コンテンツにスキップ

中井捨吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。らやまはなたさかあ (会話 | 投稿記録) による 2023年6月12日 (月) 02:38個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

 中井捨吉 八段
1939年ごろ。右後ろは高島一岐代
名前 中井捨吉
生年月日 (1892-08-28) 1892年8月28日
没年月日 (1981-08-20) 1981年8月20日(88歳没)
プロ入り年月日 1925年(32歳)[注 1]
引退年月日 1952年(60歳)
棋士番号 6
出身地 大阪府高槻市
所属 棋正会
日本将棋連盟(関西)
→将棋大成会(関西)
→日本将棋連盟(関西)
師匠 木見金治郎九段
弟子 本間爽悦浦野真彦
段位 八段
棋士DB 中井捨吉
順位戦最高クラス B級
2017年8月21日現在
テンプレートを表示

中井 捨吉(なかい すてきち、1892年8月28日 - 1981年8月20日)は、将棋棋士、八段。木見金治郎九段門下。棋士番号は6。大阪府高槻市出身。

経歴

1925年四段。以降昇段を重ね、順位戦が設立された時点(1946年)では六段となっていた。

第1期順位戦は、七・六段戦(B級)に編入されていたものの、戦災により参加を断念した。翌期よりC級西組に張り出され、順位戦に参加。最高齢(当時55歳)をものともせずに、8勝4敗の好成績を修め、B級昇級に伴い七段に昇段。その後の成績は平凡なものに留まり、第5・6期(1950年度・1951年度)と連続で降級し、還暦を機に引退した。引退後は道場開設などの普及活動に尽力し、1964年にはその功績が高く評価され、八段を贈呈された。

1981年8月20日に死去。享年88。

弟子

棋士となった弟子

名前 四段昇段日 段位、主な活躍
本間爽悦 1942年1月1日 八段、タイトル挑戦1回、一般棋戦優勝3回
浦野真彦 1983年10月19日 八段
  • 本間が死去したのは1981年3月13日で、師匠の中井の5ヶ月前であった。
  • 浦野がプロ四段となったのは、中井及び本間の死去から2年以上経った1983年10月19日のことであった。

エピソード

  • 戦時中の1942年、当時大阪市北区紅梅町にあった日本将棋連盟関西本部事務所が疎開対策のため閉鎖された際、北区錦屋町の自宅を間借りさせていた。
  • 棋士番号を有する棋士の中では、金易二郎(棋士番号1)に次ぐ高齢である。

主な成績

在籍クラス

順位戦・竜王戦の在籍クラスの年別一覧
開始
年度
(出典)順位戦
出典[3]
(出典)竜王戦
出典[4]
名人 A級 B級 C級 0 竜王 1組 2組 3組 4組 5組 6組 決勝
T
1組 2組 1組 2組
1947 2 C級張出36位
1948 3 B級
1949 4 B級
1950 5 B級
1951 6 C101
順位戦、竜王戦の 枠表記 は挑戦者。右欄の数字は勝-敗(番勝負/PO含まず)。
順位戦の右数字はクラス内順位 ( x当期降級点 / *累積降級点 / +降級点消去 )
順位戦の「F編」はフリークラス編入 /「F宣」は宣言によるフリークラス転出。
竜王戦の 太字 はランキング戦優勝、竜王戦の 組(添字) は棋士以外の枠での出場。

昇段履歴

関連項目

脚注

注釈

  1. ^ ここでは便宜上、四段昇段日をプロ入り日として扱うが、中井のプロ入り当時は初段昇段時から専門棋士として扱われていたとされる。昭和9年(1934年)に大阪で升田幸三が初段になった頃までは、「初段からが専門棋士」だった[1]。その頃、それと並行して奨励会ができた(東京は昭和3年(1928年)、大阪は昭和10年(1935年))ことをきっかけに、「(奨励会を卒業して)四段からプロ棋士」という制度が確立していった[2]

出典

  1. ^ 東公平『升田幸三物語』(日本将棋連盟)P.36
  2. ^ 加藤治郎原田泰夫田辺忠幸『証言・昭和将棋史』(毎日コミュニケーションズ)P.10、P.215-220
  3. ^ 名人戦・順位戦」『日本将棋連盟』。
  4. ^ 竜王戦」『日本将棋連盟』。

外部リンク