勝田宝塚劇場
勝田宝塚劇場 | |
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情報 | |
正式名称 | 勝田宝塚劇場 |
開館 | 1942年10月15日 |
開館公演 | 東宝芸能大会 |
閉館 | 1984年5月 |
収容人員 | 1150人 |
客席数 | 750 |
用途 | 映画上映、演劇・演芸等の実演 |
運営 | 株式会社勝田宝塚劇場 |
所在地 | 茨城県那珂郡勝田町大字東石川三反田町(旧勝田市、現ひたちなか市共栄町8-18) |
位置 | 北緯36度23分53.94秒 東経140度31分37.09秒 / 北緯36.3983167度 東経140.5269694度座標: 北緯36度23分53.94秒 東経140度31分37.09秒 / 北緯36.3983167度 東経140.5269694度 |
最寄駅 | 勝田駅 |
勝田宝塚劇場(かつたたからづかげきじょう)は茨城県勝田市(現・ひたちなか市)にあった映画館、劇場である。
概要
勝田宝塚劇場の開場は太平洋戦争中の1942年(昭和17年)10月15日である。東宝傘下の劇場であったが、戦後、東宝は経営から撤退し、別の者が経営を引き継いだ。1984年(昭和59年)に閉館。(別年に閉館とする資料もある。詳細は注釈に[注釈 1]。)経営を引き継いだ会社は2023年現在、茨城県内他にコーヒー店を出店している株式会社サザコーヒーとなっている[1][2]。
歴史
勝田宝塚劇場は阪急電鉄、宝塚歌劇団の創設者である小林一三により1934年に東京宝塚劇場が開場された以降、小林及びその関係会社の経営戦略の元、全国各地に建てられた"宝塚劇場"のひとつである。開場は1942年10月15日で、茨城県那珂郡勝田町大字東石川三反田町(後の勝田市、現在のひたちなか市共栄町のサザコーヒー本店所在地)に東宝の前身会社のひとつである東宝映画株式会社によって建てられた[3][4]。
運営会社は1941年9月17日に資本金が当時の十萬円で設立された株式会社勝田宝塚劇場である[5]。が、この会社の6割の株券は東宝が持っており、また、劇場支配人も東宝からの出向者で、実質、勝田宝塚劇場は東宝の直接経営であった[6][7]。また、後述の建築経緯から株式会社日立製作所からの強い経営支援を受けていた。
設計・施工は有限会社佐藤秀工務店(現・株式会社佐藤秀)である。佐藤秀工務店は和洋折衷の木造建築で著名人の邸宅やホテルなどを手がけた佐藤秀三(さとうひでぞう 1897年-1978年)が興した設計・施工会社である。1939年に「旧住友家俣野別邸」(2004年に国の重要文化財に指定されるが焼失)を手がけた佐藤にとっても勝田宝塚劇場は初の大型木造建築であった[8][9][10]。
建物は木造二階建で建坪300坪、総座席数750席(1階400席、2階250席、絨毯敷席100席)、総収容人員1150人であった。内装や設備が充実しており、当時は北関東最大の劇場であったとされる[6][8][注釈 2]。
1942年10月15日に開館式を開催し、引き続き開催された開場公演は『東宝芸能大会』と称して林二三夫司会による演芸大会、映画『エノケンの孫悟空』、『金語楼の親父三重奏』、『歌へば天国』の上映などが催された[12][13]。その後、戦時中は食糧増産や物資増産に従事している者(いわゆる、農業増産戦士、産業戦士)慰安のために映画・演劇が度々催された[14]。
勝田宝塚劇場はこのように演芸・演劇等の実演と映画上映の双方で使用された他、支援を受けている日立製作所の福利厚生施設や勝田町の式典会場や市民の発表会の会場としても使用されていた[2][15]。
戦中、勝田はアメリカ軍による艦砲射撃で大被害を受けるが劇場は破壊されなかった[16]。
戦後、東宝は自社の労働争議(いわゆる東宝争議)での経営混乱や、日立製作所の支援が私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独占禁止法)施行の影響で打ち切られた等の問題から、勝田宝塚劇場の経営から手を引いた[17]。
この経営を引き継いだのが、日立製作所の技師で勝田宝塚劇場の建築にも携わった鈴木富治である[8][17][18][19][注釈 3]。鈴木は劇場の運営会社として鈴木興業株式会社を設立し、戦後の映画黄金期に市民に娯楽を提供した[20][21]。
映画を観る客数が下降線を辿り始めた頃の1969年に鈴木の長男、誉志男が劇場の一角でコーヒーを提供する事業を始める。やがて「且座(サザ)」の名で店舗を出すまでにコーヒー店事業が拡大して行き、鈴木の会社は映画興行事業からコーヒー店事業へと業態を変えてゆく。そして2023年1月時点で、茨城県内外に14店舗を展開する「株式会社サザコーヒー」へと繋がってゆく[19][22][23][注釈 4]。
1984年5月下旬に勝田宝塚劇場は閉館する[2][24]。(別年に閉館とする資料もある。詳細は注釈に[注釈 1]。)
閉館後、建物はしばらくコーヒーの焙煎工場や事務所等に使われていたが、1989年3月20日に解体工事が始まる。解体された跡地にはサザコーヒー本店が新築された[2][16][29]。
建設に至った経緯
勝田宝塚劇場の建設に至った背景としては、小林一三及びその関係会社の娯楽事業の全国展開構想、当時の勝田が工業都市として発展が期待されていたこと、劇場建設にあたり地元の有力者や日立製作所の支援があったこと、国策としての産業戦士慰安などが考えられる[6]。
1932年に株式会社東京宝塚劇場を設立し、1934年1月1日に東京宝塚劇場を開場させた小林らは、更なる全国展開を図り全国主要都市に「宝塚劇場」の名をつけた劇場を建設していった。それは横浜市(1935年4月1日[30])、京都市(1935年10月12日[31])、名古屋市(1935年11月2日[31])、甲府市(1936年11月1日[32])、熱海市(1937年12月27日[33][注釈 5])、静岡市(1938年10月23日[34])、松本市(1939年8月13日[35])、新潟市(1940年1月1日[36])と続き、勝田は10館目の宝塚劇場であった[3][37]。
小林らが勝田に進出を決めた理由としては、勝田が、1939年の日立製作所の進出決定や、内務省により1941年5月に都市計画区域に指定され人口20万人都市構想が打ち上げられていたことなど、今後の躍進が期待されていたことが挙げられる[6][38]。また劇場建設にあたり、建設敷地を地元の地主が無償で提供したり、建築資材の一切を日立製作所が無償で提供するなどの支援があったことも理由として挙げられる[6]。
また当時の勝田町は戦時下における物資増産拠点であり、作業に従事する者(産業戦士)を慰安するための施設が必要だったことも、劇場建設を進めた要因とされる[15]。
勝田宝塚劇場の建った場所は当時は周囲に農地と藪が広がる場所で、町の繁華街では無かった。『勝田市史』は、建て主の小林一三らには、この地区を文化ゾーンとして開発する構想があった、としており、その構想の一片として、劇場が建設された後には近くに東宝ホテルが建設されたことをあげている[6]。
脚注
注釈
- ^ a b 閉館年に関しての補足。
1984年を閉館年と判断できる資料の補足は以下である。
- 『いはらき』にほぼ毎日、茨城県内映画館の上映作品情報を載せている"スクリーンガイド"の1984年5月29日迄は勝田宝塚劇場の上映情報がある[25]。5月29日直後の5月31日のスクリーンガイドで"勝田宝塚劇場 閉館"と記され以後のスクリーンガイドでは"閉館"と記され続けた[24]。
- 1983年9月中に営業中の国内映画館を載せている1983年12月発行の『映画館名簿1984年版(映画年鑑1984年版別冊)』には勝田宝塚劇場の名が掲載されているが、翌1984年12月発行の1984年9月中に営業中の国内映画館を載せている『映画館名簿1985年版(映画年鑑1985年版別冊)』の"茨城県"の頁には勝田宝塚劇場の名が消えている[26][27]。
- ^ 建物に関してサザコーヒーのホームページにおいては木造3階建800人収容と記載している[11]。
- ^ 鈴木富治に関しては、1944年発行の『東宝十年史』において株式会社勝田宝塚劇場の取締役に名が載っている他[7]、サザコーヒーのホームページにおいて"1942年開場の勝田宝塚劇場の社長は鈴木富治である"旨の記載等、本記事の本文記載とは異なる情報も確認できる[11]。
- ^ サザコーヒーでは会社の創業年を勝田宝塚劇場が開場した1942年としている[23]。
- ^ 熱海宝塚劇場の開場年月日は、『勝田市史 近代・現代編2』では1936年12月27日と記載している。
出典
- ^ 勝田市史編さん委員会「勝田宝塚劇場(V 戦時体制下の勝田)」『勝田市史 近代・現代編2』勝田市、1981年、614-618頁。
- ^ a b c d “勝田宝塚劇場 半世紀の歴史に幕”. いはらき: p. 19. (1989年3月18日)
- ^ a b 勝田市史編さん委員会『勝田市史 近代・現代編2』勝田市、1981年、614頁。
- ^ “勝田宝塚劇場きのふ地鎮祭”. いはらき: p. 3. (1941年9月23日)
- ^ 東京宝塚劇場 (1944) (JPEG). 東宝十年史. 東京宝塚劇場. p. 73
- ^ a b c d e f 勝田市史編さん委員会『勝田市史 近代・現代編2』勝田市、1981年、616頁。
- ^ a b 東京宝塚劇場『東宝十年史』(JPEG)東京宝塚劇場、1944年、46-47頁 。
- ^ a b c d “ひたちなか「勝田宝塚劇場」開業写真”里帰り””. 茨城新聞: p. 19. (2013年8月17日)
- ^ 『佐藤秀三』佐藤秀工務店、1979年、付年表頁。
- ^ 御厨貴『権力の館を歩く』毎日新聞社、2010年、118-119頁。ISBN 9784620320083。
- ^ a b c “会社プロフィール 70年の歩み”. 2018年4月21日閲覧。
- ^ “勝田宝塚劇場 十五日開館式”. 茨城新聞: p. 3. (1942年10月14日)
- ^ “[広告]本十五日開場 勝田宝塚劇場”. 茨城新聞: p. 4. (1942年10月15日)
- ^ 勝田市史編さん委員会『勝田市史 近代・現代編2』勝田市、1981年、616-617頁。
- ^ a b 鈴木誉志男 (2013年10月30日). “勝田宝塚劇場の思い出 外伝・昭和の勝田発展の軌跡 中”. 茨城新聞: p. 19
- ^ a b “しにせ劇場を解体 映画ファンは名残惜し”. 朝日新聞(茨城版): p. 27. (1989年3月21日)
- ^ a b 勝田市史編さん委員会『勝田市史 近代・現代編2』勝田市、1981年、617-618頁。
- ^ “いばらき経済人 鈴木誉志男会長 サザコーヒー(ひたちなか市)”. 茨城新聞: p. 14. (2007年2月23日)
- ^ a b c 鈴木誉志男「サザコーヒーの現代史」『日本人のコーヒー店 成功する地域ビジネス』柴田書店、2003年9月、242-243頁。ISBN 4388059323。
- ^ 『茨城人事録 昭和50年度版』茨城新聞社、1974年、266頁。
- ^ 『映画年鑑 1970年版別冊』1970年、69頁。
- ^ “「サードウェーブ」の上陸と「昭和レトロな店」の復活!カフェ業界で今後生き残る店とは?”. 現代ビジネス(講談社) (2014年11月16日). 2018年4月21日閲覧。
- ^ a b 「企業探訪 株式会社サザコーヒー」(pdf)『筑波経済月報』第43号、2017年2月、2頁。
- ^ a b “スクリーンガイド”. いはらき: p. 5. (1984年5月31日)
- ^ “スクリーンガイド”. いはらき: p. 5. (1984年5月29日)
- ^ 『映画館名簿1984年版(映画年鑑1984年版別冊)』時事映画通信社、1983年12月、61頁。
- ^ 『映画館名簿1985年版(映画年鑑1985年版別冊)』時事映画通信社、1984年12月、56-58頁。
- ^ 鈴木誉志男 (2013年10月25日). “勝田宝塚劇場の思い出 外伝・昭和の勝田発展の軌跡 上”. 茨城新聞: p. 21
- ^ “半世紀の歴史に幕 勝田宝塚劇場”. 常陽新聞: p. 11. (1989年3月19日)
- ^ 東京宝塚劇場 (1944). “綜合年表” (JPEG). 東宝十年史. 東京宝塚劇場. p. 6
- ^ a b 東京宝塚劇場 (1944). “綜合年表” (JPEG). 東宝十年史. 東京宝塚劇場. p. 7
- ^ 東京宝塚劇場 (1944). “綜合年表” (JPEG). 東宝十年史. 東京宝塚劇場. p. 9
- ^ 東京宝塚劇場 (1944). “綜合年表” (JPEG). 東宝十年史. 東京宝塚劇場. p. 11
- ^ 東京宝塚劇場 (1944). “綜合年表” (JPEG). 東宝十年史. 東京宝塚劇場. p. 12
- ^ 東京宝塚劇場 (1944). “綜合年表” (JPEG). 東宝十年史. 東京宝塚劇場. p. 13
- ^ 東京宝塚劇場 (1944). “綜合年表” (JPEG). 東宝十年史. 東京宝塚劇場. p. 14
- ^ 東宝『東宝五十年史』東宝、1982年、158頁。
- ^ 「都市計画区域への指定(V 戦時体制下の勝田)」『勝田市史 近代・現代編2』1981年、444-446頁。
参考文献
図書
勝田市関係
- 勝田市史編さん委員会「勝田宝塚劇場(V 戦時体制下の勝田)」『勝田市史 近代・現代編2』勝田市、1981年、614-618頁。
東宝関係
- 東京宝塚劇場『東宝十年史』(JPEG)東京宝塚劇場、1944年 。
- 東宝『東宝五十年史』東宝、1982年。
サザコーヒー関係
- 鈴木誉志男『日本人のコーヒー店 成功する地域ビジネス』柴田書店、2003年9月。ISBN 4388059323。
佐藤秀三関係
- 『佐藤秀三』佐藤秀工務店、1979年。
- 御厨貴「三木武夫 南平台邸」『権力の館を歩く』毎日新聞社、2010年、116-122頁。ISBN 9784620320083。
他
- 『茨城人事録 昭和50年度版』茨城新聞社、1974年、266頁。
- 『映画年鑑 1970年版別冊』1970年、69頁。
- 『映画館名簿1984年版(映画年鑑1984年版別冊)』時事映画通信社、1983年12月、61頁。
- 『映画館名簿1985年版(映画年鑑1985年版別冊)』時事映画通信社、1984年12月。
新聞記事
- “勝田宝塚劇場きのふ地鎮祭”. いはらき: p. 3. (1941年9月23日)
- “勝田宝塚劇場 十五日開館式”. 茨城新聞: p. 3. (1942年10月14日)
- “【広告】本十五日開場 勝田宝塚劇場”. 茨城新聞: p. 4. (1942年10月15日)
- “スクリーンガイド”. いはらき: p. 5. (1984年5月29日)
- “スクリーンガイド”. いはらき: p. 5. (1984年5月31日)
- “しにせ劇場を解体 映画ファンは名残惜し”. 朝日新聞(茨城版): p. 27. (1989年3月21日)
- “勝田宝塚劇場 半世紀の歴史に幕”. いはらき: p. 19. (1989年3月18日)
- “半世紀の歴史に幕 勝田宝塚劇場”. 常陽新聞: p. 11. (1989年3月19日)
- “いばらき経済人 鈴木誉志男会長 サザコーヒー(ひたちなか市)”. 茨城新聞: p. 14. (2007年2月23日)
- “ひたちなか「勝田宝塚劇場」開業写真”里帰り””. 茨城新聞: p. 19. (2013年8月17日)
- 鈴木誉志男 (2013年10月25日). “勝田宝塚劇場の思い出 外伝・昭和の勝田発展の軌跡 上”. 茨城新聞: p. 21
- 鈴木誉志男 (2013年10月30日). “勝田宝塚劇場の思い出 外伝・昭和の勝田発展の軌跡 中”. 茨城新聞: p. 19
他
- “「サードウェーブ」の上陸と「昭和レトロな店」の復活!カフェ業界で今後生き残る店とは?”. 現代ビジネス(講談社) (2014年11月16日). 2018年4月21日閲覧。
- 「企業探訪 株式会社サザコーヒー」(pdf)『筑波経済月報』第43号、2017年2月、2-5頁。
関連項目
外部リンク
- 会社プロフィール 70余年の歩み(サザコーヒー公式ホームページ)
- 佐藤秀のあゆみ(佐藤秀公式ホームページ) 勝田宝塚劇場の写真がある。
- 古写真リスト(市報ひたちなか~まちの話題) "勝田の今と昔(昭和)"の中に1960年の勝田宝塚劇場の写真がある。