンギスカン解散後はソロ活動を再開するが、以前のような成功を収めることはできなかった。
ヘンリエッテ・パウリーネ・シュトローベル(ハイヒェル) / Henriette Pauline Strobel-Heichel1953年11月13日 - )
オランダアムステルダム出身。身長171cm。ジンギスカン発足時はヴォルフガングと結婚していたためハイヒェル姓であったが、後に離婚したためシュトローベル姓へと戻って活動している。
歯科医の父を持ち、自身もアムステルフェーンの女学校を卒業後歯科助手として働いた。その他、マヌカン美容師バレエフィギュアスケートの個人レッスンを受けていた。1976年にヴォルフガンクと結婚し、ともにジンギスカンへのメンバーとなる。
ジンギスカン解散後、1986年にヴォルフガングと離婚。友人とともにスペインマヨルカ島でファッション関係の仕事を始めた。[要出典]

ジンギスカンファミリー[編集]

1985年にジンギスカンが解散した後、ヘンリエッテ、レスリー、ルイスに以下の3人を加えて「ジンギスカンファミリー(Dschinghis Khan Family)」として1986年から1988年まで活動した。

  • ユルゲン・グーンホルツ / Jürgen Gronholz
  • クリスティン・ザーゲント=ブラント / Christin Sargent-Brandt
  • マイク・トゥール / Mike Toole

再結成時のメンバー[編集]

2005年の再結成時は、ルイスとレスリー以外のオリジナルメンバーに以下の3人を加えて2006年まで活動した。3人はスティーヴの事務所に所属していたダンサーであったが、シュテファンは前述のトラブルにより脱退してソロプロジェクトを開始し、ダニエルとエプルについても合流したためジンギスカンへの参加はごく短期間のみとなっている。

  • シュテファン・トラック / Stefan Track - ルイスの代役を務めた。
  • ダニエル・ケスリンク / Daniel Käsling - エゲデイ・カン(Ögödei Khan)として。
  • エプル・カーヤ / Ebru Kaya - エルトゥヤ・カン(Eltuya Khan)として。

ザ・レガシー・オブ・ジンギスカン[編集]

2007年以降に追加となったメンバーは、公式サイトでは『ザ・レガシー・オブ・ジンギスカン(The Legacy Of Dschinghis Khan)』または『ザ・レガシー(The Legacy)』と呼ばれているダンサー集団である。本名ではなく芸名で出演しており、2023年の活動再開後は以下のザ・レガシーのメンバーが「ジンギスカン」として活動している。

  • クラウス・クプライト / Claus Kupreit - 2007年から現在まで。プリンス・イゲイ・カン(Prince Igei KHan)役。
  • アンジェリカ・エルラッヒャー / Angelika Erlacher - 2016年から現在まで。エルトゥヤ・カン(Eltuya Khan)役。
  • レン・ヴィラット・フェトノイ / Läm Virat Phetnoi - 2012年から現在まで。ヤッサ・カン(Yassa Khan)役。
  • マルコ・マティアス / Marco Matias - 2023年から現在まで。バトウ・カン(Batou Khan)役。
  • セリーナ・コール / Selina Khol - 2023年から現在まで。ズリ・カン(Zuri Khan)役。
  • ミッシェル・ターナー / Michel Turner - 2023年から現在まで。ミヒャエル・T・カン(Michael T. Khan)役。
過去のザ・レガシーメンバー
役名 名前 期間
エゲデイ・カン
Ögödei Khan
ベンヤミン・ショーベル / Benjamin Schobel 2007年から2011年まで。
ヨハネス・クプライト / Johannes Kupreit 2011年から2020年9月に亡くなるまで。
エルトゥヤ・カン
Eltuya Khan
コリナ・グンツェル / Corinna Günzel 2007年から2014年まで。
ヤッサ・カン
Yassa Khan
シュテファン・ゾーター / Stefan Sauter 2007年から2009年まで。
ヤスガン・カン
Yesugan Khan
アンジェリカ・ニンバッハ / Angelika Nimbach 2007年から2008年まで。
オーラ・カン
Ohla Khan
エヴィ・ヴァイガンド / Evi Weigand 2007年から2014年まで。
キャッシュ・カン
Cash Khan
アッティラ・マリオ・ディアロ / Attila Mario Diallo 2007年から2014年まで。
ぺルケ・カン
Bärke Khan
ヤン・グロースフェルト / Jan Großfeld 2019年から2020年まで。

ディスコグラフィ[編集]

原語タイトル以外の邦題があるものついては、原語タイトルに【 】で付記する。

アルバム[編集]

スタジオアルバム[編集]

タイトル 説明 チャート最高順位
GER FIN JPN
Dschinghis Khan 1979年8月発売
収録曲
A面
  1. Moskau【めざせモスクワ
  2. Komm doch heim【家に帰って】
  3. Samurai
  4. Rocking Son Of Dschinghis Khan
  5. Pass auf, der Drache kommt【ディスコ・ドラゴン】
B面
  1. Dschinghis Khan
  2. Israel, Israel【イスラエル】
  3. China Boy
  4. Sahara【砂漠の国サハラ】
  5. Puszta
  6. Der Verräter【密告者のテーマ】
8 28 53
ROM[注 1] 1980年9月発売
収録曲
A面
  1. Rom【栄光のローマ】
  2. Madagaskar【さらばマダガスカル】
  3. Kaspar Hauser
  4. Mann und Frau【男と女】
  5. Käpt'n Nemo
  6. Die Fremden【宇宙からのメッセージ】
  7. Sierra Nevada
B面
  1. Machu Picchu【インカ帝国】
  2. Kontiki【コンチキ号の冒険】
  3. Tiger, Tiger【女豹のように】
  4. Moskau
  5. Hadschi Halef Omar【ハッチ大作戦】
  6. Der Verräter
  7. Dschinghis Khan
5 - -
Viva 1980年発売
上記「ROM」からからボーナストラックを除いたもの
- - -
Wir sitzen alle im selben Boot
【めざせ世界制覇】[注 2]
1981年10月発売
収録曲
A面
  1. Wir sitzen alle im selben Boot【世界はひとつ】
  2. Pistolero【哀愁のピストレーロ】
  3. Windjammer
  4. Die Fremdenlegion Armee der Verlorenen Seelen【外人部隊】
  5. Michael【こげよ、マイケル】
B面
  1. Loreley
  2. What Shall We Do with the Drunken Sailor【酔いどれ水兵】
  3. Goobye Hawaii
  4. Aladin【英雄アラジン】
  5. We Love You
52 - -
Helden, Schurken & der Dudelmoser 1982年発売 - - -
Corrida 1983年発売 - - -
7 Leben 2007年5月11日発売 - - -
Here We Go 2020年12月11日発売 - - -

コンピレーションアルバム[編集]

タイトル 説明 チャート最高順位
JPN
Greatest Hits 1980年10月14日発売 -
Golden Prize 1980年6月21日発売 31
Die grossen Erfolge 1981年発売 -
Starportrait 1985年発売 -
Golden Best 1988年4月10日発売 -
Best of Best 1994年6月25日発売 -
Huh Hah Dschinghis Khan – Ihre grössten Erfolge 1993年4月26日発売 -
The History of Dschinghis Khan 1999年発売 -
Non-Stop Best Hits 2001年2月21日発売 -
Star Collection 2002年1月31日発売 -
The Jubilee Album 2004年9月27日発売 -
Best Of 2005年12月16日発売 -
The Best 2009年9月16日発売 -
Die grossen Hits 2012年発売 -
Moskau – Das Neue Best Of Album 2018年4月13日 -

シングル[編集]

タイトル チャート最高順位
GER AUS AUT BEL DEN JPN NL NZ SA SWI
Dschinghis Khan 1979 1 - 8 20 1 - - - - 3
Genghis Khan(英語版) 18 86 - - - 12 - 33 - -
Moskau【めざせモスクワ 3 - 16 - 7 35 38 - - 11
Rocking Sun Of Dschinghis Khan(英語版) - - - - - - - - - -
Moscow(英語版) - 1 - - - - - - - -
Hadschi Halef Omar【ハッチ大作戦】 7 - - - - 63 - - - -
Samurai(日本限定) 1980 - - - - - 73 - - - -
Rom【栄光のローマ】 12 - 19 - - - - - - -
Rome(英語版) - - - - - - - - 14 -
Machu Picchu(日本限定)【インカ帝国】[注 1] - - - - - 84 - - - -
Pistolero【哀愁のピストレーロ】 1981 15 - - - 10 - - - - -
Pistolero(英語版) - - - - - - - - - -
Loreley[注 2] 6 - - - - - - - - 11
Loreley(英語版) - - - - - - - - - -
Wir sitzen alle im selben Boot【世界はひとつ】 44 - - - - - - - - -
What Shall We Do with the Drunken Sailor【酔いどれ水兵】 - - - - - - - - - -
Klabautermann【妖精クラバウターマン】 1982 37 - - - - - - - - -
Kaboutertjes(ドイツ語版、オランダ・ベルギー限定) - - - 13 - - 23 - - -
Der Dudelmoser【アルプスのドゥーデルモーザー】 46 - - - - - - - - -
Himalaja【前人未到の地ヒマラヤ】 1983 - - - - - - - - - -
Olé, Olé【闘牛士の死にオーレ!】 - - - - - - - - - -
Corrida 1984 - - - - - - - - - -
Mexico【めざせメキシコ】 1985 - - - - - - - - - -
Give Me a Sign 1986 - - - - - - - - - -
Wir gehör'n zusammen
(ジンギスカンファミリー名義)
- - - - - - - - - -
Can't Stop Now
(ジンギスカンファミリー名義)
- - - - - - - - - -
Huh Hah Dschinghis Khan 1993 - - - - - - - - - -
The Story of Dschinghis Khan 1999 - - - - - - - - - -
Moskau '99 - - - - - - - - - -
The Story of Dschinghis Khan Part II - - - - - - - - - -
Dschinghis Khan Tartar Mix(日本限定)
(ジンギスカン×Berryz工房名義)
2008 - - - - - 35 - - - -
We Love Football 2018 - - - - - - - - - -
Moskau Moskau - - - - - - - - - -
Die Strassen von Paris 2019 - - - - - - - - - -
Istanbul 2020 - - - - - - - - - -
Helena 2023 - - - - - - - - - -

脚注[編集]

編注
  1. ^ a b 本作までは6人体制。
  2. ^ a b 日本では最後のリリース。
出典
  1. ^ a b c d e f g h i j ディスコの定番曲、ジンギスカンが歌う「ジンギスカン」一度聴いたら忘れない!”. Re:minder (2022年4月10日). 2024年7月2日閲覧。
  2. ^ a b 『マイアヒ』の次は『もすかう』”. オールアバウト (2005年9月25日). 2024年7月2日閲覧。
  3. ^ Dschinghis Khan zu Hause bei Jupiter Records”. Dschinghis Khan公式サイト. 2024年7月2日閲覧。

外部リンク[編集]

先代
Ireen Sheer
ユーロビジョン・ソング・コンテスト・ドイツ代表
1979
次代
カーチャ・エプシュタイン