俵萌子
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俵 萠子(たわら もえこ、1930年12月7日 - 2008年11月27日)は、日本の評論家・エッセイスト。
経歴・人物
- 父は建築家の中野順次郎[1]。本名は中野萌子である[2]。
- 大阪市に生まれる。1948年、大阪府立大手前高等学校卒業。大阪外国語大学フランス語学科を卒業ののち、産経新聞社に入社。1965年に同社を退社し、以後、女性、家庭、老人、教育などを中心に据えて評論家として活動する。
- 1977年、日本社会党参議院議員田中寿美子・評論家吉武輝子らとともに「政治を変えたい女たちの会」を結成。同年第11回参議院議員通常選挙に革新自由連合公認で東京都選挙区から立候補[3]。ルポライター竹中労らの支援を得たものの、この選挙には榎美沙子率いる日本女性党が候補者を立て確認団体となって選挙運動を行っていたことから、中ピ連以来の特異な活動で知られた榎一派と混同され苦戦。マスコミでも「諸派・無所属の女性候補」としてまとめて取り上げることが多く、有権者の誤解を受けた。俵は326565票を獲得するも第7位で落選した。一方この選挙に榎は立候補しなかったことから、俵と吉武(全国区に無所属で立候補し落選)は「なぜあなたは国民の審判を受けなかったのか」「男性を排除しようというあなた方の主張は間違っている。日本女性党のおかしな運動のせいで私達の主張が有権者に伝わらなかったことが残念」「女性解放運動を嘲笑の対象にした」などと批判した。
- 1981年から1985年まで東京都中野区の教育委員を務めた[4]。これは文部省の反対を押し切った準公選制度の下で選任されたもので、俵はこの制度の推進者だった。
- 1986年から陶芸を始め、1995年には群馬県勢多郡富士見村の赤城山に『俵萠子美術館』を設立。
- 1990年、第39回衆議院議員総選挙に群馬1区から日本社会党公認で立候補する予定であったが、俵擁立をめぐって社会党内が混乱したため立候補を取りやめた。以後、政党・政治活動からは距離を置いている。
- 産経新聞社の同僚で、同年齢だった俵孝太郎と結婚し1男1女をもうけたが後に離婚。戸籍上は旧姓の「中野」に戻したが筆名として「俵」の名字を用いた。女性の権利尊重や住民参加の拡大を訴える萌子の主張は、保守派の論客として活動を続ける孝太郎とは一線を画している。
- 乳癌を患った経験から、癌により乳房を失った女性らが温泉に入浴し、交流を深めることを目的としたグループ「1・2の3で温泉に入る会」を2001年に設立し、会長を務めた。2006年からはがん患者団体支援機構の理事長も務めた[4]。
- 2008年11月27日、肺炎のため東京都渋谷区の病院で死去[4]、77歳没。同年12月1日には先述の俵萠子美術館も閉館となった[5][6][7]。
著書
- 『子どもの世話にならずに死ぬ方法』- 2005年6月 中央公論新社 (2009年3月 中公文庫)
- 『命を輝かせて生きる―わたしの選んだ第二の人生』 - 1996年3月 ISBN 4759304592
- 『続・俵萌子の教育委員日記』 - 1988年10月 ISBN 462030655X
- 『親は逃げられない―私の育てた2人のこども』 - 1986年11月 ISBN 4759301623
- 『教師にのぞむこと―いじめ,体罰,管理教育をなくすには』 - 1986年2月 ISBN 4000049968
- 『俵萌子の教育委員日記』 - 1983年1月 ISBN 4620304069
- 『どぎまぎ性教育―娘と息子に試みたこと』 - 1979年11月
- 『離婚は怖くない』 - 1979年7月
- 『ママ、日曜でありがとう』- 1964年 サンデー新書[8]
脚注
- ^ 『群馬県人名大事典』(上毛新聞社)
- ^ 俵萌子『出身県別 現代人物事典 西日本版』p933 サン・データ・システム 1980年
- ^ 昭和52年6月 中日ニュース No.1223_2「”激戦”東京地方区 -衆院選スタート」 中日映画社
- ^ a b c “俵萠子さん死去 教育問題評論で活躍”. 共同通信社. 47NEWS. (2008年12月1日) 2013年5月28日閲覧。
- ^ 『夕刊フジBLOG|俵萠子さん(74)、乳がんや事故続き鬱に…睡眠薬やめて復調』 - 夕刊フジ (2005年10月29日時点のアーカイブ)
- ^ 『全国ネットのカルチャースクール|NHK文化センター青山教室:俵萠子の元気老年学~21世紀を拓く(評論家 俵萠子)』 - NHK文化センター [リンク切れ]
- ^ 『表紙』 - 俵萌子 Archived 2007年5月14日, at the Wayback Machine.
- ^ 1965年に、TBSの『日曜劇場』枠でテレビドラマ化(脚本は橋田壽賀子)され、1969年まで5作が放送された。