コンテンツにスキップ

横河正三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Mtodo (会話 | 投稿記録) による 2023年6月10日 (土) 08:11個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (関連項目)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

横河 正三
生年月日 1914年8月31日[1]
出身地 大日本帝国の旗 大日本帝国東京市芝区
没年月日 (2005-12-26) 2005年12月26日(91歳没)
死去地 日本の旗 日本東京都 
大学 慶應義塾大学経済学部
ラグビーユニオンでの経歴
ポジション -
アマチュア経歴
チーム 出場 (得点)
19xx-1936 慶應義塾大学 ()

横河 正三(よこがわ しょうぞう、1914年8月31日 - 2005年12月26日)は、日本実業家。元横河電機社長。横河ヒューレット・パッカード株式会社(現・日本ヒューレット・パッカード株式会社)初代社長。横河電機の中興の祖と称される。

来歴

東京市芝区(現在の東京都港区高輪4丁目に生まれる。父は横河グループ創業者で建築家の横河民輔、母は教育者棚橋絢子の娘の下枝であり、三男であった。慶應義塾幼稚舎中等部を経て、慶應義塾大学経済学部に入学[1]。大学時代は蹴球部(ラグビー部)に所属していた。

1937年3月に大学を卒業して、同年4月に横河電機の前身・横河電機製作所に入社[1]。入社後はグループ会社の株式会社東亜鉄工所(現・横河東亜工業株式会社)、株式会社横河橋梁製作所(現・横河ブリッジ)で修行。1938年10月、横河電機製作所に移る。

1939年1月徴兵により陸軍に入隊することになる。陸軍では輜重兵第一連隊に配属され、その後、幹部候補生試験に合格し、予備士官学校を経て陸軍主計少尉に任官した。その後中尉に進級。中国旅団勤務を経て、1942年(昭和17年)、病気により除隊し、会社に復帰した。

復帰後間もなく、川越工場総務部長に就任。その後、本社総務部長を経て、1955年(昭和30年)5月、40歳で取締役に就任。1960年(昭和35年)11月に常務取締役に就任。1963年(昭和38年)9月にヒューレット・パッカードとの合弁企業の横河ヒューレット・パッカード株式会社を設立してその初代社長に就任[1]

1974年(昭和49年)、横河電機製作所の代表取締役社長(7代目)に就任。1981年(昭和56年)には、米国ゼネラル・エレクトリック社との合弁会社横河メディカルシステム株式会社(現・GEヘルスケア・ジャパン株式会社)を設立。翌年には、同業の株式会社北辰電機製作所との合併を実現。新会社横河北辰電機株式会社の代表取締役社長に就任した。当時、横河電機製作所も北辰電機製作所もそれぞれ計測・制御機器メーカの1位、2位のメーカーであったが、両社とも従業員数が3,000名程度の中規模メーカーであった。この横河・北辰の合併により、新会社は、6,000名を超える従業員と、1,000億円以上の売上高を擁する大規模メーカーへの脱皮の契機となった。両社の合併には同業者同士であり、競合関係にあったため、困難を伴ったが、結果的に合併の成功例として讃えられた。

1985年(昭和60年)、横河北辰電機はCIを実施し、横河電機株式会社と社名を変更。その後も、社長、会長、名誉会長として会社の発展に尽くし、相談役に退いた。

社長時代、横河・北辰の合併により、余剰となった人材をリストラせずに、活用する方法にこだわり、多数のグループ会社を設立。計測・制御機器事業を中心に、事業を多角化。現在の横河電機グループの発展を実現させた。また、社内のスポーツ振興に力を注ぎ、横河電機サッカー部(現・東京武蔵野シティFC)やラグビー部(現・横河武蔵野アトラスターズ)などを育成した。その他、慶應義塾評議員などの公職も兼任した。

2005年12月26日、心不全により死去[2]

脚注

  1. ^ a b c d 横河電機製作所 有価証券報告書(1968年3月期)、2016年8月20日閲覧
  2. ^ 「訃報:横河正三さん 91歳 死去=元横河電機社長」毎日新聞 (2006年1月5日), 2016年8月20日閲覧

関連項目