DUKW

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
DUKW
DUKW - Flickr - Joost J. Bakker IJmuiden (1).jpg
基礎データ
全長 9.45m
全幅 2.5m
全高 2.47m
重量 6.5t
乗員数 2名
装甲・武装
機動力
速度 80km/h
整地速度 80km/h
不整地速度 50km/h
エンジン GMC 6-cylinder 269 cid
91.5hp
行動距離 354km
テンプレートを表示

DUKWは、GM社(以下、GM)によって開発された、アメリカ水陸両用車である。 不格好で重々しい動きのDUKWは人目を引く華やかな活躍とは無縁だった。

この種の水陸両用車としては、独力でイギリス海峡を横断することが可能な程の高い耐航性を持ち、ノルマンディー上陸作戦硫黄島への上陸作戦などで活躍し連合軍を勝利に導いた。陸上はもちろん、どんな水上でも走ることができた。

川を渡ったり、港で荷物を運搬したり、外海に出ることも出来た。様々な物資を運び、そして兵士を運んだ。物を持ち上げ、斜面を登ることも出来た。ただ一つ実現できなかったのは、『飛ぶ』ことである。それ程欠点が無かった。だが使いこなすには技術が必要だった。

概要[編集]

水上から陸上へと上陸するDUKW

軍隊の上陸作戦は最も危険な作戦である。綿密な計画が不可欠であり、また運にも大きく左右された。第一次世界大戦、イギリス軍はトルコ、ガリポリ半島への上陸作戦を決行した。だが、結果は大惨事となってしまう。戦死者23,000人、負傷者88,000人。何の進展もなく膠着状態に陥ったイギリス軍は、9ヶ月後、ガリポリから撤退した。ガリポリでの出来事は、上陸作戦がいかに難しいかを物語っている。特に防御で固められた海岸への上陸は困難で、海から陸に上がる時が最も危険であり、たくさんの兵士をスムーズに上陸させるには、『水陸両用』の乗り物が必要だった。1930年代後半、アメリカで上陸用舟艇が開発された。しかし本当に必要だったのは、海岸に到着してもそのまま降りることなく安全な場所まで移動できる乗り物だった。だが、それを解決できる人物もいなければ、この問題に取り組もうとする切迫感もなかった。

1940年、ドイツは西ヨーロッパへの電撃戦を開始した。当初アメリカは中立政策を取っていたが、太平洋で勢力を拡大する日本軍を前についに参戦に踏み切った。イギリスとアメリカの連合軍は戦略を練り直した。ドイツに勝つためには、北アフリカ大陸とヨーロッパ大陸を攻略し、ドイツの同盟国イタリアを攻め落とす必要があった。また同時に太平洋の島々から日本軍を一掃しなければならない。これらを成功させるには『上陸作戦』が不可欠であった。あらゆる戦闘において大規模な上陸作戦が必要不可欠であると判断され、その方法が最重要課題となった。アメリカ政府は、調査研究委員会を設置し上陸作戦の効果的な方法を検討し始めた。1937年、ヨットレースアメリカズカップでレンジャー号が優勝した。このレンジャー号を設計したのがロッド・スティーブンズ(以下、ロッド)である。1942年、ロッドは調査研究委員会の要請で水陸両用車を開発することになった。ヨットの設計は水中での高速化を目指すため、洗練された流線型にすることが基本である。ところが、今回ロッドが開発することになったのは、最も遅く、最も不格好な乗り物だった。しかしこの発明がロッドの生涯で最も偉大な業績となったのである。

『トラックを水上移動させるには、小隊の兵士たちが総出で防水シートを包み込まなければならない』こうした方法が時代遅れであることをロッドは認識していた。ロッドは水上も走れるトラックを考案しようとしていた。1941年、GM社が6輪駆動の2.5tトラックを発表した。そしてそれはアメリカ軍の主要なトラックとなっていった。3分間に1台のペースでこのトラックは生産され、総生産台数は60万台にも上った。ロッドとGM社の4人のエンジニアはこのトラックを水陸両用車に改造することを考えた。1942年4月30日、作業が始まった。まずエンジンと6つの車輪に繋がるドライブトレーンをカバーする為の車体を造らなければならなかった。また、水上を走るには、すべてのベアリングを耐水性に優れたものにしなければならない。水上で操縦できる舵も前進するためのスクリューも必要だった。38日後、新しいトラックが完成した。初めて世に出る時がやってきた。この奇妙な乗り物に付けられた名前はGMのコードネーム『DUKW』だけだった。「D」は1942年設計、「U」は水陸両用「K」は前輪駆動「W」は後輪駆動を表しているが[1]、当時のGM社の命名法で「Kが全輪駆動、Wが2軸の後輪」を表すとする説もある[2]兵士達には、"ダック"(duck:アヒルの意)と呼ばれていた。そしてその名称が広がっていった。

これまで見たことも無い様なトラックに不信感を抱く兵士もいた。だが、DUKWのテスト走行が成功し不信感は払拭された。陸上でも水上でもDUKWは素晴らしい働きを見せた。慎重な検討が行われ、陸軍がDUKWを採用することになった。だか、DUKWの生産台数は2000台に制限されてしまう。軍当局自体がDUKWに興味を示さず、差し迫った上陸作戦も計画されていなかったからである。生産されたDUKWも殆どが倉庫で眠っている状態であった。水陸両用車はボートとしてもトラックとしても中途半端な妥協の産物である、と思い込む将軍もいた。戦闘が始まったら邪魔な存在になるだけだと判断されてしまったのである。戦争とは発明を生み出し新しい技術が要求される。その反面、軍部には保守的なところがある。何故なら戦争で新しい試みを行うには大きな危険が伴うからだ。実戦で働きが証明されない限り誰も真剣に取り合えない、その機会を得るのが大変難しいのだ。

ロッドは、ニューイングランドの海岸でDUKWのデモンストレーションを行いたい、と陸軍に願い出た。これがDUKWに興味を示さない軍部への最後のアピールのチャンスだった。デモンストレーションの4日前、激しい嵐によって沿岸警備隊の船が沖合で難破した。あらゆる救助が失敗に終わった後、DUKWがが海に出て乗員7人の救助に成功した。数時間後警備隊の船が沈没した。その2日後DUKWが沿岸警備隊の命を救った話が大統領フランクリン・ルーズベルトの耳に届いた。ロッドにとっては願ってもない展開となった。大統領をはじめ多くの軍関係者がDUKWを偉大な発明品と認めたのである。

海兵隊にもDUKWを広める必要があった。操作を習得するための「クワック(DUKWの愛称は「アヒル」なのでアヒルの鳴き声にちなんだ)部隊」が編成されたが、中には「duck」つまり「アヒル」という名前に混乱する兵士もいた。「海兵隊とアヒルに一体何の因果関係があるのか?」と。初めて座った兵士が驚かされること、それはたくさんのレバー、ペダル、計器盤、そして細かい指示書だった。しかし兵士にとっては難しいことではなく、車と同じでギヤをいれ、レバー動かせばよいのだ。陸上でも水上でも操作は一緒で、どこで運転するのかを意識する必要もない。だが、海の中での操縦は思った程、簡単ではなかった。ある兵士の話によると、「DUKWにありとあらゆる機材を積込み過ぎてあっという間に海の底に沈んでしまった」というエピソードもある。どんなに優秀な操縦士でも、その大変さを改めて思い知った。また、陸上の運転も簡単ではなかった。例えば道路での走行から砂地での走行に変わる際、タイヤの空気圧を低くしないと、高圧の状態では砂丘に登る時に砂にハマってしまう。だがこんな時にもDUKWには対処法があった。もしこれが小さな車だったら砂地から引き上げるにはレッカー車が必要だろう。だがDUKWの場合、自力で抜け出すことが可能だ。フックを使ってウィンチで巻き上げるのである。この方法は、一見複雑そうだが、実はごく簡単な原理で動いている。人間には出来ないこと、DUKWは簡単にやってのけた。DUKWの訓練期間は5週間だった。その期間、兵士は運転方法、ウィンチの操作、貨物の扱い方など様々なことを学んだ。

だが、未だに兵士の間ではDUKWに不信感を抱く者も少なくなく、「お払い箱」「敵のカモ」「役立たず」と陰口を叩く軍人もいた。これを払拭するためには戦場で証明する以外になかった。

DUKWの初めての実戦はシシリー島上陸作戦であった。兵士を上陸させるだけでなく、十分な量の軍需物資を運ぶ事もDUKWに求められた使命で、責任は重大だった。兵士と軍需物資を運ぶためのDUKWは900台以上用意された。1943年7月10日、上陸作戦は開始した。上陸はほぼ成功したが、戦車揚陸艦(LSD)に問題が発生した。その多くが沖合で座礁してしまったのである。夕方には天候が悪化、作戦に暗雲が立ち込めた。そこでDUKWが荒れた海の中を往復し軍需品を運んだ。天候が回復する頃、連合軍は上陸拠点を確保した。海岸に運んだ軍需物資のうちの90%は、DUKWが運んだものだった。この作戦を成功に導いたのはDUKWの働きによるものだ、と信じる士官も出てきた。上陸したDUKWは、通常の軍用トラックと同じように狭い山道の中、兵士や物資を輸送した。シシリー島での戦いを制した連合軍最高司令官アイゼンハワーは、DUKWの働きを高く評価し、アメリカ政府にこう報告した。

『水陸両用トラックDUKWは大変貴重な働きをしました。開発に携わった士官には勲章をあたえるべきです。』

最初、DUKWが軍から信用されていなかったという事実をアイゼンハワーに告げる人物は誰もいなかった。ロッド・スティーブンズの大勝利であった。「みにくいアヒルの子」が遂に名声を勝ち取ったのである。だが、DUKWにも欠点があった。まず海水と砂の害から守るため、こまめな給油と整備が必要であった。また、砂地から道路に出たらタイヤの空気圧を上げなければいけなかった。だが、この作業の手間には改善が行われた。エンジンの圧縮機から車輪のハブへパイプとバルブを使って、自動的に空気を送り込む様にしたからである。操縦機に書かれた適正値を基に空気圧を設定する。これで、空気圧の設定が迅速に行われる様になった。太平洋の島の鋭い珊瑚礁や柔らかい火山灰、硬い砂や強固な道路。DUKWに走れない場所はなかった。

1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦では、沖合の艦船海岸の間の輸送を担い、海岸に運んだ物資の40%は、DUKWが運んだものだった。その後陸上でも輸送車両として行動した。もう一つDUKWに重要な任務があった。積荷を降ろしたあと、戦闘で負傷した兵士を載せ、治療を受けさせるために病院船まで運ぶのである。ヨーロッパ上陸後も渡河作戦で活躍しており、太平洋戦争でも用いられている。DUKWが軍に認められるまで設計者ロッド・スティーブンズは長い時間、待たなければならなかった。しかし今では、保守的な司令官でさえDUKWの働きを評価した。DUKWの多様化された性能は最早、疑いのないものであり、どの戦場でもDUKWの存在は歓迎された。

第二次世界大戦後も朝鮮戦争で活躍し、フランス軍第一次インドシナ戦争でも使用している。同盟国に供与された車両には、1980年代まで使用されていたものも存在した。最終的には21,000両以上が生産されている。

余剰として払い下げられた車両は、消防組織や沿岸警備隊によって使用され、災害救助などに活躍している。民間に払い下げられて水陸両用バスなどに改造されたものも多く、今も世界各地で現役で使用されている。

構成[編集]

DUKWの機関部および駆動関連はGMC CCKW 353 トラックと共通のもので、舟型の車体に3軸6輪の足回りを備え、車体後部には水上航行用のスクリューを備えている。路上では最高速度80km/hで走行し、水上を最高速度10km/hで航行可能である。

長時間の水上航行対策用に排水ポンプ(ビルジポンプ)が装備され、また、砂浜や水際の軟弱地盤に乗り上げて走行するために、タイヤの空気圧を操縦席から任意に変化させる機構が装備されている。DUKWは、タイヤ空気圧調整装置を装備した初めての軍用車両であった。

荷台には、陸上なら兵員25名または貨物2.5t、水上なら50名の兵員または貨物5tを搭載して走行/航行する事が可能で、陸上用の2.5tトラックでは牽引して輸送するM2A1 105mm榴弾砲をそのまま荷台に搭載しての輸送が可能であった。

BAW[編集]

BAW(ZIL-485)。ポーランド軍の使用車両

DUKWは、レンドリース援助品としてソビエトにも供与されたが、ソビエトでは供与されたものを基に、エンジンBTR-152と同じZIS-123(110hp)に換装するなどしてBAW(ZIL-485)として生産され、1950年代-1962年にかけて2万両以上が生産された。BAWは、ワルシャワ条約機構軍およびソビエトの援助を受けた中東諸国などで1980年代まで使用されていた。

DUKWとの外観上の違いは、荷室部分が車体後端まで延長して設けられている点である。

民間利用[編集]

第二次世界大戦後、戦中戦後の混乱で稼働車両を大きく減らしていた日本バス事業者に400両余りのDUKWが払い下げられた。 これらはいずれもオーバーキャブボディーを架装し、1950年代頃に姿を消すまで日本全国のバス事業者で運用されていた[3]

前述のように民間に払い下げられたDUKWは、輸送車両の他に荷台部分に座席を設置し、閉鎖型のキャビンを設けるなどの改造を施されて水陸両用性能を活かした観光車両として運用されており、2006年には日本にも2両が輸入され、2007年10月19日から神戸市内で観光用に運行されている。2008年には、この車両が釧路港で臨時に運行された。

脚注[編集]

  1. ^ US Army Transportation Museum
  2. ^ Britannica Online
  3. ^ 当該バスのニュース映像

外部リンク[編集]